第13話 未知との遭遇

萌黄たちが起こされたのは、まだ真夜中と朝の、ほんの境だ。

地平の果てに向けて、なだらかにハングした丘の向こうに幽かに朝陽がにじみ出している。

「急いで」

シャーロットは松明トーチを手にしていた。目の前に拡がるのは、まだ足元定かならざる完全な闇だ。

「ちっ、お江戸なら魚屋ととや河岸かしに出る時間帯だぜ」

弾正などは、ぶつくさ文句を言う。性格上、萌黄は突っ込まざるを得なかった。

「もう江戸はありません。東京府だって言ってるじゃないですか」

「へいへい」

「長旅で疲れていると思うけど、許してね」

ぱちぱちと火の粉が爆ぜる松明をかざして、シャーロットは辺りをうかがう。

「日が昇ると、手遅れになっちゃうのよ」

「はあ!?手遅れだ?」

いらつく弾正に、シャーロットは意味ありげな流し目をくれると、

萌黄もえぎ、聞いていいかしら。あなたは自分のお母さんにあんなことをしたのは、どんな怪物だったと思う?」

「分かりません」

言下に、萌黄はかぶりを振った。

「何とも、説明しがたい生き物としか、言いようがないです。でもわたし、確かに見ました。長屋ながやかわらの上を、ふらふらと飛び去って行く、見たこともないおぞましい生き物」

「それはいつのこと?」

萌黄は西暦で答えた。坂本龍馬が暗殺された慶応けいおう三年旧暦十一月十五日は、西暦に直すと一八六七年である。

「たったの三年前」

シャーロットは、唇を少し噛んだ。

「つまり世界中に、現われているのね。父が調べたところによると、彼らは古くからヒマラヤの奥地に生息し、わたしたちの社会にも紛れ込んでいたらしいから」

余計な話は終わりだと言うように、シャーロットはあごをしゃくった。

平原の中にぽつんと火が焚かれている。レズリー・エイワスが、ライフルを持って立っていた。犬を放してあるのか、その周りに獰猛そうな大型犬が数匹、姿勢を低くしてうなりをあげていた。

「兄さん!連中はまだ!?」

レズリーは大きく首を振った。

「問題ない。まだ大丈夫だ。いいからこいつを、見てみろ」

そう言えば焚き火周りの犬たちは、新たな闖入者である萌黄たちには見向きもしていない。彼らは終始、レズリーの足元に打倒されている黒く大きな影に向かって、その憎悪をたぎらせていたのだ。

大きな馬ほどもあるその物体は、レズリーに射殺されてかなり経っているのか、もはやぴくりとも動かなかったが、すでにおぞましいほどの悪臭を放っていた。その姿を目撃した時、萌黄は自分の身体が奥底から戦慄を覚えているのを、はっきりと感じた。

(こいつだ)

萌黄は、こみ上げてくるものを無理やり嚥下のみくだした。

それは紛れもなく、あの幕末京都の夜空を飛翔して行った口にするもおぞましいもの。

タツノオトシゴのように細く垂れ下がる長い尾を持っていたが、人類ヒトのように頑丈そうに安定した体格と四肢を持ち合わせていた。恐ろしく長い二つの垂れ下がった触手は、この生物の腕かと思われたが、魚のひれに似た傘の張った尖端は、人間のものとはまるで違う。

だが何より、この生き物が、地球上のどの生物からも超越して、絶対的な違和感を与えてくるすべての理由は、顔に相当すると思われる部分の方だ。

どこが口とも判別のつきがたいその部分には、不気味なフリンジのついた胞子状の物体が無数に備わっていたのだ。

萌黄たちの時代にはそこまで区別はついていなかったが、地球上の生物のうちには、優れた視界範囲と知覚を持つ『複眼ふくがん』の生物が存在する。だが豚の子宮のように不気味になだらかな膨らみを持ったこの房の一つ一つは、眼球とも触覚ともつきがたかった。

「懐かしい顔か?」

レズリーが、血の気の引いた萌黄の表情を確かめるように、尋ねてきた。

「は、はい…」

間違いありません。紛れもなく、こいつだ。三年前、あの近江屋の二階の土蔵から坂本龍馬と萌黄の母、深草綾女あやめの脳を奪っていったのは。だがそう断じようにも、咽喉のどの肉が吊って言葉が出なかった。

