第9話 青春にしてはなんかゆるい
ガラガラガラ……ペッ!
鏡の中に俺と風嶺ちゃんが映っている。風嶺ちゃんは寝起きなので柳のように身体が前後左右に揺れまくっているから、俺はその肩を掴んで支えてやる。
「風嶺ちゃん、しっかり! 月曜日はこんなことじゃ倒せないぞ」
「うう~?」
おいおい、作画が鳥山明の描くノリマキセンベェ博士みたいになってんぞ。俺は妹の顔を鷲づかみにしてぐにゃぐにゃといじくり倒し、眠気覚ましをしてやった。
……俺、稲荷天泰が鷹見家の実子になってから、一週間ちょっと。
まだ不慣れなところもあるが、俺は妹と一緒に歯磨きをするくらいの仲にはなっていた。
「ほら、まっすぐ歩きたまえ戦乙女よ」
まだぐずぐずしているパジャマ姿の風嶺ちゃんを引っ張って、リビングにいくと、テーブルの上にサンドイッチがある。早苗さんとトシさんは魚屋級に朝が早いので、朝食はべつべつなのがほとんどだ。……ちょっと寂しい。
「さあ、朝ごはんをお食べ。あと美鈴さんスゲェ邪魔だからどいて」
「zzz……」
チンピラメイドはテーブルに突っ伏して居眠りしている。こいつまた職場で酒飲んで寝やがったな。もはやメイド服すら着てねぇし。なんだそのタンクトップは、親戚の姉ちゃんかてめーは。
メイドもどきを床に蹴り倒してから、まだ寝ぼけ眼の風嶺ちゃんとサンドイッチを詰め込み、衣装室でそれぞれ制服に着替えて、俺たち兄妹は朝陽の下に踏み出した。
鷹見家は、坂の上にある。坂というか山なのだが。家を出ると斜めにアスファルトで舗装された道が町へ向かって続いているのを見ると、なんだか鷹見家からこの町が始まっているというか、町の終わりに鷹見家があるような、不思議な気持ちになる。俺は結構、この景色が好き。
俺は毎朝、風嶺ちゃんとこの坂を下りて学校へ行く。不思議なことにお隣さんであり、俺の生家である稲荷家の面々と登校が一緒になったことはまだない。まァ、熱也は遅刻ギリギリで飛び起きて部活でも見せたことがないような猛烈ダッシュで教室に飛び込むやつだし、地夏にいたってはきっとわざと登校時間をズラしているんだろう。まったく、可愛げのないやつだぜ。
……ま、気持ちは分からないでもないけどさ。
○
教室に入る前で、ばったり地夏と出くわした。トイレからの帰りだったらしい。
「よう」
「おはよ」
相変わらず、人を見下したような冷たい顔で挨拶してくるやつだ。学校に来るときはいつも付けてくる、ハチマキみたいにたなびく真っ白なリボンを風にもてあそばせながら、地夏は教室に入っていく。俺も後を追う。
そんな俺たちを見て、クラスメイトの新倉が「おっ」と手を挙げてきた。
「おっす、お二人さん! ……それで、えーと、どっちが上なんだっけ?」
「「兄妹じゃないっ!」」
俺と地夏の怒号がハモった。お互いに顔を見合わせてから、そっぽを向き合う。だーれがこんな凶暴女と兄妹なもんか。俺の実妹はもっと天使だっての。
「こんな馬鹿が弟だったら、世間体を気にして全てを闇に葬ってる」
「おい誰が弟だコラ。簡単に人を闇に葬るんじゃねーよ!」
……あれから俺たちは学校のやつらにべつに事情を隠したりはせず、実は取り違えがあったこと、これからお互いの家族を交換し合ってしばらく暮らしてみること、などを説明したのだが、うちの高校アホばっかだから何度言っても「双子の兄妹なんでしょ?」とか聞いてくる。ちーがうっつの。
「難しくて俺らにはよくわかんねーよ。めんどくさいから、もう兄妹になってくんねぇ?」
「お前もメチャクチャ言うんじゃないよ新倉」
また地夏に鼻を潰されて入院しちゃうよ。ていうか退院早ぇよ。
俺と地夏は揃って隣同士の席に座った。あれから席替えが一度あり、どういう運命の嫌味なのか知らないが、隣同士になっちまったのだ。
「おい地夏、ちょっといいか」
「なによ」地夏はまじめに鞄から教科書を出している。そんなものは置き勉しろ置き勉。
「風嶺ちゃん、相当朝弱いけど、ひょっとしてお前が起こしてたの?」
「そうだよ」
「ふーん、なんだ、やっぱ仲いいじゃん。……おおい、そう睨むなって」
風嶺ちゃんの話になると、地夏は「ギロリ」と物騒な包丁みたいな目つきで俺を睨んでくる。……俺はもっと「風嶺ちゃんマジ可愛いよねトーク」をしたいのに……べ、べつに地夏とおしゃべりしたいわけじゃないけどな! ほんとだよっ!
