夫婦といえど。

ジュウベイ イトウ

第1話夫婦という病。

 出演者:川越晴彦

     川越洋子

     伊藤敦子

     石田太郎

    

     奥田さん(奥田っち)

     佐藤君


温泉宿の女性スタッフ


 キッチンの奥で、夕飯の準備をしている妻の姿を片手で缶ビール飲みながら眺めていた。最近結婚したばかりの後輩の家へ行ったときの会話をふと、思い出していた。俺も彼もキッチンで料理をすることが苦にならない男であった。苦にはならないが、が形容詞で初めに付く。例えば「料理が得意だ」って知り合いの女性に言えるほどものでもなくて、例えば趣味「料理」とは書けない程度ということだ。趣味というのは、例えば買い物に行かなくても冷蔵庫の中のものでパパッと出来てしまう人のことを言うのであって、レトルトの素を使って若干豪勢に盛り付ける程度の料理を行うなんて…まぁそれを料理とはいえるかというと…どうなんだろうね?。だからレパートリーもレトルト分くらいしかないわけで、できる料理数も限りなく少ないしどこかで食ったことがある味になってしまう、ありきたりのちょっと微妙な味なわけですよ。レトルト製品を使ってもそこそこうまい料理に化けるやり方はあるだろうけど、そこまでは、ね。って…この話もたいして盛り上がりそうにないのでこの辺で軌道修正するとしよう。

 私が後輩の家に行った理由は、その彼が(私に)いつも世話になっているので、たまには自宅で我々を持て成したいと言ったからである。本当は、久しぶりの休日ということもあり妻と映画へ行く予定だったのだが、急な用ができて妻は早々と自宅を出て行ってしまった。なので、失礼ながら暇つぶしに後輩宅へ行ってみることにした。

 その日の彼は、多分いつもしているであろう姿でキッチンの前で料理を作っていた。彼の顔を見る限り、今回の料理の出来も完ぺきだ(まぁ言うなれば、ドヤ顔というやつで)と言いたげな様子が、私にも手に取るように分かった。先輩としては、仕事もそんな感じであってほしいところだがそうもいかないのが世の常。しかし、彼の妻の反応が今ひとつはっきりしないのが気になっていた。そんな何とも言えない空気感の中で後輩が妻にこう切り出した。

「おいしい?」と。

 すると、

「…」

 妻は、間を置いて、

「ちっともおいしくない」

とピシャリ。

 私は、いつも我慢しているの的顔で。客が来ていることはお忘れですか?空気読めない例のやつですか。空気読めない方がいい的な書籍が巷で結構売れている(らしい)私は、そういった書籍を一切読まない派だ。ん…なんか読む理由がよく分からない。洗脳か何かかとも思ってしまうので怖いから一切読まない。じゃ、漫画や雑誌を読むのかと言われるとそれもほとんど読まない。活字を読むのは、読みたいときにしか読まない。無理してまで読みたいとも思わない。読みたい時がそのときであって、年間何冊以上読みますか?的なSNSの話題が時たまあるアップされているけど、そんな記事私にはどうでも良くて、まぁ今は全く読まない。そんな時期なんで仕方なし。

「…」

「…」

「折角、一生懸命作ったのに…」

 反射的に、彼はボソッと言い返した。私もまぁそう言うだろうと安易に想像がつく。私も多分そう答えると思う。あぁ~あ、かわいそうだとさえ思ったのだが…。男共は詰めが甘い訳ですよ。

「…」

「…自分の都合でいつも作っているじゃん。私や川越さんの気持ち考えて作っているの?買い物もちゃーって勝手に行っちゃったし…もう…おいしいとかおいしくないとかそういう問題じゃない。本当にもう…自分勝手なんだからさぁ…一生懸命作ってくれたのは嬉しいんだけど…なんかムカつくのよね。憧れの先輩川越さんが来るからってルンルン気分になっちゃってさ。なんかムカつく。分かる、私の微妙な女心。分からないよねぇ…もう…まぁいいんだけど。早く盛り付けて食べましょう。ワインもあけなきゃねぇ…はいはいっと…」

とキッチンの蛇口をひねりながら続けて答えた。絵に描いたような構図だった。まぁぷんぷんだった。今日、いま言うかな?と若干ひくくらい。

「…」

「…」

「まぁまぁ…奥さん。彼も悪気があってそういう行為をしたわけではないので、まぁまぁ…」

 それくらいしか言いようがなかった。

「そうなんですけど…なんかあ浮かれすぎやしませんこと…。まぁいいんですけどねぇ…いつもそう気持ちでやってくれればいいんですけど…」

「まぁまぁ…お前もなんとか言いなさい」

「あっはい…」

「ダメだ、こりゃ…」

 彼は妻に指摘され、はっと気づいたのだった(なんとも分かり易い仕草がどうも、ね。。)おそらく彼は自分の空腹を満たすために作っていたのだ。それだけでも十分押しつけがましいことではあるが…。(口には出さなかったが、出して火に油ってのもまぁね)後輩の彼は、私の好物を一切知らない。彼とは何度も一緒に飲みに行ったこともあるし外回りも一緒に行ったこともあるが、そんな食の話題で盛り上がったことは確かなかった。例えば、せっかく気持ち良く客人をおもてなそうと思っていても、いざテーブルの上に並べられた料理の数々が嫌いな物ばかりならべられると、客人の気分を害するだけである。(しかしそのようなケースは、まぁまれで今回も嫌いな食材は出なかった)そのような失礼な態度を取った彼が、いつも妻のオーダーなど聞いているとは考えにくい。今回の客人が、社外の人でなく私で良かったと思う。なぜ、彼は「一生懸命つくっている」などと口走ったのか?一般的に「一生懸命」という言葉は、美徳とされている。しかし辞書によると、命を懸けるほど「切羽詰まった状態」を意味しており、むしろ見苦しかったりするわけです。むしろ格好の良い物ではない。と感じ取れる。後輩の場合に置き換えると、妻からあなたの行動はどうなの?食べる前の行為を、かんぷ無きまで否定されたので、それ対してつい反論してしまい「一生懸命さ」アピールしそれを訴えてしまったのである。「一生懸命」は、何か失敗したときに初めて生まれる言葉なのである。総じて人の心は、そういう「ものではないか」と私は、思う。物事を考えて生まれてきた人は、この世にいるわけもなく…。何かうまくいかなかった時に、だいたい人は、初めてその事についてきちんと向き合い考える。考えない愚か物を除いて。つまり人の心は最初から出遅れる宿命かも…と思いつつ。言い訳かもしれませんが…ね。このあたりの前後関係をはき違えるとですね、失敗は「大失敗」に繋がるわけです。特に相手が女性の場合は。今後も気を付けたい。

