033 事故の行方





 その時だった。

「ピリリリリ! ピリリリリ!」

 天井からけたたましい電子音が降ってきた。煙探知機が、異常を察知したのだ。

 ものの十秒と経たないうちに、準備室のドアが吹っ飛びそうな勢いで開いた。駆け込んできた高梁は初め、何が起こっているのかまるで分からないような顔をした。

 その瞳に、炎の赤がゆらりと映る。弾かれたように高梁は怒鳴った。

「常願寺、今すぐ耐火毛布を持って来い! 場所は説明したはずだ!」

「分かりました!」

 常願寺の声が返事をする。それを確認するや、高梁は棒立ちの五人にも叫んだ。「何をぼうっとしてる! ドアと換気扇、それに窓を閉めろ! この部屋の空気の循環を断つんだ!」

「はっ、はいっ!」

 言われるがまま、悠香たちはそれぞれを閉めに走った。全ての空気の出入り口が塞がったところで、常願寺が実験室に走り込んでくる。その手には、真っ黒な毛布が抱えられていた。

「全体にかけろ、火を漏らすな!」

 高梁の号令に合わせて、ばさっと毛布が炎を覆った。

 アルミナを原料とする特殊な人造鉱物繊維セラミックファイバーには、一千度以上の温度下でも使用できるという耐火性がある。そんな繊維で織られたこの毛布に包まれた炎は、酸素の供給を失ってたちどころに消え去り、代わりに煤色の煙がもくもくと膨れ上がった。

 まだドアのそばにいた悠香たちに、高梁は今度は逆の命令を下した。「早く開けろ! 煙を抜かなきゃならない!」

 五人はまた走った。廊下側以外の全てのドアや窓が開き、煙は風にあおられて少しずつ外へと流されていった。


「よかった……。火、消えたぁ……」

 悠香はぺたんと床にへたりこんでしまった。焦りで引き攣っていた頬が、なんとかいつも通りに戻っている。

 ただ、怖かった。

 自分の手の届かないところで暴れる存在は、誰にだって怖いのだ。そして今、もう一つの『恐怖』が燃え上がろうとしているのが、悠香には誰よりもはっきりと分かっていた。


「……何を言いたいか、分かるな?」

 ほのかに霞む煙の向こうから、高梁が五人をじっと見ていた。

「『ルールを守って』という約束だったはずだ。器具を壊すのが、お前たちなりのルールなのか」

「え……あ……その、……」

「言い訳は無用だ。物理実験室の使用は、今後一切禁止する」

 何か言いかけた陽子を一言で黙らせた高梁は、次の一言で全員を凍り付かせた。いや、必然と言ってしまえばそれまでなのだが。

 分かっていてもそれは厳しいお達しだった。ああ、せっかく確保した部屋だったのに……。一人だけ正座の姿勢になりながら、悠香は床を伝わる高梁の怒りをふくらはぎに感じていた。

「壊れた器具類の処分と掃除をしておきなさい。常願寺、君が監督とゴミの置き場の指示を頼む」

 最後にそれだけ言い置くと、高梁は踵を返して準備室の中へと歩いて行ってしまったのだった。


「……やろう」

 亜衣の声で、五人はやっと動き出した。




 未だに湯気を漂わせる、アルコールランプの割れた残骸。その手前に乗り上げている悠香たちの輸送ロボットは、煤まみれになって黒く光っていた。電池ボックスの辺りは焼け焦げているようにも見える。

 そもそもこれが暴走したのが事の発端だったのだろうか。もしくはもっと前、呼び止められた麗がそこにアルコールランプを放置したのがいけなかったのか。そんな非生産的なことに思いを馳せるべきなのかは分からなかったが、今の悠香たちにはそれしかすることはない。


「……ごめんなさい」

 声をあげたのは、麗だった。

「私、気づいてた。電池が煙を上げてたの、私には見えてた」

 ガラス片を拾い上げながら、陽子が声を返す。「……マジで?」

 こくん、と麗は頷いた。

「煙を上げてるってことは、ショートしかけてるのは明らか……。止めなかった私が悪いの」

「…………」

「……ごめん、なさい」

 小声ながら、麗は何度も何度も謝り続けた。

 それには誰一人として、言葉を返そうとはしなかった。今はそんな事はどうでもいい、とばかりに後片付けを黙々と進めていた。

 悠香も含めた誰もが、悔しさにも似たやりきれなさを口の中で噛み締めていた。


 夕陽の差し込み始めた実験室の隅で、常願寺はそんな五人の様子をただ、じっと見つめていた。




◆ ◆ ◆




 次の日は、日曜日だった。

 物理実験室が使えなくなった今、施錠されている教室に潜入するわけにもいかない五人は何もすることができなかった。集まることもせず、自宅で各々やることをやろうと決まった。言うまでもなく、その発案者も決定者も悠香ではなかったが、もう悠香は何とも思わなかった。思わないように努めたつもりだ。

