第44話 狂神の神殿


 翌朝。

 レグナムとカミィそしてクラルーは、イプサムに案内されて狂神の神殿へと赴いた。

 目的地である狂神の神殿は、モルバダイトの街の裏通りに存在するらしい。

「……そんな所に狂神の神殿なんて、一体いつの間に建ったんだ?」

「そうですねぇ。大体一年ぐらい前でしょうか」

 レグナムの問いに応じたのは、もちろんイプサム。彼の指は相変わらず愛用のリュートの弦を爪弾いている。

「一年前か……道理でオレが知らないわけだ」

 一年前と言えば、レグナムは各地で傭兵として戦っていた。どうやら狂神の神殿は、彼がこの街から旅立ってから建てられたようだ。

 イプサムに先導され、人々の行き交う表通りから路地に入る。そのまま更に路地の奥へと進むと、整然とした表通りとは違い小さな家々が勝手に乱立するようになってくる。

 しかも、辺りにはゴミなども散乱している。もっとも、どんな大きな街でも、整然としているのは表通りに面している一帯か、もしくは貴族などが住む地域ぐらいで、裏通りに入ればこんなものなのだが。

 そうこうしているうちに、一行の目の前に小さな建物が現れた。

「……ここが狂神の神殿……か?」

「そうです、レグナム殿。こここそが、スギライト神の神殿です」

 しゃらん、とイプサムのリュートが静かな音を奏でる。

「…………予想していたものとは、随分と違うな」

 街の裏通りにひっそりと佇む、狂神を祀る小さな神殿。

 だが、そこは決して朽ち果てる寸前の怪しい場所でも、禍々しい空気に包まれたおどろおろどしい場所でもなかった。

 それどころか、レグナムの予想とは真逆に、神殿の周囲は穏やかな雰囲気に包まれている。

 確かに神殿自体は小さく、豪華でも荘厳でもない。周囲に建つ家々よりも、少しばかり大きいぐらいに過ぎない。

 しかし、神殿の周囲は綺麗に掃除が行き届いており、裏通りのごみごみとした一帯とは明らかに違っている。

 少し離れた所から神殿の様子を窺うレグナムたちの前を、一人の年若い女性が母親と覚しき年配の女性と共に神殿へと入っていく。

 二人の女性の顔は実に穏やかだ。まるで表通りに堂々と建つさいたいしんの神殿へと、祈りを捧げに来る人々と大差ないほどに。

「……ここは本当に狂神の神殿なのか?」

 想像していたのとは余りに異なる光景に、思わずレグナムが唸る。それほどまでに、スギライトの神殿は穏やかだった。

「間違いない。確かにここはスギライトに祈りを捧げるための神殿なのだ。ここからはスギライトの神気が感じられる。微弱ではあるが、な」

「カミィがそう言うのなら間違いないのだろうが……ん? どうかしたのか?」

 ふとレグナムが気づけば、カミィはその美しい顔を不機嫌そうに顰めていた。

「……少々気になることがあるのだが……まあ、いい。神殿に入ってみるのだろう?」

 カミィの問いかけに頷いたレグナムは、一行を率いてスギライトを祀る神殿の扉に手をかけた。




 神殿へと足を踏み入れたレグナムたちを出迎えたのは、初老の域に差しかかった男性の神官だった。

「ようこうそ、スギライト神の神殿へ。我が神は、神の家たる神殿へ訪れた者を何人であろうとも歓迎いたしましょう」

 両手を拡げ、穏やかな笑みを浮かべる神官。

 粗末ながらも神官らしいゆったりとした服を纏い、首からはスギライトのものだろう聖印を下げていた。

 おそらく、彼がこの神殿の責任者なのだろう。

「少々、尋ねたいことがあるのだが……ここは狂神スギライトを祀る神殿で間違いないか?」

「はい、左様でございます──ですが、我がスギライト様は決して狂神などではございません。我が神が司るものは心の平穏です」

「心の平穏……?」

 スギライトの神官は、レグナムの言葉を毅然とした態度で否定した。

 その日その日を生きるので精一杯。そんな暮らしをしている人々は決して少なくはない。

 当然、毎日に余裕などなく、そんな人々は心に鬱屈としたものを徐々に貯め込んでいく。

 そんな心に溜まった泥を吐き出させて楽にしてくれるのが、心の平穏を司るスギライトなのだと神官は説明した。

 そう言われたレグナムが神殿の中を見回せば、数人ほど集まっている信者らしき者たちは、誰もが決して裕福ではない──言ってしまえば、こんな裏通りで暮らすこの街でも最下層に属する人々ばかりであった。

