傷痕

野黒鍵

第一傷

 「きゃあああああ」

叫び声が廊下に響き渡った。声のした方へと視線を向けると、目を押さえた女子が倒れ、それを囲むようにして女子が群がっていた。良い思いが出来ると俺の直感が騒ぎ、様子を見に女子の群れへと向かう。

 「だ、大丈夫?」

「ちょ、ちょっと。救急車呼んだ方が……。」

「いや、まず保健室でしょ。あ、でも動かしたらダメか」

 女子の群れに近付くと、女子の声が聞こえて来た。それと共に倒れている女子の姿が見えて来た。押さえる手の隙間から血が滴っている。

 倒れている女子はクラスメートの裕美だった。倒れている状況から見ると裕美は階段で転んだのだろう。階段の上にいる女子も口元を押さえて固まっていた。

 「おい、大丈夫か?」

「あ、光。裕美が階段で転んじゃって」

「みたいだな。頭から落ちたのか?」

「わかんない。わかんないけど血がめっちゃ出てて……」

 同じくクラスメートの由紀に声を掛けると、顔を青くしながら教えてくれた。

「大丈夫か裕美。頭痛かったりするか?」

「う、ううん。でも血が出てるのに痛くもないの」

 押さえている場所は目の上なので、まぶたの付近を切ったのだろう。浅い傷でも結構な量の血が出る。頭痛もしないということは倒れた衝撃でまぶたの周辺を切ってしまっただけか。ただ、直ぐに頭痛が出ないこともあるので油断ならない。

 とりあえず保健室に連れて行くべきだろう。

 「おい、立てるか?」

裕美の腕を持ち、保健室へ連れて行こうとする。

「ちょ、ちょっと。動かさない方がいいんじゃない?」

「頭痛もしないし、意識もある。ここにずっと居る訳にもいかないだろ」

「そ、そっかあ。そうだよね」

周りの女子を説得し、裕美を立たせる。

「保健室行く前に傷口を洗うぞ?」

 俺の真の目的はこれだ。女子に格好良いところを見せようとか、困っている人を見捨てられないっていう正義感からでもない。

 「濡れないように髪を上げとけ。ゆっくり水で傷口を流すんだ」

「う、うん」

俺の言葉に従い、裕美はおっかなびっくりといった様子で上を向いた蛇口から流れる、というより溢れる水に額を付ける。

 俺は水によって血を流された傷口を凝視する。ボクサーよろしくパックリとまぶたが横に切れていた。だが、残念ながら傷口は思ったより浅かった。

 「ねえ、もう大丈夫かな」

しばらく水で傷口を洗っていた裕美は心配そうに声を掛けて来た。声を掛けられるまで、俺は傷口を見るのに夢中になっていた。

「あ、ああ。もう大丈夫だろ。ほら、これ使えよ」

そう言いながらハンカチを裕美に差し出す。

「え、いいよいいよ」

「安心しろ。今日は一回も使ってないから清潔だぞ」

「いやいやそうじゃないから。血で汚れちゃうから」

「そんなこと気にすんな」

 浅い傷とはいえ良いものを見せて貰ったお礼でもある。もちろんそんなことは本人には言えないが。

「う、うん。じゃあ遠慮なく借りるね。新しいの買って返すから」

これ以上ハンカチを返す返さないの押し問答しても時間の無駄だ。裕美も借りを作ったままってのは気持ちが悪いのだろう。それにもう傷口も見れないし、さっさと終わらせたいってのが本音だ。

