第01話 01

 ――学校法人『松柏しょうはく学園』。

 煉瓦れんが造りの門柱に、ちから強く揮毫きごうされている学校名を、わたしは見上げて黙読します。これからわたしが六年間、通うことになる学校の名前。

『松柏学園』。

 青銅を鋳造した看板は、風雨にさらされながらも、いささかも傷むことなく、むしろ磨かれ、歳月の洗礼をくぐり抜けた今では、まなが持つにふさわしい重厚さを獲得していました。褪色と変色とを繰り返し、技巧による表現を超越していました。

 自然と厳粛な気持ちになりました。おのずと涌き上がる敬虔な念に、背を正されます。年月に耐え、重ね続けた歴史の重みに、わたしは、呼吸さえも憚られました。

 どれくらい、そうしていたのでしょうか。

「そんなに気に入ったのかい」

 気がつくと、制服を着た初老の男性が脇に立っておられました。張り詰めた空気を乱すことなく、まるで初めからいらっしゃったかのように同化して立っておられました。

「あっ、いえっ」

 頬が羞恥で染まるのが自覚わかります。恥ずかしいところを見られてしまったわと、わたしは意味もなく服の裾を直し、改めてお声をかけてくださった門衛のお爺さまに向き直りました。

「こんにちは、あのっ、挨拶が遅れてしまって、申し訳ありませんでした」

「いやいや良いんだよ」

 深々とを垂れるわたしに、お爺さまは帽子の にお手を添えられ、気さくに微笑んで答えてくださいました。

 と、見紛みまごうばかりに細められた両目が、おや、と開かれます。ほうほうと、独り納得したように頷かれます。

 何に納得なされたのかしら、わたしはこうか迷います。失礼にあたるかしら、でも何か大事なことでしたらいておかないとまずいかしら、判断につきかねます。考えたあげく、視線で問い尋ねることにいたします。夜の泉のように深い色を湛えたお瞳を、遠慮がちに見つめます。いかがなさいましたかと、そう訴えかけます。

 まるで心の声が聞こえたかのように、お爺さまは再びお目を細めます。きっと、今みたいなお笑い顔を、数えきれないくらい浮かべてこられたのでしょう、好好爺こうこうやぜんとしたその笑顔に、気づかずわたしは、緊張をほどいていました。

 そして、恵比寿さまのようなお表情かおで、お爺さまはお答えくださいます。

「いやなに、お嬢さんが大層、 さんだったもんでね」

 べっぴんさん……? あまりにも耳慣れないお言葉に、わたしは暫時ざんじ、首をかしげて固まってしまいます。そしてようやく意味に至って、わたしは二たび、髪を乱さんばかりに を垂れました。

「あっ、ありがとうございますっ」

「別に礼など要らないよ。思ったままを言ったまでなんだから」

 はあ、恐縮して小さくなります。臆面もなく、堂堂と物言われるお爺さまに、逆にわたしのほうがずかしくなってしまいます。……ですが、絶望的なまでに成長の遅いわたしは、必然容姿について好意的に言われる機会がなくて――言われたとしても、大抵は、『可愛らしい』とか、『○○みたい』(○○には小動物が入ります。)としか言われなくて――だから『別嬪べっぴんさん』なんて言われて、わたしは照れてしまいます。社交辞令だと判ってはいましたが、頬のゆるみを抑えられません。

(やっぱり制服のお蔭なのかしら……。)

 買い替える必要がないように、大きめの制服を買ったものの、あまりにも大きすぎて、“制服を着ている”、ではなくて、“制服に着られている”、みたいになっていたのですが、(もう少し解りやすく表現するなら、腕を伸ばしても、ブレザーの袖口から手が隠れてしまったり、スカートを穿かなくても平気なくらい丈が長かったりしています……。)この守衛さんのお瞳には、どうやら大人っぽく映ったようでした。

 まあ、とに微笑みます。 と口もとを隠し、上品な仕草を作ります。あたかも言われ慣れていますよ、といわんばかりの優雅さで、わたしは再度お礼を述べました。

 ですが、そんなわたしに、守衛のお爺さまは、こりゃ一本取られたわいと、ご大笑されました。何が“一本取られた”のかしら、予想外の反応に、戸惑ってしまいます。もしかしてまた間違えたのかしら、わたしはもう一度、羞恥に顔を赤らめます。

 ……そう、肉体面だけでなく、精神面でもなわたしは、背伸びしては失敗することが多いのです。とし相応に、できればもう少し成熟して見られたいと、日日ひび立ち振る舞いに気を配ってはいるのですが、なぜか周りには反対に、小さい女の子が背伸びしているような、そんな微笑ましいものとして映ってしまうのです。それどころか、まるで幼稚園児がお化粧をするかのような、そんな苦笑が入り混じった光景にさえ見えているみたいなのです。(文体だって、こんなにも頑張っているというのに……。)

