第046話 標本

私は好奇心旺盛な子供だった。幼いころ、誕生日に昆虫採集キットを貰った。外で遊ぶのが好きで、私はよく近くの林で昆虫を捕まえたりしていたので、そうした子供の遊びへの、両親からの贈り物だった。ピンセットや虫眼鏡、昆虫針の他に、昆虫を標本にするための薬液と、それを注入するための注射器が入っていた。また、それとは別に、採取した昆虫を標本として保存しておくためのケースもいくらか貰ったのだった。今まではただ昆虫を捕獲し、虫カゴに入れてエサをやったり、捕まえたものを両親にしばらく自慢して逃がしてやる程度だったが、それ以降、気に入った個体は標本にし、コレクションとして集めてゆくという楽しみが私の遊びに加わったのだった。


捕まえた昆虫を初めて処理するのには、たいそう手間取ったものだった。私は例の贈り物を両親から受け取った日に、すぐ出かけてゆき、森の中を優雅に漂う一匹の蝶を見つけたのだった。私はすぐに近くの木に身を隠し、蝶を捕らえる隙をうかがった。蝶は私に気づいていない様子で、不規則に飛び回っていた。私は気づかれないように、足音も立てないよう、ゆっくりと後ろから蝶に忍び寄った。まだまだ。あと少し。もう少し。届く。虫取り網を握る私の手に力が入る。蝶が私の方を向く。逃がさない。振り上げる。振り下ろす。虫取り網を地面に押し付け、一瞬前まで蝶がいた場所のまわりを素早く見渡す。捉えたはず。逃がさないように気を付けながら、しゃがんで虫取り網の中を覗くと、捕らえられた蝶が激しく羽ばたいていた。私は傷つけないよう細心の注意を払って蝶を虫カゴに入れ、家へと駆けていった。


私は、蝶の正しい標本作成方法などその時は知らなかった。昆虫針で、もがく蝶を木板に打ち付けた。羽根を無理やり広げ、それぞれ刺し貫いた。妖しく輝く鱗粉が木片に散った。蝶は抵抗していたが、決して逃げることはできない。私は採集キットにあった注射器を手に取り、薬液を充填する。動かないように、蝶の体を指で抑えつける。注射針を刺した。膜を貫くような、なにかが破裂した軽い感触が注射器越しに伝わってきた。そのまま針を深く差し込み、薬液を注入する。蝶が一層激しく暴れる。やがて、抵抗が止まった。注射器を蝶の体から引き抜いた。穴からは、粘性のある蝶の体液が、少しだけ流れ出てきた。私は蝶の命が注射器を刺した穴から流れ出ているのを止めてやりたいと思う一方で、先ほどまで自由に空を舞う蝶が完全に私のものになったことに興奮を覚えていた。


あの蝶は標本ケースに飾られている。当時、私の技術が未熟だったのであまり保存状態が良いとは言えないが、それでもなお、美しい。

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