「一生懸命やっている」

 と、そう言いたくなったら一旦「言葉」を飲み込み、何を失敗したのかをよくよく考えるといいかもしれません。その日、学んだことは、「命は懸けずに冷静に」という言葉であった。命あっての「心」と「家族」です。いつの世も「女性、強し」ですね。自分の妻の姿を思い出しながらそう思った。

「…」

 自宅のテレビは、サッカー中継を映している。水曜日のに撮った録画を見ている。今年のガナ(アーセナル)はなかなかいい位置につけており私としてもとても気分がいい。優勝して欲しいが…さて。いつの時代にもライバルがいるわけで。今年のレスターは、相当強い。果たして…。

「…何、ボーッとしているの?お皿並べてよ、晴彦。もうそろそろできあがるわよ。ねぇ、聞いているの?晴彦!」

「…うん?おっおぉ…」

 私は、重い腰を動かしながらキッチンへ向かった。当然ながら妻は、私の好物を知っている。後輩宅であったようなつまらない(失礼)ハプニングなど起きようがない。飯良し、顔良し、気前良し?なんて。私には出来過ぎた最高の嫁です…はい。いつまで経っても(私は)妻に頭が上がらない、手の上転がされているサルのような男です。それでいいんです。

「お皿…並べてよ!ったく何もしないんだから…聞いている?もう…晴彦ったら…サッカーばっかり。球ころがしのどこがそんなに面白いのよ?もう…。まぁいい男は確かに多いけどねぇ…さぁさぁ…」

「はいはい…」

 自分の大好物“唐揚げ”を一つほおばりながら答えた。

「何食べてるのー行儀わるーい。あぁーーーーぁーいけないんだぁーーーお義母さんに言ってやるーーーお宅の息子はどんなしつけを…」

「うるへー…(うまっ)」


 変わるもの

 変えられないもの

 それは

 人の心なり 


「…」

「おはよう…晴彦」

 そっと、目を開けると、目の前に妻の洋子の顔があった。

「…」

 相変わらず容姿端麗。お見事。

「…ん…おはよう…」

 洋子は、ニコッと笑いながら喋った。そういう時の妻とあまり喋りたくない。きっと、大変なこと面倒くさいことが起きる。そういう予感がするわけです。間違いなくそうなる。的中する…。

「…」

「…ん…」

 もうひと寝り…と。もぐりながら…。

「まだ…起きないの?」

「……ん…」

「もう…ちょっとだけ寝かせてくれる…と大変有難いです…」

 今日は、確か日曜だ。間違いなく日曜だ。昨日が土曜だったので間違いない。その日曜くらいゆっくり寝かせてくれよ。と大半の旦那はそういう意見だろうし私もその意見に大いに大賛成である。

「…そう」

「…」

「なぁ~んだ、起きないの、もう朝なのにねぇ~~あぁ、時間がもったいないもったいない…あぁ…もったいないなぁ…」

 ベッドの上に腰を下ろしながら鼻歌ならぬ洋子歌が聞こえてくる。     

「…ねぇ…晴彦…」

「…」

 ビクッと。

「…ん…?」

 布団の中からつい反応してしまった。「ヤバッ…」と心の中で思いつつ。

「…日帰り温泉、行かない?近所の」

布団の中に入りながら喋って来た。一瞬、体感気温が5℃は上がったような気がした。間違いなく上がった。洋子の手とは対照的。彼女の手はひんやりしていた。

「…」

「さっぶいなぁ…もう…」

 洋子は、ぬくぬく俺の身体に抱き付いてきた。洋子の身体は、割と肉付きがいいというかグラマーな体格なので直接触られると意外に気持ち良かったりもする。そこに惚れたんだなぁ、きっと。

「…」

「ねぇ、感じた?」

「…」

「…全然」

「嘘ばっかり」

 ニヤッと笑いながら私のお腹をさすった。

「…」

 おっしゃる通り、確かに。お見事です。感じなわけないわけで。身体はうそを着かない。

「…」

「…何で行きたいの?温泉」

 隣にきた洋子に言った。

「行きたいから行きたいの。行くのに理由なんかないわよ」

「…理由がないなら行かない。めちゃ疲れているし…」

 再度、布団に深く潜った。

「…」

「じゃさ…」

「今日、何の日か知っている?」

「…」

「…えぇ…?」

 私は、背中を掻きながら答えた。

「ほんとに知らない?」

「…」

「…ん?」

 キョロキョロ??

