第48話 虚像の世界



 唸りを上げて迫る拳。

 それを内から外へと軌道を逸らすように弾き、その後で一旦距離を取るために大きく後退。

 その時、ちらりとその光景が彼女の目に入った。

 彼女から少し離れた所。

 そこで、彼女の信徒にして相棒である青年が、敵を前にして棒立ちで立っているのだ。

 明らかに様子がおかしい。

 彼女の美しい形を描く眉が、不快そうにきゅっとしかめられる。

 思わず相棒の方へと駆け寄ろうとした彼女を、再び豪拳が空気を押しのけて迫り来る。

 舌打ちを一つ零し、彼女は迫る拳を再び迎撃する。

 顔面を抉らんと捻り込まれる拳。それを小さな掌が押し止める。しかし、その勢いを殺しきることは適わず、彼女の小柄な身体は後退を余儀なくされた。

「……スギライトめ。無駄な加護を与えおって……」

 彼女はそう吐き捨てると、改めて目の前に立つ巨漢を見やる。

 狂気を司るスギライト神から与えられた加護により、心が割れたその片方。その際に肉体にも恩恵が作用したのか、巨漢の戦闘力は彼女を以てしても圧倒できるものではなかった。

 少なくとも、今の彼女では。

「…………仕方ないのだ」

 再び呟いた彼女は、その内に息づいている小さな小さな力へとそっと意識の手を伸ばした。

 いつも傍にいる、彼女の信徒にして最大の相棒。その相棒が彼女へと捧げた信仰という名の力。

 その力は極めて小さい。かつての彼女が宿していた力に比べれば、塵芥ほどでしかない。

 それでも。

 それでも、その小さな力は彼女にとってかけ替えのないものだった。

 相棒から捧げられた小さな力。それは力であると同時に想いでもある。

 それを使ってしまうのは、なぜか彼女にも躊躇われた。だから彼女は、身体の内側に芽生えているその小さな力をこれまで使おうとはしなかった。また、使う必要もなかった。

 だが、今は違う。

 少しでも早く目の前の巨漢を倒し、異常に陥っている相棒を救う。

 そのために、彼女は蓄えていた力を使用することを決意した。

 彼から捧げられたおもいを惜しんで、彼自身を失ってしまっては本末転倒もいいところだ。

「しばし待て。すぐに加勢するのだ」

 僅かに力を解放した彼女は、たび迫る豪腕を迎え撃つするべく、その小さな拳を突き出した。




 誰かに名前を呼ばれた気がして、レグナムは意識を眠りの底からゆっくりと浮上させた。

 それに合わせて目を開けば、すぐ近くによく見知った顔。

 高く澄んだ青空を背景に、その顔が楽しそうに笑いながら自分を覗き込んでいた。

「カミィ……?」

 レグナムがそう呟くと、彼女の笑みは更に深くなった。

「こんな所で寝ていると風邪を引くのだ」

 彼女にそう言われて、レグナムはゆっくりと辺りを見回した。

 今、自分がいるのは小高い丘の上。

 眼下には広大な草原と緑豊かな森が拡がっており、草原のあちこちには牛がゆっくりと草を食んでいるのが見える。

 森と草原の境には、ちょっとした規模の集落。そう。自分と彼女がこれまで生まれ育ってきた村だ。

 改めて、レグナムはカミィを見る。

 いつものように、ごく普通の村娘の姿。その姿にどこか違和感を感じるも、すぐに単なる勘違いだと頭の中から追い払う。

 彼と彼女は、これまで一緒に育ってきた。

 孤児だった彼女を、彼の父親が拾ってきたのはもうどれくらい前だろう。思い出せないぐらい長い時間を、彼は彼女と共に生きてきた。

 成長して自立した彼は、今では村一番と評判の猟師であり、近くこの少女を妻として迎えることが決まっている。

 村人全員が、彼と彼女の婚姻を祝福してくれた。

 その影で何人もの村の若い男たちが、秘かに想いを寄せていた彼女が彼のものになったことで涙したが、それでも二人の前途を祝ってくれた。

「帰ろう?」

 そう言って差し出された彼女の手。その手を取り、レグナムが歩き出そうとした時。

 不意に彼女の身体がふわりと彼の腕の中に飛び込んで来た。

 いつもの調子で、その身体を思わず抱き締めるレグナム。腕の中から見上げる彼女の鋼色の瞳がにっこりと微笑んだ。

──鋼色?

