となりの妖孤さん

@k_ohta1999

妖孤さん起床

『絵にもかけない美しさ』。

 小さいころに聞かされた童謡の中でも使われたこの一節は、文章ながら『絵』と表現することによってどれほどの美しさなのか、子供の想像力をかきたてる手法といえよう。

 捻くれた見方をするのなら、文字で表現できないものなどない、そんな作家の傲慢さが見え隠れしている。しかし、僕は知っている。世界の名だたる文豪たちが頭を捻り、どんなに素晴らしい感性を用いても、玉藻耀子たまもようこを言い表す言葉はただひとつ、「美しい」の一言だけだ。

 玉藻耀子を一目見れば、夏目漱石も、アガサ・クリスティも、世界で二億部以上刷られた二都物語のチャールズ・ディケンズですら、平凡な言葉をならべることだろう。

 彼女はいったいどんな人なのか。

 燿子さんの隣人として幼少の頃からすごしてきた僕にとって、それは飽きるほど繰り返されてきた質問だ。あいにくと豊富な語彙もアマチュア作家の感性も持ち合わせていない僕は、次のことわざでお茶を濁すことにしている。

『百聞は一見にしかず』

 これを言うと、必ずその人たちは耀子さんを見に行こうとするのだが、そんな彼らに付け足す注意がある。

『言うは易く行なうは難し』だ。

 この世ならざる『絵にもかけない美しさ』 を見てしまった者はどうなるのか。

 僕らは知っているはずだ。

 亀に恩をきせて竜宮城へ辿り着いた釣り人は、享楽の限りを尽くし、呆れ果てた乙姫たちから追放された。捨て去った故郷へ帰った彼は海を睨みながら、手切れ金として渡された宝物で、老人となるまで海を眺めてすごすのだ。

 このお伽話を聞かされたとき、僕はそのような想いを抱いた。

 捻くれた子供だったのは認める。だけど、この主観は今でも変わることはない。釣り人は玉手箱を開けたから歳をとったのではない。自分が歳をとるのも忘れるほど乙姫の残滓を見つめ続け、長い年月を経て我に返ったとき、彼は老人へと変貌していたのだ。


 これから話す物語は、そんな『絵にもかけない美しさ』 を見てしまった人たちのお話しだ。


 日当たりの悪さを全面的に売り出しているアパート『無節荘』に、唯一燦々と日が差す時間帯、それが日の出だ。

 窓から差し込む太陽の光は、普段はジメジメしている部屋を神々しいまでに煌々と照らしだす。

 わずかに差し込む日の光は白壁に反射し、カメラのフラッシュが焚かれたように部屋を輝かせる。まぶたを瞑っていても、まるで意味がないほどに。おかげで、僕の起床は目覚まし時計いらずだ。

 幼少から住んでいる住処だが、未だにこの輝きに目が慣れることはない。

 神々しい時間は10分ほどで過ぎ去り、太陽が頂点を目指して昇っていけば元通りのジメジメした部屋へと舞い戻る。殺風景な部屋に癒やし効果として置いてある観葉植物は、貴重な日光を受け止めるのに必死なことだろう。

 季節によって日の出の時間が変わるように、僕の起床時間もその日によって変わる様は鶏と同じかもしれない。

「四時半か」

 未だにストップボタンすら押したことのない目覚まし時計をオフにして寝床を這い出た。

 明るく照らされた室内を見渡せば、畳敷きの八畳間に天井からぶら下がる裸電球と、昭和レトロの部屋が目に飛び込む。平成の世になってから数十年と経ったいま、このレトロ感も悪くないのだが、随所にオーナーのセンスによる異物がそれらを台無しにしていた。なんでパルテノン神殿も斯くやといわんばりの石柱ふう木造柱で四方を囲んだのか。横柱に掘られたギリシャ人的彫刻のセンスもよくわからない。