 「おう、分かったから保健室行くぞ」

 貧血なのか大量の血を見たショックなのか足元がおぼつかない裕美の腕を持ち保健室へと向かった。

 「階段で転んでまぶたの上を切っちゃったみたいっす。頭痛はしないってことなので頭は打ってないと思います。保健室に来る前に傷口は洗っておきました」

 フラフラしている裕美に代わって状況を簡単に説明し、保健の先生へと引き渡す。

「ありがとう。さあ中に入って」

 二人が保健室に入ると、ようやく落ち着きを取り戻した女子達が保健室へと集まって来た。

「裕美は? 大丈夫なの?」

「たぶん大丈夫だと思う。中に居るから様子見てやれば?」

「皆で入っても邪魔になっちゃうと思うから、ここで待ってる」

「それもそうか。じゃあ後はよろしくな」

そう言って俺は保健室を後にした。

 歩きながら握っていた左手を開く。手の平の半分程の大きさの傷がある。その傷を右手の爪で弄る。塞がろうとする傷をほじくって治らないように広げるためだ。刺すような痛みを感じながら興奮を抑え切れないでいた。


 物心ついた頃、たぶん幼稚園の頃には左手の傷はあった。その頃から傷を見ると興奮し、傷を見ないで居ると落ち着かなかった。誰かを怪我させて傷を見ることを考えたこともあったが、そこは良心が止めていた。

 自分でも傷が好きということは異常だと分かっている。それでも傷が見たくて仕方がないのだ。だから俺は自分の手に傷を付けたんだと思う。

 幼い頃からずっと傷が塞がらないように、こうして治ろうとする傷を広げていた。

 自傷癖があるのか? と思ったこともあるが、怪我するのは嫌だし、出来ることならこの傷を治したいと思う。だけど、怪我を治してしまうと生の傷を見ることが出来なくなってしまう。だから仕方なく自分で傷を作っているのだ。

 そうやって我慢しながら隠れて傷を見る生活を送っていたのだ。目の前に生の傷を見る機会が現れたら、是が非でも見たいと思ってしまうのは仕方ないだろう。しかもその傷の位置も俺好みだった。

 俺は何故か目の周辺に出来る傷が大好きだった。理由は自分でも分からないが、目の傷がたまらなく好きだった。だから裕美が目を押さえていたのが見えた時、もしかしたらと興奮してしまったのだ。

 「俺の傷に対する直感は流石だな」

苦笑いを浮かべながら独り言ちて、いつものように傷を広げていた。


 家に帰ると生の傷を見た興奮を抑えられず、パソコンの電源を入れて秘蔵のコレクションを眺めていた。

「はあああ、情報化社会様様だな」

 素晴らしい芸術を見た時、溜息が漏れるってのは間違いない。

 溜息を吐くと幸せが逃げると言われているが、そもそも幸せを感じた時に溜息が漏れる。溜息を吐く行為自体が幸せの表現なのかもしれないな。

 「なんて芸術を見ていると詩的になっちまうな」

 見てい芸術というのはネットに落ちている怪我の画像である。その中には死体の画像もあるが、傷をまじまじと見られる。もしネットが無い時代に生まれていたら、それこそ他人を切り刻む殺人鬼にでもなっていたかもしれない。

「まあ、そんな度胸もないけどね」

秘蔵のコレクションを次々に見ながら興奮度を高めて行く。コレクションはどれも目の周辺に出来た大きな傷の画像である。

「うおっ、鼻血出そうになって来た」

 興奮し過ぎた。冷静に考えてみると興奮を鎮めるためにコレクションを見ていたが、これは逆効果だ。確かに傷を弄る癖は治まっているが、頭が沸騰しそうだった。

 「よし、気分転換にジョギングでもするか」

 このまま興奮状態が続いたら自分の傷を愛撫してしまいそうだ。傷が好きとはいえ、自分自身を愛撫するなんて、流石に気持ち悪いからな。

 制服をパッと脱ぎ、短パンにシャツと身軽な格好に着替えて近所へと繰り出した。



 体を動かすことは結構好きなので、ジョギングは習慣だったりする。

 走ったりして体を動かすと脳に酸素が行っていないせいか、無駄な考えが消えて頭がスッキリする。

 ただ、運動すると左手の傷に汗が染みて痛い。それだけは傷があって嫌だと思うことだった。我慢出来ない程じゃないので、強く拳を握って痛みを無視する。

 「はあ、はあ」

 軽い疲労も心地良いな、なんて思っていると廃れた公園が目に付いた。安全性がどうのこうのって理由から遊具のほとんどが撤去され、砂場とブランコだけになり子供達も寄り付かなくなっていた。