 と。

「……さん、お嬢さん」

「…………えっ? ――あっ、はいっ」

 内的世界に没入していたわたしは、突然お声をかけられて、びっくりと驚いてしまいます。慌てて門衛のお爺さまへと顔を挙げます。するとそこには、瞳に馴染んだ表情――つまりは微苦笑を浮かべておられるお爺さまの、柔らかな視線がありました。(この微笑と苦笑との割合が、お付き合いが永くなればなるほど、一方へと偏っていくのです……。)

「済みません、ぼけっとしていて」

「いやいや良いんだよ」

「それで、どうかなさいましたか?」

「ああ、うん……」

 と門衛のお爺さまは言い淀まれます。伝えても良いものかと迷っておられるふうに見受けられます。どうなされたのかしら、もしかして――、とわたしはお得意の妄想をたくましくしました。

『謙遜しなくても良いさ、お嬢さん、とっても魅力的じゃないか』

『!』

 い、いやですわ、困りますわ、わたしは脳内のお爺さまの に、頬を両掌りょうてで包み、身をくねらせました。一瞬で恋愛脳に切り替わった細胞は、目の前の素敵なお爺さまに言い寄られて、懊悩する自分の姿(美化修正済み。)を、恐ろしいほどのスピードで描き出します。ダメ、いけませんわ。何がいけないというのだね。だ、だって、わたし、まだ……。おやおや、困ったことを言う、こんな聞き分けのない唇は、こうしてしまおうか。あっ、いやっ、ダメ――――。

 と、単行本にして四十巻分くらいのラヴロマンスを繰り広げてから、ようやくわたしは、正気に立ち返ります。わたしの眼前には、先ほどよりも一割くらい、苦笑の比率を大きくされた、門衛のお爺さまのお顔がございます。

「お嬢ちゃん、大丈夫かね」

 あまつさえ、ご心配のお言葉まで、かけられてしまいます。わたしは今度こそ、耳たぶのてっぺんまで紅葉もみじを散らして、顔をおおいます。何か取り返しのつかないこと、口走っていなければ良いのですけど、そう願いましたが、正直自信はありません。(今までに同じような失敗を、多多たた繰り返しているのです……。)

 仕方なく、いつものように笑ってごまかして、この場をしのぎます。

「それで、どうかされましたか?」

「……ん、ああ、そうだった、そうだった」

 そして何ごともなかったかのように、本題へと話を戻します。切り替えの速度についてこられず、お爺さまは一瞬面喰めんくらったようなお表情かおになりましたが、すぐに、とお手を打たれます。言おうとしていたことを思い出されたみたいです。

 そう言えば、とわたしも追随して記憶を手繰たぐります。

(たしか、何かわたしにお伝えしようとしてくださっていたのよね。それなのにわたしが暴走しちゃって……。)

 思い出して、わたしは姿勢を改めます。地にちた印象を少しでも好転させようと、真剣な眼差しと、真摯な態度を作ります。――ですが、次の瞬間、門衛のお爺さまのお発ししたお言葉に、わたしは思考を止められ、そして、咽喉が潰れるほどの絶叫を挙げていました。

「お嬢ちゃん」

「はい」

「その……、」


  ――?


(…………、えっ?)

(十、一時……?)

(十一時って……。)

(…………。)

(――?!)

「えええええええええええええええっっ?!」

 わたしは門衛のお爺さまに、摑みかからん勢いで詰め寄りました。嘘うそうそっ、嘘ですよねっ、と、しても仕様のない懇願をしていました。

(だって、だって――!)

 濁流ににされる木の葉のように混乱の極みにありながらも、わたしは脳裡で、一つの声、“すず”というたとえそのままのお美しいお声を、再生していました。


『では、十時半に待ち合わせね。……ふふ、あなたに逢えるのを、楽しみにしておりますわ』


 そうおっしゃったのち、ころころと笑みを立てられるその音を、わたしは受話器に耳を押し当てて、一生懸命に聴き取っていました。初めて聴く『彼女』の美声に、胸の動悸が収まりませんでした。この『女性ひと』が、この『女性ひと』が――。あまりの昂奮と期待で、その夜は寝つくこともできませんでした。それ以来、今日このときまで、ありとあらゆるお姿を思い浮かべては、陶然としていました。あの涼しげなお声にふさわしい、凛としたお姿なのかしら。それとも意外と、可愛らしいお姿なのかしら。想像の泉は尽きることがありませんでした。

(その方とお逢いする、初めての日なのにっ!)