「週末、なにしてたんだよ? こっちに顔出せばよかったじゃねーか」
「そうしてもよかったんだけどね。父さん母さんと潮干狩りにいってたから」
「は、はあ!? 呼べよ!!」
「……ええ? なんであんたなんかを?」
「いーじゃん。……くそー、トシさんと早苗さんいなかったから、俺はこの土日を一人寂しく過ごしてたんだぞ……風嶺ちゃんもお友達とショッピングに出かけちゃうし……いっそついていこうかと思ったよ」
「通報されるよ」
「怒られはしたよ」
新鮮だったけどね、妹に「お兄ちゃんは家にいてっ!」って怒られるの。ふふ。
「……ニヤニヤすんな。気持ちワル」
地夏が道端でウネウネしてるミミズを踏んだような顔をしている。こころなしか、髪にくくってあるリボンまでが嫌悪感を示してトゲトゲしい形になっているように見えるのは、俺の気のせいだろうか……
「もう先生来るから、その顔直しなよ」
「元からこういう顔じゃい」
やいやい言ってるうちに現代国語のあやねちゃん(24)が入ってきて、「み、みんな席について~……?」とおそるおそる教室を見回した。見ていて不憫なのでみんなおとなしく従う。あやめちゃんが教壇に立ち、何度か生徒名簿を落としては拾ったりした後、ようやくそれを広げる。……もう二年目でしょ先生。慣れようよ。
「え、えーとそれじゃ出席取りま~す。稲荷さーん?」
「「はい」」
俺と地夏が同時に返事をして、教室にくすくす笑いが広がる。
「あ、天泰……!!」
顔をトマトみたいに真っ赤にした地夏が俺を睨んでくる。
……悪かったよゥ。
まだ慣れてないんだ、いろいろと。
○
放課後。
「天泰、ちょっといい?」
「断る」
「……」
「ごめんごめん、ちゃんと話聞くから腕の骨を磨り潰そうとするのやめて」
俺はぷらぷらしている左腕を悲しい思いで見下ろしながら、地夏も見た。
「で、なんだよ」
「これからちょっと、付き合って欲しいんだけど……」
珍しく、地夏はちょっとしおらしかった。なんだなんだ、そんな心細そうな顔されたって天泰さんは騙されないぞ。きっと俺を焼いて喰う気なんだろう。俺は、俺は絶対、焼き芋なんかにはならないぞ!