 他にも取り上げたいものは多々あるが、見たくもない現実は割愛しておく。

 部屋一つとってもわかるように、『無節荘』とはよく名付けたもので、和洋折衷を好んだオーナーが建てたアパートは、『無節操』さを全面的に押し出した物件として、ここら一帯では有名だった。もっともこのアパートを有名にしているのは、オーナーの趣味だけではないのだが。

 ステキな木造二階建ての無節荘は、一階二室、二階に僕が住んでいる部屋を含めて三室の合計五部屋を構えている。トイレ、水場、風呂は共同、一階には調理場兼食堂もある。アパートというよりも寮と言った方が近いかもしれない。

 古い木製の引き戸を開けて、目の前にある共同水場に一歩踏み出すと、初春を迎えたばかりの肌寒さが服の隙間から這い寄ってきた。

 両手に受け止めた冷たい水道水に身をすくめながら、洗顔して眠気を吹き飛ばすと、一階へつづく階段へ足を運んだ。

 築年数も自慢して良い無節荘の廊下は、二条城の鶯張り廊下に負けず劣らず音が鳴る。もっとも、あちらはキュキュと鶯の鳴く音で、こちらはギギィと軋む音だ。きっと、はだしで歩いている誰かが床下で歯を食いしばっているのだろう。

 自然と忍び足になりながら階段を下り、一階の食堂を抜けて調理場の電気を付けるとタイル張りの部屋が、ベルサイユ宮殿に飾られてもおかしくない豪華なシャンデリアの光によって照らしだされた。なんで和風調理場にシャンデリアなんだと、突っ込む気力すらない。

 一段低く作られた調理場の床に木下駄が並び、それを足にひっかけ、カランコロンと音をたてながら業務用冷蔵庫の扉を開け放つ。冷蔵庫の中にあるものは、その大きさに見合わないほどこじんまりと置かれた食材たちだ。

 卵に長ネギ、あじの干物、そして一番大事な食材である『油揚げ』を取り出し、今日も日課である朝食を作り始めた。


 電子ジャーからお米が炊きあがる電子音が調理場に鳴り響く。他のおかずも作り終えた僕は、エプロンを外して二階へと上がった。

 日当たりの悪い無節荘は、日が昇ったあとも薄暗く、足下を確認しながら廊下を進まねばならない。

ちなみに無節荘ては、十八時から夜中の二時までしか電灯が灯らない非常に省エネなアパートだ。

 自分の部屋を行きすぎ、一番奥にあたる部屋の前まで来ると、無駄だとわかりつつも扉をノックした。

 コンコンと木を叩く音がしてから数秒、中からは何も動く気配はない。

 再度コンコンとノック。……返事がない、どうやらただの空き室のようだ。な、わけもなく、確実に中にいるのはわかっているが、どうしても毎朝この扉を開けるのは気が重くなる。

「耀子さん。朝だよ。起きてよ」

 普段絶対に出すことのない大きめの声を張り上げた。一応アパートなのでご近所のことを考えれば廊下で大声を出す事ははばかられる行為なのだが、ここ無節荘では気にする事はない。ここに住んでいるのは僕と隣人の耀子さんだけなのだから。

「耀子さん、朝食が冷めちゃうよ。起きてよ」

 部屋からは人の気配もなく、扉も開きそうにはなかった。

 取っ手に手をかけて引き戸をスライドすると、鍵という存在はなく、木製の扉はあっさりと開いた。

 目の前には簡素な八畳間が広がり、部屋の中央に敷かれた布団が薄暗いなか輝きを放っていた。

 綺麗に敷かれた薄めの布団には、玉藻耀子が寝息も静かにくるまっている。

 布団に入ってから一度も寝返りをうっていないのではと疑いたくなるほど、身をまっすぐ横たえ、ただ眠る美少女。

 それだけだ。それだけなのに、玉藻耀子の存在は光輝き、例え身に纏う服が汚れのない白無垢であろうとも、彼女の肌に比べればくすんで見えるのだとか。どこかの文学青年が、僕に語って聞かせてくれた耀子さんの一節より抜粋してみた。

