我輩は神である。名前はまだない。
ムク文鳥
女神降臨編
第1話 我輩は神である
──どこだ、ここは?
周囲を見回したそれは、自分が今どこにいるのか分からずに首をかくんと傾げた。
今、それの目に映るのは木々ばかり。どうやらここはどこかの森の奥らしい。
はっきり言って、それが分かるのはそんなことぐらいだ。
──さて、どうしよう?
それは再び周囲を見回した。
だが、あいも変わらず周りは木々ばかり。目に入る色彩も緑や茶色ばかりだ。
何気なく、それはふと空を見上げた。
木の葉の間から、青い空と白い雲が見えた。
──白い雲……白……?
何かが心の奥でもぞりと蠢いたが、それはすぐに納まった。
代わりにそれの心の奥から湧き上がったのは、全く別の疑問。
「名前……我輩の名前は……? 我輩は一体……」
呆然と空を見上げながら、それはぼそぼそと呟いた。
だが、それの呟きを聞いている者は皆無であり、その小さな声は木々の間に吸い込まれて消えていく。
どれくらいぼーっと空を見上げていただろうか。
ふと、それの耳に、葉擦れと鳥の声以外の音が聞こえた。
その音はとても小さい。おそらく随分と遠くから伝わってきた音なのだろう。だが、確かにそれはその音を聞いた。
「何かがいる……」
再び呟いたそれは、興味を引かれて音のする方へと振り向く。そして、次いで口の端をにやりと歪めた。
それの足は、自然と音の方へと歩き出す。まるで何かに引き寄せられるかのように。
自分に向けて振り下ろされる錆の浮いた斧。
その斧を、青年は手にした
だが、その際に生じた僅かな隙を、もう一人の男がやはり手入れのよくない
小剣の目指す先は青年の左脇腹。彼は咄嗟に左腕を小剣と脇腹に間に挟み込み、小剣が脇腹を抉るのを何とか遮る。
その代償として、小剣は深々と彼の左腕を抉ることになったが。
「ぐっ……っ!! この野郎……っ!!」
激痛に湧き上がる呻き声を押し殺し、青年は右手の長剣を翻して今しがた自分の左腕を抉った男の腹を斬り裂いた。
小剣の男は、腹から血と臓物を撒き散らしながら大地と二度と離れない抱擁を交わす。
左腕をだらりと力なくぶら下げながら、青年は自分を取り囲む男たちを鋭い視線で見返した。
男たちの数は六人。いや、今一人倒したので残るは五人。
全員が全員、薄汚れた革鎧と手入れの良くない得物を手にして、薄笑いを浮かべながら青年を包囲するように取り囲んでいる。
ここは平原を通る街道である。周囲に身を隠せるような場所はない。
唯一、青年の右側に森が見えるが、その森は古来より「フーガの迷い森」という名で呼ばれる「邪神の囁き」として有名な場所だ。とてもではないが、自分から足を踏み入れようと思える場所ではない。
「へへっ、ここら一帯にゃ逃げ場はねえよ。観念して身包み脱いで置いていきな。そうすりゃ命だけは助けてやる──」
男の一人が、髭に包まれた顎を撫でながら青年に告げる。
「──と、言いたいところだが、おまえには殆どの仲間が殺られちまった。こうなったら、身包みだけで許すわけにはいかねえなぁ」
男の言葉に、彼の仲間たちから追従の笑い声が上がる。
青年は右手で長剣を構えながら、油断なく男たちを見る。彼らは山賊か野盗の類だろう。青年が一人で街道を歩いていたら突然襲いかかって来たのだ。
対する青年は、背は高いものの体つきは細目。顔つきもそれなりに整っており、つんつんと突き立てられた短い焦茶色の髪も、きちんと手入れされているようだ。歳は二十歳ほどだろうか。少なくとも二十五歳にまでは至っていまい。