「知らないし分からない。っーか、2月にお祝いの「記念日」なんかないでしょ」

 唯一“記憶力”だけは洋子より優れている…と思いたい。多分。

「…そう。ないわよ、そんな記念日!」 

プゥーとホッペタを膨らませながら仏頂面になって、布団をまくり始めた。

「こらっ!!さっさむっ!」

「面白くないよ、こんなの全然」

「面白くないのはこっちだよ。寒いから…布団返してよ」

「…」

「…じゃぁさ、記念日がないと、どこにも連れてってくれないわけ?」

 お決まりのセリフですが。何か。

「…」

「どうしたんだよ、急に」

 やっぱりこの展開。微妙な展開。

「…」

「もう…「急」じゃないわよ。ずっと、行きたかったの。知らなかったのは、晴彦だけよ。このところ、ずっとお仕事お仕事でいっつも夜遅かったじゃない。詰まらなかったの、この私は。最近全然面白くなかった。あぁ~ツマラナイツマラナイ。たまには、サプライズっていうかさ、こう…なんていうのかな?黙って私を楽しませてよ。あなたは、私の「夫」でしょ…ねぇ…晴彦」

 関を切ったように喋り始めた。

「…」

「…何か言ってよ、晴彦」

「…」

 「確かになぁー」と心の中で呟いた。このところ、お仕事ばかりで洋子の顔をまともに見たことがなかった。それは申し訳ないと思っている。が、仕事中心の生活を送っていたのは、何も俺だけのせいじゃない。彼女も同じくらい忙しかったはずだ。たまたま今はお互い仕事が重なっているだけで、日頃何もしてないと言わんばかりに文句並べられるのは、ちょっとどうかと思うわけです。妻という生き物は、仕事が忙しければ文句を言うし、収入が少なければ「少ない」と文句を言う生き物だ。一体どっちがいいというんだ。と、世間一般の皆様もそう思うでしょう。私もそう思う一人です。そのどこか悪いのかと言いたいがうまく伝える話術がないあ。困ったもんだ。ないから文句に聞こえてしまう。「あぁーだこうだ!」と声を大にして言いたいがそれも言えない。世の男性は、なんて弱い生き物なんだ。

「…」

「…」

 一瞬、お互い見つめ合った。

「…」

「じゃ………」

 ここで「どこにも行かない」って言ったら、一ヶ月は、まともに口を聞いてくれないよなぁ…それじゃめちゃくちゃ困るし…ん…どうするべきか。

「じゃ~何よ!」

「…」

「…ん…」

 今日の洋子は、いつになく強気だった。参った。

「じゃ…ちょっとだけ温泉行く?」

 天井を見上げながら答えた。

「ちょっとだけ?何よ」

「…」

「…そうそう…。ちょっとだけ。足つかるくらい…そんな感じのちょっとだけよ的な…発想で…どうでしょうか」

「足湯?」

「…的な」

「大手町にある?」

「…的な」

「そんな浸かり方じゃ、逆に風邪引くわよ、きっと。完全にバカにしているでしょ」

「えっ…(風邪は)引かないよ。上着来てればさ…足つかるだけだし…上半身脱がないじゃん…」

「そんなの温泉じゃない。私は温泉に行きたいの!!」

「じゃ…どのくらい浸かれば温泉気分になるかな?」

「このくらい…って…あんたね…アホですか」

 俺は、片手でサイズを表してみた。

「…」

 妻は、「こーのぐらい!」とオーバーに湯船を両手で表した。

「…」

「はいはい…めちゃくちゃ深いじゃん」

「…」

「風邪引くよりいいじゃない、足だけ浸かったって、(温泉へ)行った気もしないし全然疲れも取れないよ。さっさと起きて本場の温泉行こうよ!ねぇってば…」

「…」

「え…あうぉ…」

 行く前に半分くらい一日のチカラを使い果たした気がする。これでは、先が思いやられる。一生生け贄だな、洋子の。

「さぁー起きて、行く!って決まったらさっさと行動。男は行動よ!」

「…はいはい…」

 鼻を啜りながら答えた。結局こうなるんだ。結局ね。

「…」

「うん!それでこそ、我が夫です。良く出来ました!」

「…はいはい」

 さっきまでふて腐れていたその顔は、台風の風に乗ってどこか飛んで消えて行ったみたいな爽やかな笑顔になりました。じゃん!って感じです。妻は、何事もなかったように笑って身支度を揃え始めたわけです。スパンスパンと。女とは、なんとまぁ~潔いというか前向きな生き物だろうか?いつも感心するわけです。

「…」

「…ところでさ…」

「何…?」

「あのさぁ…どこの温泉へ行くか決まってんの?」

 ボサボサの髪の毛を弄りながら行った。

「もちろん!」

 ささっとリビングに戻ってささっと戻ってくる。ありゃありゃ。

「…あっそう…」

「…ここよ!ここ」

 付箋の付いた雑誌を見せてきた。そこには「箱根湯本茶屋の日帰り温泉スポット」と書いてあった。

「……そう…ですか…」

 頬をぼりぼり掻きながら答えた。用意いいですねぇ…感心します。

「箱根湯本茶屋の日帰り温泉スポットねぇ…。予約しなくても平気なの?」

「大丈夫よ。もうちゃん電話して予約してあるから」

「はぁ…了解…です。用意周到なことで。もし仕事だったらどうするつもりだったの?」

 ふぅーとため息をついた。

「…」

「そんなこと考えもしなかったわ」

「……」

 なんとまぁ…大胆な洋子様。仕事あっても関係ねぇーってやつか。呆れて言葉が出ない。

「…」

「行くと決まったら、早く起きてちょうだい。一日なんてあっという間に終わっちゃうんだから。ボーッとしないで早く服着替えてよ。あっと、それから朝食、ちゃんと食べてから行く?」

 次から次へとポンポンと言いたいことを口走り出した。これでもかというくらいに。たくましい妻です。

「トーストでも焼く?」

「…」

「…えぇーと…ですね…。コーヒーも付けて頂けると大変有難いです。思いっきり濃いのを頂けると…助かります」

「はいはぁ~い。用意しまぁーす。旦那さまぁ~」

「…はいはい…」

 洋子は、勢い良くベッドから立ち上がった。「旦那様」なんて言葉聞いた記憶は俺にはない。何か裏があるのか?この温泉旅行には?ん?考えすぎか?

