BRAVE NEW WORLD!!

橋本ちかげ

第1話 投獄

 その奇妙な二人組の日本人の存在が、初めて認識されたのは、一八七〇年、真夏のサンフランシスコでのことだ。


 場所は、サクラメント行きの鉄道駅である。真昼の炎天下と言うことで、さすがに人影もまばらだった。

 そこにいたのは、仕事を求めて東部からはるばるやってきたらしいアイルランド人の移民の家族と、アジア人の召使、そしてメキシコ人らしい老夫婦くらいもので。二人の日本人は確かに、目立った。


 この二人はまず、この炎天下と言うのに、フロックコートを羽織っていたのである。それがコートの重たいボタンを喉の下までしめ、革製のブーツの紐をしっかりと結んで、片意地なフランス人の士官のように、直立不動でいたのだ。見ているだけで暑苦しいと言う他ない。


 そのうちの一人は、三十前後の男のようだ。一七○センチを少し越えたあたり、当時のアジア人にしては背が高い。オールバックにした髪は、暑さのせいか少し乱れ、ひげもうっすらと剃り残っている。彫りの深い顔立ちの眉毛は少し薄くて、見かたによっては、ロシアか北方の民族の血が入っているようにも見えた。


 もう一人は、なんと女の子だ。年齢も十代にみえる。とても小柄だ。背丈は、連れの男の胸元に届くか届かないかくらい、それなのになぜか懸命に胸を張っている。


 意志の強そうな瞳は大きく、その性格を表すかのように小さなあごに見合った小ぶりな唇は、強く引き締められていた。一見、つんとしていて、どことなく、子猫を思わせる風貌でもある。


 白人のブロンドにも、メキシコ女の髪にもない、みずみずしく艶めいた黒髪がカリフォルニアの日に映えて、通りすがると道をいく男たちの足を止めさせた。彼女はその豊かな髪を現代で言うツインテールにしていた。結び目に留められた白いナツツバキを象ったとみられる精巧な細工の髪留めは、まごうことなき日本製の工芸品である。


 無駄に厚着をした二人は顔に汗ひとつ掻かず、暑さについては時折ため息をつく程度なのだが、お互いにちらりと視線を交わしては、あさっての方向を見ながら、ぐちぐち何かつぶやいている。たぶん、二人で厭味を言い合っているのは分かるのだが。


 周囲でそれを目撃した人たちは、日本語を解したわけではない。ちなみに当時のサンフランシスコは、メキシコの一部からようやくアメリカのカリフォルニア州の一部になったばかりで、内外から雑多な移民たちの受け入れ口になっている。いわゆる、西海岸のニューヨークを想像してもらえればいい。ゴールドラッシュの好景気を求め、アメリカに出稼ぎに出たアジア人と言えば大抵は、中国人だ。長い鎖国時代を経て、国民を解放した日本人の労働者移民が現れるのは、まだもう少し先のことになる。


 だから、何やらその二人が話しているその雰囲気を見て、恐らく言い争っているのだろうと言うことは分かっても、何を話しているかまでは分からない。

 仲が悪そうだな。

 そのとき、その現場に早くからいた、アイルランド人の男性(実はこの男は新聞記者だった)はそう、表現している。実際、この後二人は、他の誰にも分かりそうもないその言語で面と向かって言い争いを始めるのだが。


 「仲が悪そうだったかえ」

 ホウ、と、その男は場違いにも見える素っ頓狂な相槌を打ってあごを摩っていた。

 ところ変わってここは、日本。東京府下、現在の赤坂五丁目である。

「で、他には? 何をやらかしたのかい? 情報はないのかえ」

 彫りの深い顔のその男は四十輩、渋味のある顔を歪めて、ひと癖もふた癖もありそうな表情をするのが印象的だ。さらに口元を歪めると、ちょっと人を小馬鹿にしたような皮肉げな顔つきになる。

