第12話


 広い部屋だった。

 蝋燭のみが灯された室内は薄暗い。四方の壁を辛うじて視認できたが、それ以外はよくわからなかった。ただ、上座に座る美女だけがはっきりと浮かび上がっている。

 上座は一段高く設けられ、畳が敷かれているようだ。板張りの床に腰を下ろした静馬達は目の前の女性と無言で対峙していた。

 いや、違う。

 女性は明らかに桜だけを見つめている。涼やかな目で表情を変えずに。ただ、ただじぃっと見つめている。

 桜は既に静馬の背後に隠れていた。袖を固くつかんでいる。

 必然、静馬と正面から相対することになるのだが、それでも彼女は桜だけを見つめていた。静馬はまるで眼中にないらしい。

 桜はますます怯えている。

 どうすればいいのか、静馬は途方に暮れるしかない。

 その状況を見かねたのか、案内人の男が女性に耳打ちをした。

 そこで初めて、女性は静馬を見た。柔らかい笑顔。だが、どこか値踏みされるような感覚を静馬は覚えた。

 この感じには慣れている。

 初めての客はいつもこんな目で静馬を見ていた。

「初めまして、私はツバキと申します。あなたが彼女を保護した人だそうですね」

「はい、黒賀屋静馬と申します。師である飯村啄木の元で紋筆について日々学ばせていただいております」

「…うん、悪くないわね」

「え?」

「あなたも私好みよ」

 またも満面の笑み。

 なぜか袖を掴む力が強まった気がした。

 どうにも調子が出ない。

 静馬は愛想笑いを浮かべ、話を曖昧にした。これ以上雑談を続けようにも、目の前の人物は独特だ。時間をかけるのは危険である。

 静馬は本題に入ることにした。

「この度は後見人の申し出を頂き、桜も私共も大変感謝しております。ただあまりに突然の申し出に少々戸惑っているのも事実です。何故、この時期に後見人を引き受けようと思われたか理由を聞いてもよろしいでしょうか?」

「あら、困っている人がいたら助けるのは当然じゃないかしら。まして異世界人なら、相応の立場の人間が動かなければならないのではなくて?」

「確かに。しかし、彼女は既に一月の間私どもと生活を共にしています。紅祭まではあと五ヶ月。彼女の境遇を考えればこの時期に環境を変えるのは、私共としては賛同しかねます」

「私はあくまで申し出たまで。結論は彼女に任せます」

「え、ほんとっ?」

 桜が声を上げた。

 静馬にとっても意外な言葉だった。

 ツバキと名乗った女性はにっこりと柔らかい笑みを浮かべ、


「もちろん、桜ちゃんの意志を一番に優先するわ」


 瞬間、何かが静馬の首元に迫った。

 正面からではない。背後左右の至るところから何かが首元にめがけて伸びてきた。鈍い光沢が静馬の視界の隅に見て取れる。

 動けない。

 あまりの唐突さに恐怖も感じないまま、静馬はただ動けなくなった。

 ツバキは柔らかい笑みを浮かべ続けている。状況にそぐわない、どこまでも優しげな表情。静馬はそこに確かに狂気を見た。


「ねぇ、桜ちゃん。あなたはどうしたいの?」


                   *


 状況は最悪である。

 静馬はゆっくりと深呼吸した。

 予想はできたことだ。ここはいわば敵地である。高貴な身分かなんだか知らないが、静馬達は彼女の我儘に応えるためにここに来たのだ。

 後見人。

 犬猫と同様の扱いで、あの女は桜の身柄を要求している。

 静馬はそっと視線を動かした。

 桜は、顔を俯かせている。矛先は向いていない。

視線を動かしたことで、静馬は自身の首元に突き付けられたものがなんであるか、ようやく把握できた。

 槍である。それも太く頑丈な作りをしている。

握っているのは屈強な男達だった。黒々した髭を蓄え、鋭い眼光で静馬を睨んでいる。鎧を纏った姿はまさしく武士そのもので、静馬は抵抗すること自体無意味であると判断する。そもそも、喧嘩は弱いのだ。