「……で、なにもないところに向かって片手を突き上げて、あんたはいったいナニがしたいワケ?」
「べつになにも。……で、どこに一緒にいけって?」
「野球部」
「野球部? なーんだ、それなら熱也に連れてってもらえばいいじゃねえか」
地夏は「ぴくくっ」とリボンを震わせた。なにそのセンサー。
「……それがしづらいから、あんたに頼んでるの」
「なんで? はっはあ、さては兄貴と喧嘩したんだな? バカだなー、あいつアホなんだからまともに扱っても無駄だぞ」
「スゴイ言い草だけど……ま、そんなところよ。ていうか、喧嘩とかじゃなくて……まだ、慣れないの。あの人」
「えぇ? 熱也と仲良くなれないやつなんて、今まで見たことねーけど」
自慢じゃないが、うちの兄貴は誰からもよく好かれる。ワケわからん理由で「なんか悪巧みとかしてそう!」とか後輩の女子に後ろ指差されてた俺とは違うんだ、俺とは。
「実は……その、昨夜、カッとなって先輩を背負い投げしちゃって……」
「お前、怒りの表現がアグレッシブすぎるな」
「だ、だって! ……い、いきなり脱衣所に入ってきたから……その、つい、こう」
ひょい、と投げる真似をする地夏。恥ずかしそうにしてるけど、それは背負い投げをしてしまったことに対してなのか、それとも背負い投げができてしまうことに対してなのか、女心は秋の空やらサンマやら。
「……こんな恥事をあんたに知られるなんて、屈辱だわ」
「いやきみ自分から言い出したよね?」
俺、家帰って水戸黄門の再放送を見てもいいんですけど。
「とにかく、まだ、先輩のことよく知らないから。知りたいのよ、実の兄、なんだし」
「ふーん。ま、べつにいいけど」
俺は白球が怖いのであまり野球部には顔を出さないが、熱也が投げていなければ平気だし、それにクラスメイトの新倉も野球部にいたりするから、時々顔を出したりしている。ま、兄貴が野球やってると、弟も自然と部活に顔出したり女子マネに可愛がられたりするのだ。うふふ。
「じゃ、いくか」
「うん」
「なあ地夏、見学はべつにヘルメット被らなくていいんだぞ」
「え、そうなの?」
「うん」
どっから拾ってきたんだ、そのボロいヘルム。
なぜかやる気充分な地夏と一緒に、俺は運動靴をサンダル代わりに突っかけて、野球部が練習しているグラウンドに向かった。
○
「あ! 天泰じゃん、ちぃーっす」
ガシャン、と練習器具(バットやらボールやらグローブやらアーマーやら)が詰まったケージを下ろして、ジャージ姿の茶樹がこっちを振り向いた。グラウンドに吹き荒ぶ春風が舞い上げるホコリで、グラウンドにいるやつはいつも鼻の頭が茶色い。
「おっす」と俺は野球部の女子マネたちに挨拶した。
「どしたの、今日は? 熱ちゃんに呼ばれたの?」
「いや、なんか地夏が野球部を見たいっていうから」
「ば、バカ! なんでそう素直に言っちゃうのよ!」
まだヘルム被ったままの地夏がぐいぐいと脇腹を小突いてくる。
「だって嘘ついたってしょうがないじゃん」
「恥ずかしいじゃん!」
「えー? そんなことないだろ。なあ茶樹」
「そうそう、全然いいよ! 見学オッケー!」
ほっぺにタコヤキ作りながら茶樹が言った。スッゲェ見ててムカツクねこれ。
「ちなっぴ、ついに実のお兄さんと和解する時が来たんだね……お姉さん、嬉しいよ!」
「お前三月生まれだろ」
俺のツッコミを無視して、茶樹が地夏の手を取りぶんぶん振る。地夏は「えーっと……あはは……」などとまごつきながら視線を逸らし頬をかいている。どうもこの都会っ子は、ボディタッチの多い茶樹にはいつもの強気で出れないらしい。
「あ、あの、柴田さん。それで……先輩は?」
「先輩?」茶樹が首を五十五度に傾けた。折れるぞ。
俺は助け舟を出してやった。
「こいつ、熱也のこと、まだ先輩って呼んでんの。慣れないんだと」
「ふーん、そうなんだ。熱ちゃんは『妹が出来た! うわああああああ妹だああああああ!』って天を仰いで喜んでたけど」
「……先輩って、そういうシュミなの?」
なぜそこで俺を睨む、地夏よ。
「あ、大丈夫。稲荷兄弟のエロ本に妹モノはなかったから」
「おい茶樹やめろ、地域のボランティアにお前の鎮圧を要請するぞ」
「あはは、やだなー天泰。こんな田舎で、きみの下半身にプライバシーなんてないんだよ?」
「俺は信じる、この国のモラルが山と川と田んぼに遮られたりしないってことをな」
田舎で静かに暮らせるなんて言ってるやつはモグリだね、モグリ。実情はこのざまだよ。
「で、熱也たちは?」
「いま外周を走りこみにいってるよ」外に設置されている蛇口で手を洗いながら茶樹が言う。
「もうすぐ戻ってくるんじゃない? あ、ほら」
茶樹が指差した先で、校外へ続く正門から野球のユニフォームを着た連中が「えっさ、ほっさ」と鉱夫みたいな掛け声をあげながら小走りにグラウンドへ戻ってくるところだった。うちは弱小で、顧問もあやねちゃん(24)というド素人なもんだから、驚きのボウズ頭ゼロである。一応、やる気はあるみたいよ?