 そのことに再び違和感を覚えた時、喉にざくりと熱い何かが突き刺さった。

 次いで、辺り一面に赤いモノが撒き散らされる。

「──────え?」

 彼の喉から溢れ出した血に濡れながらも、腕の中の少女は微笑んだまま。

 そう。彼女は微笑みを浮かべながら、彼の喉に隠し持っていた短剣を突き立てていた。

「──────?」

 声にならない声。本来声となって口から出るはずだったそれは、ひゅーひゅーという音を立てて喉から血と一緒に零れ出ていった。

「やれやれ。呆気ないものですねぇ。こんなにも容易くひっかかるとは」

 腕の中で、少女が醜悪な笑みを浮かべて彼を見ていた。

「ああ、ご安心を。ここは私が我が神より授かった『神の息吹』で作り出した虚像の世界──つまり、幻です。幻の中でいくら身体を傷つけようが、本体には何ら影響はありません。つまり、喉に短剣を突き立てても、あなたの身体は死んだりはしないのです。ですが────」

 するりと腕の中から抜け出した彼女──いや、彼女の姿をした何かは、わざとらしく慇懃な仕草で一礼した。

「────心の方はその限りではありませんがね?」

 嫌らしい粘つくような笑みを浮かべながら、彼女の姿をした何かが告げた言葉。その言葉をレグナムは意識が遠のく中でぼんやりと聞いていた。




 ぱしん、と頬に強い衝撃を感じてレグナムは覚醒した。

 目の前には、彼がよく知っている黒髪で小柄な少女。

 その少女がどこか怒ったような表情を浮かべながら、その華奢な手を振り上げていた。

「目が覚めたか?」

「カミィ……? ここは……?」

 床に寝ていたレグナムは、慌てて上体を起こす。そして周囲を見回して、ここがスギライト神の狂信者たちの地下の拠点であることに気づく。

「オレは一体……そうか……」

 そこでレグナムはようやく思い出した。

 イプサムの「神の息吹」に飲み込まれ、嫌な幻を見せられていたことを。

 レグナムは改めてカミィを見つつ、気になったことを尋ねてみた。

「連中はどうした?」

「……逃げられたのだ」

 どうやら、イプサムの術中に陥り倒れた彼をカミィが助けている間に、教祖とイプサム、そして狂信者たちはこの場を逃げ出したらしい。

「済まん。オレが迂闊だった」

 カミィに素直に謝罪するレグナム。だが、当のカミィは相当ご立腹のようで、腕を組むとそのままぷいっと背中を見せた。

「全く情けないのだ。あの程度の術にいとも簡単に嵌められるとは」

 背中越しの彼女の言葉。その通りなので返す言葉もないレグナムは、立ち上がって困ったように頭を掻いた。

「だが、こうなってしまったのは仕方ないのだ。また連中を探しだし、今度こそぎゅうぎゅうと締め上げてやるのだ」

 細い両腕を振り回しながら息巻くカミィに、レグナムは訝しそうな視線を向けるとおもむろに切り出した。

「なあ、カミィ。俺たちが出会ったのってどこだっけか?」

「ん? 我輩と貴様が出会ったのは、フーガの迷い森の近くの街道なのだ。なぜ今更、そんなことを聞くのだ?」

