第57話 剣聖


 《剣聖》ヴァンガード・トゥアレグ。

 それは武人としての最高峰。

 強さを求める者ならば、誰もが目指す最強という名のいただき

 既に六十を過ぎた高齢ながら、これまで一敗もなく常勝無敗を誇る生きた伝説。

 戦場においては、その存在が加わっただけでそれまで敗戦一色だった陣営が、一気に逆転して勝利したことさえあるという。

 また、剣聖はせいじんではあるが、せいべつしゃではなく代行者である。

 強くなりたい。

 そんな単純な思いを遂げるため、小柄な女性であるという不利な条件を覆すため、幼い頃から努力に努力を重ねて剣の研鑚に明け暮れた。

 なぜ、彼女が強さを求めたのか。それについては剣聖自身は決して口にしない。

 だが、恋や結婚という女性らしい幸せさえ振り捨てて、ただひたすら強さを求めて剣のみを振るい──その姿に心を動かされた剣神であるせきしんが、彼の者に「神の息吹」を授けたのだと言われている。

 その剣の一振りは、流れる川の水さえ切り裂くとまで言われるほど。

 その剣聖ヴァンガード・トゥアレグの振るった大剣グレートソードが、颶風を纏いながらカミィの白くて細い首へと迫る。

 ヴァンガードのまさに神速の斬撃に、その場に居合わせた誰もが──レグナムやクラルー、そしてカミィ本人を含めて──動くことさえできなかった。




 しん、と水を打ったように静まり返る中庭の東屋。

 その場の全員の視線が一か所に集まっている。

 すなわち、カミィの首に触れるか触れないかという瀬戸際で止められた、大剣の刃へと。

「…………どうして、動かねぇ?」

 真紅の瞳をすぅと細め、ヴァンガードは大剣を突きつけているカミィに問う。

「今、おめぇは動けなかったんじゃねぇな? おめぇはあえて動かなかったんだ。どうして動かねぇ? まさか、レグナムの女だからって儂がおめぇを斬らないとでも思ったか? 生憎だが、儂は自分が気に入らねぇ奴ぁ誰でも容赦なく叩っ斬るぞ? それこそ、相手が国王だろうが何だろうがなっ!!」

 国王でさえ斬ると宣言されて、ウィンダムがぶるりとその身体を震わせた。

 だが、実際に刃を首筋に押し当てられたカミィは、怯えるでもなく怒るでもなく、ふわりと柔らかく微笑むとその問いに答える。

「貴様はレグナムの師匠なのだ。だからなのだ」

「なんだとぉっ!?」

 ヴァンガードの白く染まった眉が、ぴくりと不機嫌そうに釣り上がる。

「貴様のことは、旅の間に何度もレグナムから聞かされたのだ。だから、我輩はレグナムがいかに貴様を信頼し、敬愛しているのかを知っている。そのレグナムの師匠である貴様が……レグナムにあれだけ信頼されている貴様が、無闇な殺生をするはずがないではないか。もしも貴様が本当に命というものを軽んじるような輩ならばレグナムが……あの優しいレグナムが心の底から信頼するはずがないのだ」

 不機嫌そうだったヴァンガードの表情が、呆気に取られたものへと変化した。そしてその変化は更に続き、剣聖の顔には明らかな笑みが浮かんだ。

「く……くっくっ……くくくくくく……ってぇことは何か? おめぇが信じていたのは儂じゃなく、あくまで儂のボンクラ弟子だってことか? 儂の剣を避けなかったのも、儂じゃなくてあのボンクラを信じていたからってか?」

「そうなのだ」

 きっぱりと宣言するカミィに、ヴァンガードの笑みは更に深くなる。

「おもしれぇっ!!」

 ぱちん、という音と共に素早く大剣を鞘へと収めた剣聖は、笑みで崩れた顔を愛弟子へと向けた。

「おい、ボンクラ! おめぇに嫁だ子作りだなんて浮かれた話は十年早えっ!! だがなぁ、それでもいつかはおめぇも家庭を築かなきゃならねぇ時も来るだろう。そン時、おめぇの嫁になるのはこの娘だ! この娘以外はこの儂が認めねぇっ!! この娘が本当に神なのかなンてぇのは関係ねぇっ!! 儂はこの娘が気に入ったっ!!」