「…」

「…?」

 キッチンに向かったと思った洋子の姿が、ちょこっとだけ残っていた。残っているというかなんというか…扉のすぐ側にちょこんと。

「…」

「何?」

「…どうもしないわよ。早く着替えてね」

 ニコッと笑いながら部屋を出て行った。

「…」

「おっおう…」

 私の考え過ぎか?洋子は、何か一物を隠しているような気がした。どうして隠す?そんなことを思いながらベッドから立ち上がった。欠伸をしながらリビングへ行くと、テーブルの上には、いつものように朝刊が置いてあった。この風景は、結婚して以来ずっと同じだった。昨今、スマフォのニュースアプリが持て囃されているが我が家はキチンと新聞を取っている。洋子が私よりどんなに遅く寝ても、例えば体調が優れないときでもいつも私より先に起きて、玄関から朝刊を取りに行く光景は、結婚以来ずっと全く変わらない。その辺は、本当に口には出さないがとても感謝している。そして、読まずにテーブルの上にそっと置いてくれる。読んでも起こらないけど、夫の私を建ててくれているのだろう。たったこれだけの仕草だけでも、洋子と結婚して本当に良かったと心からそう思う。有難い。

「…」

「何?新聞なら、ほらっテーブルの上にあるわよ」

 コーヒーポットにスイッチを入れながら答えた。ウィーンという豆を潰す音さえなければいいなと個人的には思っている。臭いは好きなんだけど。単なる私のわがままか。

「知っているよ…いつもありがとう」

 心の底からそう思ったのできちんと口にしてみた。

「今、なんて言ったの?」 

「えっ?」

「なんて言ったのかな?と思って。コーヒーの豆を潰す音で聞こえなかったのよ」

「えっ?“ありがとう”って言ったんだよ?」

 ドキッとしながら椅子に座った。

「あなた、“ありがとう”って言ったの?」

「…そうだよ、そんなに“びっくりする”ことないだろ」

「びっくりするわよ。だって、そんな言葉、晴彦の口から聞いたことないから…言われ慣れてないもん」

 棚からコーヒーカップを取りながら答えた。そんなに驚くことか?

「…」

「いつもそう思っているよ、口に出さないだけだって」

「そうなの、思ってくれていたんだ…ちょっと嬉しいかも…」

「…」

「今度からちゃんと口に出して言ってよ。ちょっとした言葉だけで随分違うのよ、もう…分かってないなぁ…女心が、っつうかこの場合は、妻心が分からない人だよね…もう…」

 コーヒーカップをテーブルへ持ってきながら答えた。

「…」

「…はい」

 こういうピリ辛なセリフは、良くドラマなんかで聞くセリフだけど、まさか自分が聞くとは思わなかった。なんだか、出来の悪い夫のような気がして気分が悪い。なんか言い返せないかな…?

「…」

「…「思っている」だけじゃ気持ちは全く伝わらないわよ。テレビでタレントとかが言っているでしょ。あれは、本当に「正解」ね。言わないと半分も伝わらないの。分かってくれるかな…そういうとこ…鈍いよなぁ…」

「…」

「ねっ!」

 私の肩を叩きながら言った。

「…」

 「おっ…出てきた出てきた…いつもの良い香り!」と小言を言いながら言った。スイッチ押したんだからちゃんと出てくるってば。

「…」

「…」

「聞いている?」

「…おぉ…!」

 その言葉しか思い付かなかった。ちょっと赤面してしまった。いつもと明らかに雰囲気が違う洋子を見つめるしかなかった。新聞はまだ一枚も読んでいません。読めるわけがない。

「…」

「これで…少しは、良夫になったね!良かった良かった、良し良し…。覚えておいてねぇ…ちゃんと…メモメモ…」

 洋子は、ニコッと笑いながら隣の椅子へ座った。「早くコーヒー出来ないかなぁ…」と小言を言っている。なんだか楽しそうだった。そんな姿を見るのも悪い気がしない。むしろ嬉しかったりする。いつ以来だろうか?まともに、洋子の顔を見て話したのは?正月以来か?あの時は、お互いの実家へ行き来し気苦労しただけで、そんな良い思いはなかったような…。

「…」

「…なんかあったの?」

 率直な疑問だった。明らかに雰囲気が違うように感じる。こんなに自分の意見を言う妻を私は知らない。どうしたんだろうか?

「…」

「うん?」

 洋子が「いつも通り良い香りだわ、コーヒーのほのかな香りって幸せを感じるのよ」と思いながら、カップに注いでいるように見えた。

「なにかあったのかなぁ…と思ってさ」

「…」

「…なんで?何もないわよ」

 素っ気ない態度だった。

「…」

 ないなら特にこちらからはなにもありません。

「…そう…」

 本当か?と思いながらコーヒーを飲んだ。

「ねぇ…晴彦。何時頃出発するの?色々着替えとか用意しなきゃいけないし…。何時頃出ようか?」

 コーヒーカップを持ちながら言った。

「…ん…」

「そうだなぁ…」

 スマフォをタップしながら答えた。携帯やスマフォが日常に登場してからというもの、時計の存在価値が年々薄くなっているような気がする。まぁ、全くないというわけではないが。公の場では、持っていないと軽く見られる傾向がまだ全然あるし。

「…」

「…9時?」

 時刻は、8時30分を少し回っていた。「えっ?まだそんな時間なの?通りで眠いわけだ」いつもなら、まだ夢心地で布団にくるまっている時間帯です。分かります?この感覚。分かるヒト挙手を!って感じです。