まるで絞殺されるような圧迫感を感じて、萌黄が反射的に取ってしまった行動は、誰にも説明できるものではなかった。萌黄は無意識とは思えないほどに確かな動作で、腰の銃を引き抜くと、そこに横たわった怪物の遺体に向けて発砲した。

その場の誰も反応できなかった。萌黄自身、連発して放った弾丸が屍肉に撃ち込まれ、空気が歪むほどの汚臭が暗緑色の液体とともに弾け出るのを見て初めて、我に返ったほどだった。

「落ち着いた?」

シャーロットは萌黄の衝動が収まるのを、見極めるようにして声をかけた。

「死んでるわ。分かっていると、思うけど」

萌黄はえづきを下して頷くと、まだ銃口から黒煙が立ち上る銃をホルスターに納めた。この恐ろしく堪えがたい、巨獣の胃袋にいるような生ぐさい悪臭は、紛れもなく、この生物の死臭なのだった。


ミ・ゴと呼ばれている。

エイワスたちの調査によると、この生物の身体は動物と言うよりは、胞子や菌糸に近い組成で出来ているが、地球上のどの生物の概念でも説明しえないもの、と言う。はるか昔に空に浮かぶ星の彼方から来た、と言う以外は何も分かっていない。

彼らは人語を解する高い知能を持ち、様々な形で接触を図ってくる。しかも人間の密偵をも使役し、その存在を知ろうとする人間を監視し、あるいは闇に葬ってきた。

「まず矢面に立って表に出るのが、この農場を襲った教団の人間たち、そして裏で働くのが、こいつらのような後ろ暗い連中だ」

と、レズリーはミ・ゴの遺体の側に放置された、ジャイルズの遺体を転がす。

「幸か不幸か、この男は新知覚能力者ドアーズだった。こいつが殺されても、連中はこの遺体を見棄てはしない。死んでいようが、新知覚能力者ドアーズの脳味噌が欲しいからだ」

そのとき何かを引き裂くような、甲高い獣の咆哮が、辺りに響いた。いまだ明けきらぬ平野に響いた悲鳴とも断末魔ともつかぬ声はもちろん人のものとも思えないし、この平野で夜をやり過ごすどの獣たちのものでもなかった。

「無駄だ」

レズリーは、犬たちをけしかける。ミ・ゴは犬を嫌い、犬はその存在に最も敏感に感づくので、レズリーは頼りになる猟犬ハウンドたちと、夜警をしているのだ。

朝靄あさもやになりかけた淀んだ空気を孕んで、生きているミ・ゴが飛び出した。ライフルを構えたレズリーの反応に、一切の遅滞はない。レズリーの弾丸は、容赦なくその巨体を撃ち抜いたのだ。


駅馬車を待つ人たちが、集まり出している。

それはちょうど萌黄たちが、ミ・ゴに遭遇した二時間後のことだった。

つい最近、大陸を横断する鉄道が出来たとは言え、僻地からの移動手段は、やはり馬に委ねられている。エイワス農場から北西へ十キロ、ハニンガム、と無造作に描かれた交易所にほど近い辺境の馬車駅だ。

ここは交易所の他は付近にまばらに、二、三軒の丸太小屋が点在するばかり、寂れた田舎の集落だ。西部に大農場が多かった頃は、この場所は肉牛の扱うカウボーイたちで賑わった。いわゆるキャトルタウンの一種だが、すぐ近くにあったエイワス農場が廃れてしまってからは、同じように活気のない辺境になってしまったのだ。

板敷の待合所にはテーブルが置かれ、猟師マウンテンマンくずれの男たちが、ポーカーに興じている。他に旅客は東部からの移住者らしいスーツ姿の男と、その家族だけだった。

「だからあたしは、田舎は嫌だって言ったのよ!」

男の妻は泣きわめいて、夫婦げんかの真っ最中だった。

「そもそもここはどこなの!?本当に今日中に、サクラメントまで着けるんでしょうね?」

「そんなの僕が聞きたいよ!大体君が列車を降りたいって言うから、こんなことになったんじゃないか。じゃあ、なんで列車を降りるなんて言い出したんだ!?」

アメリカ大陸を横断する鉄道が出来たのは、この物語のつい昨年、一八六九年のことだ。南北戦争で中断していた東西の鉄道開通が実現し、わずか一週間で大陸を横断することが可能になった。

