「手紙」2

ゆっくり便箋を閉じた。



さまざまな想いが交差し、何も言葉が出ずに俯いていると、心配そうにメリッサが顔を覗き込んでくる。



「エリ?何て書いてあったの?」



梨香さんは我慢出来なくなったようで、とうとう手紙を奪い取った。



「リカ、読んだら英語に訳して」


「分かった」



言葉が出ずに無意味に手紙を見つめる。



彩の後に住んでる人、その人が手紙を受け取っていた。てっきり、全て届いていないものだと思っていた。だけど、知らない誰かに届いてた。



手紙を読み終えた梨香さんが、英語に訳しながらメリッサに読み聞かせ始める。

全てを聞いたメリッサが、ぼそっと呟いた。



「悪い人ではなさそうね」


「エリの旅は色々な人に影響を与えてるんだな。こんな知らねー奴にまで」



返された手紙を受け取り、それを見つめたまま顔を俯かせる。



いつか私と話がしたいと書いてあったけど、一体どんな話だろう?

悪い人ではなさそうだけど、あまり気乗りしないというのが本音でもある。

全く知らない人と話すのは、勇気がいる。



梨香さんは突然、笑いながらこんな事を言い放った。



「おまえさ、この旅をエッセイかなんかにして書いたら?」



その瞬間、すっかり忘れていた事を思い出した。



「そういえば此処に来る前に、出版社で働いてる人に会って同じ様なこと言われた。本を出さないかって、考えて欲しいって」


「ええ!?そんな大事な事を忘れるな!」



私にとってそれはあり得ない話しだった。だから戸谷さんに考えて欲しいと言われた所で、少しも考えていなかった。それに――



「そんな大それた事、自信ないよ。私みたいな人が書く物なんて、つまらないと思う」



そんな思いもあった。手紙は書くけど、自伝の様にして書くなんて絶対に無理。見えない誰かに気持ちを伝えるなんて出来ない。



梨香さんは呆れる様にしてため息を吐いた。



「おまえの旅に心打たれてる奴がもう既に此処に居るだろ?私とメリッサとー、あとはその手紙の奴。ほら、三人も居るじゃん」


「私も読んでみたい。書いてよエリ」



二人が乗り気なので驚いた。笑い飛ばされるかと思っていたから。

メリッサはお馴染みの、優しい笑みで見つめてくる。



「エリが旅を通して経験した事と感じた事―― それを多くの人に伝える。もしかしたらそれが、エリの運命かもしれないじゃない?」



それが、私の運命?この旅を多くの人に伝える。それで誰かが救われるなんて事があるのだろうか。もしそれで、誰かが少しでも生きていこうって思ってくれるのなら、良い事かもしれない。



この時初めて、戸谷さんに言われた事を真剣に考えた。



そして夕飯中もしばらくは、返って来た手紙の話で持ちきりだった。



ご飯を食べ終えた私達は、当たり前の様にテラスに出る。微かに聞こえる波の音を感じ、手すりに手を掛け海を眺めた。夜の海は恐いというイメージだったけど、此処から眺める黒い海はなんだか幻想的で綺麗。



温かい灯りを感じ振り返ると、梨香さんがキャンドルに火を灯していた。外灯のない暗闇で、綺麗にオレンジ色の炎が揺らめき出す。そこへメリッサがやってきて、キャンドルに灯されたテーブルにグラスとお酒を並べ出した。



「エリ、シャンパンは飲まないのよね?カクテルはどう?」


「夜は長いぞエリ。私はビールにする!」



梨香さんは瓶ビールを豪快に空けて飲み出す。その飲みっぷりはマイクさんそっくりに見えた。



「ガールズトークする?真夜中に女三人でかっけー」



梨香さんは既に酔っている様子で、テンションがとても高かった。

私達はテーブルを囲み、梨香さんの提案通り恋愛の話をした。といっても、話しているのは私以外だったけど。付き合った人数が少ないし、話せる事と言ったら“つまらない”と言われた事しかないから。



だけど何か話せと促され、その“つまらない”話を打ち明けると、メリッサが酷いと言って怒り出した。横で上機嫌の梨香さんはまたもや大笑い。



二人を交互に見つめ、思わず笑みが零れた。



女友達、日本には居なかった親友。なぜ旅に出る前の私は、全ての人から逃げていたのだろう。“一人のが楽”そう思っていたから。だけど今は、とても楽しくて心がむず痒い。抑えようと思っても、どんどん笑顔になってしまう。