「お、天泰とちなっぴじゃないか!」
先頭を走っていた熱也が俺たちに気づいて、列を外れてこっちへ駆け寄ってきた。わずかに汗をかいているが、疲れきっているってほどじゃない。さすがに野球部キャプテン、走りこみには慣れている。
「……ども」
地夏がヘルムのつばを掴んで軽く頭を下げた。うわあ。完全に他人行儀。……こいつ、家でもこんな感じなのかなあ。
「てか兄貴、ちなっぴって呼んでんの? 地夏のこと」
「え、だって茶樹がそう呼び始めたから……」
「あんたは茶樹の操り人形か!」
「痛ぇっ! な、なんだよ天泰! 蹴るなよ!」
ケツを押さえて熱也がじりじりと後ずさった。
「ちゃんと地夏って名前で呼んでやれよ」
「い、いいよべつに」
くいくいと地夏が俺の袖を引っ張ってきた。
「え、ええ? いいのかお前、だって、ちなっぴだぞ? 実の兄貴にお前、ちなっぴとか呼ばれる妹って、お前……」
「よ、呼ばれ方を気にしてるわけじゃないからっ!」
地夏はなんだかそわそわしている。
「……あの、先輩。見学してってもいいですか」
「ん、いいぞ? 部室の冷蔵庫にモンブランあるから、それ食べていいよ」
「マジで? ラッキー」と部室棟の窓から野球部の部室に侵入しようとした俺の首根っこを熱也が掴んだ。
「だめだ天泰! お前の分は無い!」
「なんでだよ! も、モンブラーン!!」
俺の手が虚空を掴む。くっそー。熱也のヤツ、また部室を快適に改造したらしい。いいのか、こんなことして? 見慣れぬエアコンの室外機にこないだ校長が驚愕してたぞ。
「ちなっぴ、私と一緒にモンブラン食べよ?」
「う、うん」
うふふふふ、と美少女を隣に置けてご満悦の茶樹と、なんだかんだ甘いものは好きらしくひょいパクひょいパク、モンブランを食べ始めた地夏をうらやましく思いながら、俺はグラウンドを振り返った。
「よーし、今日も一日、がんばるぞー!」
「おぉー!」
野球部の連中が、まだまだ傾きそうにない午後の太陽の下、元気にグラウンドを駆け回り始めた。
よくやるよなあ、ホント。
○
「喰らうがいい……我が必殺の絶技! うぉぉぉおおおおおお……サンシャインんんんんん・ノっヴァああああああああああああっ!!」
かっきーん。
「稲荷先輩ッ!!」
俺の兄貴のふざけたピッチング(チェンジアップ、いわゆるタイミングを外したスローボール――などと言い張っているが
、実際はただの投げ損ね)にぶち切れたキャッチャーがマスクをグラウンドに叩きつけて立ち上がった。新倉である。
「なんで俺のサイン通りに投げてくれないんですか!! 新入部員にバカスカ打たれてちゃ駄目でしょ!!」
「えー、だって、ちゃんと打たせてあげてコツを掴ませてあげなきゃって思って」
「そ・れ・は、バッティング練習の時でしょうが!! いまはあんたの投げ込み中なんだよこのボケ!! そんなだからミズコーは万年地区予選初戦敗退なんだよ!!」
「いやー、そもそも電車賃なくて試合いけなかった時のことを思い出すと、まだ最近は頑張ってるほうだよ。ねぇ先輩?」