「じゃ…9時ね。良いタイミングだわね」

 「じゃ…すぐ用意しなきゃね!」と小言を言いながら立ちあがった。

「晴彦も早く準備してね。30分なんてあっという間よ、あっという間。9時に出かけるって言ったのは、あなただからね」

「俺は、温泉行くだけだったら、このカッコでいいよ。面倒くさいしさぁ…」

 ソファーに掛かっている赤のジャージを指しながら答えた。

「えぇ…ダメダメ。そんなの全然ダメだよ。絶対ダメ。……ちゃんと着替えなきゃダメだよ」

「いいじゃん。温泉行くだけでしょ?畏まったカッコなんて必要ないじゃん??」

 ズズッとコーヒーを啜りながら答えた。

「ダメ。絶対ダメ。ちゃんと着替えなきゃダメよ。そんなの」

「えっ…」

「…」

「…たまには、かっこいい容姿を見せてよ」

「…」

「…分かった?ちゃんと着替えてね」

 洋子は、半分くらいまだあるコーヒーをテーブルに置き、リビングを出て行った。

「…はいはい」

 今までとは明らかに違う洋子の姿に圧倒されていた。服装なんてなんでもよくね?って今も思っている。

「…ほんとに着替えなきゃダメ?」

 寝室のドアを開けながらそっと言ってみた。そこには、見慣れない妻の姿があった。セクシーとは言い難いが、でもまだまだ現役でいけるそんな体型を維持している。大したもんです。それに比べて俺は…いかんいかん。ダイエットしなくては…という身体付き。まぁ適度に運動を…と思いつつ。

「…ダメ。どうしてあなたって、そう…面倒くさがりなの?まったく…」

「…」

「そこへ適当に洋服を置いておいたから、せめてそのくらい着て行こうよ。もう…全然オシャレじゃないんだから。いつからそんなだらしがないダメ男になったの?いやんなっちゃうわ」

 見る見るうちに妻の容姿が変わっていく。なんと素早い?私が遅過ぎるのか?

「…」

「…大上際が悪いわね。さっさと着替えてよ」

「…はいはい…」

 なんと見事なカッコでしょう。とても日帰り温泉へ行くカッコじゃないです。これは。どこをどう見ても…。そこまで気合い入れてまで行く場所か?劇場でオペラ鑑賞でもするつもりか?って格好です。今日の洋子は、どう考えても何かがやっぱりおかしい…。

「…」

「じゃ…着替えます」

 やっとの思いでパジャマを脱ぎ始めた。一々言う必要もないが、あえて言ってから脱ぎ始めたかった。

「もう10分しかないからね。急いでよ」

「はいはい…」

 何かがなんかおかしいぞ?

「私…駐車場から車取ってくるから、部屋の戸締まりよろしくね」

 ベッドの上に置いてあったバッグをひょいと持ち上げながら答えた。

「…」

「なんでそんなに急いで出かける必要があるの?もっとゆっくり出かけたらいいじゃん?」

「…」

「別に理由なんてないわよ。楽しい時間なんてあっという間に過ぎちゃうからもったいないだけよ」

 「じゃ、車取ってくるね」とぼそっと言いながら、寝室を出て行った。

「…」

 それだけの理由か?いつもなら、俺より出だしが遅いくせに。俺より部屋を遅く出ることも少なくないくせに…。

「…」

「うん?」

 ベッドの脇に、読みかけの雑誌が転がっていた。掃除好きの洋子には珍しい。これまで読みかけの雑誌などほとんど見たことがなかった。

「…」

「…」

二度見してしまう。

「えっ…」

「…」

 目がうろうろ…と。

「…」

 自分の目を疑った。付箋の場所には「離婚の上手な仕方」などと見たくもない見出しが記載されていた。

「離婚…?」

「…ん?」

「…離婚って?」

 こんなことが書いてあった。「結婚して18年、夫と別居してかれこれ三ヶ月になります。私は、もうやり直したくないと思っていますが、夫はやり直したいと言っており、話し合いで決着がつきそうにありません。かといってこのような宙ぶらりんなまま、別居を続けるのは嫌なので、早く決着をつけたいと思っています。このような場合、どう進めたらよいのかお教え頂けないでしょうか?家庭裁判所に調停の申し込みをするのが良いのでしょうか?よろしくお願い致します…」

「…」

「…え…っ…まじ?」

 一瞬、真っ白けっけになった。洋子が俺と離婚をしたいというのか?冗談だろう?

「…なんで?」

「離婚?」

「俺は「浮気」なんてしたことないぞ?」

「えっ…?」

「…ん?」

 いろんなことが頭を過ぎった。決して良い旦那だと胸張って言える旦那ではないが、人に指刺されるような生活を送ってきたつもりはない。この数年は、仕事と洋子のことだけで頭がいっぱいだった。そのほかに時間も労力もかけてない。洋子を幸せにすることだけをずっと考えていた。伝える能力が…言葉が…足りない・少ないということは、いろいろあるけど…それが理由にはならんだろ…。

 「プルルプルルッ…」スマフォが鳴った。洋子からだった。

「…」

”プルルプルルッ…”

「…もしもし」

 スマフォをタップし洋子の声を聞こえてきた。

「もう…遅いじゃない。もう…9時過ぎたわよ。早く出ておいで。お外は、良い天気だよぉー。温泉日和よーーー」

「おっおう。いい男がもう少しで行くからさぁ…待ってなさい」

「はいはぁーい。じゃ、いい男さん、いい女が待っているわよ」

「…」

 スマフォを切った。とてもこれから離婚を切り出すような雰囲気の女の声には聞こえなかった。なんなんだ…一体…。

「…」

 「単なる偶然好奇心だろうか?」ジャケットをパシャっと羽織りながら思った。久々にジャケットを手にした。このところ休日は、ジャージ専門でオシャレしようなどと考えもしなくなっていた。楽が一番などと勝手に決めつけていた節もある。それが離婚の原因か?んにゃ…そんな旦那なんぞどこにでもおるわい…さて?困ったぞ?