人と関わらなければ、こんな気持ち知らなかった。

この旅に出て初めて、友情の大切さというのを実感した。



「エリ、あなたは幸せを探していると言っていたけど、そのポッカリ空いた心を埋める物が、一つだけあるわ」



メリッサに突然そう言われ、興味津々で耳を傾けた。

心の隙間を埋めてくれる物。それは私でも手に入る物かな?じっと言葉を待っていたら、指でハートを描きながら言う。



「愛よ」


「くっせー、メリッサくっさいよ!」



梨香さんは大声で笑って冷やかし出した。

だけどメリッサの目は、真剣なものに変わる。



「リカ、私はあなたに向けても言ってるの」



すると梨香さんは、目が覚めた様な表情を見せた。それは梨香さんの心の傷。ダンさんを失った心の傷の事を、言っているのだと思う。



「いい加減前に進んで。そうでないと、ダンだって辛いのよ」



この一瞬にして張り詰めた空気に、一体どうしたらいいのか分からなくなった。

秋田に居た頃から、梨香さんはあまりダンさんの話をしない。周りも気を遣って、そういう話は振らなかった。こんなにも真っ直ぐに“前に進んで”と伝えた人を初めて見た。



梨香さんは何も言わずにビールを一気に飲み干し、豪快に腕で口を拭う。



「駄目だ。煙草が吸いてぇ」



ぽつりとそう言って、部屋の中へ入っていった。心配になり、立ったり座ったりして落ち着きなく部屋の方へ目をやる。メリッサはじっと姿勢良く椅子に座っており、気丈に振舞っていた。酔っていて本音が出たのかもしれないと思ったけど、この真剣な眼差しは、今日言う事を覚悟していた様に思えた。



「そういえばリカさん、全然煙草吸ってなかった」



秋田に居た頃は煙草ばかり吸っていた。この国で再会してから、吸っている姿を一度も見ていない。



「ダンが止めてほしいって言ってるって、私が伝えたからかもしれないわ」



毎日吸っていたのに、メリッサの一言ですんなり止められたんだ。よっぽどダンさんを愛しているんだなと思った。



「エリ、さっき私が言った愛は、何も恋愛のことだけじゃないの。家族の愛、親友の愛、色々な愛が心の隙間を埋めてくれる」



真剣な目をしていたメリッサは、そう言っていつもの優しい笑みを浮かべる。

その言葉を聞き、今までの旅で出逢った人々が脳裏に過ぎった。

元気をくれた人、悲しみを分かち合ってくれた人、笑顔にしてくれた人、家族の愛をくれた人――。この旅は、愛を教えられた旅でもあった。



その時、梨香さんが煙草片手に戻ってきた。椅子には座らず、バルコニーの手すりに寄りかかって静かに火をつける。暗闇に光る煙草の火を見ると、楠木マスターの事を思い出してしまう。今の状況と楠木マスターを思い出し、少しだけ胸が痛んだ。



ふーっと最初の煙を吐き出した後、梨香さんはやっと口を開く。



「分かってる。このままじゃ駄目なのは」



メリッサは何も答えずに、ただ黙って梨香さんを見つめていた。



「だけどダンがやらかす霊現象の様な出来事が起こると、まるでまた一緒に住んでる様な気になってさ。前に進む事が、出来ないんだ」



初めて聞いた梨香さんの本音。梨香さんは幸せそうに暮らしてる。それだけでは駄目なのかな?そう考えると複雑な感情を抱く。



「それを続けて本当に幸せ?リカが前に進まなければ、ダンだって幸せになれないのよ」



梨香さんは煙草の煙を吐きながら、呆れる様にふっと笑う。



「なんだあいつ、今が不幸とでも愚痴ってきたのか?」


「本当の愛は、愛する人を支配する事じゃない。その人の幸せを、何よりも優先させてしまうもの。それが本当の愛なのよ」


「私がダンを、縛ってるって言いたいのか?」


「ダンもよ、リカ」



すると梨香さんの目から、ぽろっと一筋の涙が流れた。その涙をさっと拭い、強い眼差しでメリッサを見つめる。



「離れる事がお互いの幸せだとは思わない」



メリッサはその言葉と眼差しに動じる事なく、梨香さんを真っ直ぐに見つめ返していた。



どちらの言い分も分かる。分かるからこそ、話を聞いているととても辛い。



「ダンは彷徨さまよってる。あなたと会話する事も触れる事も出来ない、この世界で」



悲しくなって二人のやり取りを直視出来ずにいた。自分の事のように胸が痛む。

私も彩を、そんな風にして縛っている様な気がしたから。



長い沈黙に初めて耐えられなくなった。つい先に口を開いてしまう。



「だけどメリッサ、どうやってダンさんから離れるの?忘れる事なんて、出来ないよ」


「説明が難しいけど、簡単に言うと、リカとダンは互いに執着しすぎてるって事よ。心の中で別れを言っても良いし、エリみたいに手紙を書いても良い。とにかく、前に進むことが大切なの」