 ツバキと名乗った女に視線を戻す。

 静馬は一度唾を飲み込んでから、口を開いた。

「これはまた、随分と手荒い歓迎ですね」

「あら、ごめんなさい。こうでもしないと本音が言えないんじゃないかと思って」

 にっこりと女は笑う。

 あまりの白々しさに笑いがこみあげてくる。静馬は無理やり口角を上げた。ひどく不自然な笑みを浮かべたつもりだったが、女はどこか楽しげに静馬を見ている。

「本音、というのがよくわかりませんね。彼女はまだ何も意見を言っていませんよ?」

「何事も一言目が肝心でしょう? 自分の言ったことで後に引けなくなるなんて、そう珍しいことでもないと思うけれど」

「だからと言って、刃物をちらつかせるのはどうかと思いますが」

「あら、貴方達だって護衛を連れて来たでしょう? とってもおっかない二人組をね」

「だから公平であると?」

「少なくとも、私の思う通りの状況にはなったかしら」

 会話が途切れる。

 結局のところ、静馬の言葉に意味はない。

 ツバキと名乗った女は初めから桜としか対話するつもりはないようである。先ほどからいくらか会話を交わしたが、静馬の言葉に対しては暖簾に腕押しに近い。

 調子を合わせた他愛のない言葉の応酬。

 惨めなことこの上ない。静馬は初めから相手にされていないのだ。であるならば、この状況を脱する方法は一つしか考えられなかった。

 無論、ツバキがそれに納得するのかは別問題ではあるが。


「わ、わたしは」

 

 普段とはかけ離れたか細い声。

 静馬は視線だけをそっと桜に向けた。

 顔は伏せたままで懸命に声を絞り出している。心なしか、肩が震えているのは気のせいではないだろう。静馬の袖をさらに強く握り、桜は言った。

「静馬達といたい、です。学校とは違うけど、みんなと出会って勉強して、そういう風に過ごすのがすごく良くて、確かに面倒を見てもらうのは迷惑だってわかってるけど、けどみんな凄く優しくていい人で、だから」

「だから?」

「今の、ままがいいです。五ヶ月しかいれなくても、この人たちと過ごしたい、と思います」

 ツバキが表情を消した。

 美人が無表情になると迫力がある。探るような視線を浴びせられ、桜はますます身を縮めている。

 さて、どうでるか。

 桜が自分の意志を示した。今度はツバキ次第である。ここから先の出方次第で静馬たちの動きも変わってくる。

 ツバキは一瞬目を伏せ、すぐに笑みを張り付けた。

 にっこりと口角を吊り上げ、言う。

「なら、今まで通り過ごしていいわ。教育部に通うことも静馬くんだったかしら? 彼と一緒に暮らすことも認めます。ただ、私を後見人として認めてくれればそれでいいわ」

 わけがわからなかった。

 この状況下で、何故この女はこちらの要求をすべて飲んだのだ。

 桜もぽかんとしてツバキを見つめている。

「言ったでしょ。桜ちゃんの意志を尊重するって」

「えっ、で、でも」

「私が後見人になることはあなたが考える以上に重要なことよ。あなたがこれからこの国で生きていく上で様々な恩恵を受けられる。働きたければどんな職業にだって就けるはずよ」

 桜は困惑した表情で静馬を見た。

 ツバキの言葉に嘘はない。静馬は黙って首肯した。

 桜は戸惑っている表情を浮かべながら、静馬とツバキを交互に見る。

静馬には何かしらの言葉を待っているように見えたが、だからと言って何も言わなかった。言える言葉もなかった。

 静馬自身、この展開には付いていけていない。ツバキはツバキでただ黙って桜を見つめている。

 やがて観念したのか、桜はおずおずとした調子で言った。

「あの、私はまだそういうことは考えてなくて、そのやりたいこともみえないし、それにもしあっちに帰れたら」

「ねぇ、桜ちゃん」

 ツバキは桜の言葉を遮った。

 立ち上がり、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。桜の面前に来ると腰をかがめ、桜の頬に手を触れた。