 この男は持参した客から、英文で書かれた新聞記事を黙読していたのだが、やがてゆっくりと顔を上げると、ちょうどそんな不遜な表情で、この言葉を吐いたのである。

「放っておけ」

「しかし」

「もう横浜ハマを出たってんだろ。此の方オレにも、あんたにもこれ以上何の関係がある」

 言われて、先方は返す言葉に窮した。

「で? これだけかい? 話はサ」

 と、挑むように相手を見る。江戸っ子気質と言うのか、そうした向こう気の強さで、この男は自然と世間の憎まれ役になってきた。そして、またそれが板についているのも分かっている様子ではあったが、面と向かって話をする方はたまったものではない。

「ところで、何を話していたかってことだが」

 記事を持参したのは、今朝方、横浜から戻ったばかりの内務省の役人である。権突くの役人嫌いだった男は、ことさらぶっきらぼうに、その英文記事を弾き飛ばす。その隣にあったのは、横浜山の手にある外国人武器商人の邸が焼き打ちされたと言う三か月前の記事だった。

「大かた、此の方の悪口だろうよ…」


 さて、サンフランシスコに戻って、そのときの二人の会話を再現してみよう。遠く離れた東京にいるその男が、はからずも見抜いたように、この二人組は、最初は一人の男の悪口を言い合っていたのである。

「おい、官費留学だって?」

 口を開いたのは、年配の男の方。彼女の方を見ると、その男は、つまらなそうにブーツの靴先で砂を払った。案の定、相手からの反応は返ってこない。無視だ。少女はむっつりと唇を結んだまま、知らん顔を続けている。今度、男は露骨な舌打ちをして言った。

「おれの知ってる官費留学はこんなんじゃねえぞ。お前、言ったよな。ちゃんと、勝先生が段取りを組んでくれたから、って」

 まだ彼女は無視を続けている。大きくため息をついて肩をすくめた男は今度はその前に回って、からかうように少女の名前らしきものを呼んだ。

「おい、ちゃんと訊いてるか? 萌黄もえぎちゃん? もえもえ?」

「なんですかそのもえもえって!いい加減にして下さいよっ!」

 叫ぶように言うと、萌黄と呼ばれた少女は、男の胸を両手で思いっきり突き飛ばそうとした。しかし意外と身軽な相手は、すんででそれをかわすと、倒れそうになる萌黄の身体をその両手首を掴んで支える。

「おっと。なんだよ、間違っちゃいないだろうが。深草萌黄ふかくさもえぎ。おれと違って、お前んちは歴とした華族なんだろ。恐れ多くもかしこくも、深草天皇を祖とする」

「深草天皇なんていないです。正しくは」

「どうでもいいよ。つーか、なんかつてとかないのか。金だってほとんどないぜ」

「知らないです」

 子供っぽく頬を膨らませていらだちを表現すると、彼女は顔を背けた。

「て言うか、先輩のせいじゃないですか。横浜であんな騒ぎを起こさなかったら、わたしたち、ちゃんと船に乗れたのに。せっかく先生が準備してくれた手配が台無しです!」

「へっ、あんな人買い野郎の船に乗れるか。武器を売るところまでは許してやってもいいが、大和の女を売り買いするのは許せねえ。ちょっと懲らしめてやるくらい、大したことじゃねえだろ」