前に進むということは、分かってはいるけど中々難しい。それは形にならなくて、心の問題だから。



「いつまでも想いすぎると、相手も心配で離れる事が出来ない。開放してあげて欲しいの。とにかくリカには、前に進んでもらいたい」



ということは――



「私の、妹も――。」



彩も楠木マスターも、まだ彷徨さまよってるって事になる。言葉を詰まらせていると、メリッサは何が言いたいのかを察してくれた様だった。



「そうね、エリにもその内、リカみたいな時が来るわ」



私が心配を掛けているから、二人ともまだ彷徨さまよい続けているのかな?そう考えて顔を俯かせた。



「あ、エリに言われて思い出した。カメラを持った男性が、見えなくなったわ」



思わず顔を上げる。

見えなくなるって、一体どういう事だろう?



「さっき伝えようと思ったけど、手紙の一件で忘れてた。何だかスッキリする様な、心が前向きになれた様な出来事がなかった?」



ふと頭に浮かんだのは、今日の昼間。買出しに行こうと浜辺を歩いた時のこと。

あの時、ありがとうって呟いた時―― とても温かくて清清しい気持ちになった。定かではないけど、思い出せることといったらそれくらい。



「姿は見えなくなったけど、彼はいつでもあなたを見守ってる。だから、安心して」


「天国に行ったって事?」


「さぁ、私には天国が本当にあるかは分からないけど、ただ見えなくなるの。だけど凄く素敵な事なのよ。だからリカにも、前に進んで欲しい」



梨香さんはあれからずっと黙ったままだった。顔を俯かせていて、こっちを見ようともしない。その様子を見て心底心配した。



結局梨香さんは、何も言わず部屋の中に入ってしまう。



「メリッサ、彷徨い続ける事はいけない事?だって梨香さん、幸せそうに暮らしてた」



するとメリッサは、深いため息を吐いた。



「ごめんなさい、上手く伝えられなくて。ただ、亡くなった人と生きてる人の居るべき場所は違う。共存は出来ないの。だけどどちらかがそれを拒むと、一生苦しみから解放される事はない。一見幸せに見えたって、心の中は悲しみで溢れてる。梨香がこういう話を嫌がるのだって、まだダンへの悲しみが拭い切れてない証拠よ」



もしも自分が梨香さんの立場なら、一体どうするかな?さっき手紙を書いて別れを告げても良いと言っていた。だけど私は、別れを告げたくて手紙を書いていたわけではない。



私が彩に別れを告げられる日って――

それは一体、いつなんだろう?



つい考え込んでしまっていると、メリッサが気になることを口にした。



「前に進む事を拒んで離れられない場合と、もう一つある。それは、亡くなった人が何かを知ってもらいたい時。伝わるまで彷徨い続けるわ」



過去に彩が言っていた言葉を思い出し、はっとしてしまう。



『死んで幽霊になってからさ、生きてる人に何か伝えたい事があった場合は、どうしたらいいんだろう』



もしかして彩は、何か伝えたい事があるのかな?



「あなたの妹の場合は後者の可能性が高いと思う。いつも何かを言おうとしているから。だけど私の能力が完璧ではないせいで、二人の力になってあげられない。ごめんなさい」



首を横に振りながらも考える。彩の言葉を、もう一度聞く事が出来たのなら―― そしたら私は、前に進めるかもしれない。だけどどうしたら聞く事が出来るのか、それはどんなに頭を捻ったところで答えはない。



「リカとダンはもう前に進むべきよ。悲しみを乗り越えた色々な人を見てきた。その後に不幸になった人なんて、誰一人としていない。だからこそ、前に進んでもらいたい」



悲しそうに涙を流す梨香さんを思い出す。あの悲しみを乗り越える事なんて出来るのかな?私は梨香さんに、一体何をしてあげられるのだろう。



こんな窮地を救ってくれる人は、あの人以外に考えられない。

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