 静馬は黙ってその様子を見守るしかない。

 ツバキは桜を見つめ、桜もツバキを見つめる。


「あなた、本当に向こうに帰りたいの?」


 一言。

 あまりに当たり前過ぎるはずの言葉に桜は表情を一変させた。

 桜がツバキの手を弾く。

 周囲が殺気立ったが、ツバキが手を上げとりなした。

 桜は先ほどまでの態度が嘘のように、鋭い視線でツバキを睨み付けている。ツバキはなお優しげな笑みを浮かべていた。

 空気が凍った。

 状況はより最悪な方に転がっている。

 

                     *


 最早、静馬に出る幕はない。それは、この場にいるほかの人間にとっても同様だった。

 桜とツバキ。

 対照的な表情を浮かべながら、二人の対話は続く。

「貴方を心配してくれる友達はいる? 家族は? 生活はきちんとできてる?」

「…あんたには関係ないでしょ」

「ここにいれば友人達といつでも会えるわ。家族は……難しくても生活をきちんと保障することはできる。後見人として資金の援助だって」

「だから、あんたには関係ないって言ってるでしょっ!」

 怒号。

 響きに悲痛さはない。むしろ純粋な怒りのみが込められた声に、静馬は驚きを隠せなかった。何が桜の琴線に触れたのかはわからない。今、静馬の目に映る彼女は静馬の知る桜とは全く別人物のように思えた。

「黙って聞いてれば好き勝手言ってくれるじゃない…っ! 私にだって友達くらいいたわ! 家族だって、生活だってちゃんとしてた! こっちと同じくらい、ううん、こっち以上に面白いことだって向こうにはたくさんある! ドラマだって映画だって、何だって! 確かにこっちも居心地がいいけど、でも、私にとってはあっちが」

「あなたの帰りを待っくれている人はいる?」

「そんなの、当たり前じゃない!」

「それはいつまで?」

「いつまでって…」

「最短で半年、でもそれを過ぎれば十年二十年。下手をすれば一生帰る機会はないわ。貴方にはまだわからないかもしれないけれど、時間は残酷よ?」

 桜が言葉に詰まった。

 十年二十年。

 現実的に考えれば、桜が帰れるとしたら、その年数が掛かることを前提にして考えるべきだろう。

 紅祭。

 十年に一度行われる世界の境を超える祭典。誰かと誰かの別れの日。別れは誰もがあずかり知らぬところで決められる。

「なにより十年という期間は、あなたが思っている以上に生きることが大変なの。今はまだ誰かの庇護下にいれるけれど、必ず働かなければならない。その時に、貴方には何ができるの?」

「そんなの、わかんないわよっ!」

「それではすまないから、私たちは貴方のような異世界人の後見人になるの。大丈夫、私が後見すればあなたはどんな教育でも受けられる。職業も、生活も、お金も何不自由なく支援するわ。今の生活を続けながら、ね」

 ツバキの提案は、おおよそ考えられる被後見人の恩恵を全て与えることと同意である。

 衣食住の提供のみならず、金銭の援助、就職の斡旋、心情への配慮。完璧どころかあまりに過保護過ぎると言ってもいい。それを実現できるだけの権力も彼女は持っている。

 しかも、

「…それで、あんたに生かされろっていうわけ?」

「まさか。私は、ただあなた——いえ、あなたのような人に幸せになってほしいだけ」

 彼女は見返りを求めないという。

 ツバキは全く悪意のない笑顔を浮かべている。桜は既に反論する気力もないようだ。半信半疑ながら、ツバキの言葉に同意しようとしている。

 ようやく話がまとまりそうだった。

 心なしか、首筋に突き付けられた矛先から力が抜けたようにも思える。静馬は浅く息を吐く。同じ姿勢でいるため、背中が少し痛かった。

 ツバキの提案はこれ以上ないほど魅力的なものである。

 見ず知らずの相手にそれを提示する理由はわからないが、わざわざ生徒会を通して桜を後見したいと言って来たのだ。なにより、柱石という立場もある。彼女の言葉は既にして公的なものと足り得る。

