「島を愛する人(前)」7
***
この日、楠木マスターに連れられ、美紀ちゃんと一緒に市場に来ていた。
港近くにあるその市場は、雑貨を売るお店もあるけど、ほとんどが魚や野菜などを扱う、食料品店が多くを占めている。
「楠爺なんか買ってぇ!サマンサのバッグとか売ってねぇの?」
サマンサって、彩が可愛いってよく言ってた
「あっ、楠爺、このキーホルダーめっちゃ可愛いー買ってー!」
「うっさいのぉ、俺ぁ寄るとこあるんや。おまえら好きに回り。一時間後にまたここでな」
「ちぇー、なんだよー」
美紀ちゃんが頬を膨らませてふて腐れる中、楠木マスターは人の波へと消えていった。
何処に行くのか見つめていると、久しぶりに携帯電話が震えている事に気付く。
カフェでは全く電波が入らない。
生存だけは伝えておくかと、仕方なく通話ボタンを押した。
「おおー、恵利!やーっとつながった!」
無言で慎の声を聞いていると、美紀ちゃんが興味津々な様子でくっついてきて、会話を盗み聞きしようとし出した。
「おまえ旅してんだって?キャサリンちゃんから聞いた。つぅか、あの日一言も言わず出てったろ。おまえは何でいつもそーなんだよ」
「キャサリンさん、元気?」
慎じゃなくて、キャサリンさんと話したかった。そう思いぶすっとしていると、くっ付いている美紀ちゃんがわざとらしく大声を上げ始める。
「えー、男!?もしかして、恵利姉のダンナって感じ!?」
慎は誰かと一緒なのかと聞いてくる。
何も答えずにいると、その隙に美紀ちゃんに電話を奪われた。
「もっしー、美紀っすー!恵利姉にいつもお世話になってまーす」
奪い返そうとしたけど、美紀ちゃんは上手く交わしながら会話を続ける。
「そぉ、姉ちゃんみたいだから。えぇ?でもうちら、此処気に入ってるからー」
ぽろっと此処の居場所を言いやしないかとハラハラした。
暫く奪い合いが続く中、さらっと美紀ちゃんが言う。
「うん、少なくとも美紀は帰らない。え?ここはねぇ香――。」
ギリギリセーフで奪い取り、慌てて通話を切った。
美紀ちゃんはぽかんと口を開け、驚いた表情を見せている。
「何すんの?もしかして、マジで恵利姉のダンナ?」
「そんなわけないでしょ」
「ムキに怒る所が更に怪しい」
「な――。」
言い返そうとした時、今度は美紀ちゃんの携帯電話から音楽が鳴り出す。
「ぬお!今度は美紀だぁ」
明るく電話を取り出したと思ったら、表情を一変させ画面を見つめる。
それは、何の感情もないような表情だった。
嫌な予感がした。
美紀ちゃんは通話ボタンを押し、無言のまま電話を耳に押し当てる。
その表情は電話に出ると、より一層曇っていった。
「あ?知らなねーよ、自分で何とかしろよ」
誰なのか定かではないけど、東京の人ではないかと思わせた。
表情が、東京に居た頃の美紀ちゃんに戻っている様な気がしたから。
「――っざけんな、キショイんだよ!二度とかけてくんな!」
そう言うと通話を切り、いまだ怒りが治まっていないのを表す様に肩で息をしている。ただただ心配で、それを見つめる以外何も出来なかった。 美紀ちゃんは顔を伏せたまま、こちらを見ようともしない。声を掛けようと近付くと、突然走り出してしまう。
「美紀ちゃん?待って!」
必死になって後を追った。
着いた先は、船が並ぶ港。 潮の香りがより一層深くなる。
目の前には、日に照らされた海が波打っていた。
やっと追いつき美紀ちゃんに近付くと、突然腕を大きく振りかぶった。
「くそっ!」
そして、手にしてた携帯電話を海に向かって投げ捨てる。
ただ事ではないと思い、思わず腕を掴んで引き寄せた。
「美紀ちゃんってば、一体どうしたの?」
「――電話、母親だった。母親とも呼びたくねーけど」
そう呟いた瞳は、出逢った時に見た虚ろな色。
私を見ずに、まるで傷付いているのを隠すようにして笑いながら言う。
「金くれってさ。美紀が今何処に居るかも聞かずに、まっさきに金くれって」
側では波打つ音と
美紀ちゃんは
「高校ん時さ美紀、腐れ母親の再婚相手の義父に、抱かれたんだよね」
耳を疑い絶句した。美紀ちゃんは構わずに、まるで独り言の様にして話し続ける。
「酒で暴れてさ、無理やりやられたの。ドアの隙間から腐れ母親が見てたんだ。美紀は助けてって目で合図した。だけど母親が口パクで、大人しくしなさいって言ったんだよね。まじイカれてるっしょ」
様々な感情が溢れ出した。言葉にする事なんか出来なくて、何かを埋めるようにして美紀ちゃんを抱き締める。
「東京には絶対戻らないで――。お願い」
居た堪れなくなり涙が溢れ出てくる。美紀ちゃんにとっては、たった一人の母親かもしれない。だけど美紀ちゃんの両親は、美紀ちゃんと一緒に居る資格はないと思った。
「このままじゃ美紀ちゃんが、壊れちゃうよ」
虚ろな瞳で感情がない様に過ごす。そんな風に生きて欲しくない。
だって美紀ちゃんはこの島で、本当に楽しそうにしているから。東京に戻ってしまったら、本来の美紀ちゃんが消えてなくなる気がした。
「ありがとう。恵利姉が本当のお姉ちゃんで、ずっと前から一緒だったら良かったのにね」
美紀ちゃんはそう言ってゆっくり私を引き離す。
「ごめん――。ちょっと一人にさせて。美紀はタクシーで帰るから、大丈夫」
そう言う顔は明らかに作り笑いだった。
そして背を向け、また何処かへ向って走って行ってしまった。
涙が止まらなかった。哀み、残酷な現実、何も出来ない無力な自分。
自分が此処に居る事、生きている事さえもが空虚に感じる。
この感覚は、彩を亡くした時と似ていた。
何故、こんな酷い現実がこの世にあるのだろう?
