「罪から逃げる青年(前)」4
「ホストに貢いどるん?」
翌日、池上君が仕事中に初めて話しかけてきた。
驚きのあまり、返却処理する手を止め固まってしまう。
「貢ぎすぎて、借金取りから逃げて来たんちゃうん?」
池上君の勝手な妄想に、慌てて首を横に振った。
「ホストの人が居る所なんて、行った事ない」
「ああ、彼氏か」
「え?あんな彼氏、絶対いや」
横に並んで返却処理する彼の手が止まる。
だけど表情はいつもと変わらず冷めていた。
「嫌いなん?」
「ただの腐れ縁で、好きも嫌いも――。」
慎の事を人に聞かれると、なんて答えたらいいのか分からない。
梨香さんの時もそうだった。
珍しい事に池上君は、更に質問を投げかけてきた。
「待ってる奴おるのに、何で帰らへんの?」
待ってる奴って、一体あれの何処が?
そんな思いで、背の高い池上君を見上げ無表情で見つめる。
「待ってる人なんか―― 居ないよ」
池上君はそれ以上何も聞いてこず、再び無言の時が流れた。
しばらくすると何事もなかったように、返却DVD片手にカウンターを出て行ってしまう。その短いやり取りを見ていた坂口さんが、慌てる様に駆け寄ってきた。
「笠井さん今、池上君に話しかけられてなかった?」
「あ、はい」
「初めて見たわぁ、誰かに話し掛けてる所見るの」
言われてみれば、接客以外で仕事中に口を開いた所を見たことがない。
初めて池上君に出会ったとき、話し掛けるなって言われたし、自分から声を掛けた事もなかった。 私とは全く縁がなさそうな慎と話してる所が、彼にとっては物珍しかったのかもしれない。
その日の帰り道、いつものように静かになった線路沿いを歩いた。少し前には、華奢だけど背の高い池上君が居る。最近ではこの光景が当たり前になってきていた。
いつもなら私達は、会話を一切交わす事無く一日を終える。
だけど、今日は違った―― 彼が突然、馴染みの沈黙の時を破ったから。
「自分、いくつなん?」
「えっと、28歳だけど」
池上君は歩くのをぴたっと止め振り返る。
いつも無表情の顔が少し驚いた表情を見せていた。私はそれに驚いてしまう。
「――ほんまなん?」
「そんなに驚かなくても」
「お、驚いてへんで」
池上君は誤魔化す様にして足早に歩き出した。
ものすごく驚いた顔してましたけど――。 そう言いたかったけど、再び黙って彼の後を歩く。だけど今日は珍しい事続きで更に質問を投げかけてきた。
「そういやあの花、どないしたん?」
あの花とは、コンビニで貰った花の事だろう。菊と
「ホテルの部屋に飾ってあるよ。ちゃんと花瓶に入れて」
何も答えない彼の背中を見つめ思わず考えてしまう。あの花は、誰にお供えする予定だったのだろうと。
池上君は何処か陰のかかった人。太陽の様に明るい人なら、眩しくて直視できないかもしれない。彼のその暗い陰を見ようと私は目を凝らしてしまう。
一体どんな陰を持っているのかって。
「笠井さん時々、手紙書いとるやろ。誰に書いとるん?あのホストか?」
「書くわけないよ」
慎なんかに書くわけがない。
文字が沢山並んだ物は読めないんじゃないかなとも思う。
「親?」
「池上君って、意外とよく喋るんだね」
思わず思っていたことを口に出してしまった。
すると、シーンと気まずい空気が流れてしまう。
池上君は足を止め、冷めた表情で振り返った。
「笠井さん、おかしな行動多いからやんか」
気付けば丁度ホテルの前。
いつも通り彼は挨拶もせずに帰って行った。
翌日、職場に着くと更衣室でスタッフの子が泣いていた。
その子を囲んで数人の女の子が慰めている。そんな状況で聞かざるおえなかった。
「どう、したんですか?」
坂口さんは私に目を移し、待ってましたと言わんばかりの顔で駆け寄って来る。
「笠井さん!ええ所に来たわ」
学生の頃こんな状況をよく目にする事があった。巻き込まれたくないし、気の利いた事も言えないのでいつも避ける様にしてた。だけど今は避けようがない。
「この子今日、池上君にフラれたんやて」
池上君に告白なんて、よくもそんな勇気のある事を!そう思って目を丸くしてしまう。 坂口さんは、今もなお泣き続けるその子の背中を摩っていた。
「だからやめときー言うたやろ」
「冷たくされても良かったん。せやけど、あの言い方はないでぇ」
瞼を泣き腫らすほど泣いている。そんなに泣いちゃって、よっぽど好きだったんだなぁというのが伝わってくる。だけど失礼かもしれないけど、結果は目に見えていたと思う。だってあの池上君だもん。黙ってそんな事を考えていると、キッと鋭い目で坂口さんが私を見た。
「笠井さん、この子告白したら、池上君に何て言われた思う?」
恐ろしくて知りたくもない――。 そんな思いも込め首を横に振った。
「そんな煩わしい感情を俺に持つなら、バイト辞めてくれへん?って言ったらしいんやわ」
あら――。
思わず苦渋の表情を作ってしまう。 何のフォローも出来ず立ち尽くしていると、坂口さんがとんでもない事を言い出した。
「笠井さん、何でこの子んことフッたんか聞いてくれへん?」
