「島を愛する人(前)」8
「美紀ちゃん!」
「どないしてん!?心配しとったんよ?」
私と咲さんは、真っ先に美紀ちゃんに駆け寄る。美紀ちゃんは長い間海の近くに居たのか、髪が湿っていてぼさぼさだった。顔色もあまり良くない。
だけど私達を見て、にこっとぎこちない笑みを見せる。
「何なの?まったく二人とも、大げさだっちゅーに!」
いつもと変わらない様子に胸を撫で下ろした。
楠木マスターはカウンターの中に移動し、カップを取り出す。
「コーヒー淹れちゃるわ。そこ座り」
「うん」
美紀ちゃんは気まずそうにカウンターに座った。
淹れ立てのコーヒーをじっと見つめ、小さな声で呟く。
「楠爺―― さっきの本当?」
「なんや」
「美紀がずっとここに居て、本当にいいの?」
擦れた声で、今にも消えてしまいそうな様子の美紀ちゃん。
それに対し楠木マスターは、嬉しそうな顔を見せ笑い出した。
「わっはっは、聞いとったんかぁ。家政婦は見たか、おまーは!」
「美紀、あの二人は捨てる」
すると笑うことを止め、悲しげな表情で美紀ちゃんを見つめる。
「ええんか?」
「うん」
そう言って美紀ちゃんがコーヒーに手を伸ばした瞬間――
静かだった店内に、カップが落ちて割れる音が響き渡った。
楠木マスターが突然、カップを持った美紀ちゃんの手首を掴んだからだ。
驚いてしまって、零れてしまったコーヒーをただじっと見つめた。
「美紀―― なんやこれ?」
顔を上げてみると、楠木マスターが恐い顔を見せていた。
その視線の先は、美紀ちゃんの手首に新しくできたであろう傷がある。
次の瞬間、楠木マスターが何も言わない美紀ちゃんの頬を平手打ちした。
「おとー、何すんねん!」
咲さんが慌てて大声を上げる。
あまりに突然の出来事に、私は驚いて硬直してしまっていた。
「なあ美紀、何しとんのやって聞いとるんや!」
楠木マスターの怒鳴り声と同時に美紀ちゃんが涙を流した。
咲さんが駆け寄って、宥める様に美紀ちゃんの背中を摩り出す。
「おとー、美紀の気持ちも分かってやり?」
「分かるかアホ!自分傷付けて何が変わるん?おまえは家を捨てたんやろ?うちの娘ならな、こないな事、絶対に許さへんからな!」
あたふたしてしまい、その様子を眺める事しか出来ない。
少しすると、美紀ちゃんが勢い良くお店を飛び出して行った。
咲さんは肩を落としながら、ため息交じりに割れたカップを片し始める。
「まったく、せっかく美紀帰って来たんに」
怒った楠木マスターを初めて見た。それに驚いてしまい、今も尚動けないでいた。
ちらっと楠木マスターに目を移すと、不機嫌そうな顔をして煙草に火を付けている。
「ああー、あったま来たわー」
「美紀がほんまに帰ってけーへんかったら、どないするん?」
「大丈夫や、俺のは愛があんねん。安心せぇ、美紀は帰って来る」
すると咲さんが突然、楠木マスターの頭を素早く叩いた。
「何の根拠があんねん!十代の娘はナイーブなんやで!」
「何すんねーん、痛いやないかぁ」
一番恐いのは咲さんかもしれない。
そんな事を思っていると、咲さんが恐い顔のまま私に目を移す。
「恵利ちゃん、はよ、美紀追ってきて!」
その言葉ではっと我に返る。 美紀ちゃん何処に行ったのかな?途端に心配になってきて、頷いてからお店を飛び出した。
美紀ちゃんの名を大声で叫びながら、ひたすら島中を走り回って捜した。
すると、お店から少し離れた小さな神社の階段で
ミーン
ミーン
ミーン――。
私達の間には、
目を瞑って浸っていると、小さな声で美紀ちゃんが口を開く。
「美紀、初めて殴られた」
その声で、ゆっくり目を開いた。
「酒で暴れた義父に殴られた事あるし、援交してた時に変なおっさんに殴られた事もある。彼氏にだって、暴力振るわれた事がある。だけど楠爺に殴られた時、初めて殴られた気がした―― 凄く痛かった」
「それはきっと、美紀ちゃんを心から愛してる人に殴られたからだと思うよ」
すると美紀ちゃんは、
「もうしない。こんな事二度としないよ。だって楠爺に殴られると、凄く痛いんだもん」
嬉しい気持ちともらい泣きで、一緒になって涙を流した。
「美紀ちゃん、楠木マスターと咲さんにも言わないと―― もうしないって。二人とも心配してるから、帰ろう?」
すると涙を拭いながら、そっと私の手を握る。
美紀ちゃんと手を繋いで歩いていたら、懐かしい想い出が蘇ってきた。
こんな風にして、小さい頃はよく彩と一緒に歩いていた。
一番心に残っているのは、家族が居ない私達を馬鹿にした男の子と喧嘩して、彩が大泣きした日のこと。なぜ悔しくないのかと私を責めて泣いてもいた。
いつまでも泣く彩の手を握って、日が落ち始めた道を歩いていた。
側を通った大人が「迷子なの?」と声を掛けてくる。俯いて首を横に振る私を見て、彩はその大人に向って「昔からずっと迷子です」と言って驚かせた。
大人になってからは、その想い出話で笑いあった。もちろん彩は覚えてなくて、何故そんな事を言ったのかと考え出した。そして「知らない人に話し掛けられて怯えたお姉を見て、きっと笑わせたかったんじゃないかな」と笑顔で言っていた。
