豆腐小僧と一反木綿 結

「どうぞ。『豆腐の角』です。これを頭にぶつけると相手は死にます」


 豆腐小僧が差し出した品を遠然坊は丁重に、しかし物が物だけにやや離れた位置から受け取った。


「本当にこれほど貴重な品を受け取ってよろしいのですか? あなたには戸を壊した分だけいただければいいのですよ」

「いいんです。どうせこれは僕にとって使い道のないものですし、ご店主に役立ててもらえるのであれば」


 そう言う豆腐小僧は、元より玉子豆腐のように艶やかだった肌がさらに輝いて見えた。

 妖怪にとっては人間以上に内面の変化が外見に及ぼす影響は大きい。

 色々とトラブルはあったものの豆腐小僧は今回のことで少しだけ自信をつけることができた。


「ご迷惑をおかけしました。そしてありがとうございました。ミナト様もお世話になりました。では僕はこれで失礼させていただきます」


 最後まで堅苦しさは抜けなかったが、その表情からは最初にあった怯えは消えていた。

 ぴょこんと跳ねた一房の前髪もどこか誇らしげでまるで胸を張っているかのようだった。

 豆腐小僧が去って遠然房にはいつもの二人だけになる。

 静けさの中に安らぎが漂う空気もいつも通り。そこに遠然坊のため息が一つこぼれた。

 ミナトはこれから襲い来るであろう怒涛の説教の嵐を覚悟していた。

 ところが、いつまで待っても遠然坊の言葉は続かなかった。


「えっと、師匠?」


 恐る恐る沈黙を守る遠然坊を窺うミナト。


「何ですか?」


 そう答える声は普通のトーンで取り立てて怒気が含まれているようには感じない。


「怒らないの? 僕が今回やったこと」

「私はね、ミナトくん。子供のときよく理不尽なことで大人に叱られて、それでも口答えを許されないことがすごく嫌だった。特段、その大人のことが嫌いになったりはしなかったんですけどね。今になっても何というか心にしこりが残っているんですよ。ですから、君が自分で反省ができているようなら私から何か言うことは避けたいと思っています」


 ようするに、今回の件はこれまでに比べても大事だからこそミナトの自責の念を慮って言葉を選びたいということだった。


「それに私はむしろミナトくんのしたことには褒めるべき部分もあると考えていますよ」

「えっ!?」


 突然の思いも寄らない発言に、ミナトは照れもてらいも忘れて当惑するしかなかった。


「僕がしたことで褒めるって何を?」

「豆腐小僧さんの問題に対してよい解決を示したことです。私が依頼を受けていたならば、いじめている妖怪の側をどうにかしようとしていたでしょう。ですが、それでは豆腐小僧さんは表面的に、あるいは一時的に救われるだけに終わっていたでしょう」


 確かに豆腐小僧が正式に遠然坊に依頼をしていたのなら、そういう運びになっていただろうなとミナトは思う。

 遠然坊は問題の本質を見抜いていても、あえて無視してあくまで『依頼されたこと』だけを解決することを旨としている節がある。

 それはこの仕事をする上で例えば今回のような無用なトラブルを避けるために必要なことなのだろう。

 ミナトが豆腐小僧に対してやったこととは真逆である。

 確かにスマートとは言えなかったし最後には遠然坊に頼ることにはなったが、だからこそ豆腐小僧にとっては一皮むける出来事として骨身になったはずである。

 そう説明されても、しかしミナトにはイマイチ遠然坊からの賛辞を受け入れ難かった。


「でもさ、結局は問題自体は何も解決してないよね。これから豆腐小僧は頑張るのかもしれないけど、いじめがなくなるかどうかは分からないし悪化する可能性も低くないと思うんだ。だったら、師匠みたいに一時的でも直接に救ってあげる方がいいんじゃないの?」

「いいえ。それについても心配はいりませんよ。豆腐小僧さんへのいじめもしっかりなくなっています」


 言って、遠然坊は『いったんもんめ』を取り出して見せた。


「この『いったんもんめ』は少しややこしい道具でして、これの正しい効果には持ち主であった一反木綿さんも気付いていませんでした」

「『いったんもんめ』の正しい効果って……だから一旦の意味が『しばらく』じゃなくて『一度だけ』だったってことじゃないの?」


 ミナトが最終的にたどり着いた解釈としてはそういうものだったのだが、これもまた違っていたというのだろうか。


「一旦の意味はしばらくでいいのです。間違っているのは外見を入れ替えるという効果の方」

「え!? でも確かに僕と豆腐小僧の外見が入れ替わっていたよ。師匠も見たでしょう?」

「いいえ。見ていませんよ」

 遠然坊はゆっくりと首を横に振った。

「私の目には初めからミナトくんはミナトくん、豆腐小僧さんは豆腐小僧さんのまま映っていました」

「……ってことはもしかして、僕と豆腐小僧のお互いしかそう見えてはいなかった。そういう幻覚を見せるだけの道具だったってこと? いや、でもおかしいよ」


 もしそういう効果だったとするなら、ミナトが妖怪たちのところへ行っていたときに露見していたはずである。

 豆腐小僧の方も小学校に通っていて特に問題があったようには言っていなかった。

 ミナトがこの疑問までたどり着いたのを見届けると遠然坊は答えを発表した。


「『いったんもんめ』の持つ力。それは認識の交換です」

「認識の……交換?」


 と言われたところでミナトには今一つピンとこない。

 そうだろうと思って遠然坊は詳しく補足を付け加えた。


「『河童と皿屋敷』事件のときに、どうしてミナトくんがこれまで会えなかった妖怪に会えるようになったのかについて話しましたよね?」

「あ、うん」


 ミナトは慌ててそのときの記憶を掘り起こした。

 遠然坊の話の大半は覚えていないミナトだが、妖怪に関することは別だ。


「妖怪の存在を知って信じて認識するようになったからだったよね。それまでは見えてはいても認識していなかっただけって。あ、認識の交換ってこれのこと?」

「その通りです」


 弟子の察しに師匠は満面の笑みで応えた。


「ミナトくんが自分の姿を自分として見ているのも、そういう認識のもとで生きているから。もちろん豆腐小僧さんも『自分はこういう姿』という認識を、特に意識せずとも常に持ち続けているわけです」