旅用の外套の下に青年が装備しているものは、煮固めた革鎧に所々金属で補強を入れたもの。後は腰に佩かれた長剣と小剣が一振りずつ。背には旅人がよく所持する背嚢がある。
一人旅の傭兵か何かだろう。そう判断した山賊たちは、この青年を御しやすい獲物とばかりに襲いかかったのだ。
だが、山賊たちはそれが勘違いだったことを思い知らされた。
確かにこの青年は傭兵のようだ。それは間違いない。山賊たちが勘違いしたのは、彼がただの傭兵ではなく手練れの傭兵だったことだ。
街道脇の地面に穴を掘り、そこに身を隠していた山賊たちは、街道を通りかかった青年に突然襲いかかった。
普通の獲物ならば、不意を打たれて簡単に仕留められたはずである。
だが、この青年は違った。
山賊たちの奇襲に素早く反応し、腰の長剣を抜き様に手近に迫った山賊の一人を斬り捨てると、そのまま全速力で逃走に移ったのだ。
その行動はとても奇襲された者の反応ではなく、反対に山賊たちの方が思わず呆然としてしまうほど。
そして我に返った山賊たちは、逃げる青年を追って走り始めた。
幸い、青年の足はそれほど速くはなく、山賊仲間の中でも一番の駿足が青年に易々と追いつく。
しかし、それは青年の罠だ。
背後に迫った山賊に、青年は振り返り様に長剣を振り下ろして、一撃でその山賊の命を刈り取る。その後、青年は斬り捨てた山賊に目もくれずに再び逃走に入る。
当然仲間を殺された山賊たちは、目の色を変えて青年を追う。
後はその繰り返しだった。
山賊と一口に言っても、その足の速さは様々である。足の速い者から青年に追いつき、そして青年に斬り殺されていく。
五人目の仲間が殺された時点で、山賊たちはこれが青年の罠であるとようやく気づいた。
「弓だ! 弓を使え! これ以上、奴に不用意に近づくな!」
山賊の頭領と思しき男が命令を下し、配下の数人が短弓(ショートボゥ)を取り出して構え、番えた矢を走り去る青年へと放つ。
身体のすぐ傍を流れる矢の中を、青年は必死に走り抜ける。
だが、矢の一本が不幸にも青年の太股に当たり、彼はその場で倒れ込んだ。
背後から聞こえる歓声に、青年は小さく舌打ちをする。
これ以上の逃走は不可能と判断した青年は、太股に刺さった矢を引き抜いて立ち上がり、背負った背嚢を地面に下ろして身軽になると、その場で長剣を構えて山賊たちを待ち構えた。
やがて青年に追いつき、彼を包囲する山賊たち。
山賊たちは殺気にぎらついた目で青年を見詰めると、一斉に襲いかかって来た。
剣が、槍が、斧が、青年に襲いかかる。
青年は振り下ろされる剣を身を捻って躱し、突き出された槍を長剣で弾く。そして横薙ぎに振るわれた斧を、紙一重で見切る。
その青年の動きに、山賊の頭領は思わず目を見張った。
「な、何者だ、こいつは……足に怪我をした人間の動きじゃねえぞ……」
呟いた彼の視線の先で、青年がふと一歩踏み込んだ。
途端、その姿が霞む。
次に彼に気づいた時には、彼は配下の山賊の間に踊り込み、手近にいた二人の仲間を薙ぎ払うように斬り倒した後だった。
しかし。
どんなに手練れの剣の使い手でも、二十人にも及ぶ敵と同時に渡り合うのは至難の業だった。
「数」とはれっきとした力である。どんな達人でも、同時に四人五人を相手取ればどうしたって不覚を取る可能性が高くなる。
加えて、青年には「疲労」という名の敵もいた。
青年は今、激しく肩で息をしている。流れ落ちる汗も尋常ではないほどだ。彼はこれまで全力で走り、複数の敵に囲まれないように常に動き続け、そして全力で剣を振るい続けてきたのだ。その疲労は相当なものだろう。