「大したことになってるじゃないですか! わたしたち、立派な朝敵ですよ!」

 萌黄と呼ばれた少女は涙目だが、男はまるで意に介さない。

「別にいいだろ。どうせもともと、おれたちは幕府側の人間なんだ」

 先輩と呼ばれた男は肩をすくめて、露骨なため息をつく。反省の欠片もない態度だ。

「そうじゃなくて、迷惑が掛かるのは、勝先生ですよ。今ごろ、官軍の詰問を受けてるかも」

「そんなこと知ったことか。それにあの男の心配なら、無用だろ。上手くやるさ。なにしろ、あいつはケーキさんの後始末を独りでこなした野郎だからな」

 ケーキさん。最後の将軍、徳川慶喜とくがわよしのぶの名前を気軽にうそぶくと、その男は挑むように、少女を見返した。

「…そうやって不敬なことばっかり言ってると、いつか罰が当たりますからね」

「とっくに当たりすぎて腹がもたれてるよ。それより、どうだ。いつまで経っても陸蒸気ってやつが来やしねえぞ。ここ、本当に乗り合い場なんだろうな?」

 先輩は身を乗り出して、停車場の前の道の果てを眺める。焼けついたレールは陽炎を立ててゆらゆらと炎天下にたゆたいながら、どこまでも無情に続いている。どんなに遠くを目で追ってもその先に奔ってくる列車を見極めることは出来そうになかった。

「おいおい、こんなところで立ち往生かよ?メリケンで行き倒れなんて洒落にもならねえぞ」

「ああもう、うるさいなあ。レールが敷いてあるんだから、待ってれば来るんですよ!蒸気機関というものは、そもそもそう言う仕組みなんですから」

「けっ、本で読んだ知識じゃねえか。江戸にゃあ岡蒸気はなかっただろうがよ」

「東京府下です。言葉に気をつけて下さい。来るって言ったら来るんですよ。本で読んだ知識だって事実は事実なんです」

「じゃあてめえ乗ったことあんのかよ。ああっ?この鉄の道の上を岡蒸気が走って来るの見たってのか?」

 ぬぬぬぬぬう、と、うなりながら二人は睨み合う。一触即発の状況だ。男は腰に差した日本刀の柄に手をかけている。少女も武装しているらしくフロックコートに隠れた腰のベルトにある凶器に手をあてている。

 たぶん次、口を開いたら、その後は実力行使だ。

「「このっ」」

 二人が次の言葉を叫ぼうとした瞬間だ。

 甲高い破裂音が、どこか別の場所で響いた。

 距離はこの場よりやや遠くだ。続いて二発目、鳥撃ち用のショットガンのものと思われる、太くけたたましい、炸裂音。

 不穏な気配を感じてどこかで野鳥が一斉に飛び立った。危険な二人の剣幕を前にして立ちすくんでいた停車場の人たちも別の危険の空気を察して視線を泳がせながら、右往左往しだしている。

「…何か来ますね」

 いち早く状況を察知した少女が訝しげに眉をひそめる。男も腹立たしげに少女から視線を外した。

「そりゃあ来るだろう。てめえが来るって言ったんだからよ」

「先輩は来るはずないって、言ったじゃないですかっ」

 二人の言い争いは、丘の彼方に現れた男たちの姿を発見した女の悲鳴によって中断させられた。声を上げたのは貴婦人風の豪華客船のような帽子を被った白人だった。ぶるぶると震える指が悲鳴を漏らしたその口を覆い、やがて丘の彼方を指し示した。

 そこに現れたのは、乗馬の一団だ。見たところ男ばかり十数人。それが騎兵隊でもなく、商隊でもないのは男たちの様子から一目瞭然だった。

 男たちはみな、髭面のメキシコ人たち。ドワーフのように身軽でたくましい身体に、ぼろぼろのマントを羽織り、脂で変色しかけたテンガロンハットを被っている。どの男も、野蛮そうな笑みを貼りつけていた。

 男たちは威嚇するように、武装を隠さずにいる。

 マントの下には両肩から弾帯をかけ、ベルトのホルスターにはよく使い込まれた拳銃をぶちこんである。馬を操ったまま、黒い錆止めを塗ったショットガンやオウルライフルの銃身を誇示する者たちもいた。どこからどうみても、善意溢れる庶民には見えない。