 やることと言っても、これから調達すべき部品類の確認やリストアップくらいのものだ。輸送ロボットは膨大な量の部品を組み合わせ、膨大な規模のプログラミングを必要とする。


──今ごろみんな、何してるかなぁ……。

 ふと手を止め、窓の外を悠香はじっと見つめた。

 学校の教室よりもずっと高さが低いその場所から見えるものは、せいぜい隣に広がる隣家の建設予定地くらいのものだった。杉並区は住宅都市だ、どこまで行っても家、家、家。だとしたら陽子も今、同じ景色を見ているのだろうか。

「はぁ」

 明るいセカイが見えすぎて、目が痛い。

 目を擦って伸びをすると、悠香はまたもとの作業に戻ろうとした。階下からの呼び声に気づいたのは、その時だった。

「ハルカー! ちょっと来なさい!」

 母の声だった。何だろう、とりあえず返事で存在を伝えると、悠香は駆け足で下の階へと降りていった。

 リビングでは両親が待ち構え、とても嫌な表情を浮かべている。

──怒ってる⁉

 全身の温血が冷血に差し替えられたように感じて、悠香はぶるっと震えた。こういう時、悪い予感という代物は確実に的中する。

──おかしいな。私、何か怒らせるようなことでもしでかしたっけ……。ううん、そんなはずがないよ。だって今日はまだ、ほとんどまともな会話すら交わしてないのに。

 自らの所業を指を折って数える悠香に、母は静かに言った。

「テストがあったんだって?」

 悠香は一瞬で固まった。期末ではない、あの抜き打ちテストの話だ。

 しまった、バレた。あんな悲惨な結果は見せられないと、テストそのものの存在もろとも隠し通す気でいたのに。

「他所のお母さんから聞いたのよ。もう結果の出てる教科もあるんでしょ? そうよね?」

「…………うん」

「なんで言わなかったのよ。見せなさい」

「…………」

「見せなさい」

 避けられないと、悠香はすぐに悟った。しぶしぶ、期末テストの半分以下の点がつけられたその答案を持ってくる。

 両親はバツばかりが並ぶその答案を、舐めるように見ていった。そうでなくても厳しかったその顔にはシワが寄り、口元が何度もぴくぴくと動いた。

「……なんで、こんなにできていないんだ」

 全てめくり終えた父は、静かに問うてきた。

「そ、それはその……」

「春休み明け確認テストって書いてあるだろう。まさかハルカ、勉強をサボっていたんじゃないだろうな。あれだけ毎日のように、図書館に行く図書館に行くと言っていた割には」

 悠香は声が出なかった。所属している部活が幽霊だと、両親はちゃんと知っている。ロボット作りに出掛ける口実を悠香はいつも『図書館に行く』にしていたのだ。

「ハルカ、いつだって勉強なんてちゃんとやろうとしないじゃない。この前の期末テストの物理と幾何だって、偶然でしょう? それが証拠にほら、幾何のマークテストの結果としてここに表れているじゃないの」

「分かってるのか、ハルカ。山手女子は私立の学校だぞ。成績の悪い生徒はみんな切られるんだ、つまり退学だぞ。このまま行くとハルカ、本気で進学が危うくなるんだからな」

「…………」

「人の話を聞いてるのか⁉」

 突然父がバンと机を叩き、びくっと悠香は魚みたいに跳ねた。

 こと成績の話になると、両親はいつだってこうだ。何だかんだ言って目に見える成果は大切なんだと、日頃から口を酸っぱくして言われる。

──分かってるよ。結果が出せないくらいしか努力してなかったことくらい、自覚あるよ。だけど、だけどそれには理由が……。

 迷いそうになるたび、悠香はううんと首を振った。今それを言ったら、やめさせられる。本能的にそう思ったからだ。

「学校は本来、勉学に励むところだろう。ハルカ、何か履き違えてないか? ハルカの学校が自由な校風を謳っているのは、好き勝手して遊ぶ権利を与えるためじゃないんだぞ!」

「自分をいくら騙したって、いつかは化けの皮が剥がれて現実に向き合わされるの! 今変わらなかったら、手遅れになるわよ! せっかく苦労して手に入れた環境を、むざむざ無駄にする気なの⁉」

「…………っ」

「そこで黙っているから誤解を与えるんだろう! 同じことを何回繰り返すんだ⁉」

「…………!」


 結局、何一つ自分を肯定できる言葉を思い付かなくて、悠香は説教の間じゅうずっと押し黙っていた。

 ただ、ジッパーのように口を閉じて、じっと自分の残した答案を睨み付けることしかできなかった。




「……あいつ…………」

 ドアの陰で一部始終を聞いていた友弥は、頭を振るとその一言だけを残して、二階へと上がっていった。




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