第01話 01
――学校法人『
『松柏学園』。
青銅を鋳造した看板は、風雨にさらされながらも、いささかも傷むことなく、むしろ磨かれ、歳月の洗礼をくぐり抜けた今では、
自然と厳粛な気持ちになりました。おのずと涌き上がる敬虔な念に、背を正されます。年月に耐え、重ね続けた歴史の重みに、わたしはしばし、呼吸さえも憚られました。
どれくらい、そうしていたのでしょうか。
「そんなに気に入ったのかい」
気がつくと、制服を着た初老の男性が脇に立っておられました。張り詰めた空気を乱すことなく、まるで初めからいらっしゃったかのように同化して立っておられました。
「あっ、いえっ」
頬が羞恥で染まるのが
「こんにちは、あのっ、挨拶が遅れてしまって、申し訳ありませんでした」
「いやいや良いんだよ」
深々とこうべを垂れるわたしに、お爺さまは帽子のつば にお手を添えられ、気さくに微笑んで答えてくださいました。
と、しわと
何に納得なされたのかしら、わたしは
まるで心の声が聞こえたかのように、お爺さまは再びお目を細めます。きっと、今みたいなお笑い顔を、数えきれないくらい浮かべてこられたのでしょう、
そして、恵比寿さまのようなお
「いやなに、お嬢さんが大層、べっぴん さんだったもんでね」
べっぴんさん……? あまりにも耳慣れないお言葉に、わたしは
「あっ、ありがとうございますっ」
「別に礼など要らないよ。思ったままを言ったまでなんだから」
はあ、恐縮して小さくなります。臆面もなく、堂堂と物言われるお爺さまに、逆にわたしのほうが
(やっぱり制服のお蔭なのかしら……。)
買い替える必要がないように、大きめの制服を買ったものの、あまりにも大きすぎて、“制服を着ている”、ではなくて、“制服に着られている”、みたいになっていたのですが、(もう少し解りやすく表現するなら、腕を伸ばしても、ブレザーの袖口から手が隠れてしまったり、スカートを穿かなくても平気なくらい丈が長かったりしています……。)この守衛さんのお瞳には、どうやら大人っぽく映ったようでした。
まあ、とあでやかに微笑みます。 おほほと口もとを隠し、上品な仕草を作ります。あたかも言われ慣れていますよ、といわんばかりの優雅さで、わたしは再度お礼を述べました。
ですが、そんなわたしに、守衛のお爺さまは、こりゃ一本取られたわいと、ご大笑されました。何が“一本取られた”のかしら、予想外の反応に、戸惑ってしまいます。もしかしてまた間違えたのかしら、わたしはもう一度、羞恥に顔を赤らめます。
……そう、肉体面だけでなく、精神面でもまだまだなわたしは、背伸びしては失敗することが多いのです。
と。
「……さん、お嬢さん」
「…………えっ? ――あっ、はいっ」
内的世界に没入していたわたしは、突然お声をかけられて、びっくりと驚いてしまいます。慌てて門衛のお爺さまへと顔を挙げます。するとそこには、瞳に馴染んだ表情――つまりは微苦笑を浮かべておられるお爺さまの、柔らかな視線がありました。(この微笑と苦笑との割合が、お付き合いが永くなればなるほど、一方へと偏っていくのです……。)
「済みません、ぼけっとしていて」
「いやいや良いんだよ」
「それで、どうかなさいましたか?」
「ああ、うん……」
と門衛のお爺さまは言い淀まれます。伝えても良いものかと迷っておられるふうに見受けられます。どうなされたのかしら、もしかして――、とわたしはお得意の妄想をたくましくしました。
『謙遜しなくても良いさ、お嬢さん、とっても魅力的じゃないか』
『!』
い、いやですわ、困りますわ、わたしは脳内のお爺さまのせりふ に、頬を
と、単行本にして四十巻分くらいのラヴロマンスを繰り広げてから、ようやくわたしは、正気に立ち返ります。わたしの眼前には、先ほどよりも一割くらい、苦笑の比率を大きくされた、門衛のお爺さまのお顔がございます。
「お嬢ちゃん、大丈夫かね」
あまつさえ、ご心配のお言葉まで、かけられてしまいます。わたしは今度こそ、耳たぶのてっぺんまで
仕方なく、いつものように笑ってごまかして、この場をしのぎます。
「それで、どうかされましたか?」
「……ん、ああ、そうだった、そうだった」
そして何ごともなかったかのように、本題へと話を戻します。切り替えの速度についてこられず、お爺さまは一瞬
そう言えば、とわたしも追随して記憶を
(たしか、何かわたしにお伝えしようとしてくださっていたのよね。それなのにわたしが暴走しちゃって……。)
思い出して、わたしは姿勢を改めます。地に
「お嬢ちゃん」
「はい」
「その……、」
もう十一時なんだが 、時間は大丈夫なのかね――?
