意図せざる加速
@deltelta
Preamble
1
見た目は爽かな、青空の下で。
暗く濁った緑色と、ひどく明るい萌黄とが。
いかにも雑に絡まって、
伸び続ける
被告「ノヴァル
どれほど遠いのか……すらも実感できない
ただ一人……肩に提げた上着を揺り、超然と歩く「その男」は。この――絶えない臭気も、昨日離れたホンゴクと……比べられない蒸し暑さも。何ら苦にしていない。
白っぽく、ひび割れた路面。こんがらがった緑の隙間で、鈍色に輝く
(ずいぶん廃屋っぽくなったものだ)
実際、「男」が見上げる折板屋根は、不穏なほど赤錆で侵されて。壁を垂る雨染の
だが、その巨大な――熊手のごとき影たちは、開け放した扉や、縦に延びる窓から。落っこちてくる日を伝い、建屋の中をも撫で回しているのに。待ち受ける巨漢の醸し出す……ひどく気怠い雰囲気を。押し潰すことも、消し去ることもできないようだ。
「もう、
訪問者の方を見ようともせず。諦念のため息すら、過ぎ去さりし——といった調子で。事務机の奥から、巨漢が切り出す。
「
「……コードが機能しなくなったわけではない。三百万払って、ドライバーと和解できたところで――」
猫を乗せた
「――実装済みのコードに影響はない。
「
巨漢の側は、そんなことあるかい……といった調子である。すっかり禿げ上がった頭の下で、薄笑いを浮かべているようにも、苦虫を噛み潰したようにも。どちらにも受けとれる
なので「男」は、言いかけたことを飲み込み。その淀みを痩躯に沈め、こう応じる。
「
「上からモノを言って悪いがな。お奇麗なドキュメントで、手取り足取り教えてもらわんと……なんて根性だったら、あれは弄れない。読むだけだろうが、今の
鼻持ちならない物言いに、「男」の顔が曇ることはなく。寧ろ、頷きながら巨漢を促す。
「そう聞くが。」
「ノロマとは言ってねえぞ、あの量のコメントだぞ? あんなの翻訳しながら――で、そんだけでやれるとは
「ほう……?」
「といっても商売だから。四百ずつ……いや五百だったか、タイムチャージで毟り取っていくそうだがな? ハハッ、お前らからブン捕れると踏んで。」
一を聴いて、十以上まくし立てるのに。痩躯の「男」は、難なく口を挟む。
「否定はしないんだな。」
「そうだよ、シンプルな事実じゃないか。三百万ってのも——あの一件だけの話だろ? 事故の裁判だけでも五百件近くあるのに、そんなんじゃ済まんだろう……これから。どうすんだ、ノヴァルは?」
壁や天井のところどころに、濃く染めた
「そんなに心配してくれるとはな……まあ、元気そうで安心したよ。こんなゆったりした処に、長く居過ぎじゃあないか?
こうやって話の矛先を変えるだけで。巨漢の纏う空気も、まくし立てる口調も――あっさりと軽くなり:
「それを言うな。こっちにだって仕事はあるさ……そりゃあ、引く手
「ほう。」
「最近ので言えば……前世紀の空調機に、いまさら除湿モードを追加したいとか。食用コオロギ飼育温度の上げ下げや、アオコ除去スピーカーの水中移動を、超音波で制御したいとか――ほんと何が来てもおかしくない処でな、あいつらも鍛えてる。」
と、返す巨漢が目を向ける先は。一段だけ降りた緑色のフロアに、サイズのまちまちな作業台が並んでおり。
「ちょいと勝手は悪いが、この商売なら支障ない。ここの壁、ぶち抜いたりもしたけどな……ハハッ。」
巨漢が言うように、応接と仕切られていたのであろう開発エリア……は。外光の導入も、天井近くの摺りガラスだけで――あの不気味な影たちの入り込む余地はなく。猫を載せた
「少なくとも、そっちに居るよりは稼げるぞ。」
そう嘯く巨漢に目を戻すと。その分厚い身体を引き立てる、
(磁気コアメモリか。相変わらずだな……)
そうした趣向から、巨漢の心にも未だ余裕はあるのだと――感じとれはするが。表情や身のこなし……に、不規則な「ノイズ」が入るのを見ていれば。その体調が、二年前より遥かに悪くなっていることが伺えて。痩躯の男は、僅かな焦りを押し殺す。
「商品価値、ではないかもしれないが。
立ち上がって事務机へと歩み寄り、口紅大の物体を差し出す。
「モウさんな。
「ふん。」
「言ってやりたいこともあるんだろうが。バラしてみれば、それぞれは間違っていないのだろう?……なら、これが使えると思ってな。」
「何だ、危ないモノか?」
モウさんと呼ばれた巨漢が、慎重に摘み上げたそれは。ごつごつした手指の下で、キャップが外れてUSBメモリだとわかる。
「モウさんなら、どう使うか……あいにく、俺はエンジニアではないからな。楽しみにしている。」
「もう行くのか?」
そのまま、振り返ることなく。玉暖簾を潜り、開けっ放しのエントランスを出て、待たせていた車へと向かう間。踊る影のさらに奥……まだら模様の地面に、無数の穴凹が穿たれているのを、痩躯の男は眺めている。
海岸に近いほうが、穴は大きく。また、光っているものもあり、水をたたえている様子だが、それ以上の何かをもたらすこともない。
それらは嘗て。ホンゴクへと輸出される
その後、どうしようもなく放置されている……と。
* * * * * * *
振り返ってみれば。
「
その試練じみた状況が、本当に「始まった」といえるのは……四か月も前の。「その男」が予告なしに「巨漢」を訪問した、まさにこのときであり。不穏に渦巻く
つまり。僕たちの
僕たちを、僕たちの仕事の意味を。根元から変えようと図った「その男」の――記すところに拠るとだが。
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