第三章

第25話 問答


「あら、いらっしゃい。ここに来るのは初めてよね?」

 

 気が付くと見知らぬ部屋にいた。

 狭い個室だった。奥まった位置に無駄に馬鹿でかいデスクが置かれ、その手前には応接用のソファが向き合う形で置かれている。デスクの上には無数の書類が山積みになり、中央に置かれたノートパソコンまでもが今にも埋まってしまいそうだ。

 おれは入口の前で立っている。

 今来たばかりのような気もするし、ずっと前からそこにいたような気もする。どこか寝起きの頭にも似た緩慢な思考は状況についていけていなかった。

「座ったら? コーヒーくらい出すわよ?」

 声はどこまでも優し気だった。

 促されるまま、手前のソファに座る。そこでようやく、声の主が書類の山から姿を見せた。


「改めて。初めまして、あなたの雇い主よ」

 

 とんでもない美人だった。

 年のころは二十代後半だろうか。

 女性にしては短い髪型だったが、その美貌をいささかも損なっていない。大きな瞳が優し気に細められる様が異様に色っぽく、柔らかな笑顔は緩んだ脳みそには刺激的過ぎた。

 つい、見惚れてしまう。

「名前」

「は?」

「貴方の名前を教えてくれるかしら」

「え? あ、はっはい! おれは黒崎哲夫って言います!」

 柔らか声に促され、自分が名前すら名乗っていないことに気付いた。上ずった声で自己紹介をした後、当たり前のことに気付く。

 どう考えても、おれのことを知らないわけがない。

 だって、この人は…あれ、なんだっけ?

「そう、それでいいわ。初めて顔を合わせるんですもの、自己紹介はきちんとしないとね」

 柔らかな笑み。

 だが、その笑みの裏に有無を言わさぬ何かを感じた。それがなんなのかまではわからなかったが、不思議なことに反感を抱く気にもならなかった。

「さて、黒崎君。君がどうしてここにいるのか、その理由はわかる?」

「えっ?」

 どうしてここにいるのか。

 当たり前と言えば当たり前の疑問すらもまったく思い浮かばなかった。というよりも、今まで何をしていたのかすらも思い出せない。

むしろ、こっちの方が聞きたいくらいである。

「あっと、なんでって言われましても…その、依頼を受けてこっちに来て、あーこっちっていうのはこの世界のことでって、あれ?」

 そうだ、おれはある少女に頼まれて。

 いや、頼まれてはいない。頼まれるほどおれが信頼されていなくて、けれど、それだけじゃなかったはずで。

 そもそも、おれはなにをしてたんだっけ?

「少し時間が掛かりそうね。いいわ、ちょっと待っていなさい」

 彼女はおれの返事を待たずにどこかへ行った。

 狭い室内であるはずなのにどこにも姿は見えない。それがおかしいことくらいは気付いたが、それ以上考える気力がわかなかった。

 なんというか、どうにも大事なことを忘れている気がする。

「どうぞ。熱いうちに召し上がれ」

 マグカップを手渡された。

 掌に伝わる熱さが妙に気になる。

 そのくせ、絶対に飲みたくないと思うのはなんでだろう?

「思い出した?」

「…いえ、それが全然」

「あら、そう。意外ね、あなたにとっては大したことじゃなかったのかしら」

 どこか含みのある言い方だと思った。けれど、それ以上の感想は浮かばない。

 女性は、そういえば名前を聞いていなかった、自分のマグカップに口を付ける。その姿が随分と様になっているなと思う。宣伝ポスターのモデルばりの立ち姿に一瞬心奪われた。

 マグカップを見る。

 どうしてか飲む気にならない。

 濃厚な香りはとてもおいしそうだし、あんなに魅力的な立ち姿まで見たのだ。つられて飲みたくもなりそうなものなのに、どうしてか口をつけるきにもならなかった。

 それなのに、マグカップを持った掌のぬくもりが妙に気になるのは何故だろう?