「御機嫌よう、諸君!さあ、とびきり最悪なニュースだ」

 両手に拳銃を抜いた男がひらりと馬から飛び降り、メキシコ訛りの強い英語で叫んだ。

「と言ってもおれたちのことじゃねえぜ、諸君がお待ちかね次の列車のことさ。次の便は永久に来ねえ!そいつは尻の穴から太陽が拝めねえってことぐらい、確実さ」

 男が下品な声でがなり立てると、本日最高のジョークが炸裂したとでも言うように、背後の男たちが一斉に笑い声を立てた。

「馬鹿なっ、信じられるか!いっ、いい加減なことを言っても無駄だぞ」

 誰かが言い返した。それはツイードのスーツを着た眉の薄いドイツ系の白人の男だった。

「嘘じゃねえのさ!信じられねえのも無理はねえがな。なんとこの先の陸橋で不幸な脱線事故さ。列車は川底に落ちて、救助隊が入り乱れて野良猫の踊りこんだ鳥小屋みてえな大騒ぎだ。すぐに武装した騎兵隊が出動してやがって、おれたちも商売上がったりさ。三日もかけて狙ってた獲物がこれよ(と、男は銃を持った両手を花のように開いて肩をすくめた)、昼寝してたらキツネにランチをかっさらわれた気分だぜ」

「・・・おい、なんて話してるんだ」

 ひどく怪訝そうに先輩と呼ばれた男が萌黄を小突く。どうやら英語がわかるのはこの少女の方らしい。ツインテールの少女は、後で話しますよ、と言う風にあしらって、様子をうかがった。

 ドン、と大げさな銃声が乾いた空を揺るがし、ブッシュに伏せっていた鳥たちを騒がせ、恐怖におびえる乗客たちに悲鳴を上げさせたのはそのときだった。

「だが起きたことは、起きたことだ。おれたちのいいところは過去は過去、過ぎたことは振りかえらねえことだ!なんでも前向きに考えねえとな。どうだ、そう思うだろう、あんたも」

 四十五口径の銃口をいじくりながら、男はさっきのツイードの白人に尋ねた。神経質そうな青年だが、さっきヒステリックに叫び返したことを今さら後悔したようだ。なにしろ今度ものを言えば暴力に訴えられるだろうと言う気配を如実に悟ると、おびえた顔をして後ずさるしかなかった。

「一つ利口になっただろう。いいことは誰からも見習うべきだ!神は過去から教訓は与えてくれるが、今どうしたらいいかは教えちゃくれねえ。だからよ、人の言うことは素直に聞くもんだぜ」

 男の合図で武器を持ったならず者たちが一斉に騒ぎ出した。

「全員、一列に並べ!バッグを地面に置いて後ずされ!ぐずぐずするな!おいっ、ぶっ殺されてえか」

 おずおずと、乗客たちは言われたとおりバッグを置いて後ずさりだした。

「持ち物を置いたら、頭の後ろに手をやれ。いいかっ、さっさとしろ。こっちは計画が狂って気が立ってるんだ」

 恐怖に怯える乗客たちをいたぶるように声を上げると、メキシコ人強盗は満足そうに髭を撫でた。しかし、

「なあんだ、かっぱぎかよ」

 ぞっとするほど暢気な口調で、誰かが言ったのはそのときだった。乗客を征服できている様子に満足していたメキシコ人の強盗は、銃を持ったままぴたりと動きを止める。

「おい、今なんっつった」

 声を上げたのは、やはり少女の隣にいる先輩だった。このふてぶてしい日本人は手を挙げることもせず、ついでにいらだちも隠さずに、じろっとメキシコ人強盗を睨みつけていたのだ。

 ちなみに詰まらなそうに、泥棒かよ、と言ったのは日本語だ。しかしその口調から、馬鹿にしていると言うことは十分伝わったようだ。メキシコ人強盗は銃を先輩のあごに突きつけると、固いものを噛み砕くような顔で言った。