 いつもならそんな公園は気にも留めないのだが、今日はいつもと様子が違っていた。同い年くらいの女子がブランコに座っていた。遠目から見ても髪がボサボサで制服もどことなく汚れていた。一瞬、後ろ姿なのか、とも思ったが制服を見ると正面を向いているようだった。前髪が長すぎて顔が見えなかったので勘違いしていた。

 女子じゃなければ通報されそうな程に怪しい。間違いなく関わるべきじゃない。そう思うのに何故か女子が気になってしまう。

 「怖い物見たさってやつかな?」

 駆られる好奇心に逆らい目が合わないうちに視線を公園から外して、ジョギングを続けることにした。



 「はい、これ。昨日はありがとうね」

 授業が帰り支度をしていると裕美に声を掛けられ、包装されたプレゼントのような物を差し出して来た。

「ん? 俺の誕生日はまだ先だよ?」

「バカ、昨日のハンカチのお礼!」

「ああ、そうかそうか」

昨日の事といえばまぶたの傷しか頭に残っていなかったため、ハンカチの事はすっかり忘れていた。

「結局、傷は縫うことになっちゃった。でも抜糸したら傷は綺麗に消えるって」

「ああ、そうなんだ。残念だったね」

 また傷の事に夢中になって適当に返してしまったが、結構マズいことを口走ったと気付いた。傷が綺麗に消えるのに残念っておかしいだろ。

 自分の性癖がバレるかと怯えていると、

「しょうがないよ、痕にならないだけラッキーって思わないと」

そう言いながら包帯の上から軽く叩き、いててとおどけていた。俺の残念という発言は大変だったね、というニュアンスに捉えられたらしい。普通に考えれば傷が消えて残念だとは思わないのだろう。

  「じゃあ、またね。ホント昨日はありがとー」

背中に嫌な汗が流れるのを感じつつ、包みを受け取った右手を上げて答える。

 人に見られる危険があるため、基本的に人前では左手を見せないようにしている。傷が結構大きいので見られると面倒なことになるからだ。小さい頃、左手を女の子に握られ、血が付いてしまったことがある。強く握られたので傷が少し開いてしまったのだ。自分に付いた血を見て女の子は号泣してしまい、それ以来トラウマになっているのだ。

 問題は起きないようにする方が良い、面倒事には関わらない、というのが今まで生きて来た中で得た鉄則だ。だから昨日の公園では好奇心を押さえたのだ。あれは面倒事に巻き込まれると直感が告げていた。