「よっしゃああああああああああああっ!!」

 剣聖がカミィを認めた瞬間、諸手を挙げて喝采を上げたのは、他ならぬ国王だった。




 差し出された焼き菓子を、カミィはむんずと鷲掴みにするとそれをばくばくと美味しそうに食べた。

「うむ、美味いのだ」

「そうですか? それは良かったです。その焼き菓子、わたくしが焼きましたのよ、カミィお様」

「あら、カミィさん。次は私が作ったお菓子も食べてくださらないかしら?」

 ラブラドライト王国第一王女、ステラ・ラグレイト・ラブラドライト。

 ラブラドライト王国王妃、シエンタ・ラグレイト・ラブラドライト。

 このラブラドライト王国を代表する二人の淑女が代わる代わる差し出すお菓子を、カミィは満面の笑みを浮かべてばくばくと食べていく。

「さすがはレグナムの家族、料理が上手いのだ。旅の間中、レグナムの作る料理は我輩の最大の楽しみの一つだったのだ」

 そんなカミィの背後では、クラルーが物欲しそうに指を咥えてカミィが食べているお菓子をじーっと見つめていた。

 カミィはクラルーの様子に気づき、振り返って尋ねる。

「……貴様も欲しいか?」

「はい、ご主人様! わたくしもお零れに与りたく思います!」

「仕方ない奴のだ。ステラとやら。貴様の作った菓子を、我輩の配下にくれてやってもいいか?」

「ええ、構いませんわ、お義姉様。お義姉様は見た目がお美しいだけではなく、心も優しくてお広いのですね。さすがはレグナムお兄様が選ばれた方だけありますわ」

「本当、こんな可愛らしいお嫁さんを見つけてくるなんて……あの子を修行の旅に出した甲斐があったってものだわ」

 カミィの食べ方は決して上品なものではない。それでもシエンタとステラは、気を悪くする素振りも見せずに嬉しそうにカミィを見つめている。

 カミィたちがそんなやり取りをしている一方で、レグナムは初対面となる義姉と挨拶を交わしていた。

「お初にお目にかかります、レグナム殿下。インプレッサ王太子殿下の妻となりました、アルテッツァと申します。以後、よしなに」

 上品に腰を折る義理の姉に、レグナムは照れたような笑みを浮かべた。

「殿下はよしてくれ。オレはあんたの義弟なんだからさ。オレもあんたのことは義姉さんと呼ぶから、義姉さんもオレのことはレグナムでいい」

「承知しました。ふふふ、やはりレグナムもこの国の王族の一人なのね。この国の王族の方々は皆さん砕けた人柄の方ばかりで、輿入れした当初はそれは驚いたものよ?」

「無理もないさ。なんせ国王である親父があれだからな」

 そう言ってレグナムが指差した先では、国王であるウィンダムが、インプレッサとヴァンガード相手に新たに家族が増えた喜びを大々的に語っていた。

「いや、めでたい。うむ、めでたい。いやはや、めでたい! こうして家族が増えたことを、儂は心の底から嬉しく思うぞ! しかも、増えた家族が他に見ないほどの器量良しであり、しかも神であるなど! いやいや、別にレグナムが選んだ女性ならば、どんな女性でも家族として愛する自信が儂にはある! なんせ儂は《愛の戦士》だからなっ!!」

 がははははと大笑いするウィンダム。そんな父親に苦笑しながら、インプレッサはヴァンガードへと視線を向けた。

「しかし、老師があそこであっさりと翻意するとは思いませんでした。それほどまでに、あのカミィという少女を気に入られたのですか?」

「ああ、気に入ったね。特に、儂が剣を突きつけてもあっさりと微笑むあの度胸がいい。あの時、儂は気の弱ぇ奴ならその場でションベン漏らすぐれぇの殺気を剣に込めたンだぜ? それをあの娘は怯えたり警戒したりせず、ただ笑って受け流しやがった。そんなこたぁ、おいそれとできることじゃねぇのさ」

