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 朝日がまぶしくて、目が覚めた。僕はこの民宿の一室をおかみさんの好意で借りさせてもらっている。6畳の、テレビと布団のほかには何も無い部屋だ。ほとんど着替えらしいものも持ってきていなかったが、下着さえ毎日洗濯すれば、あとはどうにでもなった。なにしろ、季節は夏なのだ。寒さをしのぐための服は必要ない。まだ朝食には時間があったので、寝る前に読みかけた本を読んだ。その本の登場人物は、自分が実態を持たない存在だということを知っているようだった。つまり、彼は、自分がなにか大きな存在によって生み出され、そして誰かが本を開くことでしかその存在を世界に対して示すことが出来ない、ということを、幾分か知っているように感じられるのだ。そうすると、その登場人物がなんだかかわいそうに感じてきた。自らの意思を持たず、作者が原稿用紙に後の行動を書き記すまでは身動きひとつ取れない。いや、たとえ書かれた後だとしても、その作品が誰かの手に渡り、読まれるまでは暗闇の中で太陽が昇るのをじっと待っていなくてはならない。読者が途中で読むのを諦めてしまったりしたら、彼の人生は終わりを持たないまま宙をさまようことになる。ちょっと、そんなのってない。あまりにも残酷だ。

 しかし、それが今の僕とどう異なるのだろうか。僕は自分の意思でここにいるのではおそらく無いだろう。僕は阿部に連れてこられ、そして阿部が迎えに来るのを待っている。もちろん、自分で電車を乗り継いで帰ることだってできる。しかし帰っても特にやることはないし、幸いまだ学校は始まらない。そしてなんといっても、今日は祭りなのだ。海辺の祭り。ちょっと変わったお祭り、と彼女はいった。明日になるか、明後日になるか、わからない。僕はただ耳をすませて、波がやって来るのを待つのだ。

 彼女は朝早くから出かけてしまっていたので、夕方までの間、駅まで散歩することにした。散歩、といっても片道だけでおよそ2時間。ちょっとした距離だ。

 海岸を左に見ながらゆっくりすすんでいけば、駅が見えてくる。立派、とはいえないが、小規模地方都市の中心点となる場所だ。新幹線はまだ通っていない。

 砂浜を越えると、ヨット・ハーバーが見えてくる。もちろん僕たちはまだ学生だったし、特に裕福といえる家庭ではなかったから、ヨットなんて持ち合わせていない。しかし高校のとき、一度だけ、ヨットに乗せてもらったことがある。ヨット、というよりクルーザーと言ったほうがいいのかもしれない。

 焼きそばを売り終えて売り上げをおかみさん渡し、薄暗くなってきた海岸を歩いていると、ドイツ・シェパードを連れた夫婦だかカップルだかに声をかけられた。

 「やぁ、昼間、焼きそばを売っていた少年だね。あれは、美味しかった。どうしたらあの味が出せるんだろう?」男のほうは紺色のアロハ・シャツを着ていて、女性はジーンズに水色のTシャツを着ていた。夜になってもまだ暑い季節だった。

 「さぁ、僕らは材料を渡されているだけだから…。あぁ、おそらく、玉ねぎじゃないかな。おそろしく長い時間、炒めるんです。溶けてなくなってしまうくらい。」一緒に居た友人が答えた。高校時代の僕はいささか口下手で、こうやって突然見知らぬ人と話す場面になると緊張して片言しかしゃべれなくなるのだ。

 「もう太陽も完全に沈む。今日は流星群がよく見えるらしいんだ。どうだい?船に乗らないか?こちらとしても、いつもふたり、というのはいささか飽きてきてね。」女性のほうは一瞬いやなふうな顔をしたが、すぐに笑顔になり、僕たちを受け入れてくれるふうなしぐさをした。僕たちは一瞬ためらったが、特にこれからやることもなかったし、他の友人たちはその夏、その海での最後の夜を思い思いに過ごすつもりだったから、僕たちは快諾した。

 僕たちは、東京からは少し離れているけれども、それほど田舎に住んでいるわけではなかった。駅前にいけば夜でもさまざまな店が開いていて、道のいたるところに電灯がある。おかげで夜中に出かけるのにこまらないが、その分、あまり星は見えない。だから、正直なところ、空に星がこれほどたくさんあるなんて、知らなかった。もちろん、理科の時間やプラネタリウムで知識をためこんでいたぶん、驚きは多少なりとも減少されていたのかもしれない。しかし、その日、海から見た夜空は、なんというか、雪みたいだった。決して僕らのところに降りてはこない、雪。海は底がないんじゃないかと思わせるほど暗く、そして星は明るかった。それほど大きな船ではなかったが、僕らはお互いがぶつからないように気をつけながら寝そべり、視界のすべてを夜空に向けた。

 ヨット・ハーバーで少しばかり船を見ていたが、そのとき僕らが乗った船を見つけることはできなかった。もう違う場所へ移ってしまったのかもしれない。もとより、暗くてほとんど周りが見えなかったから、船の外観を僕が正確に覚えているのかも怪しかった。

 人の記憶には際限が無い、というのをどこかで聞いたことがある。人は、生まれてからいままで起こったすべてのこと、人の名前、声、ふと顔を上げたときに見えた中吊りのチラシのフレーズ、そんなものすべてを、この小さな頭に入れているらしい。しかし実際には、僕らは多くのことを忘れていく。それは実は、忘れているのではなくて、取り出せない、というだけなのだ。脳のどこかに、それは確かに存在してるのだけれども、どこにあるのか、その場所をを忘れてしまっているのだ。だから、その情報を取り出せない。その情報は、自分が存在している場所を忘れられてしまったがゆえ、その存在さえも忘れられてしまったのだ。やれやれ、なんだか僕みたいだ。僕の存在を決定しているものはなんだ?僕はみんなに忘れられてしまったら、存在すらなくなってしまうのだろうか。僕が、自分の存在を声の限りに叫んでみても、誰も聞いてくれなかったら、僕がそこにいる、ということを誰が証明できるだろう?

 やがて、商店街が見えてきた。大きな百貨店に、いまにもその存在意義を奪われてしまいそうな、ちいさな商店街。僕は、こんな商店街がわりと好きだ。押し付けがましいところがなく、それでいて、真面目な、売れない俳優みたいだ。僕は本屋に入って目に付いた本を買い(西洋哲学の入門書だ)、雑貨屋でこまごまとしたものをいくつか買い、そしてスーパーでスポーツ・ドリンクを買い、駅の待合所で飲んだ。テレビはこの街に新しく出来る総合デパートの宣伝をしていた。しばらくすると駅員が電車が来る合図をし、待合所は僕ひとりになった。駅員は僕に電車に乗らないのかとたずねたが、僕は乗らないといい、やがて面倒になったので、駅から離れた。

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