「忘れ物なし…だね」

「…」

 「大丈夫大丈夫…」気分を替えて、元置いてあった場所へ雑誌をそっと戻した。読んだ形跡を残したくなかったので。良しっと。

「ふぅ…」

 一呼吸してから頬をパンパンと叩いた。

「よし、行くぞ!」

 何となく気合いを入れてみた。気合い入れること自体、普通あり得ないことなんだけど、負けちゃいけないと思って。誰にだよ!と自分で自分を突っ込んでいるし…なんだか変に気負っている。参った、正直本当に参った。鍵を掛けながら普段と違う自分に驚いていた。「この俺が離婚?マジか?」「冗談だろ?」ブツブツ小言を言いながら廊下を歩いていた。端から見たら、変なオヤジです。

「…」

「あら、川越さん」

「…」

「…どうかしました?顔色悪いですよ?」

 隣に住む奥さんから声を掛けられたが全く気付かなかった。

「…」

「…あっ…奥田さん」

「大丈夫?奥さんとどこか行くの?」

「あっいやぁ…」

「……あっどうも。おはようございます。さっき足を躓いちゃって…」

 足じゃなくて「心」を挫いたなどと言えるはずもなく。

「お大事に…」

 ”参った…”こんな気分で温泉だと?えっ…なんでだよ?俺が離婚?マジか?

「…」

 こんな気分の時に全く上がって来ないエレベータを待つほど嫌な物はない。さっき通りかかった奥田さんみたいにまた知り合いにすれ違う可能性が高いわけで。どう答えていいか返答に困るわけです。挨拶交わすだけだから困る必要はないが…それだけとても気分が落ち込んでいるってことで。変にテンション高いし。

「…」

 やっと、エレベータがここまで来た。誰も乗っていないことを祈る。「チィーン」ドアが開いた。幸いにも誰も乗っていなかった。しかし、ここは11階の最上階。今日ほど、最上階を選んだことを後悔したことはなかった。1階までに誰とも会わない保証はない。そう思いながら一階のボタンを押した。頼むから誰も入って来るなと思いつつ。

「…良し」

 エレベータは、順調に5階…3階…1階…と下って行く。今日の俺は、まだ付いている。”これならいける、大丈夫!”後は、車まで速攻突っ走るのみ。

「ふぅ…」

 取りあえず、幸運にも知り合いらしき人に会わずロビーへ抜けることができた。外には、”遅いなぁ…もう…”と思いながら待ちわびている洋子の姿が辛うじて見えた。腕時計をチラッと見たら、時刻は九時十分過ぎ…。なんか慌ただしい日になりそうでちょっと気が重たかった。やっぱり、自宅でのんびり過ごすべきだったかもっと、快晴の空を眺めながらそう思った。雨天中止って言葉は、今のところ必要ないくらい良い天気です。参りました。最近の天気予報はものすごい確率で当たるらしい。今日くらい外れて頂いていいですよ…と思いつつ。しかし、笑顔でまちわびている妻の姿をもう一度確認した瞬間、やっぱり妻孝行も大事なんだと再認識。そんな日は、快晴に限ります。洋子の顔を見て”やっぱり止めて、うちでゆっくりしてない?”などと言う言葉は気軽に掛けられなかった。結局…”妻”合っての”夫”ってことですね。

「…」

 一瞬、首を回しながら立ち止まった。

「ごめんごめん…お待たせ」

 勢い良く妻の待っている車へ走り出した。今日は、妻のことだけを考えて一日過ごすことにした。たまにはそんな日が合ってもいいじゃないかと前向きに考え直そう。

「まったくぅ…遅いじゃない。やっぱり晴彦、温泉へ行きたくないんじゃない?そんなことないよね?無理に行こうと思っている?そんな気持ちなら行かなくてもいいのよ?」

 見透かされたか?

「…」

「…そんなことないよ。ちょっと、靴の紐を結び直していただけだよ。ごめんごめん…。ほらっ、俺って不器用じゃん。知っているでしょ?それに隣の奥田さんにちょっとつかまってね。あの人小言多い人だからさ。そんなに怒るなよ、ごめんごめん」

「…別に怒ってないわよ。晴彦が、ごめんごめんって謝ってばかりだとなんだかなぁ…と思っちゃう。ほんとに行きたい?」

「…」

 行きたくないなんて言えるわけないじゃん。やっぱり、洋子の様子が変だ。私を試しているのか?

「そんなわけないじゃん。めちゃめちゃ行きたい。ほら、行くよ!」

 出発する前に、偶然見てしまったあの雑誌が一瞬頭を過ぎったが、それはそれとして見なかったことにしておこう。できるだけ穏やかに…休日を一緒に楽しく過ごすために、自分に言い聞かせていた。

「…」

 間を開けて

「そう、じゃ行こう!」

 洋子は、笑顔で答えながら車に乗り込んだ。正直、何を考えているか分からない妻を見つつ…。

「あぁ…」

 一言答えて、車に乗り込んだ。

 そうは言ってもやはり気になる。どうしてそこまでして温泉に行きたいのだろう?たかが温泉だろ?連休でもないのにどうして?訳が分からん。温泉宿で、離婚話でも切り出すつもりか?いかんいかん…ポジティブにいかなくては…だめだ、完全に自分のペースが崩れている。

「…」

「ねぇ…晴彦」

「…」

「…ん?」

「…ねぇ、晴彦ってば!聞いている?」

 その言葉で我に戻った。完全に自分の世界にイッていた。自分の世界に入り込み過ぎて洋子の言葉などこれっぽっちも入って来る余裕なんてなかった。多分、軽いアル中のような感覚です。