え、どうして私が!と、まさかの展開に慌てふためいてしまう。
「む、無理です」
「笠井さん親戚やん」
何故フッたかなんて聞けない。例えるならば、私が池上君に告白するというあり得もしない事並みに緊張する。 目一杯の言葉を並べて断ったけど、坂口さんは一切引くことはなかった。
「笠井さん以外、あいつと話し出来る奴おらへんやん。頼んだで!」
そう言って背中を叩いてきた。その行為だけで思わずよろけてしまう。
なんでこんな事に――。だからこういう事に巻き込まれるのは嫌なの。
なかった事に出来ないだろうかと、この件を避けていた。だけど毎日どうだったかと聞いてくる皆に促され、とうとう避ける事の出来ない所まできていた。
そして数日後の帰り道――。
いつもの静かな道で前を歩く無口な池上君。だけど自分の心臓が大きく音を立て、いつもの帰り道と違い騒がしく感じる。
深呼吸をしてから、やっとの事で口を開いた。
「あ、あのっ――。」
池上君から返答はない。
大きくため息を吐いて、肩を落とした。 駄目だ、やっぱり聞けない。とぼとぼ歩くスピードを落としていると、前から低い声が聞こえてきた。
「なんやねん」
驚いて思わず手で口を押さえる。
彼は私を見ていないのに、首をぶんぶん横に振った。
「気持悪いやっちゃな、はよ言えや」
この状況を脱するには、もう聞くしかないのかもしれない。
勇気を振り絞り、恐る恐る問い掛けた。
「どうして―― その、矢部さんの事、フッたの?」
すると池上君は勢い良く振り返った。表情は明らかに不愉快そう。
「はあ?」
聞くんじゃなかった―― 誰か助けて。
心臓が更にドキドキしてしまい、今にも泣いてしまいそうだった。
「アホちゃう?女はこれやから、くだらん生きもんや」
これ以上怒らせまいと、滅多にない早口で答える。
「すみません女は嫌いだからと言っておきます」
「好きとか嫌いとか、付き合うとか付き合わへんとか、興味ないねん」
池上君の怒りは治まらない様子。恐くて距離を取るものの、何故そんなに嫌がるのだろう?という疑問が生まれた。
「池上君って、彼女居ないの?」
「んなもんいらん言うとるやろ」
そこまで言い切るって凄いなと思った。男の子なのに。
池上君ほど近寄りがたい人はどうかと思うけど、慎なんかは池上君の爪の垢を煎じて飲んだらいいんだわ。 慎の事を考えてウンザリしていると、池上君は仕返しでもするかの様に冷たく言い放ってきた。
「笠井さんは付き合った事もないんとちゃう?」
思わずふて腐れた表情になってしまう。
「――付き合った事くらい、あります」
「妄想ちゃうん?」
完全に馬鹿にされてる。見た目がお子ちゃまだからだ、きっと。
なんだか悔しくて、証拠になるような細かい事を伝えようと思った。
「あるの。つまらないって言われてフラれちゃったけど」
すると彼は背を向け、ふっと鼻だけで笑った。
表情は見えなかったけど、明らかに小ばかにして笑ったのが伝わってくる。
そして池上君はこの日も、挨拶せずに帰っていった。
慣れてはいるけど、ここまで分かり易く年下の男の子に馬鹿にされた事はない。何とも言えない敗北感に、落胆しながら部屋に帰った。
そして今や癖となってしまった、花瓶の水を交換するという習慣。こんな密閉された部屋で可哀相に―― そう思いながら枯れてしまった花を摘み取った。
花瓶を再び部屋に置いて、流れ作業の様にパソコンを開く。梨香さんにパソコンのメールアドレスを教えてあるので、毎日返信がないかをチェックしていた。
だけど、今日も返信がなかった。あれからずっと音信不通状態。
梨香さん大丈夫かな?そう思いながら携帯電話を手に取ると、勇作君からメールが届いていた事に気付いた。
受信:田町 勇作
――――――――――――――
おっす!元気にやってるか?
今は何処に居るの?
大丈夫かー飯食えてんのかー?
――――――――――――――
久しぶりに秋田を思い出し温かい気持ちになった。 秋田に居た頃は毎日梨香さんと一緒に居て、時々勇作君を交えて話したりして楽しかった。
大阪(こっち)に来てからは、友達と呼べる仲が良い人は一人も居ない。
秋田に居た時はきっと、梨香さんのお陰で周りが賑やかだった。
今や唯一の話し相手は池上君だけ。いや、 話し相手とも言わないのかもしれない。
水を変えたばかりの花瓶を見つめ、池上君について考えた。
誰かに酷く傷つけられて、ああなってしまったのかもしれない。そもそも人の人生なんて分からない。だけど池上君の生きてきた道は、誰よりも見えない気がした。
人は時折、生き様を表す様にして生活を送っている。
梨香さんなんかは、まさにそんな感じだった。
だけど池上君は感情を殺し、言葉は少なく、人と目を合わす事すら滅多にない。
それはまるで、心に固く鍵を掛けている事を人に伝えている様に思えた。
誰も入ってくるなと、言わんばかりに。
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