「それで、あなたのこれからのことなんだけれど」

「え、はい?」

「残念だけれど、うちでは難しいかもしれないわね」

 突然の宣告。

 言葉を失ったが、それ以上動揺はしなかった。情けないことにこの言葉は聞き慣れている。ここで何を言おうが無駄なことも、経験でわかっている。

 むしろ、こうして伝えてくれることがどれだけありがたいことかもわかっていた。

「…そうですか」

「ええ。いきなりでごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です。ただ、なんと言うか。確かにいきなりですね」

 無理やり笑顔を作った。

 それが上等なものではないことを理解していたが、それでも作るしかない。相手の誠意を無下にして得るものなどないし、何より次を考えなければ。

ここで跡を濁す真似をしても意味はない。

「ごめんなさいね」

「いえ、気になさらないでください。そちらにも事情はあるでしょうし。ただ、その」

「なにか疑問に思うようなら、なんでも聞いて」

 なんで俺をクビにするんですか?

 そう聞ければどれだけ簡単なのか、自分でもわかっていたが聞けるはずもない。ただ、それでも何もないというのは如何せん印象が悪い気がした。

 かといって、おれはこういう時に気が利いた質問をできる人間ではない。

 愛想笑いを浮かべて間を持たせる。頭をフル回転させていたが、なにも思いつかない。今までもそうだったのだから、すぐに変わる筈もない。

 このまま向こうから話を切り上げてくれるのを待つ。

 …それが良いことだとは決して思わないが、一番穏当であることに違いはない。今までの経験からそれは理解していた。

 ただ、なにか。

 そう、なにかがあっただずだ。その何かを思い出せない。

「ところで、そのコーヒー。何時まで持ってるの?」

「え?」

「冷めてしまったかもしれないけれど、おいしいわよ?」

「あ、ああ。すいません」

 勧められるまま口を付ける。

 驚いた。

 口に含んだそれは、あまりに普通過ぎたのだ。

「おいしくなかった?」

「いえ、おいしいです。ただなんというか、随分と久しぶりな気がして。こんな飲み物だったんだと改めて思ったというか」

 我ながら何を言っているのかわからない。

 コーヒーなんてそれこそ毎日飲み飽きるほど口にしているものだ。そんなものを珍しがると言うかありがたがると言うかなんだか物足りなく感じる自分がいる。

 物足りない。

 そうだ、いつも飲むそれは破滅的に甘くてそのくせ苦みがあとから押し寄せてくるという謎の代物であり、いくらアドバイスしても毎朝その進化っぷりに驚かされるいわくつきの一杯で。


 それを作ったのは誰だっけ?


「質問がないようなら、話はここまで。君も家に帰してあげるから安心なさい。あとは私達でやっておくから」

「…た?」

「え?」


「あれから、おれはどれくらい寝てた?」


 靄がかった思考が鮮明になる。一つを思い出せば全てを思い出す。怒涛のごとく押し寄せた記憶が自分のすべきことを自覚させた。

 聞きたいことは山ほどある。

 言いたいことはそれ以上あった。

 けれど、そんなことはどうでもいいことだ。


 セルタを救う。

 

 それだけが、今すべきことだ。

「あらあら」

 にたりと、女は嗤う。

 その眼差しが酷く不快で、その仕草が妙に癇に障る。

 女はこれまでの外面を剥ぎ取って、極悪な笑みをを浮かべる。


「いい面構えになったじゃない」


 優し気だった視線が冷たく突き刺さる。柔らかい雰囲気はどこかに消え、肌に刺さるような重圧が室内を支配する。それでも不思議と真っ向から立ち向かうことができた。

 この女は、自分を雇い主と言った。

 その上で、おれをいらないと言ったのだ。

 ならば、この問答を終わらせるわけにはいかない。

 おれはセルタを救うのだ。

 そのために、


「改めて聞くけれど、何か言いたいことはあるかしら? 黒崎哲夫君」


 この女を説得しなければならない。

 思考がかつてないほどフル回転している。言いたいことは山ほど浮かぶのに決定打が足りない。時間が欲しい。愛想笑いで間を持たせる暇すら惜しい。

 話を切り上げさせるわけにはいかないのだ。

 全身が熱くなる。

相手の挙動にすら注意を向け、間を意識しておれは口を開いた。

 その一言に、おれは全てを賭けた。

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