「・・・おれの話が伝わらなかったようだな」

「知るかよ。メリケンの言葉なんざ、こいつの薀蓄うんちくより願い下げだ」

 と、先輩は萌黄と呼ばれた少女の方に、あごをしゃくる。わけのわからない日本語の啖呵にメキシコ人は目を丸くしたが、やがて調子を取り戻して、

中国人チャイニーズか。洗濯夫でもコックでもねえ、そんな中国人がいるのか?おれの知らない世界だ。うんざりするぜ。にしてもお前、高そうなコート着てるな」

 銃口でなぶるように、先輩の分厚いフロックコートのボタンを弾くと、男は大笑いした。つられて男の仲間も大笑いする。

「お前は着てるものも脱げ。全部だ。おれの慈悲で命だけは助けてやる」

「だからなんて言ってるんだよ、こいつはよう」

 事態をまるで理解していないと言うように、先輩は萌黄をしつこく小突く。萌黄と呼ばれた少女は迷惑そうに、

「脱げばいいじゃないですか。強盗ですよ、先輩のコートが欲しいそうです」

 その答えはなぜか、先輩を喜ばせた。

「へへっ、やっぱり悪党か。こいつは楽しめそうだ」

 にたりと唇を歪め、笑い出した東洋人をメキシコ人強盗はぎょっとして凝視している。

「おい、萌黄、確認するぞ。・・・確か悪党は、何やってもいいんだっけな」

 と、先輩が言った瞬間だった。きらり、と何かが二人の間に閃いた。メキシコ人は最初、何が起こったのか、気づきもしなかった。確かめることもなく、再び銃を先輩に突きつけようとして悲鳴を呑みこんだ。

 銃を持った右手首が、丸ごと吹き飛んでいたからだ。

「うわあああっ」

 ぼだっ、と一呼吸置いて、銃を握った手首が落ちてくる。それはまるで生きたまま花を切り取ったように鮮やかな切り口が開いていた。

 先輩が抜いたのは言うまでもなく、日本刀だ。

 長さは、三尺五寸(約一メートルほど)余りと言うから、幕末刀の常寸より少し長い。

 この至近距離では、抜くのも難儀する刀を先輩は軽々と抜いたばかりでなく、刃筋も狂わせず素早く肉に斬りつけ、メキシコ人強盗の手首をふっ飛ばしたのだ。相手の男は肉を裂かれても反応するばかりか、しばらくは自分の手が吹き飛んだことも認識できなかったと言うから、驚かされる。

 直立したまま、ほぼ垂直の抜刀術は日本の剣術流派の常道にはない。

 実に変則的な、型破りの剣だった。それでいて、乱暴な口調とは裏腹にその剣は、ほぼ攻撃動作も判らないほど精妙な一撃だ。

「なっ、なっ、なにしやがる」

 もう片手の銃を使うことを忘れて男が叫ぼうとしたときには、先輩は背後からメキシコ人強盗の左手を締めあげ、血に濡れた刃を突きつけている。

「おい、お前ら中々いい馬に乗ってやがるな。二頭寄越せ。それで勘弁してやる」

「こっ、こいつ何を言ってやがる。こんなことして無事で済むと思ってんのかっ」

 一斉に背後の男たちが銃を構える中、悠々と先輩は今とったばかりの人質を締めあげる。その口調は手慣れていて、まさしく悪党そのものだ。まったく言葉が通じない連中ですらたじろがせている。