「あ、ああ、いや、何でもないんだ」

 レグナムとカミィしか知らない事実。それを知っている彼女は本物のようだ、とレグナムはこっそりと安堵した。

「折角突き止めた拠点だが、連中もさすがにもうここには戻らないだろう。また一から捜査のし直しだな」

 もしかすると、狂信者たちはこの街を出る可能性もある。まずはブレイザーに連絡をとり、街の出入り口を封鎖してもらうか。

 そう考えながら、地下から地上へと続く階段へと向かうレグナム。

 カミィは既に階段を登り始めており、階段の途中でレグナムが追いつくのを待っていた。

「そういや、クラルーはどうした?」

 カミィに追いついたレグナムは、ふと思いついたことを彼女に尋ねてみた。

「ん? あやつか? あやつなら……ほら」

「………………………………っ!!」

 カミィが指差した方へと目を向け、レグナム思わず息を飲む。

 階段の影になった薄暗い床の上で、蒼い髪の女性が両手両足を無残に切断され、身体中の至るところから血を流して横たわっていた。

 どう見ても、彼女がもう息絶えているのは明らかだ。

「く、クラルーっ!?」

 慌てて階段を駆け降りようとするレグナム。その身体が急にふわりと宙に浮く。

 突然空中へと投げ出されたレグナムは、なんとか首だけ捻ってそれを見る。

 背中を押した姿勢のまま、じっと自分を見つめるカミィを。

 今、彼女はどこかで見たことのある、粘ついた笑みを浮かべていた。

「はぁ。また簡単に引っかかって……もしかして、あなたは馬鹿ですか?」

 階段の途中。どこからともなく石弓クロスボゥを取り出しながらカミィ──いや、カミィの姿をしたものが、嘆息混じりにそう告げた。

 そして、階段から落ちたレグナムへと、石弓に装填されていた太矢クォラルを無造作に撃ち放った。

 背中から床に落下するレグナム。それに追い打ちをかけるように、放たれた太矢が彼の心臓を正確に貫いた。

「な……」

 なぜだ? 自分と彼女しか知らないことを知っていたのに。

 既に声は出せない。それでもその疑問が意識を閉じつつある彼の脳裏に何度も反芻する。

「ああ、あなたが今見ている幻は、あなたの記憶や経験を元に構成しています。ですから、実際に私が知らないことでも表現されるのですよ。例えば……あなたが先程も見たような田舎町の風景とかも、ね。もちろん、私が完全に脚色した幻を見せることもできますがね……って、おや? もしかして、もう聞こえていませんか? それは残念」

 くくくく、と。

 カミィの姿をしたそれは、床に横たわったレグナムの身体を見下ろしながら喉の奥で笑った。




「うわあああああっ!!」

 自分が上げた悲鳴に驚き、意識が一瞬で目覚める。

 被っていた毛布を蹴散らすように飛び起きたレグナムは、慌てて周囲を見回す。そして、今いる場所が『月光の誘い亭』の彼らの部屋であると知って盛大な安堵の息を吐き出した。

