12

 民宿に着くと、彼女は縁側に浴衣姿で、空だか海だかを眺めていた。

 「その服、あまり洗っていないでしょう?脱いで。そして代わりにこれを着てきて。あ、その前に、シャワーを浴びていらっしゃい。けっこう歩いたんでしょ?」彼女は僕に甚平を渡し、僕がシャワーから出るともう僕が着ていた衣類は消えていた。仕方なく僕は甚平に着替え、縁側に座っている彼女の元へ急いだ。時刻は、夕方の5時くらいだった。2週間前くらいならまだ暗くなる時間ではないが、いまはもうこの時間になると太陽はゆっくりと帰り支度を始める。玄関には丁寧に雪駄まで用意してあった。

 「気にしないで、お父さんのものだから。」父親。朝早く起きると、忙しそうに家を出て行く姿を何度か目にしたことがある。どこで働いているのか知らないが、夜もほとんどお目にかかったことは無い。背広を着ているので、おそらくオフィスワーカーなのだろう。この近くには大きな原子力発電所があるが、そこで働く人たちは皆一様に、薄茶色の作業着を着込み、朝、会社の用意するバスに乗っていく。だから少なくとも、彼女の父親はそちらの関係の仕事をしているのではなさそうだ。

 普段遊びに行く海岸は、大きな一枚岩でとなりの海岸と隔てられている。だから、となりの浜へ行くには、歩いて5分くらいかかるトンネルをくぐらなくてはならない。この道は、トラックがよくとおるので、5分間、僕らは前後ろ両方向から押し寄せてくる轟音をやり過ごさなければならなかった。あるいは、近くに発電所があることと何か関係があるのかもしれない。以前、一度だけ、ここを歩いたことがある。友達と、向こうの浜からこちらの浜まで泳ごうということになり、それで隣の浜まで水着姿で歩いたのだ。もちろん、僕らが泳いでいいのは防波堤の内側、それもブイのあるところまでであり、あとでライフセーバーにみっちりとお説教をくらったことは言うまでも無い。しかしそれを差し引いても、それは非常に印象深い体験であった。僕らは裸のままトンネルに入り、ときおり豪快な音を立ててやってくるトラックをやりすごすように歩いた。トラックが通り過ぎるあいだはもちろん、トンネルに入ってからは僕らは話をしなくなった。音が聞こえづらくなった、というのがその最大の理由だが、なんというか、もっと他の理由があったように僕は記憶している。トンネルの中は、ちょうど正午くらいだったというのに、暗かった。もちろん、トンネルの内部にまで太陽の光は届かない。しかし、それだけではない。なんというか-暗かったのだ。うまい言い方が見つからないが、今のところはそうとしか言いようが無い。僕はトンネルを抜けると、共に歩いていた友人にそのことを尋ねてみたが、トンネルが暗いことなんて、太陽が東から昇ることと同じくらい当たり前のことだと笑われた。僕もそのときは、そうかもしれない、僕の思い過ごしだったのかもしれない、と考えて、今まで忘れていたのだが、彼女のひとことが僕のその記憶をよみがえらせた。

 「このトンネルは、暗いの。あなたも感じる?もちろんトンネルが暗いことなんて当たり前のことなんだけれど、そうではなくて、暗いの。他にいいようが無いくらい。」彼女はいつのまにか僕の腕をとっていた。そんなに近くに彼女が存在しているということに僕は少なからずびっくりしていた。

 「僕も感じる。このトンネルは、暗い。何かが光をさえぎっているんだ。それがなんなのか、僕にはわからないけれども。」暗闇の中で、僕はまっすぐ前を捉えて、口を動かした。前方に見えるわずかなひかりから少しでも目をそらしてしまったら、このトンネルからは抜け出せない、そんな気がした。僕らはゆっくりと、しかし着実に、歩を進めた。トラックや車の走る音で、僕らの足音はかき消されていたから、いま僕がここに存在するということを示すものは、唯一、彼女の手の感触だけだ。だから僕たちは、ぜったいに、手をはなしてはならない。そんなことをしたら僕らの体はばらばらになってしまい、永遠にこの暗闇をさまようことになるだろう。だから今は、手を離さずに、前だけを見て、しっかりと歩くのだ。

 どれくらい時間が流れただろう。僕と、そしておそらく彼女にとっても、ひどく長い時間だった。実際の時間が長かったか、短かったかなんて、僕らには関係なかった。それは、長かったのだ。すごく、長かったのだ。

 気づくと、浜辺に人だかりができていた。僕らは、トンネルを抜けたのだ。心地よい達成感のようなものが、僕を包んでいた。もう、暗闇が僕らに手を伸ばしてくることは無い。

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