5E
居室の灯りを点け、フロアに散らばっていた置き傘などを片付けている間に。ボスが湯を沸かしてくれていたので、ジャスミン茶のティーバッグを突っ込んで。三人分、紙カップで用意した。柔らかな香りが、開き放しとなったエントランスへと流れ、凍えるような殺伐さが退いていく。
ボスは、湯気を放つカップを二つ取り上げて、片方をカウンター・テーブルの……ハバリ=ガン氏のもたれかかっている傍にそっと置き。半身を
「このとおり、マットロウさんは無事です。」
「そうか。」
この……ボスの第一声も謎だったが、目を合わせずに答えるハバリ氏の声が。僕がここを発つ前と比べ、別人のように重々しいのに。改めて驚いた。
「しかし、それなりに恐ろしい目に遭われた。ですよね……?」
「ええ……」
ボスは僕の方を向き、
「突然、アクセルが利かなくなりました。ペダルから足を放しても、エンジンが唸りっぱなしで。たぶん、フル加速ではなかったと思いますが……長い、ほんとうに長い下り坂だったので。停止させるのに、かなり苦労しました。」
「シフトレバーをニュートラルに入れて?」
「そうです。」
僕がそう言った瞬間、ハバリ氏は。背中をカウンターから離して、初めて僕の方を見た。だが、ボスは……そうした動きに構わずに、僕への質問を続けていた。
「ブレーキは効いたので?」
「ええ。でも、ニュートラルに入れる前は……本当に重くて……固かったので、『もう駄目か』と何度も思いました。」
「それでも、諦めずに?」
「フットブレーキで、エンジンが落ちなかったのか?」
ボスの相槌を遮って、ハバリ氏から。驚いたように聞いてきた。それは、明らかに「システムの事情」を分かっている顔だったから、僕も。
「ニュートラルに入れたときに音が上がりましたが、最期まで回りっぱなしでした。」
「しかし、ブレーキ・エコーが……」
僕は、黙って首を横に振った。
「何と……それは……」
「ハバリさん。シェヴラテインの電子制御系の開発で、ウォレスに技術支援を行っていたのはノヴァルでしたが。」
ボスが口をはさみ、ハバリ氏のほうへ向き直ると。こう続けた。
「
「知っとるよ。しかし、CPUは同じ058
「メインCPUはそうですが。サブCPUが違います。」
「なに。2B-PSEじゃないのか?」
「シェヴラテインでは、センサー出力の
「おお……。」
え。
それでは、シェヴラテインのスロットル電子制御には、ブレーキ・エコー・チェックがなかったかもしれないのか? ノヴァルが「四層ある」と主張していた多重フェイルセーフのなかで、唯一。機能するときは機能すると、原告から言われていたブレーキ・エコーが? まさか。
「その
「ドキュメントが碌になかったとしたら……死活監視だけか?——それがやるのは」
もし、本当に―—なかったのなら、そしてそれ以外がノヴァル車と同じだというなら、即ち「フェイルセーフが無い」ということになるのでは?……と、改めて恐怖を覚えるなか。何故そこまでハバリ氏が嘆いているのか、という疑問が出てきて。
(シェヴラに乗ってきたアムブレヒト・キーファー証人も同じ目に遭っていたと、今頃になって報せがあった……とかだろうか? いや。例えそうであっても、ハバリ氏は関係ない筈じゃん。)
僕自身、そんなことがどうして気になるのか判らないまま。まあ、聞いても構わないことだろうと思って、こう尋ねた。
「あの。貴方はノヴァルで、シェヴラテインの開発に――何か関与されたのでしょうか?」
「……ん?」
「ハバリさんは、ずっと調達のお仕事をされていましたね?」
そう言って、僕の質問をサポートしてくれたボスは……何故か空中を見つめている。ハバリ氏のほうは、丸椅子の上で身体をゆっくりと回して。僕たちに背を向け、こう答えた。
「そう……だが、ウォレスは調達の裁量を手放すことはなかったから。俺自身、いっさい関与はしていない。」
「ノヴァルの側から、もっと関与すべきだった……と、おっしゃるので?」
「いや。そもそも当時ノヴァルは、ベッソーが2B-PSEに組み込んだブレーキ・エコー・チェック機能を把握していなかったわけだし。ウォレスの側もベッソーから調達するのは嫌がっていたから、関与を強めても無駄だったろう。」
え? では、一体……
「ハバリさん。先ほどのでお分かりでしょうが、私に貴方をどうこうする意思はありません。しかし、マットロウ氏はどうされるのか、まだ分かりませんよ。ご自分でおっしゃったほうが後々のためでは?」
「むろん、俺の追及できることではないが。君がしたことを、この彼が容認するだろう……というのか?」
「それも、マットロウ氏が決めることです。」
……???
(空中を見つめたままの)ボスと、(カウンターに向かい両肘をついた)ハバリ氏との間で。交わされる冷たい応酬……を前にして、僕の頭はクエスチョンマークで一杯になった。だが「本人を前にして何なんだ?」と訝しむ気持ちが先に立って、お二人にそれぞれぶつける疑問を整理しなければ……と思いながら、全然できそうもない、つまり何ら「心」の準備がないところへ。
「では、マットロウ君。」
「……はい?」
「さきほど貴殿の車がおかしくなったのは、俺のしていたことが原因だ。勿論そうなると知りながら、だ……弁解の余地はない。」
と。
ハバリ氏から、衝撃的な「告白」を浴びることになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。