第5話 深夜迷惑
赤ん坊の泣き声で目が覚めた。
アパートの自室。
手探りで携帯電話を見つけ出し、時刻を確認すると夜中の二時を過ぎた辺りを表示していた。
ここ数日、ずっと同じだ。
この時刻になると、決まって赤ん坊が泣き出す。
横になったままの姿勢で上目遣いに枕元を見ると、髪の長い女が子供を抱いて、懸命にあやしていた。
「チッ」
俺は彼女に聞こえるよう、わざと大きな音で舌打ちをしてやる。
すると目が合った彼女は、申し訳なさそうに頭を下げた。
目の下にクマを作った彼女の表情からは、まるで生気が感じられない。
育児ノイローゼに陥った彼女には同情するが、こう毎晩だと俺のほうが参ってしまう。
イヤミのひとつぐらい言ったってバチは当たらないだろう。
目が冴えて眠れなくなってしまった俺は、体を横に向けて気分を変えようと試みた。
それに片側だけでも耳を枕に押しつけてやれば、聞こえる泣き声だって半減するかもしれない。
反対側の耳には人差し指を突っ込んで塞いでしまおう。
ところがちょうど俺が向きを変えた先では、先月まで隣の部屋に住んでいた男子大学生が、勝手に俺の部屋へ足を踏み入れてくるところだった。
映画館で他の観客が座っている前を通る時みたいに、手刀を切る動作。
さも当然のように平然と、俺の見ているにもかかわらず、西側の壁から反対の東側の壁へと向かう。
「ちょっと待て」
俺が呼び止めると、彼は驚いた様子でビクッと体を震わせて立ち止まった。
「キミは確か、こちら側の部屋に住んでいる女子大生と交際していたが、別れ話を切り出されたショックで自らの命を絶ったんだよな」
彼の進行方向にある壁を指差して、俺は確認した。
彼は頭を掻きながら照れ臭そうに首を縦に振る。
悪びれた様子のないことが、まったくもって腹立たしい。
どうやら俺が指摘している点を履き違えている。
「別に彼女の前に化けて出るなとは言わない。他人の俺がとやかく言うことではない。あくまでキミの自由だ。しかし……間にあるこの部屋の壁をすり抜けてまでして、最短距離で行こうとするのはいかがなものかと俺は思うわけだ。不精をせずに廊下を通ろうとは思わなかったのか? ひょっとすると、そういった無頓着な性格が災いして、キミは彼女に愛想を尽かされたのではないか?」
最初は愛想笑いを浮かべて俺の話を聞き流していた彼だったが、最後の部分が核心を突いていたらしく、元より顔色の良くなかった表情がみるみる内に蒼褪めていった。
そしてついにはその場で泣き崩れてしまう。
不穏な空気を察知したのか、それに呼応するように枕元の赤ん坊までが泣き声を大きくした。
母親は抱いていた腕を慌てて揺するが、それで泣き止むのなら、とっくの前に問題は解決している。
でも泣きたいのは俺のほうだ。
もう収集がつかない。
再び布団に転がり、ギュッと目を閉じた。
意地でも寝てやる。
こんな連中、いつまでも相手にしていられるか。
しかし目を閉じてすぐ、俺が横になっている脇で、また別の誰かが立っている気配がした。
次は誰だ。
いいかげんにしてくれ。
そう言おうとして、俺は目を見開いた。
「いいかげんに……」
そこには視界いっぱいにジイちゃんの顔。
俺が小学生の時に死んだジイちゃんが、わずか数センチの距離まで近づいて俺の顔を覗き込んでいた。
これにはさすがの俺でも驚かされた。
「ふおぉッ!」
俺が悲鳴を上げると、ジイちゃんはその場で小躍りを始め、さっきまで泣いていた赤ん坊は嬉しそうに笑い声を上げていた。
気がつけば元隣人の男子大学生までも、この機会を逃すまいと、そそくさと壁をすり抜け、目的の部屋へと逃げ去っていく。
郷に入っては郷に従え。
どうやらジイちゃんは、他の死者に対してもっと優しくしてやれと、俺を叱りにきたらしい。
だけど俺だって戸惑っているのだ。
生きている間には見えなかったが、これほどの霊が世の中に溢れかえっているとは思ってもみなかったのだから。
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