それは馬に乗ったならず者たちが横行するフロンティア時代を告げる画期的な出来事だったのだが、開通初期の横断鉄道での旅は、快適なものとは言えなかったようだ。

「あなた食べ残しよ!?昨夜の食べ残しが包んであったのよ。しかも貧相なパイで!泥棒は出るし、とてもじゃないけど、子供たちとなんか過ごせない!」

妻は二人の少年を、庇うように抱き寄せた。猟師たちがいい加減、鼻白んでいた。朝から大声のけんかほど、うんざりすることはない。

そのとき、もう一人の客がやってきた。こちらも旅人のようだが、それにはそぐわないドレス姿の貴婦人を一人、連れている。鹿皮のジャケットにステッソンハットの男は、膝までの高いブーツを履き、騎兵隊くずれにも思われた。面長の顔に、薄く切り開かれた瞳は冷たく澄んでいる。手にはなぜか、随分昔に発行されたぼろぼろの古新聞を持っている。

「確かめて」

男は何やら、貴婦人に耳打ちするとそっと、その背中を押した。そして自分は古い新聞を抱えたまま、待合所に立っている新聞売りの男に声をかけた。

「新しいのを」

貴婦人は、言い争っている夫婦のところへ行ったようだ。男はそれを見届けながら、待合所に座っていた新聞売りに、硬貨を手渡す。

「旦那、新しい新聞は随分へえってねえよ」

最新号の手に入らない新聞売りは、硬貨を受け取ったものの、すっかりやる気を失くしていた。

「古いのでいいんだ」

だが男は構わなかった。新聞売りから、中古の新聞を一部、買い上げた。そのうちに女が戻ってきた。

「どうかな?」

男の問いかけに、貴婦人は悲しそうに頷いた。

「間違いありません」

その瞬間だ。男は誰もが振り向くような声で、こう怒鳴ったのだ。

「逃がさんぞホーマーッ!ここが終点だッ!」

その怒声に一瞬で反応したのは、怒鳴り合っていた夫婦だった。夫妻は顔色一つ変えることなく、それぞれに銃を取り出して男を撃とうとしたのだ。スーツ姿の男は鞄の陰から、妻はスカートの足の中に仕込んだペッパー・ボックスを。しかし勝負はそれよりも速く着いた。

それより速く撃った男の弾丸が、なぎ倒すように家族を皆殺しにしたのだ。

ポーカーをしていた猟師たちは、恐れおののいていたが、非難がましい目で男を見た。

「子供もいたんだぞ?」

男は一瞥すると、ポーカーの客に手配書を見せた。

「賞金首だ。アルフレッド・ホーマー一家、家族で十人殺した。弱い女、子供は息子たちに殺させた。生死問わずデッド・オア・アライブだ。君たちもあんな風になりたいか?」

猟師たちは、椅子から転げ落ちるように逃げて行った。

やがて駅馬車が来たが、そこには男しかいなくなった。

「あんた、賞金稼ぎかい?」

「さあな」

新聞売りの問いかけに、男は肩をすくめた。それどころではない、と言う風だった。やがて新聞売りも絶句した。なんと、男が連れて来た貴婦人の足元から、青白い炎が立っているのだ。

「満足か?」

男の問いかけに、貴婦人は微笑して頷いた。まだ悲しげな顔をしていたが、伏せた瞳からこぼれ落ちる涙は、彼女に沁みついた深い悲しみからのものではなさそうだった。

「ありがとう、助かったよ。良い旅を」

「あなたも」

男が別れを告げると女は一言、青い炎に包まれて消えた。それと同時にだ。男が持ってきた古新聞が青い爆炎を上げて消滅したのだ。

「あ、あんた…?」

「古いのでいいと言ったろ?」

唖然とする新聞売りの手から無造作に男は、新聞を引っ手繰った。

「さて次だ」

男が持っていた数日前の新聞には、サクラメントの列車強盗の事件が載っていた。現場で確保されたと言う不審な東洋人が二人いる。その記事は歩きながら新聞を見る男の目に、留まっていた。

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