マウンドに立つ背番号一番に声をかけられ、「そうそう」と頷く三年生たち。中には野球帽のつばに英単語シートとエロいピンナップを貼って受験と性欲の狭間に苛まれ目つきがやばくなってる先輩もいる。……高崎先輩、たぶん地元の酒屋継ぐことになりそうだなあ。
「ちょっとはまじめに投げてくださいよ! 俺のキャッチの練習でもあるんだから!」
「わかった、わかったって新倉」
熱也がしぶしぶマウンドを足で払って、再び投球姿勢に入る。
それをベンチで眺めながら、地夏がぽつんと言った。
「……新倉って、野球やってるときはマジメなんだね」
「そうだぞ? あいつはただ、お前に鼻を潰されるために生まれてきたわけじゃないんだ」
「いや、あれは何度やられても鼻潰すけど……」
「探していこう? 世界平和」
拳と流血が全てじゃないって、地夏サン。
「ま、新倉は小学校から野球やってたからねー」と茶樹がアイスを舐めながら言った。
「でも、高校に入ってからなんで急にキャッチャーになったんだろうね。いままでずっとピッチャーやってたのに」
「単純に余ってたポジションだったからじゃねーか?」
「そうかなあ」
かっきーん。
またふざけて投げた熱也が一年生(隣のクラスの茂木)に打たれて、白球は高々と舞い上がった。……俺は細目でなんとかそれを眺めている。
「先輩ッ!!」
「ごーめん、ごめんって」
「あんたねぇ、妹が見に来てるんだから、ちょっとはカッコイイとこ見せたらどうスか!」
「わ、バカ、新倉……!」と地夏がいきなりライトを浴びたハムスターのように顔を腕で覆った。
「な、なんてこっぱずかしいことを……!」
「……でも、熱ちゃん、やる気出したみたいだよ?」
茶樹の言うとおり、熱也は「ほほう?」とマウンドの上でニヤニヤ笑いを浮かべていた。どうやらやる気スイッチが入ったらしい。センターから返球されてきたボールをグローブでパシンと掴むと、マウンドをジャッジャとスパイクで慣らして、投球姿勢に入った。
俺は顔を背けた。
「どうしたの、天泰?」と地夏がこっちを覗いてくる。俺は手を振った。
「よく見とけ」
「え?」
「兄貴、本気で投げるから」
……股間に一度喰らったことがある俺には、それが分かるのだ。
熱也が高々と足を振り上げる。視線は一点、バッターも見えておらず、ただキャッチャーミットだけを捉えている。走って走って鍛えた足が、土を踏み――
風が吹いた。
地夏のリボンが、ゆるやかにそよいでいる。
ぽとん、と新倉の腹にめり込んでいたボールが転がり落ち、続いて新倉の尻も地面に落ちた。
息も絶え絶え、マスクを外して、マウンドに向かって呟く。
「そ、それでいいんスよ」
「へへっ」
いい球を投げた後。
熱也はいつも、楽しそうに笑う。
○
「おっす、お疲れさん!」
と、練習が終わって水をぶっかけられた熱也が俺と地夏のところに駆け寄ってきた。俺らは見てただけなので、疲れてるのは熱也のほうなのだが、全然そんな素振りは見えない。
「……お疲れ様です、先輩。あと、モンブランご馳走様でした」
「おう、いいよいいよ。あやねちゃんちの冷蔵庫から勝手に持ってきたやつだから」
「兄貴、それは泥棒だ」