 くくくと喉の奥で笑いながら、ヴァンガードは手酌で酒を杯に注ぎ足し、一気に飲み干した。

 国王と王太子にはこれから政務が控えている。さすがにその二人が、この場で酒を飲むわけにはいかない。

 それが分かっているからこそ、ヴァンガードは一人楽しそうに手酌で酒を飲んでいた。

「そうですか。我が弟の方はこれで片づいたと思って問題ありませんね。となると、残る問題は一つです」

「ああ。オルティアからの例の客人かい? あと数日でこの王都に到着すンだろ? どうするつもりだい?」

 オルティア王国からの客人。それはレグナムと結婚するはずであったオルティアの第三王女、シルビア姫の一行である。

 だが、ラブラドライト側──レグナムにはシルビア王女と結婚する意志はない。それどころか、カミィという別の伴侶──少なくとも、レグナム以外の王族たちはそう思っている──が既にいるのだ。

 当然、今回の婚姻話は流れるだろう。問題はどうやって穏便に婚姻を断るか、だ。

 「ラブラドライトの第二王子には、既に他に伴侶となる女性がいるので今回の話はなかったことに」では、向こうが納得しないだろう。

「まあ、あちらもこちらも酒に酔った上での話でしたからね。断ったとしてもそれほど大きな問題にはならないでしょう」

「ふん。おめぇがそう言うんだ。何か企みがあンだろ?」

「はい」

 あっさりと認めて、インプレッサはにこやかに微笑む。その微笑みをヴァンガードは、薄気味悪いものを見るような目で見つめた。




 その後、数年ぶりに全員揃った家族の団欒はお開きとなり、国王であるウィンダムや王太子であるインプレッサはそれぞれの政務へと向かう。

 その際、レグナムはインプレッサから一緒に彼の執務室へ来るように告げられた。

 カミィとクラルーの相手は母親と義姉、そして妹に任せて、レグナムは兄と一緒に執務室へと向かう。

 だが、中庭を後にする時、レグナムは師匠であるヴァンガードに引き止められてしまった。

「ちょいと待ちな。おめぇが旅の間にどれぐれぇ腕を上げたか、ちょっくら確かめてやらぁ。それ位の時間はいいだろ、インプレッサ?」

「ええ、老師のお好きなように。では、レグナム。手合わせが終わったら私の執務室まで来てくれ」

「了解だ」

 レグナムはヴァンガードと共に、中庭から王城から少し離れた離宮の一つへと向かう。

 その離宮はヴァンガードの住み処として提供されている場所であり、その庭こそが幼い頃からレグナムたちの修行の場だった。

 昔と何も変わらない離宮の庭に入り、レグナムはヴァンガードと対峙する。

 言葉を交わすこともなく、二人はそれぞれの得物を抜いた。

 ヴァンガードは背負った大剣を。レグナムは、腰の長剣ロングソード小剣ショートソードを。

「ん? おめぇ、その小剣……」

「ああ、この聖剣だった小剣か? こいつは聖剣としての力を失い、今では単なる業物の小剣に過ぎないさ」

 かつて、せいしんの「神の息吹」を宿した聖剣であった小剣。それはヴァンガードからレグナムが受け継いだものだ。当然、ヴァンガードは小剣が聖剣であることを知っている。

「そうか……抜けたのか、その小剣」

「ああ。カミィの助力のお陰だがな」

 それ以上は互いに言葉を交わすこともなく、二人はじりじりとすり足で間合いを少しずつ詰めていく。

 そして。

 彼我の距離がそれぞれの間合いに入った時。

 二人は弾かれるように同時に飛び出し、互いに本気で得物をぶつけていった。


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