「えっ?」

「…」

「ん?なに?」

 別に悪いことをしているわけじゃないのに相当動揺している。

「“なに”じゃないわよ。今日は、何も話さないのね。いつもなら、うるさいくらいずっと喋って来るのに…どうかしたの?」

「……ん…」

「まぁ…その…」

 どうかしたの?じゃないよ。何度も言っている…、めちゃくちゃ疲れているし、あんなこと(離婚について)調べられちゃ意識だって混乱するさぁなぁ…。

「…」

「特に怒っちゃいないし…今日みたいな日もあるさ。あまり気にしないで。そういう時は、素直にラジオでも聞こうよ。ラジオって、退屈な時に便利なメディアだよね。前から思っていたんだけど…」

 ついつい…思ってもいないことを口にしてしまった。ラジオなんて、ここ数年まともに聞いたことがない。取りあえず、音がなっていることに意味があるのです、今は。音のない世界は、ごめんだ。ラジオサイコー!ふぉー!!って感じで。

「…」

「ラジオねぇ…そういえば、ラジオなんて最近聞いてないわね」

 えぇーっと、もうそういう会話にする?地雷踏んでいるっしょ。

「…たまにはいいじゃないかな。うんうん。いいと思うな、僕は。いい情報が拾えるかもよ。流行の曲とかさぁ…最近忙しくて知らないだろ?洋子も」

「忙しくたってあなたより知っているわよ、確実に。マーケッターをバカにしないで頂けますか」

「…それはそれは」

 確かに。

「知らないと思っているでしょ?」

「どうかな?俺は何も知らないから、それらしき曲名を言われたらあってもなくても納得しちゃうかもなぁ…」

「そうね。やっぱり無知って罪よね。いくら忙しくてもカラオケや雑誌やニュースアプリくらいのぞいた方がいいわよ。最近カラオケすら行ってないんじゃないの?」

「無知は…罪ねぇ…そうかもなぁ。まさかカラオケ行かなくなったからって、罪とはねぇ…あははは…」

 最近本当に雑誌も漫画も見てない。唯一見る機会があるとすれば、美容院だけど…切って貰っている時…キチンと寝ているなあ…いかんいかん。ニュースアプリは通勤時か。見てるふりだな、あれも。

「でも行ってないでしょ?最近…」

「…」

「そういえば、確かに行った記憶がないなぁ。いつ以来かな?いつだっけなぁ…うーん」

「…」

「私と行ったのが最後であれば、2012年のクリスマス・イブが最後じゃない??その後、一緒に行ってないわよね?誰かと行った??」

「…」

「いや…行った、一度だけ。去年だったか…会社の同僚と行ったかな。それが多分最後だ。確かサザンの歌を歌ったっけな…多分…」

「…」

 洋子は、ちらっと俺を見ながら聞いた。

「…」

「でも…誰と行く??」

「…何が?」

「カラオケ、誰と行くかって聞いたからさ」

「…」

「…私と…でしょ、基本。他に誘う人いるの??うん??」

「…」

「…いるわけないじゃん」

 本当に居なくてもそれらしく聞こえてしまうのがこういった間だな。明らかによくない雰囲気だ。

「…」

「うーん…同僚とか」

「なるほど、その手があったか。でも…最近行かなくなったわね??前は、忙しくても行っていたじゃない。どうして??」

「…」

「なんとなく。別にカラオケが好きだった訳じゃないし…。単なる暇つぶしでしょ。あんなの。今は、カラオケより仕事の方が楽しいし。だから仕事に没頭している。それだけだよ」

「…」

「カラオケ…好きじゃなかったんだ。初めて知った…少しショックかも」

「好きか嫌いかと聞かれれば、今でも好きな部類だよ。でも、仕事がもっと好きになっただけ」

「…」

「そんなに仕事好き?」

「…」

「…ん…まぁ…」

 実際全く何もしていないのに背中から嫌な汗が出てきた。冤罪はこうやって生まれるんだ、よく肝に銘じとけ。

「…」

「まぁ…努力すれば、なんだろう。仕事は絶対裏切らないってことを知ったからさ。見ている人は見てるし。頑張るだけ結果もついてくるでしょ。そうじゃない時もあるけど、やらないよりやったほうがいい。絶対に」

「…」

「いつも成功するとは限らないでしょ?」

「…」

「例え、失敗してもその時得るものがあれば、それは成功の部類に入ると思うわけよ。だから、作業の大抵は、失敗じゃないはず。考え方の違いだけだけどね。ポジティブに考えられない人は、俺のような答えにはならないけどねぇ。前向きが一番。本当に仕事が楽しいというかやっていて面白くなってきた。その分辛いこともままあるけど…」

 ハンドルを右に回しながら答えた。この通りを出れば、後は、高速まで一直線だ。

「…」

「どうした?」

「そんなこと考えて仕事していたんだ。以外だなぁと思って。あなたが、そんなに仕事が好きだったなんて…私、全然知らなかった。悪い意味じゃなくて…」

 少し手を動かしながら答えた。

「…」

「…」

「それは、どうかな?もし宝くじが当たれば、今の考え方無くなるかもね。その立場になってみないと分からない。今年の年末ジャンボ買ってみるかな?」

 私はギャンブルというギャンブルに縁がなくて。一度も買った事がない。そのお金があるなら、妻と美味しいレストランで食事するよ。一か八かのギャンブルは、俺には向いてない。

「……止めてよ。今のままで良いわ。本当に当たりそうだから」

「当たれば生活が楽になるよ、7億円だぜ?マンションのローンだって一括返済!」

「そんなお金、要らない。全く興味なし。そんな安っぽいお金で、私たちの人生狂わせたくないよ。今のままでいいじゃない??ねぇ…晴彦」

「…」

 ギャンブルはしない。大丈夫。心に再度誓った。

「…うん?まぁ…そうだな」

「…そうよ」

 「うん?今のままでいい?」ラジオを流すはずが、いつものように会話が弾んでしまった。若干、堅い会話だけど。それはそれでいいか。ムスッとした音のない世界よりマシだね。話に夢中になっていて、離婚の真相を聞き忘れるところだった。「今のままでいい」という言葉を信じれば「ない」と同義語となる…かもしれない。余計訳が分からなくなってきたぞ。どういうことだ??いったい…。暫く様子みるか。

「……努力すれば、仕事は絶対裏切らないか…ちょっと嫌な言葉だわ」

「…ん?」

 洋子は、思い出したように言った。

「…」

「どうして?」

「他は、裏切るように聞こえただけ」

「…」

 「…なるほど」、腑に落ちた。納得してしまった、いやいや…そんなことはないよ。

「…」

「…そんなことない」と答えることも出来なかった。

「……そう…かもな。真面目に生きていても結果的に裏切られたって話よくニュースなんかで聴くしなぁ…実際にはよく分からん」

「一瞬でも…私もあなたを裏切るかもって思った??」

「…」

 うん??話の流れが変わったぞ??