(…………、えっ?)
(十、一時……?)
(十一時って……。)
(…………。)
(――十一時っっ?!)
「えええええええええええええええっっ?!」
わたしは門衛のお爺さまに、摑みかからん勢いで詰め寄りました。嘘うそうそっ、嘘ですよねっ、と、しても仕様のない懇願をしていました。
(だって、だって――!)
濁流にもみくちゃにされる木の葉のように混乱の極みにありながらも、わたしは脳裡で、一つの声、“
『では、十時半に待ち合わせね。……ふふ、あなたに逢えるのを、楽しみにしておりますわ』
そうおっしゃった
(その方とお逢いする、初めての日なのにっ!)
まさかお顔合わせの日に、遅刻だなんて、そんな、そんなっ――! わたしは半分なみだ目になりながら、必死で最悪の結論を否定しようといたします。ですが、戸惑うように、哀れむようにして差し出されたお爺さまのお腕の、そのはめられている時計の針は、間違いなく十一時を回っておりました。
(う、うそ……。)
ショックのあまり
「しっかりしなさいっ」
そうお爺さまに両肩を摑まれ、支えてもらわなければ、わたしはその場に倒れ込んでいたかもしれません。
「……だって、だってぇ」
こぼれた言葉には、すでに
(どうしよう、どうしよう……。)
想像力豊かなわたしは、(それがわたしの美点でもあり、同時に矯正点でもあるのです。)今回は完全に悪いほうに傾きます。まだ見ぬ『彼女』の、その柳眉を逆立てたお姿を幻視いたします。鋭い蔑視を受けました。幾千から
頭蓋で残響する数数の呪詛に、わたしの視界は色をなくしました。薔薇色の明るい未来を夢見ていたわたしは一転、灰色の世界に墜とされました。確たる理由もなく、時間を忘れるような毎日を送れると信じていた自分は、もうどこにもいませんでした。最悪を想像してしまった今では、その夢想はただただ滑稽でしかありませんでした。
この場にうずくまってしまいたくなりました。逃げ出してしまいたくなりました。あるはずのない、人生のリセットボタンを押したくなりました。門衛のお爺さまの、肩に食い込むお指の感触がなければ、わたしは現実を
「ほら、泣いてる場合じゃないだろ」
ぼやけた視界の向こう側から、そんなちからづけるお声が聞こえます。ぐしぐしとまぶたをこすって、わたしは顔をあげました。
「大丈夫、おこられやしないから」
色彩の戻った世界で、懸命に励ましてくださるお爺さまが居りました。情緒不安定な思春期の女の子にも慣れておられるのか、突然泣き出してしまったわたしにも、何ら動じられることはなく、しっかりとこちらを見据える
「そう……ですか?」
「ああ、大丈夫、ここにはそんな器量の狭い
そう胸を張ってお爺さまは断言なさいました。
「――――」
極端から極端へ振れる針のごとく、悲愴感をまとっていたわたしは直ちにそれを脱ぎ
(そう……ですよね。……うんっ、そうですわっ、あの『
今や
「ええと、その……、色色ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「なになに、良いってことだよ」
「はいっ、ありがとうございます」
「それじゃあ、気をつけていくんだよ。慌てて転ばないようにね」
「はいっ」
わたしは爽快にお返事をいたします。どうしてわたしが普段から転んでばかりいることをお知りなのかしら、そんな疑問は浮かびません。
気持ちの余裕の表われか、最後ににこやかな笑みを残すことができました。くるりと回って、スカートの裾を翻します。品を喪わないように、でもできるかぎりの早足で、わたしは敷地内へと足を踏み入れました。
そのときでした。
軽やかな風が吹きました。まるで、到来を告げるかのように。
わたしの名が呼ばれました。
あのお声が聞こえました。
そう、
『彼女』の、
『わたしのお姉さま』の、お麗しい
……それがわたし、『
そう、わたしの人生に、最も強い影響力を与えた、椿お姉さまとの想い出は――。
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