『お姉が隣で手を握ってくれている事だけが、支えになってたんだと思う。これからも、この先もずっとね』
そんな風に言って微笑んだ彩を思い出し、胸がぎゅっと締め付けられた。
美紀ちゃんと居ると、彩の想い出が溢れ出てくる。
これは良い事なのか、それとも悲観のきっかけを作ってしまっているのか――。
どちらにせよ、私の心は、美紀ちゃんに出逢う前よりも安らいでいる。一緒に居ると、彩を失った悲しみと罪を、償っている様な気持ちになったから。
だけどこのままではいけないという想いも片隅にある。
いつかはこの悲しみから、離れなければならない気がしていた。
お店に戻ると美紀ちゃんは、二人に向って深々と頭を下げる。それに対し楠木マスターは、美紀ちゃんの頭を豪快に撫でて答えていた。
楠木マスターの愛は凄い。全ての人を包み込んでいく。こんな風に人を愛せる人になりたい。そんな事を考えながらふと、咲さんに目を移した。
微笑んではいるけど何処か悲しげな咲さんの顔が、妙に気に掛かった。
***
この日、年に一度の大きなお祭りが神社で行われていた。
そこに美紀ちゃんと晃君と一緒に来ている。楠木マスターと咲さんはお店でお留守番。お祭りの日はお店がとても混むらしく、全員で行けなかった。
島一番の大きな神社。いつもは閑散としているけど、長く続く本堂までの道のりに色々な屋台が出ていて、多くの人で埋め尽くされている。お店も忙しいし、少し遊んだら帰ろうと思っていた。
「晃ー、あれだ!今度はあれで対戦すっぞ!」
「美紀姉はほんっまアホやなぁ。俺のスーパーボール救いは神やぞ神!」
「へっ、ちょづくんも今の内だぞ」
思いのほか美紀ちゃんと晃君が大盛り上がりで、中々帰れずにいた。
その時、走ってきた男の子と美紀ちゃんが勢い良くぶつかって転倒した。
「美紀ちゃん、大丈夫?」
心配する私を
「てめぇ、何処見て歩いてんだよ!」
「こら美紀ちゃん、失礼でしょ」
ぶつかった子は、この島では美紀ちゃんの次に珍しい金色の髪。
見るところ、高校生くらいかなという印象だった。
がりがりの細い体を起こし、見下すような笑みで美紀ちゃんを見る。
「なんやおまえか、東京から来たアホ女っちゅーんは」
そう言うつり目の視線がなんだか冷たくて、少しだけ恐いと感じた。
だけど美紀ちゃんは、負けじとその男の子の胸倉に掴みかかってしまう。
「んだとガキ、喧嘩売ってんのかよ!」
美紀ちゃんの度胸と柄の悪さに驚き、慌てて止めに入ろうとした。
すると晃君が、小さな手で美紀ちゃんの服を引っ張る。
「美紀姉やめなよぉ。
「あ?美紀はだてに東京で修羅場くぐってねーんだよ。甘くみんな!」
そう言って晃君の手を軽く振り解く。
「それにてめぇ、美紀と同じ髪の色してんじゃねーよ!だっせぇーんだよ!」
「あ?」
健志兄ちゃんと呼ばれるその子は、鋭い目で美紀ちゃんを睨み付ける。
だけどあまり本気にしている様子はなく、目を逸らし小ばかにして笑い出した。
そこへ、数人の男の子達がやって来る。
「健志さん、どないしたんすか」
「お、噂の東京から来たヤリマン女って、コイツやないか?」
「やっちまうか?」
そう言って笑われている中、美紀ちゃんは胸倉を掴んだ手にぐっと力を加えた。
「やれるもんならやってみな!だてに数こなしてねーんだよ。ガキに美紀を満足させられんのかっての!」
「は?」
健史君は思ってもみない事を言われたのか、間の抜けた様な表情に変わった。
「だからおまえみたいなガキに、セックスで美紀を満足させられんのかって聞いてんだよ!」
ちょっと、晃君の前で!そう思い、思わず大声で叫んだ。
「美紀ちゃん!」
健志君は少し顔を赤らめ、美紀ちゃんの手を力強く振り払う。
「おまえ、頭イカれとるな」
そして仲間達を引き連れ、何事もなかった様に去っていった。
「ふん!口ほどにもねぇ」
呆れてものも言えずにいると、晃君が純粋な瞳で美紀ちゃんを見つめて言う。
「美紀姉やるなぁー!てか、セックスって何や?」
「え?んなことも知んねーの?」
慌てて晃君の手を引っ張った。
「晃君!早くスーパーボール対決しようねぇ」
まったくもう、美紀ちゃんには本当困ったもんだわ。
怒った表情を作り、耳元でこそっと注意する。
「変なこと晃君に教えないで」
「ラジャリー!てか恵利姉、さっきから携帯鳴ってね?」
また慎かなと思い、画面も見ずに慌ててボタンを押して電話に出る。
「――も、し」
お祭りでお馴染みの音楽、花火の音、子供達の騒ぐ声でよく聞こえなかった。
だけど、慎の声ではないという事だけは分かった。ちゃんと着信画面を見れば良かったと後悔しつつも、失礼がないよう問い掛けてみる。
「えっと、ごめんなさい。よく、聞こえないんですけど」
「――祭りか」
その声が耳に入った時、さっきまで騒がしかった騒音が、一瞬にして止まった様な気がした。
「元気、しとるん?」
「池上君?」
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