第069話 桜

春先の、草木の香りのする暖かい風に吹かれていると、故郷にある、幼いころに見た桜を思い出す。庭先の、私の誕生を祝って植えられた桜を。


日々の忙しさに忙殺されて、昔の事、たとえば住んでいた場所、仲の良かった友人、世話になった恩師、かけがえのない記憶、そういった事を思い出す事はめっきり減ってしまった。少しでも立ち止まる時間があればため息をついてしまうような、そんな日常が私の生活のすべてだ。毎日、自分の靴ばかり見つめて歩いていた。


両親の仕事の都合で、幼いころからよく引っ越しをした。そのたびに転校していたので、友人を作るのが苦手だった。仲良くなった友人もいたけれど、度重なる引っ越しでそうした友人と別れるのは辛かった。いつしか他人と距離を取るようになってしまった。人だけではない、口には出さなかったけれど、住んでいた家や通っていた学校と別れるのも辛かった。その中でも別離を本当に惜しんだのは桜だった。


その桜は私の誕生を祝って植えられたもので、私と両親が珍しく長い間(といってもそれでも一般的には非常に短い期間だけれど)住んでいた家で、私と共に育ってきた。小さな子供くらいの背丈だった桜。春になると、小振りの枝へ控えめに花を咲かせるのだった。


あるときふと思い起こして、桜のあったあの家を訪れた。今住んでいる所とはずいぶんと離れてしまっていたので、休日を利用してはるばると訪ねたのだった。あの家には今は別の家族が住み、子供の笑い声が聞こえてきた。桜は昨日の雨でその花びらの大部分を失っており、かわりに緑色の芽がいくらか見受けられた。私はいまも、春先になるとあの桜の事を思い出す。その枝は花が咲き誇り、私の心を満たし続ける。

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