よく合鍵作られてて夜這いをかけられないもんだな、あやねちゃん。……まァ、夜な夜なぬいぐるみを笑いながら抱き締め、翌朝になると綿が飛び出して部屋中が真っ白になっているとかいう都市伝説を持つ女性教諭を性の捌け口にしようとするやつもいないか。いったいどれだけストレス抱えてるんだあの人は。
「ねー、ちなっぴ。熱ちゃんのスゴイ球の感想言ってあげてよ!」
どばーっ、と再びうちの兄貴に頭からバケツで水をかぶせながら、茶樹が言った。野球部の伝統、練習あがりには水ゴリをするというこの風習はいつか誰かが風邪を引くまでやめさせられないだろうが、バカは風邪を引かないらしいからたぶん永遠に続くんだろうな。こんなところだけ無駄に体育会系だ。
「えっと……」と地夏がヘルムのつばをくいくい弄りながら、
「速かったです、凄く。先輩って、いい投手なんですね」
「タマタマだよ、タマタマ。それにキャッチャーミットからスゲェー外しちゃったし。ほとんど暴投だよなー」
熱也はわしわしとタオルで髪を拭きながら、照れ臭そうにしている。
「コントロールは、兄貴にとって永遠の課題だよな」
「おい天泰、いい加減、お前のチンコを駄目にしかかったことを根に持つのはやめろよ!」
「忘れるわけねーだろ!! どんだけ痛かったと思ってんだ、いまでも鳥肌もんだわ」
くすくすと女子マネどもが笑ってやがるので睨みを利かせながら、
「ったく、危うく鷹見家の直系男子の芽が途絶えるところだったぞ。兄貴、貴様の罪は重い」
「恩赦で」
「自分から言うそれ?」
ふざけたヤローだぜ。
「あ、そうだ。俺たち、これからメシ喰いにいくけど、お前らも来る? ていうか、行こうぜ!」
「あ、いや、あたしは今日は帰……」
となぜか辞退しかけた地夏の口を俺は背後から塞いだ。
肘鉄をみぞおちに食らった。
「ごっぱァッ!?」
「なにすんのよ……気安く人の顔に触らないでくれる?」
「ご、ごめん」
地夏のやつ、マジで怒ってる。闘気ってそんなに簡単に出るもの?
「で、でもだな!」俺は声を潜めた。
「……兄妹なんだし、遠慮せずにメシぐらいいけよ。べつに水戸黄門の再放送が見たいわけじゃないんだろ?」
「そ、それはそうだけど……」
「だったらいこうぜ。うちの親、門限とか気にしないほうだし」
「……わかっ、た」
「よし。……おーい、兄貴、俺らもいくわ」
「オッケー!」
ほっぺにタコヤキ作ったアホをタコ殴りにしながら、俺たちはグラウンドを後にした。
○
だいたい中学の頃から、帰りに熱也たち野球小僧どもが買い食いしていくとなれば、ミズコーからの帰り道から一本離れて、国道沿いにある定食屋『ナナカマド』と決まっている。ここは百年ちょっと前、明治大正の時代の頃はえっちな連れ込み宿だったのが、どっかの代で軽食屋兼、民宿になったというが、最近は経営難で店長の砂子さんがえっちな商売に手を出そうとしているらしい。
と、いう根も葉もないデマを広めた新倉は見事に砂子さんに前歯をへし折られたのだが、菓子丘先生は義歯も取り扱っているのでほとんどノーダメージで差し歯になって帰ってきた。……ノーダメージか?