疲労は青年から冷静な判断力を奪い、つい見せてしまった小さな隙をまんまと突かれて、左腕に深手を負うという結果をもたらした。
まして、青年は太股に矢を受け、今もその傷からは血が流れ出ている。
そうでありながらも、山賊たちはその殆どがこの青年によって倒されてしまっていた。
残るは六人。いや、ついさっきもう一人倒されたから、残るは五人。当初は二十人以上いたにも拘わらず、だ。
「さて、と。兄ちゃんには殺された仲間の分も含めて、それなりの支払いをしてもらわにゃならんが……」
山賊の頭領は腕と足に深手を負いながらも、まだ闘志が尽きていない青年を見詰めながら口を開く。
「……兄ちゃんは剣の腕は大したモンだ。そこで提案なんだが──」
頭領の口元が歪に歪む。
「──兄ちゃんを奴隷として売り飛ばそうかと思うが、どうだ? 兄ちゃんぐらい腕が立てば、戦奴隷として高値で売れるってモンだ」
「何がどうだ、だ。奴隷にすると言われて頷く馬鹿がどこにいる?」
「ははははは、違えねえ」
荒い息のまま答える青年を頭領は面白そうに笑う。それでいて、目だけは冷徹なまでに冷えきり、ひたと青年を見定めたまま動かない。
「兄ちゃんをこれ以上傷つけちまうと、さすがに戦奴隷としての価値が下がっちまうんだ。ここはひとつ、大人しくしちゃくれねえか?」
「だから、どうしてオレが自分から奴隷にならなくちゃいけないんだ? 奴隷なんぞになるぐらいなら……」
青年の長剣の切っ先が、ぴたりと山賊の頭領へと向けられる。
頭領が実に残念そうに肩を落とした。そして、芝居がかかった仕草でひょいと落とした肩を竦める。
「なら仕方ねえ。残念だが兄ちゃんにはここで死んでもらうぜ?」
頭領が配下の山賊たちに指示を出す。
それに従い、今もなお荒い息を吐く青年に、残る四人の山賊たちが一斉に襲いかかる。
いや、襲いかかろうとした。
青年に襲いかかろうとした山賊たちは、突然横から飛び込んで来た白い何かに四人纏めて吹き飛ばされて、その目的を達することができなかったのだから。
残ったのは、青年と山賊の頭領の二人。
その二人は今、似たような表情を浮かべていた。
呆然と。唖然と。二人は突然乱入してきた白いそれをまじまじと凝視する。
白いそれは、青年から見て右側からまるで矢のような勢いで飛び込んで来た。
尻まで伸びた真っ直ぐな黒髪。
妖しい輝きを帯びた蠱惑的な金の瞳。
小柄で華奢な、細くて透き通るように白い身体。
まるで美を司る神が持てる力を全て注いだような、恐ろしいまでに整った美しい容貌。
そんなそれを、二人は未だに呆然と見つめ続けていた。
その視線に気づいたのか、それは二人へと振り返るとその美しい顔をふと歪めた。
こくん、と不思議そうに首を傾げる、それ。
その仕草は見る者を魅了して止まないほどにあどけなく、だからこそある種の魅力に溢れていた。
それはその場で腕を組み、うーんと唸りながら何事かを考え始める。
相も変わらず呆然と青年と山賊の頭領が見詰める中、それはしばらく考えた後で何かをに思い至ったようで「おおぅ」と呟きながらぽんと手と手を打ち合わせた。
そして、改めて二人に視線を向ける。
その時、それの顔には不敵なまでの笑みが浮かんでいることに、青年と頭領はようやく気づいた。
二人を前にして、それは高らかに宣言をする。
「我輩は神である。名前はまだない」
神。
そう名乗ったものは、十五、六歳ほどの外見のとても美しい少女の姿をしていた。
──
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