 日々ぎりぎりの生活の中で心に溜まった鬱憤を、神に聞いてもらう。

 精神的なことでしかないのだろうが、それでも貧しい人々にとって、ここは心の拠り所の一つに違いない。

「一体、どこで聞き及んだのかは存じませんが、我が神を狂神などと……はっきり申しましょう。我が神スギライト様は狂神でもなければ邪神でもございません。確かに考えようによっては、狂気に犯された者は心の平穏を得たとも言えますが……その辺りから間違った噂でも広がっているのでしょうか」

 静かに憤る神官に、レグナムは素直に謝罪した。

「あんたの神を狂神呼ばわりして済まなかった。実はな、オレは数年ぶりにこの街に帰って来たんだ。そうしたら、ここに以前にはなかった神殿が建ったというじゃないか。しかも、その神殿は狂神を祀る神殿らしいと聞いたんで、ちょっと様子を見に来たってわけだが……どうやら、オレの誤解だったようだ」

「いえ、誤解と分かっていただければよろしいのです」

 頭を下げたレグナムに、神官は穏やかな笑顔を浮かべた。

 どうやら、この神殿と行方不明事件とは関係がなさそうだ。

 そう判断したレグナムは、形式的に祀られている神像──長い髪の女性の姿をしていた──に少しだけ祈りを捧げて、その場を後にした。




「──なあ、どういうことだ?」

 スギライトの神殿を辞したレグナムたちは、一旦『月光の誘い亭』へ戻るために先程通った道を逆に辿っていた。

 その途中で、レグナムは隣を歩くカミィに尋ねたのだ。

「あの神官は、スギライトが心の平穏を司る神だと信じきっていたが……いや、本気で信じていなければ、神官にはなれないだろうけどよ……」

「それもまた、人間が勝手にそう判断しているに過ぎんのだ」

 狂気を司る神であるスギライト。

 だが、ある人間はの神を邪神として信仰し、また別の人間は心の平穏をもたらす存在として崇める。

 それらは、やはり人間の解釈の違いだとカミィは言う。

「酷い時になると、国や地域によって同じ神が全く別の神になることもあるのだぞ」

「なるほどねぇ。それもまた、人間が勝手に決めたこと、か。でもよ? それで当の神は何とも思わないのか?」

「大抵の神はそれほど気にしないな。形はどうあれ、捧げられた祈りは神へと届く。神にまで届けば、信仰は神の糧となるのだ。だが、時に人間の信仰が、神の本質を曲げてしまうこともありえるのだがな」

 五彩大神や、それに次ぐような上級神ともなればそうそう本質が揺らぐことはないが、まだ神の階梯に登ったばかりの「若い」神などは、本来と違った信仰を熱心に捧げられると、それに引っ張られて本質が曲がることもあるとカミィは言う。

「それだけ信仰というものには、力があるということなのだ」

 レグナムがカミィの説明を黙って聞いていると、背後からじゃらじゃかじゃんとリュートの音が響いた。

「おお……流石は我が愛しき方……神々に対する深い知識と理解力……そういえば、その黄金に輝く妖しくも美しき瞳は聖痕ではございませんか……? こ、これは私としたことが、そのような大切なことに今の今まで気づかなかったとは……っ!! い、いや、夕べは薄暗い室内だったので、いかな私と言えども気づかなかったわけでして……決して、愛しき方々の豊満な胸やら可憐な尻ばかり見ていたわけではありませんぞっ!!」