 もしその青年がこの場にいたら、彼はいつまでもこの場に立ち尽くし、ヴィナース誕生の場面を連想させる詩でも語っているかも知れない。もっとも、僕にとってはどんな文学的、詩学的に優れた言葉であろうと、朝食の時間になっても起きてこない、ぐうたらな隣人の姿でしかない。

「耀子さん。朝だよ。起きてよ」

 布団の傍まで近寄り、肩あたりの場所を揺する。

 微動だにしない耀子さん。

 もう一度揺する。動かない。

 さて今日はどうするか。腕組みをしてよく観察すると、布団が胸のあたりで奇妙な盛り上がりを見せており、不自然なラインを描いていた。

 けっして耀子さんの胸が大きいとかそういったわけではない。絶対ない。だって耀子さんの胸は…。いけない方向に思考が傾くのを止めて、思い切って布団を捲ってみた。

 僕の目に飛び込んできたのは、パジャマの上から胸に突き刺さったナイフと血だ。

 可愛いらしいクマの絵がいくつもプリントされたパジャマの上から根元まで食い込んだナイフ。そこから血がにじみ出て胸は真っ赤に染まっていた。

「よ、耀子さん!」

 僕はナイフのハンドル部分を掴むと一気に引き抜くように持ち上げた。何かを剥がすような音がするとともに「痛っ」という非常に耳障りの良い声音が耳朶に届いた。この声を聴くためなら全てを捧げるといった歌手もいたっけ。

 持ち上げたナイフは身体に安定して接着するように薄いプラ板がついていたのか、パジャマも一緒についてきていた。

「耀子さん。ついに禁断の域までやってくれやがったな。パジャマに穴あけてまで小細工するとは」

すると、待ち構えていたかのように耀子さんが僕の腕を力強く掴んだ。

「ふふ。びっくりした?」

 そう尋ねる声は、すべてを忘れさせて海へと引きずり込む甘美で本能に全てを任せてしまいたくなる声だった。毎朝この声を聴かされる身にもなってほしい。

「びっくりしたよ。死んでるかと思った」

「嘘おっしゃい。顔は全然驚いていないわ」

「これでも驚いているんだよ。表情が乏しいだけで」

「せっかくアキを楽しませようと毎朝工夫しているのに。つまらない男ね」

「いやいや普通に起きてくれるだけで僕は幸せな気持ちになれるから。頼むから素直に起きてよ。僕の思考回路は、びっくりする前にこの穴の空いたパジャマをどうしようかな、だよ」

