金魚鉢と主人

みなりん

本文

 この夏、あなた様はいかがお過ごしでしたか。わたくしは旅をしておりました。

海の上では潮風に、山や森では木の葉を揺らす風に、街の中ではそよ風となっていました。

 ある日、街の上を通り過ぎた時、商店街の古びた信号のそばに、風鈴がぶらさがっていました。色とりどりできれいでしたので、わたくしは、そちらへと舞い込んだのでした。


リン リン リン リン リン


「ああ、いい風が来たよ」


店のご主人が、お茶碗を磨く手をとめて、つぶやきました。

店内には、御飯茶碗や湯飲み茶碗、お皿や花瓶などが、たくさん置かれていました。

しばらく眺めていましたら、とても素敵な入れ物があったのです。

それは、透きとおった丸っこいガラスの入れ物で、

口のところが青い波型にふちどられていて、添えられた紙には「金魚鉢」と書いてありました。

大中小と大きさを違えて重ね、麻ひもで結わえてありました。

その入れ物を、あまり目立たない場所から目立つ場所へ移して、

ご主人は、どこかへ出かけようとしていました。


 わたくしは、一足先に店の外へ出て、上空へ舞い上がりました。

道幅の広い道路が見えます。

アスファルトの匂いが立ちこめています。

道路が、まだ、完成していないのですね。

わたくしは、アスファルトの乾き具合をそっと、確かめました。

まだまだなようです。

工事現場の人たちは、離れた場所に敷物をしいて、お弁当を食べていました。

わたくしは、そよ風となって、その人たちの上を通り過ぎました。

いい匂いです。

しかし、風であるわたくしは食事をとりませんので、関係ないのです。

丘を一飛びし、水田の稲を揺らし、ゆるやかな小川のふちへ来て、ひと休みをしました。

さらさら流れる川の瀬音が涼しげです。

小川には、小さなメダカたちが泳いでいました。

メダカたちの横には、おたまじゃくしみたいなまっ黒い魚が一匹、メダカたちのそばにいて、なにやら教えているようです。

 そこへ、お茶碗屋のご主人がやってきました。

バケツと桶を持って、こちらへ歩いてきます。

わたくしは、すこしよけて、様子を見守ることにしました。

ご主人は、メダカのいる場所を知っているのか、水面を眺めていましたが、やがて、そっと小川に桶をくぐらせました。

何回かその動作を繰り返すと、たくさんのメダカがとれました。


「おやおや?」


ご主人は、一番最後にねらいを定めて、まっ黒い魚を一匹すくいました。

不思議そうにしばらく見つめると、やがて、まっ黒い魚をメダカたちと一緒にバケツに移し、元来た方へ帰っていきました。


「メダカの学校の先生と生徒が、野蛮人に連れて行かれた!」


草むらの中に身をひそめていたアマガエルは、そう言ってぴょんぴょんはねて、水の中へ飛び込みました。

メダカの学校の先生と生徒を、ご主人が連れて行ったというのでしょうか。

風であるわたくしには、水の中のことはわかりません。

それでも、捕まった魚たちのことが気になり、ご主人の後を追いかけました。


リン リン リン リン リン


「ただいま。つかまえてきたよ、ほら」


ご主人は家につくと、奥さんを呼んで、バケツの中を見せました。


「まぁ、元気に泳いでいるわね。野生のメダカは丈夫なんですってね。この黒い魚は大きいおたまじゃくし?」

「おたまじゃくしじゃなくて、金魚みたいなんだよ」

「川に金魚が泳いでいるわけないでしょ・・・あら、ほんとだわ」


よく見ると、その魚は、黒い出目金でした。

出目金というのは、川で泳ぐ魚ではありません。

人の手で育てられて、金魚屋さんで売られている魚です。

それなのに、どうして小川のせせらぎのようなところにいたのでしょう。

お茶碗屋のご主人は、大きな大きな金魚鉢に玉砂利をしき、汲み置きの水と川の水、水草とエアーポンプを入れると、魚たちを移しました。


ブク ブク ブク ブク ブク


透明な風であるわたくしは、エアーポンプの風になって大きな大きな金魚鉢の中に入り込みました。

魚たちの話し声がします。


「みんな、無事だったかい?さあ、もう大丈夫だ」

「ここは?」

「どうなったの」

「せんせい」

「だいじょうぶ、心配はいらないよ」


 大きな大きな金魚鉢は、店の表だった場所に置かれましたので、

学校帰りの子供たちや、通りがかりの人が、のぞいていくのでした。

メダカたちは、怖々と泳ぎ回りました。

硬直して動けないものもいました。

 夜になり、カーテンは閉められ、お店の戸締りが終わると、ご主人と奥さんは家の中へと引き上げて行きました。

出目金先生は、落ち着いた態度でメダカの生徒たちに接していました。


「せんせい、おなかすいた」

「みんな、今日は、授業も中途半端になってしまったし、びっくりしてお腹もすいたね」

「はい」

「明日、人間さんが来たら、食べるものをくれるようにお願いしてみるよ。だから、安心して、おやすみ」

「せんせい、どうやるの?」

「それは明日のおたのしみ」

「へぇ」

「ふふふ」

「ねむくなった」

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 翌朝、カーテンから日の光が入るずっと前から、

出目金先生は、水の温度とひれの調子を確かめ、人が来るのを待っていました。

