花林 かりん

ミーシャ

第1話

七つの祝いのために、彼女は、昔ながらの着物を母親に着つけてもらい、姿見の前に立った。

 父親の指をしゃぶって、無垢な笑いを浮かべていた幼子が、いつから娘として、また女として自分を見るようになるのだろう。彼女の浮かべた笑みが、どのような意味をもったのか、私にはよくわからなかった。


私は、気が付いたときからひとりであった。当然、自分の娘を持つような機会に恵まれたことは無い。ただ「親たち」の言葉を、また涙をたくさん見てきたのはたしかである。


「真似ごと」を介して生きてきた、私というの生き方において、それは奇跡のような感情であり、喜びであった。誰もそんな私の生き方を咎めなかったし、私自身も満足していた。


だれかこの世において、一人でも幸福なものがいたとしよう。そうすれば、そのあとの人間は、そのたった一人の幸福を想像するだけでいい。私の「満足」は、そんな風な理屈から生まれていた。そうだ、だれも私の幸福を邪魔しさえしなければ、なんとういうこともない。しかし、今回ばかりはそうもいかないらしかった。


彼女が初めて私に気付いた時、何かがおかしいと思った。


私は例によって、人の目を避けるように歩いていた。人の住処をまた一軒、また一軒と、訪ねて歩いていたのだ。そこに人がいる場合もあれば、仕事などで出かけていることもある。子どもだけがいる場合もある。とくに昼ごろ、静かな家で、こどもだけが息をひそめるようにして、親の帰りをまっているところなどに行き会うと、私は思わず、その子どもの心を訪ねてしまう。


扉の前に立ち、気持ちを一点に集めると、たちまち、その近くの人間の心が私の中に入ってくる。そのとき私は、その家に残っているのが、一人の少女だと気付き、またその少女は、風邪を引いていることを知った。しかし、それも薬のおかげで治りかけており、彼女は居間で、ひとりソファに横になっているのである。布団もかけずに、彼女はうとうとと、まどろんでいた。私は気になり、彼女がもう少し身体を温めて寝ることを、勧めた。彼女には聞こえただろうか。


眠りかかっている精神には、語りかけやすいことを、私は知っていた。子どもはなおさらで、おそらく、自分で判断したものと思い、または、両親がそのようなことを言うと思って、行動に移る。彼女はおもむろにソファから起き上がると、キッチンへ、水を飲みに行った。


彼女が、腕を伸ばし、水をコップに汲むところで、私は彼女の幼いころを見たことに気付いた。それは彼女が生まれた日であり、三歳のころに転んで泣いた日であり、また、七歳の祝いの日の鏡越しにであった。


彼女を三度、私は見たことがあった。さきほど思い出していたのもまた、そういえば、彼女の顔なのであった。


彼女は水を飲み終えると、自分の部屋にはいかず、こちらのほう、つまり、玄関の方へ歩いてきた。私はふと、彼女の心から追い出されたことに気付いた。そのとき私はあわてて顔をかくし、扉に背を向けた。そのとき扉の向こうから、彼女の言葉が私に向けられた。


「ねぇ、ずっとそこにいるの?」


私は黙ったまま、耐えた。不用意に動けなかった。彼女は、つまさきだちをして、扉の穴からこちらを見ようとしていた。私にはその意図が感じられたが、それは彼女の視点からではなく、扉の外の、私のこの位置から感じ取れる音や、気配によってであった。

 

彼女はひとこと、そう言ったきり、何も言わなかった。ただ背伸びの甲斐あって、私の黒い笠を確認したようだった。その途端、彼女は安心したようであったし、ひどく動揺したようであった。

 

 彼女の心拍数が跳ね上がり、私はそれで驚いたが、彼女はその状態で、扉の前にはりつくように立っていた。ごく短い時間だったはずだが、ひどく長く感じられた。その長い時間の後、彼女はささやき声で、ようやく私に問いかけた。


「もしかして、おじいちゃんのところにいた人?」


ふと、温かな気持ちになった。それは彼女の問いの持つ「温度」であったし、その問いの中に、私は彼女の記憶に収まった、自分の黒い袈裟姿を見たのであった。


その姿は、いまと何一つ変わらない。茫洋とした佇まいに、笠のせいで、顔が見えない。幼い彼女の認識は、私を一個の「人」とみなしているようだったが、むしろそれは「何か」であろう。私は、その「何か」らしく、返事をしないまま立ち去ることにした。あいさつ代わりに鳴ったのは、錫杖の先であったが、それさえも私には余計なことのように思われた。


言うまでもなく私は、彼女に五回も会うようなことは避けたいと思った。だから私はしばらく自分の住処にもどり、じっとしていた。時はいつものように、早くは流れていかなかった。それは自分がひどく小さな存在のように、思われたせいだった。


その実、扉の向こうの少女は、私よりはるか大きな存在のように思えた。彼女の好奇心や恐怖、愛情、ためらいが、私の持ったことのないような揺れと幅を持って、まるで鐘のように鳴り響いていた。私のようなたあいもないものは、その鐘の音の中に、存在を消されてしまいそうだった。


私は彼女の目を思い出そうとした。その中には、いったい何が本当に映っていたのだろうか。これまで感じたことのない痛みを私は感じた。



私は珍しく眠りに就いた。眠っている間、私は自分が一匹の川魚であったときのことを思い出していた。



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