032 爆発事故





 ここから先は、後に悠香たちが浅野から聞いた話だ。

 事の発端は一月中、今年度の山手女子中学の受験の倍率が発表されたことだった。その驚きの低迷ぶりに、以前から高まっていた危機感や学力低下への危惧が教師たちの間でも一気にエスカレートした。そしてそのタイミングで、以前からこの学校の体制に変革をもたらそうとしていた一部の教師らが、新学期スタート前に教師会に提案をしてきたのが、この抜き打ちテストだったのだ。

 生徒に対しては絶対の箝口令が敷かれているので、誰も知らなくて当然である。春休み中の努力の成果をその目で確認すべく、各人全力で臨むべし。──コピー用紙に刻まれた明朝体の冷たいその文字は、嫌でも生徒たちに覚悟を決めさせた。

 もちろん、覚悟なんかいくらしていても、先生たちの言うところの『春休み中の努力』をしていなければ実力は出せない。受験とも無縁の気楽なこの学年において、テストの結果など早くも目に見えているようなものだった。







「信ッじらんない!」


 放課後の物理実験室で、亜衣は真っ先に怒りの気持ちを吐露した。

「意味分かんないよ! いくら年度始めの節目だからって、こんなテストやるなんて話聞いたこともなかったし! しかも中身はやたらに難しいしっ! 点取らせる気、全く無いじゃん!」

 そりゃそういうテストなんだから、などと言い出せる雰囲気ではなかった。

 イスに座ったままじっとしていた悠香を横目に、陽子も亜衣に倣う。「本当、どうして今年に限ってこんなことするんだろうね⁉ あたしたちが勉強してなかったのは確かに悪かったかもだけどさ、目標も与えられていないのに勉強なんて出来るわけないじゃない! 部活だって製作活動これだって忙しかったんだしさぁ!」

「…………」

 菜摘は黙ったまま、いつも通りにパソコンに向かっていた。が、その表情には先刻のテストの結果がはっきりと滲み出ている。完全にいつも通りなのはただ一人、無表情を崩さぬ麗だけであった。

 昨日よりもさらに輪をかけて居心地の悪い空間に変質してしまったみたいだ。悠香も悠香で、ため息の一つでも吐き出したい気分だった。吐き出せたら少しは、この気持ちも軽くなるんだろうか。


 九割九分九厘の生徒にとって不意討ちとなったこのテストは、採点側の努力ので多くがその日中に返還された。大学受験を意識して比較的最近に導入された、マークシート全自動認識採点装置のお陰であった。

 案の定というか教師側の目論見的中というか、平素なら成績のいいはずの亜衣や陽子までもが、今回はみんなまとめてどん底に叩き付けられた。学年を跨いでまで自主的な予習をする感心な者は、さすがにほとんどいなかったからだ。

 悠香の点数に至っては、もはや察すべしとしか言いようがなかった。今回はそれが、当たり前のラインなのだ。


「しかも気に入らないのがさ」

 血走った目で亜衣は悠香を睨む。

「ハルカが事前にこのテストを知ってたってところだよね。分かってたんならどうして教えてくれなかったのよ。何か、ハルカにはもう色々がっかりよね」

 さっきから何度、怨みの籠ったこのセリフを言われただろう。

「だから、私だってそれっぽいことを言われただけで、テストのことなんて……」

 自分の声が、乾いた空気に響いてびりびりと鼓膜を揺らした。分かってたら教えてるよ、だって私たち友達じゃん。そう反論することはできたけれど、そんなことをしたいとも今は思えない。

「……まぁ、知ってたハルカだってあの点数だもんね」

 近くの席ゆえに悠香の点数を見ていた陽子は、強烈な皮肉を放つ。

 もう、気にしたら負けだろうな。早く作業に戻ろうと、悠香は散らかったままの実験室の机の上を片付け始めた。昨日、常願寺に頼まれた仕事だ。

 大量に並んだ実験器具をまとめる悠香に、少しして麗も加わった。陽子と亜衣は、作りかけのロボットを紙袋から取り出していた。

 二台目の作品となる輸送ロボットは、いつぞやのライントレーサーの技術を応用して製作する。与えられた任務は、指定された『積み木』の発見と確保、そしてリフトアップロボットのところまでの輸送、さらに積み上げだ。これだけの作業を、全長一メートル少しのこのロボットが一手に負わねばならない。

 最も高価かつ大切な一台なのだ。なのに作る環境は、かくも劣悪になってしまっている。


「設計図、どこにある?」

「どこだっけ……。その辺に置いたでしょ、確か」

「テキトーな管理しないでよ……」

「テキトーにやってたつもりなんてないし。それならヨーコが管理してよね」

 言葉の節々に怒りの火の粉が舞っている。

 悠香は作業工程を思い浮かべた。本体はもうかなり組み上がっていたはずだ。今日やるのは確か、駆動試験。

「レイ、電池持ってきてくれない?」

 指で目尻を掻くと、亜衣は言った。麗は頷くとアルコールランプを入れたケースを床に置いて、カバンのもとへ走る。

「これ」

「九ボルトの奴かぁ……。電圧が足りないっていう昨日の指摘、もしかしてこっちにも当てはまったりしないのかな」

 麗から掠めるように取った電池を、訝しげにこねくり回す亜衣。言われてみれば、こっちだって十分な起電力を有しているとは限らない。また長良さんに聞いたら教えてくれるかな、と悠香は思った。そんなに上手くはいかないか……。