足音が聞こえてくると、出目金先生は、それを聞き逃しませんでした。

メダカの子たちは、胸をどきどきさせています。


「はじまるね」

「うん」


出目金先生の舞の演技のはじまりです。


金魚鉢中央にて気をつけの姿勢から、

左へひらひら、

右へひらひら、

夢見るような妖精の舞、

一転して野性魚を思わせるアクロバット、

流れるような、美しいひれさばきは、お見事。

終わりは、水面へ上がり、口をぱくぱくと開いて、数秒間のバランス。


それを見たご主人は、ぱちぱちと拍手をしました。


「はははは!元気そうでよかった。腹が減ったか?」


朝ごはんにと、えさのつぶが落とされますと、メダカたちは、わっとえさに飛びつきました。

出目金先生は、舞の演技を終えて、中くらいのあぶくを一つ二つ作って後ずさりました。

ほっとしていると、


「出目金くんには、こっち」


先ほどのエサより、すこし大きな粒が落とされました。

出目金先生は、ありがたく食べてお腹がいっぱいになると、昼寝をしてしまいました。


「せんせい、ねちゃった」


メダカの子たちは、自分たちなりに話しあい、

“ある計画”を思いつきました。

昼寝の後に、その計画を聞いた出目金先生は、言いました。


「何事も経験ですから、やってみなさい。そのためにはまず、数字を覚えなくてはなりませんね」


さて、何がはじまるのでしょうか。

 次の朝になりました。

ご主人は、金魚鉢の前に行くと、びっくりして、すぐに奥さんを呼びました。


「おーい、かあさん、ちょっと見てごらん」


ご主人は、その瞬間を見逃してしまいましたが、わたくしはしっかりと見ていました。

むかって左のメダカの子から、「せーの」で順番に、口を開けていくのを。


「いち」

「に」

「さん」

「よん」

「ご」

「ろく」

「しち」

「はち」

「きゅう」

「じゅう」

「じゅういち」

「じゅうに」


みんな一生懸命です。


「あら、可愛いこと!」

「メダカの整列なんて、はじめて見たよ」


昨日、出目金先生の舞の演技に感動したメダカの子たちは、自分たちもなにかをしたいと思ったのですね。

 その日から、出目金先生とメダカの子たちは、芸をみがき、泳ぎも一段とうまくなっていったのです。

整列、

たて泳ぎ、

十字隊列、

マラソン泳ぎ、

アクロバット泳ぎ、

などなどを練習し、お茶碗屋のご主人や奥さん、それから、お店に来るお客さんを楽しませるようになったのです。

わたくしも、出目金先生とメダカの子たちがすっかり好きになり、

朝も昼も夜も、透明な空気を水の中に運び続け、ときどきはおもしろいかたちのあぶくをつくって、メダカの子と遊びました。

エアーポンプの風として、できる限りのことをしたいと思っていました。

 そんなふうにして過ごしているうちに、季節は、いつの間にか、秋になりました。

ある夕方のことです。

店を閉める前、ご主人が、腕を組み、じっと出目金先生たちを見つめていました。

そこへ、奥さんが話しかけました。


「お魚たちを、どうしますの?」

「近所に、金魚好きな人がいてね、あげることにしたよ」


そして、出目金先生だけが、ビニール袋の中へ移されました。

ご主人は、出目金先生の入ったビニール袋を金魚鉢に近づけ、ガラス越しに、メダカたちと最後の対面をさせました。


「さあ、出目金くん、メダカたちとお別れのあいさつだ」


金魚鉢に残ったメダカたちは、全員、ガラスの縁に顔をつけ、出目金先生の姿を見つめていました。

出目金先生は、口をひらいて何か言っているようでしたが、その声は、メダカたちには届きませんでした。

よほどびっくりしたのでしょうね。

メダカたちは、泣いたり叫んだり、落ち着きなくうろうろ泳ぎ回り、てんやわんやの騒ぎになってしまいました。

 魚は繊細なものですね。

出目金先生がいなくなった後は、朝の時間に、隊列を組むこともなくなり、静かに水の底に沈んでいる事が多くなりました。

心配したご主人は、メダカたちを、生まれた小川へ帰すことに決めました。

 次の日、お店が開店する前、金魚鉢のエアーポンプは外され、メダカたちはバケツに移されて、たんぼの近くの、もといた小川へ放されました。

メダカたちは、懐かしい小川へ帰って来て、のびのびと泳いでいきました。

わたくしも、久しぶりに広いところへ出ることができました。

しばらく狭い場所で循環していてきゅうくつな思いもありましたが、出目金先生やメダカたちと一緒に過ごすことができて、幸せでした。

わたくしも、いよいよ旅立ちの時をむかえました。


「夏も終わりだ。そろそろ、風鈴を外そうか」


店の主人が、ふと言いました。


チリン チリン チリン


わたくしは、そっと、ご主人におじぎをして、のれんをくぐりました。

秋晴れの大空へ、一陣の風となって、舞い上がりました。


この夏の出来事は、これでおわりです。

今度は、素敵な風になって、あなた様に会いにゆきたいと思います。

それではお元気で、ごきげんよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金魚鉢と主人 みなりん @minarin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