 目下の懸念は、まぁ、桜自身である。

「…あの」

「なにかしら?」

「その、あの、手は、ださない…?」

「……大丈夫よ。貴方があちらでどんな扱いを受けたのかはわからないけれど、貴方が嫌がることは絶対にしないわ…!」

 ツバキは強引に桜の両手を掴んで、言う。初めて悲痛そうな顔を見せている。桜も若干涙目になっている。

 とにもかくにも言質はとった。これで最大の懸念は排除されたのである。

 静馬は今度こそ肩の力を抜いた。

 桜はツバキの手をやんわりと解いた。ツバキは桜をじいっと見つめている。

「それで、桜ちゃん。貴方の答えを教えてくれないかしら?」

 桜は表情を消した。

 瞼を閉じ、何やら思案しているようだ。

 ゆっくりと間を空けて、桜は目を開けた。毅然とした表情。ツバキを正面から見据え、桜は言う。

「失礼なことばかり言ってすみませんでした。はじめにお礼を言わなければならなかったのに。後見人として名乗り出ていただいたこと、感謝しています」

 嫌な予感がした。

 桜はまっすぐツバキを見つめている。

 あまりにも真っ直ぐな目だった。あの手のを静馬は以前見たことがある。

 あれは。

「ですが、後見人の件は断らせていただきます」

 空気が変わる。

 弛緩した雰囲気が一瞬で張りつめた。

 そう、あの眼は。

 利ではなく己自身を信じる目である。

「…理由を聞いてもいいかしら」

「一分です」

「…イチブン?」

「人として、いえ、私の一分です」


                   *


 一分。

 一身の名目、一人の人間としての名誉、面子、体面。

 静馬が知るのはその意味のみである。桜の言うそれが、具体的に何を指すのか静馬にはわからない。ツバキも同様のようで、唖然とした顔をしている。

「あなたの、一分?」

「はい」

「それは…」

 ツバキは口元を淀ませた。思いの外、困惑しているようである。

 静馬も同様だった。いや、それ以上かもしれない。首筋に突き付けらえた矛先が皮膚を貫かんばかりに殺気立っている。持ち手を見れば、表情が完全に消えさっている。

 勘弁してくれよ、と静馬は桜に視線で訴えた。

 桜はどこ吹く風で、ツバキをまっすぐ見ている。

 ツバキがゆっくりと言葉を紡いだ。

「それは、あなたにとって、大事なことで、曲げられないこと、なのよね? その、なんていうの? 具体的に、とでもいえばいいのかした? どういう意味なの?」

「筋を通すことです。私は静馬に見つけてもらってから一月の間、様々な人にお世話になりました。厳しいことも言われたし、泣きたくなることもありました。でも、それ以上に」桜は静馬を見た。「人として大事なやさしさやあたたかさを頂きました」