「…何も答えてくれないのね?」

「…」

「答えようがないな。そんなこと一秒も一瞬も…思ったこと無いからさ。愚問だよ」

「…愚問ね…、それは失礼しました」

「…」

 一体、洋子は何を考えているのか分からん。神様、仏様。洋子様…教えてくれ!

「…」

「じゃ…晴彦は、私を裏切ったことある??」

 洋子は、少し肩を落としながら言った。

「…」

…おいおい…どう答えればいいんだよ。

「…」

「ないない…絶対ない、有り得ないよ。冗談じゃないよ。そんなことあるわけないだろう…変な勘ぐりよせよ」

 何もなくたって顔が赤くなるだろうよ。変な質問するな。

「…」

「そうね。晴彦は、顔に出るタイプだし、ないよねぇ…ないないっと…」

「…」

「そうそう…うん?」

 俺は、信用されていない?されている??どっちだ???

「…」

 チラチラミラー越しに洋子の姿を見ながら思った。

「…お、お茶でも買って行くか?そろそろ高速に乗るはずだよ。コンビニに寄ってく??」

 無意識でもこの辺までは、ナビがなくても走れるようになっていた。もう少し走ったとこにインターがあり高速に乗ることが出来る。高速に乗ってしまったら、後は暫くの間飲み物を買うことが出来ない。当たり前だけど。

「…そうね」

 洋子は、窓から見える風景を眺めながら答えた。詰まらなそうな彼女の顔が嫌でも見える。なんだか、そんな姿がとても居心地が悪そうに思える。単なる俺の気のせいか。正直参ったなぁ…という小言がつい口癖になりそうで怖い。

「…」

 着くと洋子は、無言のままドアを開けてコンビニへ向かった。その後ろ姿が、いつもより妙に気になった。いつもの洋子であってほしいと願っているのは、どうしてか?自信がないからか?そんなバカな。などと思いながら、いそいそと俺もコンビニへ向かった。

 コーヒーでも買うかな。

「…」

 洋子は、早速スナック菓子を手にしていた。

「…さっき、トースト食べたばかりじゃない?」

「…」

「うるさいなぁ…こういうのは別腹なの。太ると思ったでしょ?全く…そのためにどれだけ動いているかって話よ」

「…」

 ちょっとだけ。と思った俺。

「いや、全然心にも思ってない」

「いや、思ったわ。鼻がヒクッとしたから。そういう時は、すぐ顔に出るのよね、晴彦って」

「…」 

「…分かっているなら聞くなよ。性格悪いなぁ…」

「全く…分かりやすいんだから、晴彦って。そういうの、どうかと思うのよ。仕事が好きって言うならそおういうところ治さなきゃ。相手につけ込まれるよ」

「…生理的なもんだから仕方ないっしょ。どう治せって言うんだよ」

「…我慢するとか顔を整形するとか…色々あるじゃない」

「…」

「アホか。出来るか、そんな事。単に、お前が菓子買いたいだけだろ!」

「もう…何、ムキになっているのよ。冗談だって、冗談。分からないかな…もう…」

「…冗談になってないよ、全く…」

 缶コーヒーをレジへ持って行きながら答えた。突っかかるな、今日の洋子は。本当に面倒くさいわ。

「…」

「…別腹なんだからしょうがないじゃん。女の子の宿命よ。晴彦のその広い心でこういうことも受け止めてほしいなぁ」

「はいはい。広い心でねぇ…あるかな?そんな広い心?以外と狭いと思うんだよね」

 ちょっと嫌味な感じで答えてみた。

「あるわよ、晴彦には」

「買い被り過ぎだって」

「そうかもね」

「そうそう」

「はい、お会計よろしくね!」

 洋子は、クスッと笑いながら答えコンビニを出て行った。

「…」

「はいはい…俺は、お前の親か」

 結局、スナック菓子を二箱ほど買った。いつもの光景だった。何一つ変わらない光景がそこにあった。いつもの洋子と思えば洋子だ。違うと思えば違う。妙だ…。この謎は、迷宮入りなのか??いやいやそれでは俺が困る。どこかで突破口の糸口を探さなくては。クタクタになりながらでもいつもの仕事をしている方がよっぽど楽だ。


 人間の居場所はどこにある?

 自宅か会社か、

 あるいは…

 もはや、存在しないのかもしれない

 そんな質問さえ全く意味のない時代が来た

 すでに…相当前に…自覚したはずなのに

 人間ってやつは、3歩進むと忘れてしまう生物らしい

 なんて愚かな生物だ

 そして

 何もなかったように生きていく

 

 あの日の俺もそうだった…

 忘れていた、変わらぬ姿で君が側に居たことを

 だから…何も知らずに簡単に君を傷つけることが出来る

 傷つけることでしか自分の存在を確かめることができない子供のように…

 

 悪魔の心が、快楽という薬によって増長し始めた

 愚かな人間たちよ、今すぐ改めなさい

 地獄は、すぐ側にまでやってきている    

 さぁ、どうする?

 決断するのは、あなただ


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