第六話 件と鵺

第六話 件と鵺 起

 これは出会いの物語。

 店主と少年の始まりの物語。


 その日の月は異様に大きな三日月だった。

 淡い赤紫色の光を宵闇(よいやみ)に落としながら、まるでこの世のすべてを嘲笑(あざわら)っているかのような薄気味悪さを覚えさせた。

 赤そして紫。共に人間が捉えることができる限界の色。境の色。これより外は人智の及ばぬ妖の領域だ。

 少年は赤紫の月光が届かぬ黒の中へと躊躇(ちゅうちょ)なく潜っていく。

 少年の心に怯えはない。

 見えているからだ。自分の歩く道が。この先にあるものが。

 気が遠くなるほどの永い時間、少年は歩き続けた。

 この間も少年の中では不安の種一つ芽吹くことなく、ただただ空虚で荒野のように枯れ果てた心持ちだった。

 やがて少年の視界は、暗闇の奥に小さな白点を捉える。

 それでもなお、少年には安堵や希望といった類いの感情が沸き起こることはなかった。

 知っていたからである。見ていたからである。

 白点は徐々に鮮明になっていき、その正体をさらけ出していく。

 それは文字だった。白墨で描かれた悪筆の漢字が三つ並んでいた。

 少年はこれらの文字に特に目もとめず、先刻から一切の乱れない足音を響かせ続ける。

 そこに何と書いてあるかも、また知っていた。

 脇目も振らず歩き続ける少年の前に、今度は闇を真四角縁取る線が現れた。

 まるで大きな化物がぽっかりと口を開けて、少年が踏み込んでくるのを待ち焦がれているかのようだった。

 ようよう少年の足は停止へ向けて減速を始める。

 白墨の文字とその真下にある大きな口、その直前で少年は立ち止まった。

 よく見れば少年の目前にあるのは漆黒に塗られた古小屋だった。

 白墨の文字は店名が描かれた看板であり、化物の口のように思われていたものは中から漏れる灯りによって浮かび上がった戸口である。

 ここにきてやっと、少年の平淡な心に一つの感情が去来(きょらい)する。

 しかしそれも、この場で抱くものとして相応しいとは言えなかった。

 少年がこのとき感じた情――それは怠惰(たいだ)であった。

「……面倒臭いな」

 彼は実際にそう口にして、さらには年齢に似つかわしくない大仰なため息までついてみせる。

 それでもいざここまで赴(おもむ)いてしまっては、今更引き返すのも別の意味で億劫(おっくう)だ。

 少年は覚悟を決めて目の前の戸口に手をかけ軽く開ける。

 途端に店内にこもっていた生温い空気が漏れ出して、少年は思わず顔をしかめる。

 大蛇の舌に全身を舐め取られているとでも形容すべき生理的な嫌悪が肌を走り抜けた。

 さっきよりも一層、少年の心は後ろへと傾きかけるが何とかこれを振り切って、一息に店の戸を開け切った。

 少し勢いを付けすぎたかとも思えたが、戸の立て付けが悪いこともあってちょうどいい具合に少年の前に道ができる。

 店の中は外と大差がないほどに薄暗い。

 光源は部屋の中央にぶら下がる明滅を繰り返す電灯一つだけ。

 少年が目を凝らして必死に奥をのぞいてみると、店内の中央に陣取る一人の男が見えた。

 縁のない眼鏡をかけた線の細い男。

 もう何年もその場から動いていないかのように、辺りの気配と完全に同化している。

 男は少年をまっすぐに見つめると、落ち着きのあるゆったりとした口調で言った。

「いらっしゃいませ。ようこそ――」

「あなたがここの店主ですか?」

 少年は男が言い終わるのを待たずに口を挟んだ。

 しかし男はそれに気を悪くした風もなく、むしろ優しげに微笑みながら少年の問いに答えた。

「はい。そうですとも」

「そう」

 少年はやはり可愛げのない態度のまま店内に視線を泳がせた。

 どこに足を踏み出せばよいものか分からないほど、乱雑に物が溢(あふ)れかえっている。

 店主はいかにも潔癖(けっぺき)そうで小奇麗な男ではあったが、その印象を真っ向から裏切る散らかりようだった。

 見た目に反しただらしなさを店主から垣間見て、少年は本当に目の前の男が頼りになるものかどうか判断に戸惑う。

「どうされました。さあ、そんなところにいつまでも立っていないで、中に入ってお話をお聞かせください」

「………………」

 まあ、話をするだけならタダだ。

 自分が抱える問題を解決するのに、この男が役立つかどうかはその後で見極めても遅くはない。

 そう結論付けて少年は店の敷居(しきい)をまたごうと、そっと片足を浮かせた――そのとき。

 突然、少年は首元に強烈な圧迫感を感じたかと思うと体が後ろへと引っ張られていた。

 強かに尻もちを突いた少年の目に映ったのは、自分をこんな目に遭わせた張本人が疾風のように店内に駆け込んでいく姿だった。

 その人物は一目散に店主のところへ駆けると、何と真っ正面から彼の顔を殴り付けたのだ。

「キョォ――――!!」

 店主――だったものは耳を劈(つんざ)くような甲高い悲鳴を上げると、次の瞬間に烏(からす)のように全身真っ黒な鳥の姿になった。

 そして凄まじいほどの速さで少年の方へと飛来してきた。

「おい坊主! すぐに戸を閉めろっ!!」

 そんな風に急に叫ばれたところで、あまりに咄嗟(とっさ)のことで少年は微動だにできなかった。

 結局、薄気味悪い風を吹かせながらに黒鳥は少年の前を横切り夜の闇の中へと溶けていった。

「くそ。逃がしちまったか」

 正体不明の黒鳥をいきなり殴り付けた、これまた正体不明の男は口惜しそうに歯噛みする。

 正直、少年は何が何だかまるで事態を把握できていなかった。

 こんなものは全く知らないし、見ていないことだったから。

「な、何だったんですか今の……それにあなたは?」

 少年が混乱する頭で必死に言葉を絞り出す間に、謎の男は先程まで『あれ』がいた店内の中央に場所を移していた。

 それだけで少年はこの男の正体を察することができた。

 男は言う。

「俺か? 俺こそがこの店の本当の店主だ。よく来たな、ここは仏嫌房(ぶっきらぼう)。まあ、ゆっくりしていけ」


 これは出会いの物語。始まりの物語。

 妖怪相談所――遠然房(とおせんぼう)が生まれる前の御話。

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