「それが交換されたから互いの姿が入れ替わって見えた、と。じゃあ妖怪たちのところと学校に別々に行っていたのに誰も気にしてこなかったのは?」

「君たちの中で『いつもの場所』『いつもの関係』の認識が入れ替わっていたからです」


 つまり別々に相手のフィールドに行っていたと思っていたミナトたちだったが、その実は普段通りに自分のフィールドに通っていたのである。

 ミナトにとっての『いつもの場所』の学校は豆腐小僧にとっては妖怪の棲み家、『いつもの関係』はクラスメイトではなく妖怪。

 豆腐小僧の認識でミナトは『いつも』の生活を送っていたに過ぎないのだ。

 だがこの説明でもまだ納得し切れない部分がミナトにはあった。


「でもこの十日間は僕は妖怪たちと外で遊び回ってばかりだったし、それも時間は夜だったんだよ。それが認識の違いだけで実は昼間の屋内で授業を受けていたなんて、とてもじゃないけど信じられないよ」

「そのくらい認識というのはいい加減で都合のよいものなのですよ。思い込みと意識の違いで世界は如何様にも変わって見える」


 ミナトも豆腐小僧も違和感なく生活できていたのは何も『いったんもんめ』の力によるものだけではない。

 元々、日常に潜む様々な違和感を誰しも都合のいいように勝手に補完しているのである。それは人も妖怪も変わらない。


「ですから、道具の効果はとっくになくなっていたにも関わらず君たちの認識が入れ替わった状態で固まってしまったために今回のような事態になったわけです」

「ふ~ん。なら師匠のあのお経は認識を正常にする力があるってこと?」

「そんな都合のよいものは、それこそそうそうありませんよ。あれはただの振りです」


 つまりミナトたちはお互いが入れ替わっているという思い込みから戻れなくなっていたのだから、それっぽいことをして戻ったと信じ込ませればそれでよかったということだ。


「もっとも、もう少し症状が進行していたらあの方を頼ることになっていたでしょうが」

「ん、何か言った?」

「いえ。ともかく簡単に言うのならば何事も気の持ちようということですね。つまり豆腐小僧さんはすでに自分の力で『捨てるのが惜しい』と思えるほどのよい環境を勝ち取っていたということです」


 なるほど、そう聞けば確かにこれ以上の解決は望めるはずもなかった。

 ミナトはようやく遠然坊が自分を褒めたいという心理を理解できた。

 その一方で、絶対に認めたくない真実も明るみに出てしまったが。


「ミナトくんも『その気』になれば楽しい学校生活を送れることが分かったでしょう。これも以前に言いましたが、一見では相手を深く知ることなどできません。心を開いて相手を知る努力をし、また自分を知ってもらう努力をして初めて……」

「……僕、帰る」


 話の途中でミナトは逃げるように店から飛び出して行ってしまった。

 遠然坊はやれやれとばかりに肩を竦めた。

 きっとこれまで退屈な場所・つまらない連中とみなしていた環境で、それと知らず楽しめていたことに困惑しているのだろう。

 しばらくは戸惑うだろうが、これでミナトも豆腐小僧と同じように一歩踏み出すことができるはずである。

 今回のことは怪我の功名ではあったが本当に両者にいい経験となったと、遠然坊は穏やかな気持ちで微笑む。

 そして今度こそは『いったんもんめ』を厳重に仕舞い込みしっかりと戸を閉めたのだった。


                            ◆


「よお境、今日もサッカーしようぜ」


 随分と馴れ馴れしくなったものだと少年は心の中で毒づいた。

 返事のないことに相手の少年は不可解そうに首を傾げている。


「どうしたんだよ。またそんな気持ち悪い本読んで」

「うるさい」


 少年は小さく、しかし力強く口を尖らせる。


「はあ、今何て言った?」

「うるさい!」


 激しい感情を相手が聞き取るのに十分な声量に乗せて放つ。


「何だと!?」


 その後、何をどう言ったのか少年は記憶にない。

 ただこれはきっと、この十日間のストレスが噴出したものに違いないと後になって確信した。

 気付けば少年は仰向けに教室の天井を見つめていた。髪は乱れ机は前倒し椅子は横倒し大切な本にはくっきりと足跡がついている。

 遠く、以前よりもはるか遠くの別世界の少年たちの声が聞こえた。


「いきなりなんだ、あいつ」

「最近はちょっと明るくなってたと思ったんだけどな」

「やっぱり変な奴」


 突き離すような言葉の一つ一つが今の少年には心地よく響く。

 体はあちこち痛かったが心は妙に晴れがまかった。

 ――ああ、そうだ。やっぱり僕はこうしたかったんだ。

 気の持ちようだって? 違う、あれは気の迷いだ。こんな奴らと仲良くしてあまつさえ楽しいと感じていたなんて。

 もしもあれが本当に二人を入れ替えるものだったのなら。

 少年は――境ミナトは天に向けて呟いた。



「ずっと、あのままでもよかったのにな」



 遠然坊が小さな体に潜む大きな闇に気付くのはまだ先の話。

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