そういうわけで、『ナナカマド』にやってきた俺たちだった。擦りガラスの引き戸に貼ってある『便所コオロギお断り!』の文句に歴史を感じながら(それは『カマドウマ』だろ? と思いつつ)、のれんをくぐる。
「こんちわー。野球部でーす。メシください」
「おう、よく来たね。たらふく喰っていきな」
と男気溢れるセリフを、カウンターの向こうの厨房から言ってきたのが店長の砂子さん二十七歳独身。どうでもいいが、厨房の中でタバコ吸うから客足遠のくんだと思うんだよね。俺たちは慣れてるからいいけど。
「……みんないつも、ここで食べてから帰ってるんですか?」
「ん、まーね。よっぽど腹減った時だけかなー。今日はせっかくちなっぴが来てくれたし、記念にな」
「ど、どうも」
地夏は物珍しそうに、ピンク電話から「あ、稲荷さん? お宅の熱也ら、うちで食わしてくんで。ええ、はい。いえいえ。じゃ、連絡網お願いします」などと通話している砂子さんを眺めている。父親の形見のジーパンをバラしてデニムのエプロンにし、三角巾を頭にぐるっと巻いて長髪を隠した砂子さんに見とれる気持ちは俺にも分かる。カッコイイよね、働くオンナ。
「養われたいよな」
「引っ込んでろ新倉」
エスパーを使って心を読むのはやめてください。
「おや、新顔だね。あんた」
砂子さんがぬうっと地夏を真上から見下ろしてきた。目元がキリリッと吊り上がっているので、斜めから見られると結構怖い。
「えっ、あっ、はい……あの、最近引っ越してきたばかりで」
「ふーん。あ、そうか。あんたが天泰と取り違えられたっていう?」
「ええ、まあ……」
気まずそうに視線を逸らす地夏。俺はそんなことを気にせず勝手に厨房に入りラーメンを作ることにした。
「砂子さーん、秘伝のタレ使っていい?」
「……あんたはブレないねー、天泰。ま、それがあんたのいいところかね」
「?」
「あんなのが兄貴じゃ、あんたも大変そうだね。えーと、地夏ちゃん、だっけ」
「あ、はい……あと、アレは兄じゃないです。私の兄はこっちで……」
と、隣の熱也を指差す。当の熱也は腹を減らしすぎて七味唐辛子を舐めている。お前それで腹壊したの忘れたのかよ。
「熱也……あんたも妹が出来たんだからしっかりしな。地夏ちゃんに恥をかかせるんじゃないよ?」
「ああ、俺は立派に兄貴をやっているぜ! なあ、ちなっぴ! ……おわっ!?」
抱きつこうとした熱也をひょい、とかわして地面に這い蹲らせながら、地夏がため息をつく。
「……やめてください、先輩。困ります、そういうの」
「そ、そんなあ……」
「おおー、稲荷さんちの看板娘はしたたかだね」
「……か、看板娘?」
眉をひそめている地夏を横目に、俺はテーブルにどんぶりを置いた。
「へい、ラーメン一丁!」
「天泰、あんたうちで働く?」
「へ?」
店長がサボってる間にラーメン作ったら褒められた。謎だ。
「ていうか砂子さん、いい加減にメシ作り始めないと茶樹が壁を喰い始めるよ」
もうお冷のコップはガジガジ齧り始めてるし。
「あ、ヤバ。じゃ、あんたら、いつもの『七色定食』でいいかい?」
「意義なーし!」
「……ねえ天泰、七色定食ってなあに?」
「ああ、山菜とかをちょっと多めにした定食だよ。裏山で掘ってきたやつばっかだからスゲー安いの」
「へぇー……あたしもそれにしよっかな」
「大丈夫かよ。都会っ子には野生の幸はおなかにキビシイんじゃないか?」
「ふん、なに言ってんの。……あたしは風嶺じゃないし」
「え、風嶺ちゃんがなに……」
と、俺が言いかけた時、入り口の擦りガラスがまた開いて、新客が入ってきた。
「あれ、風嶺ちゃんじゃん」
「あ。天泰……さん」
「お、なんか獣くせぇオスがたくさんいるじゃねーか。みなぎってきたぜ!」