「主婦感覚が身についてるわよ。私の寝顔を見たいという人間はいっぱいいるのよ。それを見せてあげるだけでも良い一日を迎えられるでしょ」

「自分でいってたら世話ないよ。耀子さんの好きなお揚げ入りの味噌汁を作ったよ。冷める前に早く起きて」

 いつか知恵袋に隣人を起こしに行くと必ず死んだふりをしていますと書き込みをしてやると心に誓った。


「どんどんふぁんふぁーんどんふぁんふぁーん、どんどんふぁんふぁーんどんふぁんふぁーん、どどんがどんどん……」

「耀子さん、耀子さん!」

「何よ。人が気持ちよくドンファンファンのテーマを口ずさんでいるときに」

「ドンファンファンのテーマって、今の人は某伯爵のテーマソングなんて知らないよ」

「この前Huluでみつけたの。山本正之の声があれほど合うキャラクターはいないわ。さらに言えば主題歌もいいのよ。やっとでた〜やっとでた〜」

「待ちに待ってないから! 耀子さんが歌うと、それを住民が押し上げて県歌になりかねないんだから」

「いいじゃない。ヤットデタマン・ブギウギ音頭が県歌なんてステキすぎるわ。私なら間違いなく引っ越してくるわね」

「そう思っているのは耀子さんだけだよ」

「つまらない男ね」

 朝の身支度を済ませ、八畳ほどの広い玄関で靴を履いてる最中のやり取りがこれだ。

 引き戸を開けて出た両脇には、石のお稲荷様が玄関を護るように建っている。

「いってきます」

 僕と耀子さんは毎朝の日課で、お稲荷様に挨拶をすると玄関からまっすぐ延びた石畳みの通路を歩み始めた。

 通路の両側には石灯籠が建ち並び、しばらく歩くと高さ十メートルはある朱色の鳥居が鎮座していた。

 大鳥居を潜ると、石階段がゆるやかに降り、小さな鳥居が幾重にも折り重なった朱色の通路を作り上げていた。

 伏見稲荷大社の千本鳥居とまではいかないが、僕はこの景観が大好きだった。

 しかし、いくら無節荘でも鳥居はない。そう思って、ここに来たときにオーナーに話しを聞いてみると、無節荘は数百年の歴史を誇る神社だったのだと話してくれた。それが戦後の混乱時にお社は焼失し、神主も行方不明になったため、相続人であったオーナーがこれ幸いと好き勝手にやったらしい。そんなことをすればお役所や地元民も騒ぎたてるのが普通なのだが、ここのオーナーがとにかく妖しい人でそのようなこともなく今に至っているとか。


 燿子さんはこの鳥居の階段が殊の外お気に入りで、下につくまでは鼻歌をうたっていることが多い。最後の石段を降りる時は決まって両足を揃えてピョンと小さなジャンプをする。

「あ〜あ、またつまらない一日がはじまるわ」

「そのつまらない一日に付き合わされる身にもなってもらいたいよ」

 ぽろりと出た呟きは、彼女の耳に入るや否や白い煌めきが僕の頬をつまみ上げた。

「生意気いう口はこれか」

「ごめんなふぁい」

 細く脆く見える雪の結晶は人差し指と親指になり、僕の頬をほどよく痣にならない程度に捻り上げた。

「アキはね、私が退屈だと言ったら面白いことを探しに東奔西走するの。私の言うことに逆らってはいけないの。これは天が定めた理なの」

 滅茶苦茶だ。どんな傲慢さだ。

 悲しい上下関係が言葉の端々にあるが、ここで反論をしてはいけない。

 そのようなことをすれば、倍になって暴論がふってくるからだ。

 黙っていてもいけない。

 そのようなことをすれば、さらに火の粉が降りかかるからだ。

 ほどよく相づちをうちながら機嫌を持ち上げ、気を逸らす。それが弟分の役目なのだ。

 耀子さんは不承不承と指を離してくれた。

 彼女は気持ちを切り替えると、おもむろに鞄から木製のお面を取り出し、まるで古からの儀式のようにそれを被った。白地に朱色で描かれた口先は横長に伸び上がり、黒色の鼻と細い髭を施したそれは狐を象っていた。

 狐面を被った耀子さんは、右手を折り曲げてコンと鳴いた。

 これほど妖しい狐面をつけた美少女はいないだろう。

 お面をつけてすら美しい?

 彼女は美しいのだ。例え泥にまみれても、狐面に顔を隠されても、いやまったくの光が差さない暗闇の中ですら、きっと耀子さんは美しいのだろう。

 このまま目が離せなくなるまえに、顔を背けて石段のすぐ側に設置されている郵便受けを覗き込む。勧誘チラシが雑多に詰めこまれた中に白い封筒が一通紛れ込んでいた。

 表には『玉藻耀子様と下僕へ』と書かれている。

下僕とはいったい誰のことなのかさっぱり思い当たらない。

 消印も切手もないことから直接投函されたものなのか。差出人を確認するため裏面をみて、僕は息をのんだ。

「どうしたのアキ」

「耀子さんに手紙」

「誰から?」

「鳥羽教授」

 言葉数の少なさは忌避感の表れか。僕はその名を口にするのも嫌だった。

狐面に遮られて耀子さんの表情はわからなかったが、きっと彼女も僕と同じ思いのはずだ。

 鳥羽宗人。

 僕ら二人にとっては忌まわしい記憶しか残さない人物からの手紙だった。

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