 突然、話の差し水を向けられ静馬は何も言えなかった。非常に照れくさい、気のせいか、矛先を向ける男どもの視線が鋭くなったような気がする。

 桜は言葉を続ける。

「その恩を返す。今の私がすべきことはそれだけです。申し出には本当に感謝していますが、お受けすることはできません」

「…私の恩までは背負いきれないということかしら」

「はい。これ以上は背負いきれません」

 ツバキの表情が完全に消えた。

 桜は毅然とした顔をしている。

 静馬は場の雰囲気にあてられ、腹の底が重くなるのをただ耐えるしかなった。

「もし」

 ツバキが沈黙を破る。

 ひどく冷たい声。表情も相まって静馬は息を飲む。

 それだけ、今のツバキには迫力があった。

「もし、彼らがあなたを見捨てるようなことがあったらどうするの」

「それは——その時に考えます」

 にへらっと桜は笑う。

 その力のない笑顔に、静馬は思わず見入ってしまった。

 場の雰囲気のせいかもしれない。だが、それ以上になぜか桜から目を離せなくなった。

 ツバキは虚を突かれたのか、呆けたような表情をした。数秒たってから、ため息を吐く。口元にはなぜか笑みが浮かんでいた。

「…そこまで言うなら、仕方がないわね」

 ツバキが手を上げると、矛先が引いた。

 …どうやら、話はまとまったようである。

 静馬としてもようやく重たい時間がすぎた。思えば短くも長い時間だった。

 背後を見る。

 三喜男と玲。護衛として付いてきたはずの二人だったが、結局役に立っていない。文句の一つでも言ってやろうと静馬は考えたのだ。

 絶句した。

 静馬の目には、床に倒れ伏した複数人の男達と複数の槍がばらばらに刻まれて散っているのが見えた。

 その中心で、二人は何事もなかったかのように座っている。

 おれも助けろよ。

「静馬君」

 突然、ツバキが声をかけてきた。

 静馬は慌てて、視線を戻す。ツバキは既に優しい笑みを張り付けていた。

「えっと、はい。なんですか」

「貴方達と会うことはもうないでしょう。わざわざご足労頂いて申し訳なかったわね」

「え? ああいえ、こちらこそ」

 静馬の返事を待たずに、ツバキは桜の方へ視線を向けた。

 桜はまっすぐとツバキを見つめている。

「桜ちゃん」

「はい」

「今は諦めることにするわ。ただ私個人としては問題はないけれども柱石としての立場もあるの。それだけはわかってちょうだい」

「…はい」

 それだけ言うとツバキは背を向けた。上座の奥へと消える。周囲の男達も消えた。案内役の男だけが入口へと向かっていった。

 静馬は、背中から床に倒れた。

 板張りの天井が見える。染みがなく、木目もあまりないのが印象的だった。

「…勘弁してくれよ、桜」

「ごめん。でも、言うことはちゃんと言わないといけないからさ」

 にししと悪びれもせずに、桜は笑う。

 見上げる視界で、三喜男が肩をぐるりと回した。玲も両腕を上げて、背筋を伸ばしている。

「とりあえず出ようぜ。もうここに用はないんだろ」

「…んー、これから大変だね」

 二人は立ち上がって、入口の方へ向かっていった。

 静馬も起き上がろうとした。が、桜がこちらを見下ろしていることに気付いた。

「なんだよ?」

「これからも、よろしくね」

 軽い調子の言葉に静馬はさらに力を抜いた。

 不思議と不快感はない。

 なので、軽い調子で返事を返す。

「こちらこそ」

 にへら、と桜は笑う。

 力の抜けきった、安心する笑顔。

 静馬は一息で起き上がる。

 悪い気分ではなかった。これからのことを考えると頭が痛かったが、それは専門家に任せるのが一番だろう。

 遠足は帰るまでが遠足であるように。

 交渉というものは最後まで何があるのかわからないのだから。


                 *

 

 柱石とは神を祀る人間である。

 だが、彼らが祀る神は正しい意味での神ではない。元は人間であり、偉業ではなく人の業により神へと至った存在。

 それが彼らの祀る神である。

 八百万の神の一柱として生まれ変わった彼らは幽世と現世を結ぶ役割を担っている。だが、悲しいかな。彼らはあくまで作られた神であるため、本来の神には及ばない。故に、この世界に影響を与えるのが困難なのである。

「だから、柱石は現世に関わる義務を持つ。経済活動に従ずる者もいれば信仰にのみ従ずる者、国家に属する者、そして、慈善活動に勤しむ者。おそらくツバキさんは最後に当てはまるんだろうな」

