001 少女の憂い
「……ひまだなぁ……」
穏やかな冬の風に、そんなか細い声が舞う。
あまり目立たない短めのツーサイドアップの黒髪が、さわさわと優しく揺れている。
ここは東京二十三区の西の端に位置する、杉並区。
JR荻窪駅西口から南に延びる空中通路は、オレンジに輝く夕陽に照らされていた。
今は、帰宅ラッシュ直前の午後五時。或いは談笑しながら、或いは電子機器の画面を見つめながら、幾人もの人々が通り過ぎていく。
通路の窓辺にもたれ掛かっていた一人の少女は、雑踏に埋もれながら誰にともなく再び言った。
「……なんか、楽しいことないかなぁ……」
別に、深い意味があるというわけではない。少女は瞑目し、今度は心の内だけに呟く。
──だって実際、ヒマなんだもん。部活には入ってるけど、別にやりたくて入った訳じゃないし。ただ何となく、何にも入らないってのもニート呼ばわりされそうで嫌だから入っただけだし。
もう三ヶ月近く行ってないけど、まだ私って在籍してることになってるのかな。寂しそうな顔をしてそう口にすれば、少しはこの虚無感が補われるような気がした。
遥か彼方、ビルやマンションの谷間に沈んでいく夕陽に、独り言の少女──
ちょっとの間だけ漂っていた人魂のようなその息は、発車する電車のアルミ車体が起こした風に煽られて、瞬く間に見えなくなってしまった。
悠香は、中学受験の名門校である『私立山手女子中学高等学校』に通う、十四歳。中学二年生だ。
……名門に通う生徒とは言っても、別に小学校の頃から天才だったとか、ガリ勉だった訳ではない。ちょっと前まではどこにでもいる、ごくふつうの小学生だった。クラス内での扱いは専ら、『諦めが悪くてちょっと天然っ気のある女子』といった感じだった。別に自称していた訳ではないのだけど、いつの間にかそんな風に評価されるようになっていた。
転機は小学校四年の時だ。そろそろ入った方がいいのかな、くらいの気持ちで受けた入塾テストで、たまたまとんでもなくいい成績を取ってしまったのである。おかげで塾の先生に『君は山手女子生の素質がある』などと凄い目で必死に説得されて、半ば釣られるように中学受験をすることにした。確かあれは、夏休みの真ん中くらいだっただろうか。
──あの時、先生の言っていた『素質』っていうのが何なのか、未だに私にはよく分からないけど。
夕陽を見詰め、悠香は目を閉じる。
──私たち、よくもまぁ山手女子なんて学校に入れたよね……なんて話で、今でも学校で時々盛り上がるんだ。それだけみんな、きっと自分の合格が予想外だったんだろうな。合格を伝えた時、友達が驚きで開いた口を塞げないでいたあの顔、今でもはっきり覚えているもん。
風が、頬をそっと叩いて、どこかへ流れていく。金属と金属とがぶつかり合う重たい音が、すぐ眼下を走っていく。
──だけど今、こうしてゆっくり考えてみると、私ってこれまでずっと、他人の敷いたレールの上を走ってきただけだった。
──塾の敷いたレール。
──親の敷いたレール。
──学校の敷いたレール。
──ウチの学校の理念の一つは『自分をきちんと律する事の出来る人物』とかだった気がするけど、全然守れている気がしないよ。お母さんに「勉強しなさい」って言われなきゃ勉強しないし。その勉強にしたって、いちいち指図されないと何をやればいいのかまるで分からないもん。大体、自分を律するってどういう事なんだろう。
すぐ真下を、オレンジの帯に彩られた銀色の電車が走っていく。普段は自身も通学に使っているその灰色の屋根を、悠香は通路の上から見下ろした。
私って、ちょうどあんな感じだよね。そう思った。
人に言われた事しかできない自分。人に指示を仰ぐしかない自分。対して下を走るのは、決められたコースを辿ることしかしない、出来ない、もしくはさせてもらえない、電車。
それは、もっと似ている表現をするとすれば。
ただ他人の言うことを聞くだけの、ロボットみたいなものだ。
──……これからもこんな生活で、いいのかな。
今の生活、楽しいのかな。
そんな事を、一体どれほど考えていたのだろう。気づけばさっきまで見下ろしていたはずのオレンジ帯の快速電車は、遥か彼方に蜃気楼のように浮かぶ隣の駅のシルエットに隠れ、もうどこにいるのか分からなくなってしまっていた。
もう毎日のようにここに立ち寄っては、同じことばかりを悩んでいる。考えてだけいても仕方ないのは、分かっているつもりなのだが。
「まぁ……いいや」
もう一度銀色に輝く線路を一瞥すると、悠香は空中通路から延びる階段を一段ずつ踏みしめるように、ゆっくりと下りていった。
一月の寒波に冷やされた手すりは、いつもにも増して冷たかった。
◆
私立山手女子中学高等学校。
東京都新宿区に籍を置く、女子校である。
創立からの歴史はおよそ九十年に及ぶ、ここ東京でもトップクラスの『名門校』だ。本家でもある姉妹校の男子校『私立山手中学高等学校』とは元来は別の学校だが、運営母体を共にしているため各所で提携が行われている。
『自由』とか『リベラル』とでも形容するのが適当な校風を有しており、その度合いは並大抵の学校の及ぶところではない。校則や制服など制限の類はおよそ全く存在せず、文化祭から体育祭に到るまで全てのイベント類の管理が完全に生徒に任されている。生徒主体の意思決定機関である生徒総会は、学校運営に大きく関わるレベルの力を持っている。
そしてその地位の高さと進学率ゆえ、中学受験界では現在も『関東女子四天王』と呼ばれる名門校扱いだ。山手を受けると言えば、場合によってはまるで日本最高峰の東都大学を受験する者のような目で見られる。かつては進級するのも難しいくらい、授業が厳しいこともあった。
だが。
今の山手女子は、進学校としては明確に切羽詰まっていた。
かつては全国の女子校でトップクラスだった国立大進学率は、今や下がる一方だった。全体的な学力にしても教養の度合いにしても、全国レベルで見ればまだ高いところには留まっているのだろうが、往時のそれと比べれば劣化していると言わざるを得ないレベルでしかない。少なくとも外部の『識者』は、口を揃えてそう言う。
さらに始末の悪いことには、生徒──ともすれば教師さえも、その自覚を有していない者が多かった。
原因が特にはっきりしている訳ではない。かの悪名高き『ゆとり教育』が引き金になったんだとか、学力テストの結果に顕著なように日本人が前より全体的にずっと愚かになってしまったんだとか、この手の事を報じる雑誌や新聞の意見は千差万別だ。山手女子の先生たちも人によって様々な意見を持っているらしい。生徒の間でもしばしば、議論になることはある。
だが、所詮はそのくらいの認識度だ。本気で現状を変えようと誰かが動き出したことは、ほとんどゼロと言っても過言ではない。
そして、いくら目を背けていても事実は何も変わらないのである。かつての名門山手女子ブランドが、今や世間の冷たい視線に晒されるようになっているという、曲げようのない厳然たる、事実だけは。
やがて、彼らそして彼女らは嫌でも思い知ることになる。
その傾向が、『数値』という極めて分かりやすい形で可視化されることで。
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