流れる涙も拭えず、元居た場所に戻り立ち尽くした。助けを求めるように楠木マスターを待った。家族からはぐれてしまい迷子になった子供は、こんな気持ちなのかもしれない。心細くて、温かい何かを待っている。この空虚感を埋める温かさを。
誰かに肩を叩かれ振り返ると、楠木マスターが顔を覗き込んできていた。
ホッとして、思わず泣いてしまいそうになる。
「ん?恵利ちゃん、どないしてん?」
「美紀ちゃん、タクシーで帰るって」
精一杯振り絞った声でそれだけを伝えた。
すると楠木マスターは、大声で笑い飛ばしてくる。
「何やぁ、喧嘩したんか?ほんまガッキやなぁ」
安心感と同時にぶわっと涙が溢れ出る。
この空虚感を埋めて欲しいと言わんばかりに、子供の様に泣きじゃくった。
「美紀ちゃんが可哀想。絶対に、東京に帰しちゃ駄目」
楠木マスターは何も聞いてこず、ただ頭を優しく撫でてくれる。肩を抱かれながら、とぼとぼ歩き車に乗り込んだ。車から二人で一緒に美紀ちゃんを捜したけど、何処にも見当たらなかった。
そして落ち込んだ気持ちのまま、カフェに戻ってきた。
まだ泣き止まない私を見た咲さんが、飛び付いて来る。
「どないしたん?おとーに虐められたん?」
「なんでや。んなことよりなぁ、美紀がおらんねん」
すると咲さんは眉を下げ、全てを見透かしている様に言う。
「恵利ちゃん話してみぃ?美紀の家族の事やろ?」
驚いて顔を上げた。咲さんは私の背中に手を添え、テーブル席に座らせてくれる。
「美紀の家族の事はずっと気にかかってたん。いずれこういう事絡みで何か起こる思うてたんよ」
「俺はキッチンで仕込みしとるわ」
「おとー、聞かんでええの?」
「美紀の親の話なんやろ?俺は―― ええわ」
楠木マスターはそう言ってキッチンの中へ入ってしまう。
美紀ちゃんの事を思い、大まかな所だけを咲さんに話す事にした。
――
―――
「ほんまなん?」
咲さんは顔を赤くして、怒りに満ち溢れた表情になっている。
俯きがちにこくんと頷いた。
「許せん。うち、ほんま許せへん!」
咲さんの声を聞いた楠木マスターが、やっと顔を見せカウンターに立つ。
「せやから言うたろ。もし俺が聞いとったら、腹立って東京に怒鳴り行っとるわ」
「ああ、ほんっまに!どないなっとるん?それでも親なん!?美紀が東京帰る言うてもな?うちが絶対、帰させへんからな!」
そう言う咲さんの目には、薄っすら涙が浮かんでいた。血が繋がっていなくても、本当の家族の様に怒ってくれる人が居る。こんなにも想ってくれる人達が居る。
美紀ちゃんは東京に戻るよりも、ここに居た方がずっとずっと良いと思う。
楠木マスターは軽いため息を吐いてから、煙草に火を付けた。
ひとつ吸い込んでから、穏やかな声で言う。
「愛してるものがあったら、自由にしてあげなさい。もし帰ってくればあなたのもの。帰って来なければ、はじめからあなたのものではなかったのだ」
咲さんは眉間にしわを寄せ、涙を耐えながら耳を傾けていた。
楠木マスターはゆっくり煙を吐き、カウンター席に腰掛ける。
「料理人、
流れた涙を拭った。少しずつ心が落ち着いてきた。
大丈夫。この人達と過ごした日々を、美紀ちゃんもきっと大切に思っているはず。そう簡単には東京に戻らないだろう。
咲さんは仕切りなおす様に頬をぱんっと叩き、立ち上がった。
そんな時、お店の扉がゆっくり開き、俯きがちに美紀ちゃんが現れた。
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