「あれってさ、新たにお金を使って強いのを買えって事だよね」

「いいよなぁ、天下の物理部様は。どうせ部費で購入代金が下りるんでしょ? あたしたちみたいに無尽蔵に使えない人種の気持ちは考えてくれないんだもん」

「傲慢だよね、マジで」

 その言い方に、さすがに悠香は口を挟んだ。「ねえちょっとみんな、長良さんは親切心で教えてくれたんだよ? それなのに──」

 が、目の前の二人にはそんな言葉は届くはずもない。

「ハルカは黙ってて」

「そうそう、早くそっち片付けてよ」


「…………!」


 ぶちっ。

 何かが千切れる音がした気がした。それが堪忍袋の緒だと気づいた時には、セリフが既に口をついた後だった。

「なんでそうやっていつも私を仲間外れにするの⁉」

 悠香はプリントの束で机を思い切り叩いていた。バン、と大きな音が教室にこだました。

 それまでこちらを見てもいなかった陽子や亜衣やみんなが、悠香に驚愕の顔を向け、言葉を失った。悠香は普段、そんなに激昂するようなタイプの人間ではない。何だかんだと周りにいじられながらも腹を立てたことなんてほとんどなく、いつも笑っているだけだったのに。

「みんなの言う通りだよ! 私、バカだよ! 勉強不足だよ! それは私も認めるし、違うなんて一度も言ってないし! だけど、どうして仲間外れにならなきゃいけないの⁉ 私そんなに悪いことした? 議論から遠ざけられなきゃならないほど、私って邪魔なの⁉」

 思いの丈の全てを悠香は声に乗せ、そして投げつけた。そうだ、ずっと不満だったんだ。いつだって他のことに回されて、いつだって本題に主体的に関われない自分が。納得もいかなかったし、せめて訳が知りたかったのだ。もう、止まれる気がしない。

「私をリーダーに据えたのはみんなじゃん! だったらもっと関わらせてよ! これじゃ私、ただのお飾り人形とおんなじだよ! 私だって、もっと……!」

「……だったらもっと、考えて動いてよ」


 陽子の低い声で、悠香の勢いは塞き止められた。

 あれほど胸の中で猛り狂っていた気持ちが、すんなり出てこられなくなった。あ、とかう、とかしか喋れない悠香に、陽子は尚も追撃を浴びせる。

「ハルカってさ、何もかもが受動的すぎるんだよね。たまに何か意見するかと思ったら、中身のないアイデアしか話さないし。関わりたいなら相応のことを考えてよね」

「本当だよ。そうやって色々言う前に、まず自分のやること終わらせたらどうなの?」


 お説、ごもっともだった。頼まれたこともこなしていない今の悠香に、何を言っても力はない。

 振り上げた拳が、そのまま自分に返ってきたみたいだった。悠香は今度こそ完全に炎を消されて、その場に頭を垂れたまま立ち尽くした。

「あーもう、ただでさえ足りない時間が短くなったじゃん……。早くやろ、試験」

「そうだね。ナツミ、プログラムってもちろんもう出来てるよね」

「うん、出来てる」

 慌ただしく亜衣が走り回る様子も、虚ろな顔で振り返った菜摘の姿も、何もかもがスロー再生で見えた。

──私、どうすればいいの?

 悠香は自問する。しかし、答えなんて何も生まれては来なかった。

 また何やら、亜衣と陽子が喚いている。何かを言いたそうに、麗が口をすぼめている。大きなベニヤ板に取り付けられた駆動モーターを引っくり返し、電池ボックスから伸ばされたコードがコネクターを挟む。電池ボックスにはもう既に、直方体形の電池が三つも入っている。さっき亜衣が入れたものだ。回路そのものはもう点いていて、いつでも菜摘の発する指令を受けられるようにライトが点滅している。真っ赤なその光が、揺らめいている……?


 コードが接続された瞬間。

 菜摘の指令を待たずしてロボットが急発進したのが見えた。

 それは以前に菜摘に聞いていた速度よりも、明らかに何割か速かった。亜衣が悲鳴にも近しい怒鳴り声を上げ、麗が地を蹴る。けれどそれでは、遅すぎた。

 ロボットはあっという間に、悠香の死角へと飛び込んでいった。そのモーターが火花を盛んに散らしていたのを、悠香は見逃さなかった。まだ麗が撤去し終えていなかったアルコールランプが、死角の先に何十個も置いてあるのを、悠香はまだ覚えて────!


 バンッ!

 断続的な爆発音が、実験室に響き渡った。

「やばい! 水! 水持ってきて!」

 陽子の声で悠香は我に返った。と同時に、最悪の事態が起きたことをはっきりと自覚した。

「私が行く!」

 悠香はぱっと走り出した。目的地は、実験室の外にある水道の蛇口だ。手近にあったビーカーを引っ掴み、手の中でぎゅっと握り締める。

「れっレイ! そこにまだ残ってるアルコールランプを早く退──きゃあっ!」

 ボン、と再び爆発が起こり、悠香の開け放ったドアから溢れてフロア中に共鳴する。水を溢れんばかりに汲んだ悠香は、大急ぎで引き返した。

 原因は何か。恐らく火花のスパークが、勢いで倒れたアルコールランプの中身に引火したのだろう。

──だとしたら、まだ……!

「みんなどいてっ!」

 叫びながら、ビーカーの水を悠香は床にぶちまけた。

 が、逆効果だった。水に撥ね退けられたアルコールは燃え広がり、その勢いを増したのだ。

「そうか! 油だから水を寄せ付けないんだ……!」

 指示を出した陽子の顔は真っ青だった。

 打つ手がないのは明白だった。青白い炎を上げて燃え上がるアルコールを収められる者は、ここにはいない。きっと、何をしても逆効果だ。


──そんな、そんな……。

 どうしてこんな事に。ビーカーを握ったまま、悠香はみんなの一番前で炎を見つめていた。




 ただなぜか、強く思った。


 リーダーのせいだ、リーダーが責任を取らなきゃいけないんだ…………と。





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