 昨日の女子を思い出していると、生の傷の映像が甦って来た。

 「あ、やべ。興奮して来た」

一時しのぎに左手の傷を弄る。一時的に興奮を鎮める事は出来るが、早く家に帰ってコレクションを見よう。こんな傷じゃ我慢出来ない。

 鞄に貰ったハンカチを放り込み、足早に学校を後にした。


 興奮冷めやらぬといった様子で今日もまたコレクションを見ていた。

 「うーん、やっぱり画像も良いんだけど、生の傷には勝てないよなあ」

 裕美の傷は浅いとはいえ、好みの場所にあった。自分以外で生の傷を見る機会なんて少ない。実物と画像ではやはり実物に軍配があがってしまう。

 好みの傷を集めたはずなのに、いつものように興奮出来なくなって来ていた。

 「昨日はそんなことなかったのになあ」

頭をかきながら自分の変化に戸惑う。傷が塞がっているのを見て、またしばらく生の傷が見れなくなると思うと名残惜しくなったのかもしれない。

 「欲求不満だ。よし、走るか!」

パソコンの電源を落として、腰を上げた。そのまま制服を脱いで動きやすい格好に着替えて家を後にした。


 いつものコースを走っていると、昨日と同じように公園の様子が目に留まった。

「人口密度高いな」

ただ昨日と違うのは公園にいる人数だ。昨日は危なそうな女子が一人ブランコに座っていただけだった。だが今日はその女子を囲むように四人増えていた。

「昨日よりヤバい雰囲気だな」

関わっちゃいけない度で言えば今日の方が圧倒的に高い。だけど、あれは……。

「いわゆるイジメってやつだよなあ」

公園の外にいても『きたねえ』とか『キモい』とか偏差値低そうな罵倒が聞こえて来る。囲んで悪口を言って何が楽しいのか。

「まあ、関わっちゃいけないと思うんだけどねえ」

そう言いながら進行方向を公園へと変える。何か今日はスッキリしないからな。気晴らしに人助けでもしようと思った。

 「おまわりさん! こっちこっち」

そう大声を出しながら道路の方へと手を振る。

「やばッ!」

「ちっ、逃げるぞ」

 俺の声を聞いて蜘蛛の子を散らすように頭の悪そうな女子達が公園を去って行く。こんな古典的な嘘でも後ろめたいことをしている奴等には効き目あるんだなあ。苦笑いを浮かべながら蜘蛛の子達を見ていた。

 「おーい、大丈夫か」

蜘蛛の子達が見えなくなってから公園へと入り、ブランコに腰掛ける女子に声を掛ける。

「……」

俺の声なんて聞こえてないかのようにブランコの女子は足元を見つめていた。というか、本当に聞こえていないのか? もう少し近付きブランコの女子に近付く。

 近づくと分かるが髪はボサボサなだけじゃなく汚れていた。シャツも皺が多く、もしかしたら何日か洗濯していないかもしれない。少し酸っぱい匂いもする。女子って無条件に良い匂いがすると思っていたが、あれはシャンプーとか洗剤の匂いだったんだなあっと、女子の真実を知った瞬間だった。

 「おーい」

頭をポンポンと叩きながらブランコの女子に声を掛ける。普段なら絶対にしない行動だったが、気付けば頭を触っていた。何故か父性をくすぐられたのか、小さい子に対する愛情のような物が湧いてしまったのかもしれない。ついさっきまでイジメられていたから庇護欲をそそられたのかも。

 理由は分からないが、普段の俺なら絶対にしないことを初対面の女子にしていた。

 「むッ!」

俺の手を思い切り振り払い、敵対心を剥き出しにして睨み付けて来た。初対面の男に頭を触られたら怒るのも当然だろう。悪い事をしちゃったな、と罪悪感が湧いて来そうなっていた時だった。

 俺の腕を振り払った時の勢いで長い前髪に隠れた顔が見えた。それが可愛いかった、とかそういうのもあった。だけど俺が惹かれたのは左目に刻まれた大きな傷痕だった。まぶたの上から目の下までの大きな傷痕。その傷のせいで左目は常に閉じられていた。

 それが俺の理想とピッタリ過ぎて払われたばかりだというのに、気付けば左目の傷を撫でていた。眉間に皺がより、口はキツく閉じられ嫌悪感を剥き出しの表情で再び俺の顔を睨み付けていた。

 だが、その表情は躊躇いを帯び始め、振り払われると思っていた右手は傷を撫で続けていた。無言で俺の愛撫を受け入れていた。

 「俺のものになってくれ」

気付けば俺はそう口走っていた。俺の傷フェチもヤバい所まで来てしまったな、と口にしてから思った。

 「うん……」

でも何故か目の前の女子はそれを受け入れた。俺の傷好きが伝わったのか、それともこの子も傷好きなのかなと、のんきなことを思っていた。

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