「美鈴さん、彼らは人間なので、その言い方はちょっと」
というわけで。
入店してきたのは、俺の妹の風嶺ちゃん(私服)とおサボリメイドの美鈴さん(メイド服)なのだった。
「どしたの、不良?」
「え……が、外食って不良、ですか……?」
涙目になって手を胸元にやり、おろおろと揺れる風嶺ちゃん。そんないたいけな少女を、餓えた狼みたいな目つきでじぃ~っと見つめ始めた野球部員ども。これはいけない。俺は妹の前に立ち、ぴぴーっと笛を吹いた。
「オフサイド!」
「……ええ? お、オフサイド? どういうことだよ天泰!」
意味わかんねーぞ早くどけ俺たちのオカズの前から、などと不届きなことをぬかしている野球部員たちをハリセンでぶっ叩きながら、俺は高らかに宣言した。
「何を隠そう、実はと言えば、なんと! ……この子は、俺の妹だあっ!!」
「な、なにぃーっ!!」とどよめく野球部員たち。
「そ、それが噂の『鷹見妹』!」
「嘘だろ、この子が天泰と血が繋がってるなんて……」
「あいつと親戚になるリスクさえなければ、いつだってこの愛を囁きにいくのに!」
「新倉、お前だけはあとでコロす」
「なんで?」
「本気でアブないヒトだから。……さあ、風嶺ちゃん。お兄ちゃんと一緒に、お姉ちゃんの席にいこうね」
「あ、は、はいっ……!」
こころなしか、風嶺ちゃんは久々にお姉ちゃんの顔が見れて嬉しそうだ。さっきからチラチラ盗み見ている。くそう、なんて健気なんだ。最近、全然会えてなかったみたいだし、義理の姉と積もる話もいろいろあるだろう……
と思っていたのだ、が。
……ススス。
「おい、地夏。なんで隣のテーブルにいくんだよ?」
「べつに」
「べつにってこたねーだろ。せっかくなんだから一緒に……」
「いい」
「お前な……」
「なー、地夏。お前もいい加減、オトナになれよぅ」
「……美鈴、あんたには関係ないでしょ。あたしに構わず、その子のお世話してなよ」
「むう……」
おお、美鈴さんにすら強気に出るとは……この岩盤女・稲荷地夏に怖いものなし、か。……いやさっき砂子さんには姿勢低かったな。メモメモ。
「お姉ちゃん、あの……」
「…………」
地夏は風嶺ちゃんを無視して、ラーメンをすすり始めた。ちゃっかりそれ俺のだしね。かなり間接キスってるんだけど、お互いの唾液とかとんこつに入り混じってるっぽいんだけど、ぜーんぜん気にせず喰ってる。いやなんか、喰ってるというか、喰うことで周囲を無視してることをアピールしてる。……いったい何が気に入らないんだか。
「ま、いいや。風嶺ちゃん、お兄ちゃんとおいしいもの食べようね。あんなオババのことは気にするな」
「誰がオババだコラァ!」
「おめーじゃねぇよアホメイド! 文脈読めよ!」
いってぇーぶん殴られた。コブになるわ。
「ったく……てか、今日は二人でどっか行ってきたの?」
「え、あ、はい……その、ちょっと病院に」
「病院?」
俺は居住まいを正した。
「……風嶺ちゃん、身体、悪いの?」
「うんにゃ? 生まれつき、ちょっと虚弱体質だから、たまーに診てもらってるだけだよ。な?」
「そう、なんです」
美鈴さんのセリフに「うんうん」と頷く風嶺ちゃん。
美鈴さんは頬杖を突きながら、
「つーか、菓子丘のジジィ、あたしの尻触りやがって……パイルドライバーして庭に埋めてきてやったぜ」
「いますぐ掘り返さないと死ぬよ」
後日談になるが、菓子丘先生は通りがかった茶樹がちゃんと掘り返して助けたらしい。
その日、野球部はかなり盛り上がったが、とうとう最後まで、地夏が妹と喋るところを、俺は見ずに終わった。
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