 相変わらずじゃかじゃかとリュートをかき鳴らしながら、イプサムは言わなくてもいいことまで口にする。

 そんなイプサムにレグナムがじっとりとした生暖かい目を向けた時。

 その視界の隅を何かが横切った。

 咄嗟に愛用の長剣ロングソートの柄に手をかけ、そちらへと素早く振り向く。

 しかし既に、その何かはカミィの真後ろに迫っていた。

 それは顔を黒い布で覆い、全身も黒い外套のようなものですっぽりと覆っている。どう見ても真っ当な人間ではない。

 しかも黒い外套から突き出たそこだけ妙に白く見える腕には、大き目の針のような細くて鋭い凶器。

 ご丁寧にその先端は銀色ではないどす黒い緑に染められている。間違いなく毒だ。

 鋭く踏み込んだレグナムが、抜き打ちで長剣を薙ぎ払う。

 だがそれより僅かに早く。凶賊の凶器がカミィの白く細い首筋に打ち込まれた。




 った。

 針を手にした凶賊は、目の前の迫った小柄な少女の後ろ姿を見て、内心だけで喝采を叫んだ。

 これまで、彼らの神に捧げる生け贄を同じように何人も狩り取ってきた彼は、今回も神に生け贄を捧げられることに喜びに震えた。

 しかも、今回の生け贄は彼が生まれてこの方、見たこともないような美少女である。きっと、神も極上な生け贄にさぞかしお喜びになるに違いない。

 心の中は喜びに震えるものの、その手元が震えることはない。

 獲物たる少女の首筋目がけて、凶賊は手の中の針を真っ直ぐに、最短距離で打ち込む。

 だが。

 だが、今まで体験してきたような手応えは感じられなかった。

 それどころか、自分の手首が物凄い力でぎりぎりと握り締められ──いや、握り潰されようとしている。

 黒い覆面から僅かに覗く目で、自分の凶器を持った腕を確認し、凶賊は驚きに目を見開いた。

 自分の手首を握り潰さんばかりに圧迫しているもの。それは目の前の小柄な少女の真っ白な繊手だった。

 しかも、少女の視線は隣の剣を打ち抜こうとしている青年へと向けられている。少女は、振り返ることさえせずに片手で凶器を持った自分の手首を掴み取り、そのままぎりぎりと物凄い力で締め付けているのだ。

 凶賊は知らなかったのだ。

 目の前のたおやかな花のような可憐な少女が、実は素手で魔獣さえ倒す人外の存在であることを。

 本能が背中に冷たい何かが流れさせた。それを感じた凶賊は、慌ててこの場からの離脱を選択する。

 だが、少女の手が手首をしっかりと掴んでいるため、それも叶わない。

 更には、傭兵風の出で立ちの青年の鋭い太刀筋が、凶賊の凶器を持った腕を一撃で切断する。

 辺りに血が飛び散り、切断された腕の断面からはまるで桶を逆さまにしたように血がどばどばと流れ出る。一瞬の空白の後、凶賊の身体を激痛が駆け抜けた。

 この時になって、少女が初めて凶賊へと振り向く。

 妖しく輝く金の瞳が凶賊を射すくめ、その美しさに思わず身動きを止める凶賊。

 そして覆面の奥に隠された目に、少女の小さな拳が視界全体に映り込む。

 それが凶賊が最後に見た光景だった。




 がくん、と物凄い勢いで、凶賊の頭が強烈に後ろへ傾ぐ。

 本来ならば頭を粉砕することだって可能な一撃だが、さすがにカミィも手加減している。

 哀れな凶賊は、カミィに小さな拳によって一瞬で意識を狩り取られ、その場にくたりと崩れ落ちた。

「おい、カミィ。ようやく向こうから来てくれた手がかりだ。まさか殺しちゃいないだろうな」

「うむ。今朝、宿で貴様に言われた通り、ちゃんと手加減したのだ。我輩はやればできるのだ」

 えっへん、と胸を張るカミィ。彼女の言葉通り、凶賊はその顔面に多大な打撃を受けているものの、命までは失っていない。

「な、何事ですかっ!? 何が起きたというのですっ!?」

 ようやく襲撃されたという事態を理解したイプサムが、じゃりじゃりとリュートを鳴らしながら周囲を見回す。

 こんな時にもリュートの弦から指を離さないイプサムに感心しつつ、レグナムも周囲をゆっくりと見回した。

 そこには。

 先程カミィが倒した凶賊と全く同じ格好をした連中が、やはり手に手に針のような凶器を携えて、まるで幽鬼のように彼らを取り囲んで静かに佇んでいた。


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