「馬だ馬、とっと寄越せ!」

「お頭を放せ、クソ野郎っ」

「だからてめえ、なに言ってやがんだよ!」

「うわあああああっ、畜生っ俺のォッ、俺の腕がああっ」

 大混乱だ。

 悪党を人質に逆にものを奪う。

 さらに上手の悪党が現れたことを悟ったのか、乗客たちはざわざわ騒ぎ始めた。

「萌黄、メリケン語だよ、とっとと訳せ。ぼけっとすんな」

「だっ、だから、わたしを巻き込まないで下さいよ!」

 迷惑そうに少女は言ったが、確かに誰か言わなくては収拾がつかない事態になりそうだ。萌黄はあわてて乗客たちの方へ向き直ると、上擦った声で、

「みっ、皆さんっ、落ち着いて下さい。誤解しないでっ、わたしたちは全然、悪いことしようとしてるわけじゃなくって…」

「あの娘も強盗の仲間よっ!」

「中国人の強盗だっ」

「お願い、殺さないでっ」

「わっ、わたしたちは日本人です!れっ、歴とした幕府の武官で…」

 さらに悲鳴を上げる乗客たちにしどろもどろになる萌黄に先輩の怒声が降る。

「馬鹿野郎、そんなの通じるかよ。…そっちはいいんだよ。それより、馬を寄越せって言え!」

「そんなことしたらわたしたち、本当の悪者になっちゃうじゃないですか!」

「相手が悪党なら何してもいいって言ってたの、お前だろうが!馬だ馬、お前だっていつ来るか分からねえ陸蒸気より馬のがましだろうが。とっととこいつらから馬奪え!」

「ふざけやがってっ、このまま逃がすかよ」

 と出てきた強盗の一人が、萌黄に向けてショットガンを発砲しようとしたのは、そのときだった。瞬間的に防御姿勢をとった彼女はかすかに腰を屈めた姿勢のまま、ベルトから抜き去った拳銃でショットガンの男を仕留めた。

 照準で狙いをつけず、いわゆる腰だめで撃ったのだが腕は驚くほど精確だ。

 突発的事態のはずだったのだが、その反応は驚くほど機敏で手慣れていた。

 少女のフロックコートの下に仕込まれていたのは、やはり、拳銃だった。

 見たところ三十二口径の輪胴式リボルバーなのだが、当時アメリカで出回っていたコルト社製でもS&W社製でもなく、フォルムは華奢ながら銃身は分の厚い日本製の鍛鉄で作りこまれている。弾層とグリップの間に、見慣れないエンブレムが仕込まれているのが印象的だった。綺麗な円形を六つ並べたものなのだが、その円のそれぞれの真ん中には四角形の穴が開けられているのだ。

 もしその場に日本の武士の家に詳しい人間がいたのなら(もちろんそう都合良くそんな人間がいるわけがないのだが)、それは動乱戦国期、真田家と言う武家が使っていた三途の川の渡し銭、不惜身命の『六連銭ろくれんせん』の紋章エンブレムと言うものだったことが分かったはずだ。

 弾丸は男の銃を構えた右手の甲を貫いた。男はうめき声を上げてショットガンを取り落とし、騒ぎはさらに大きくなった。

「こっ、こいつ撃ちやがった」

 色めき立ったのは武器を持った盗賊たちばかりでなく、はらはらしながら事態を見守っていた乗客たちもだ。

「あいつも、武器を持ってるぞ!」「なんて危険な奴らだ」「あの女も無法者よ!」

「あっ、今のは反射的に…あの、別に悪気とかそう言うのは全然なくてっ」

「このガキがあっ、なめやがって」

 あたふたする萌黄の前に今度は三人の男が拳銃を携えたまま、馬を駆って突進してきた。弾丸が飛び交い、乗客たちの悲鳴がさらに大きくなったが、少女は次の攻撃にも的確に反応した。

 小さな左手のひらを右手に構えた拳銃の撃鉄の上に乗せると、それを素早く上下にスライドさせてすれ違いざまに連射した。ファニング(あおり撃ち)と言われるこの射撃方法は、一発ごとに撃鉄を起こす必要のある当時のシングルアクションのリボルバーの構造が可能にしたものだ。これは引き金を絞ったまま、撃鉄だけを素早く動かし、一気に多数に銃弾を浴びせかける撃ち方だった。

 西部劇の映画などでも見られるが、これも銃身の重さと腰の高さの調整だけで狙いを合わせるまさに勘と経験だけが頼りの射撃術で、本来、相当の近距離でも狙って当てられるものではない。

 しかし六連銭のリボルバーの弾丸は三人の男を見事に足留めし、拳銃やショットガンを取り落とさせ、そのうちの一人は致命傷を喰って落馬した。

 まさに日本人の、しかも少女のものとは思えない、まったく不相応な凄腕だ。

「ひっ」

 残りの強盗たちはあっという間に三人が戦闘不能になったのを見て、まるで信じられないものを見たと言うように驚愕の表情になり、そのうちの誰かが悲鳴を上げると、泡を喰って逃げだしてしまった。