 要は仕事なんだよ、と静馬は言う。

「だから、私を誘うのに必死だった?」

「それもあるんだろうが、実際に不憫だったんだと思うぜ。ああいう人って、世間と離れてる分、情にもろいんだろうな」

「なんか、悪いことしちゃったかな」

 しゃりしゃりと果物を頬張りながら、桜は言う。

 事を終え、気が抜けたようである。幾分か表情が豊かになったように静馬には見えた。

 ツバキの城を出て、山門へと向かう途中。

 相変わらず車両の速度は遅い。が、周囲からの視線がない分静馬も気が楽だった。白装束の姿はどこにも見えない。

 静馬達とは対照的に、三喜男と玲は静かに瞑目していた。

 これから先は長い。少しでも無駄な時間を減らしたいのだろう。静馬もそれに倣おうかとも思ったが、桜の相手をしていることにした。

 その方が、静馬として有意義な時間の使い方のように思えたからだ。

「自分の生き方なんだ。遠慮する方がおかしいんじゃないか」

「まぁ、そりゃそうだけど」

 うーん、と桜は渋い顔をする。

 渋い顔。

「なんだ、今更惜しくなったのか?」

「んん? ああ、特典の話? まぁ、それも悪くないとは思うけど」

「戻ってお願いしてみるか?」

「冗談」

 ぴしゃり、と桜は否定する。が、渋い顔は更に険しくなった。

「なんていうかさ。惜しいっていうのじゃなくて」


「名残惜しいって言うのかな」


 揺れた。

 静馬がそう認識した時、状況は一変していた、

 不可視の力が全身を襲い、視界が明滅する。急な突風。静馬は状況が理解できないまま、車外へと放り出された。

 否、


「…しっかりつかまって」

 

 抱えられたまま飛んだのだ。

 目まぐるしく変わる視界の中で、幾度か火花が散る。

 浮遊感が消え、静馬は地面に頬を押し付けた。

 衝撃に一瞬、思考が停止する。

 白くなりかけた意識を懸命に手繰り寄せ、視線を飛ばした。

 乗り込んだ自動車が見える。車道には轍が走り、砂埃が舞っていた。よく見ると黒い車体に天井から三本の槍が突き立っている。黒塗りの外装には無数のへこみ。窓にも無数の亀裂が走っている。

 襲撃。

 見るも無残な光景に静馬は息を呑む。

「どうなってんのよっ!」

 桜の罵声が響く。

 見ると、離れた場所に桜と三喜男がいた。三喜男が桜を抱えて飛んだらしい。三喜男は喚く桜を無視し、一点へと視線を向けている。

 つられて、静馬も視線を飛ばす。

 今度こそ、絶句した。

 車道の西側には木々が生い茂った林がある。

 手入れがまったくなされていないのか、様々な種類の草花が折り重なっており、人が足を踏み入れる場所ではないことが見て取れる。背の高い草は地面を隠し、伸びた枝が人の立ち入りを拒んでいる。

 その隙間。ほんの僅かな空間に白い布が見えた。

 あとは、状況を把握するだけである。

 無数にへこんだ黒い車体。無数の火花。遠間の林に見え隠れする白装束。

 静馬は直感に従って、地面に頬を押し付ける。

 直後、無数の銃声が静馬の鼓膜を揺らした。

 銃撃。

 反射的に閉じた瞼を開けると周囲の地面から砂埃が上がっている。

 ぞっとした。

 静馬は膠着しそうになる意識を懸命に奮い立たせる。視線を飛ばすと、桜と目が合った。傍にいる三喜男は、この状況で仁王立ちしている。いつの間にか両手に刀を二本握っていた。

「———っ、———っ!」

 桜が何か叫んでいる、ように見えた。静馬の耳は銃声のせいで聞こえなかった。桜は身を伏せたまま懸命に身振り手振りに、何かを伝えようとしていた。

 と、ぬちゃりと頬に何かがついた。

 液体のようである。静馬は手の甲で頬を拭う。赤い液体。次いで、噎せ返るような鉄臭さが鼻腔にこびりつく。

 更なる異変に静馬は顔を上げ、


「…大丈夫?」


 死神を見た。

 着崩した着物に朱色が斑に彩られ、掲げた刀は鈍色の光を零している。

 転がる躯は三つ。

 いずれも首と胴が切り離され、血だまりを作っていた。

 林と静馬の対角線上に陣取っているため表情はうかがえない。だが、その背中を見て静馬は一つため息を零した。

 安堵。と、同時に悟る。

 またもや、状況は静馬から離れたらしい。

 

               *

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