「ん?」

 自分が寝ていた寝台に他に誰かいる気配がして、レグナムは半ば確信しつつも隣を見てみる。

 やはり、そこに彼女はいた。

 いつものように全裸で、いつものように彼の寝台に潜り込んで来たらしい。

 だが、いつもと違う点が一つだけ。それは、彼もまた全裸だったということだ。

「もしかして、またクラルーの仕業か……?」

 そう思って部屋の中を確認するも、彼女の姿は見当たらない。

 既に起き出して階下の食堂にでも行ったのか、と考えていると隣で寝ていたカミィが身動ぎをした。

 そして、まるで幼子のように手で目をこすりこすり目覚めると、レグナムの存在に気づいてにぱっと笑う。

「おはようなのだ、レグナム」

「お、おう。おはよう、カミィ」

 挨拶を交わすと、カミィは裸のままレグナムの胸にすりすりとその頬を刷り寄せた。

「お、おい、カミィ?」

「ふふふふ。何を照れているのだ? 夕べはいつものようにあんなに激しかったではないか」

 猫のようににんまりと笑いながら、カミィはレグナムを見上げる。

 対してレグナムはといえば、彼女の言う「激しかった夕べ」の内容を突然思い出して、思わず赤面する。

 そう。夕べの情事は、彼女が言うように確かに激しかった。

 彼女の小柄な身体を思う様蹂躙し、喘ぎ、叫ぶ彼女を心ゆくまで堪能した。

 そうやって互いに互いを確かめ合いながら、疲れ果ててどちらともなく眠りに落ちたのだ。

 途中で何か嫌な夢を見たような気もするが、それは目の前の笑顔を見ているうちに脳裏から消え去った。

「なんだ。今更恥ずかしくなったのか? いつまで経ってもうぶな奴なのだ」

 くすくすと笑いながら、カミィは指先でレグナムの逞しい胸板を突いて遊ぶ。

 黒くてさらさらな前髪の奥。彼女のの瞳が楽しそうに歪む。

「愛しているのだ、レグナム」

 彼女のその言葉を聞いた途端、レグナムの中で何かが弾けた。




「へぶらし……っ!!」

 口と鼻から血を撒き散らしながら、カミィが吹っ飛ぶ。

 彼女のその可憐な顔に、突然レグナムが拳を叩き込んだからだ。

「にゃ……にゃにお……」

「……それ以上その口でさえずるな……っ!!」

 レグナムは寝台から立ち上がると、その傍らに立てかけてあった長剣ロングソードを手に取り、そのまま鞘から引き抜いた。

「……その顔でオレを見るな。その手でオレに触れるな! その声でそれ以上オレの名を呼ぶなっ!!」

 レグナムは抜き身の長剣の切っ先を、顔を血で斑に染めているカミィ──の偽者に突きつけた。

「ど、どうして……おまえは完全にこの女を……いや、この女の姿をした私を完全に信用していたはず……そ、それなのに、どうして急に……」

「おまえが『愛している』なんて言うからさ。それに……本物のカミィが俺の拳を正面まともにくらうはずがねえだろ?」

 一切の躊躇を見せず、レグナムは長剣の切っ先をカミィと同じ形を描く乳房に差し込む。

「ぐわあああああああああああああああっ!! な、なぜだ………なぜ……『愛している』と言うのがいけないのだああああああああああああっ!?」

「おまえは分かっちゃいないのさ。オレとあいつの関係を、な」

「か、関係だと……っ!? お、おまえたちはこ、恋人ではないのか……っ!? おまえたちは……少なくともおまえは心の奥底でこんなにもこの女を────」

「違うな。オレとあいつの関係は、おまえが考えているようなものじゃねえ」

 レグナムは刺した長剣を抉りながら更に捩じ込む。

「がああああああああああっ!! な、なぜだっ!? た、例え私が偽者だと分かったとしても、ど、どうしておまえは容赦なくこの姿をした者を傷つけることができる……っ!? か、仮に偽者だと理解したとしても、大切な人間の姿をしたものを躊躇なく傷つけるなど…………っ!?」

 それまで平坦だったレグナムの表情。それが一気に怒りのそれへと変化する。

 突き刺した長剣を、レグナムは力任せにカミィの偽者の身体を斬り裂くように振り抜いた。

 ぶちぶち、ぎしぎしと長剣の刃が偽者の身体を構成する筋肉や骨を両断する音が響く。

 血と肉片と骨の欠片と内臓をぶちまけながら、カミィの偽者は床の上で事切れた。

 血臭が充満する部屋の中で、レグナムはまさに鬼のような表情で床の上に横たわるモノを見下ろして吐き捨てた。

「できるさ。決まっているだろう? なんせ────おまえはオレの神を冒涜したんだからな。せいじんのおまえなら理解できるはずだ」


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