 こうして悪党どもはあえなく撃退されたのだが、その場にいる誰ひとり自分たちがこの二人に救われたと思っていない。出会い頭に人の手首を斬り飛ばした先輩と言う男に比べると幾分理性的に見える少女が、武骨な拳銃を抜いたのだ。

 さすがに気不味さを感じたのか萌黄はその馬の手綱を曳くと、さっさとそれに飛び乗り、さっき先輩が人質にとった男の馬を誘導し、

「うっ、馬です!先輩、早く逃げましょう。このままじゃ捕まっちゃいますよ!」

「はは、やれば出来るじゃねえか、もえもえ。最初っから素直に俺の言うことを聞いてりゃよかったんだよ!」

「だからもえもえって言わないで下さいよっ」

 大笑いしながら、先輩は怪我をした男を縛り上げ、馬の背に乗せた。

「薄情な連中だな。まあ、少し行ったら血止めをして解放してやる。なに、死にやしねえさ」

 悪党の笑みを浮かべ、先輩は言う。鞍の上に括りつけられたメキシコ人強盗はもはや虫の息で苦しい息の下、脂汗で額をにじませてこの極悪な日本人を見上げてうめいた。

「てっ…てめえ、何者だ」

「おい、萌黄。こいつ、俺の名前を聞いてやがるのか?」

 そうだよな、と、先輩は手綱を曳きながら、しつこく萌黄に確認している。しかし当の萌黄は動揺する乗客たちの悲鳴を収めるので精いっぱいだった。

「しっ、知りませんよ。今、大事なところなんですから話しかけないで下さいっ」

「いいかあっ。よく聞け、てめえらもだ」

 おたおたと噛み気味の英語で話を続ける萌黄の声を呑みこむような大声で、先輩が名乗りを上げたのは、そのときだった。

「俺は、弾正だんじょう

 と、先輩は自分の胸を親指で示して言った。

早瀬弾正はやせだんじょうだ。日の本では古今、弾正の名を負う者は天下を負うものと相場が決まってるんだ。その弾正様よ。俺はこの国へ天下を取りにやってきた。弾正だ、俺の名前、ようく憶えておきな」

 その名乗りは完全に日本語だったので、そこにいるアメリカ人たちには誰ひとり、この無法な日本人の吐き出した言葉の意図を汲むことは出来なかった。その代わり、そのテンションは完全に誤解されて伝わったようだ。まるで悪党が無法の宣言をしたようにどよめきはさらに強まった。

「ううっ、恥ずかしい」

 天下を取る。意味は通じないにしても時代錯誤で途方もない大言壮語したこの男に、萌黄はすっかり顔を赤らめていた。

「せっ、先輩。それはもうやらないって、船の中で何度も約束したじゃないですか!」

「るせえっ、萌黄。俺はメリケンについたら一番、こいつをやるって決めてたんだ!いいから黙ってとっとと、メリケン語に訳しやがれっ」

「やですよっ、恥ずかしいっ!もういいから黙ってて下さいよ!先輩のせいで騒ぎが余計、収拾がつかなくなって」

 と、萌黄が絶叫したそのとき、彼方から砂埃を上げて何かが近づいてくるのが見えた。あれは正しく、事件を収拾しに現れた騎兵隊だ。

「おいっ、まずいじゃねえかっ!早く逃げるぞ」

「なんで、逃げなきゃいけないんですか!わたしたち、何も悪いことなんかしてないじゃないですかっ」

「てめえ、さっきは早く逃げようって言ってたろうが!」

「ここよっ!まだ悪人が二人も残ってる!」

「「ああっ」」

 おたおたしているうちに、この二人は結局逃げ遅れた。

 こうして騎兵隊はこの日、負傷した三人のメキシコ人列車強盗と、二人の危険人物を捕縛する運びとなったのだ。

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