 まさかお顔合わせの日に、遅刻だなんて、そんな、そんなっ――! わたしは半分目になりながら、必死で最悪の結論を否定しようといたします。ですが、戸惑うように、哀れむようにして差し出されたお爺さまのお腕の、そのはめられている時計の針は、間違いなく十一時を回っておりました。

(う、うそ……。)

 ショックのあまり喪神そうしんしかけます。ちからが抜けて、ふらふらとからだが揺れ動きます。両脚の踏ん張りが利きません。

「しっかりしなさいっ」

 そうお爺さまに両肩を摑まれ、支えてもらわなければ、わたしはその場に倒れ込んでいたかもしれません。

「……だって、だってぇ」

 こぼれた言葉には、すでになみだの色が浮かんでいます。遅刻してしまった、その事実に、わたしはこれ以上ないくらい打ちのめされていました。

(どうしよう、どうしよう……。)

 想像力豊かなわたしは、(それがわたしの美点でもあり、同時に矯正点でもあるのです。)今回は完全に悪いほうに傾きます。まだ見ぬ『彼女』の、その柳眉を逆立てたお姿を幻視いたします。鋭い蔑視を受けました。幾千からり抜かれた、わたしの理想を実体化させた『彼女』の、罵声を浴びました。氷弾ひょうだんのようなに、撃ち抜かれました。

 頭蓋で残響する数数の呪詛に、わたしの視界は色をなくしました。薔薇色の明るい未来を夢見ていたわたしは一転、灰色の世界に墜とされました。確たる理由もなく、時間を忘れるような毎日を送れると信じていた自分は、もうどこにもいませんでした。最悪を想像してしまった今では、その夢想はただただ滑稽でしかありませんでした。

 この場にうずくまってしまいたくなりました。逃げ出してしまいたくなりました。あるはずのない、人生のリセットボタンを押したくなりました。門衛のお爺さまの、肩に食い込むお指の感触がなければ、わたしは現実を抛棄ほうきして、空想の世界に逃げ込んでしまっていたことでしょう。

「ほら、泣いてる場合じゃないだろ」

 ぼやけた視界の向こう側から、そんなお声が聞こえます。ぐしぐしとをこすって、わたしは顔をあげました。

「大丈夫、おこられやしないから」

 色彩の戻った世界で、懸命に励ましてくださるお爺さまが居りました。情緒不安定な思春期の女の子にも慣れておられるのか、突然泣き出してしまったわたしにも、何ら動じられることはなく、しっかりとこちらを見据える双眸そうぼうは、わたしに幾年いくとせを経た大木を連想させました。

「そう……ですか?」

「ああ、大丈夫、ここにはそんな器量の狭いなんていないさ」

 そう胸を張ってお爺さまは断言なさいました。

「――――」

 極端から極端へ振れる針のごとく、悲愴感をまとっていたわたしは直ちにそれを脱ぎてます。関係者の口から発せられた楽観を、鵜呑みにいたします。

(そう……ですよね。……うんっ、そうですわっ、あの『女性ひと』……、『お姉さま』が、そんな人なわけありませんわよねっ。)

 今や眼裏まなうらには、女神のように両腕を拡げて微笑む、『お姉さま』のお姿がありました。早くいらっしゃい、直接脳髄に、『彼女』の涼やかな美声が響きます。はいっ、とわたしは元気よく答えます。

「ええと、その……、色色ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「なになに、良いってことだよ」

「はいっ、ありがとうございます」

「それじゃあ、気をつけていくんだよ。慌てて転ばないようにね」

「はいっ」

 わたしは爽快にお返事をいたします。どうしてわたしが普段から転んでばかりいることをお知りなのかしら、そんな疑問は浮かびません。

 気持ちの余裕の表われか、最後にな笑みを残すことができました。くるりと回って、スカートの裾を翻します。品を喪わないように、でもできるかぎりの早足で、わたしは敷地内へと足を踏み入れました。

 そのときでした。


 軽やかな風が吹きました。まるで、到来を告げるかのように。

 鼻腔びこう刺戟しげきを受けました。控えめに香る、甘い花の匂いがしました。

 わたしの名が呼ばれました。

 あのお声が聞こえました。

 そう、

『彼女』の、


『わたしのお姉さま』の、お麗しいことが――――……。


 ……それがわたし、『紺屋こんやちさと』と、お姉さま、『霧林きりばやし 椿つばき』との、初めての邂逅でありました。いきききって、外聞も気にせずけ下りてきてくださった椿お姉さま。ゆかしい椿お姉さまそのままに、慎ましく香る芳芬ほうふんと共に、その光景はわたしの網膜にきつきました。それを、わたしは生涯、決して忘れることはないでしょう。心もとない記憶力しか持ち合わせていないわたしではありましたが、それだけは間違いなく断言できます。

 そう、わたしの人生に、最も強い影響力を与えた、椿お姉さまとの想い出は――。

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