第2話 西の地より

 清からの頼みを終えたその日の夜。

 夕方には帰宅した護は、夕食を早々にすませ、自宅の屋根で星を眺めていた。

 いや、眺めようと試みていた、という方が正しいだろうか。

 なにせ、ここは世界有数の大都会である東京。

 科学が生み出した文明の光が空に在る星の光を消し去ったため、ほとんどの星は見ることができない。

 とはいえ、光の強い星は夜空に瞬くことはあるため、こうして何度もあきらめずに屋根に登ることが護の日課となっている。

 だがこの日は運悪く、星がまったく見えなかった。


――今日もだめ、か……


 護は心のうちでそう呟き、そっと溜息をつき、見えないものは仕方がない、と早々に諦め、視線を月の方に移して、目を細めた。

 月は彼にとって特別なものなのか、視線を移したその瞬間に彼のまとう雰囲気が変わる。


「元気かなぁ、月美……」


 護はぽつりと呟いた瞬間、さきほどまで眠気を一切感じていなかったのに、突然、耐えがたい睡魔が襲ってくる。

 どうにか、睡魔に抗おうとうつらうつらと舟をこいだが、結局、抗いかなわず、瞼を閉じ、屋根に背を預け、まどろみの中へ落ちていく。

 目を開けると、視界いっぱいに星が輝いている。

 頭上だけではなく足もとを除く全方位に星のまたたきが見え、まるで宇宙空間を漂っているのかのようだ。

 ふと、護が自分の視線を下に落とすと、先ほど着ていたジャージではなく、浴衣を着ていることに気づく。


「……夢、だな」


 着ている服装と、自分がいる場所ではこれほどの星を見ることはまずできないことから、自分は今、夢の世界にいることを察した。

 もう何度もこの現象を目にしているためか、護に動揺している様子はまったくなく、慣れた様子で歩いていく。

 普段、滅多に見ることの出来ない満点の星を眺めながら、ゆっくりと歩みを進めていくと、護の頬を風がかすめる。


――ん? 今、桜の花が……


 視界のわきにいくつもの薄い桃色の何かが流れてきたことに気づき、風の流れてくる方向へ視線をむけた。

 そこには巨大な桜の木とその根元に寄りかかっている少女が見える。

 護はその少女を見つけると、まっすぐに近づいた。

 その足音に気づいたのだろう、少女は護の方を振り向く。

 傷一つない透き通った白い肌に、長いまつげと小さく整った鼻立ちとすっきりとした顔かたちは、『可愛い』というよりも『美しい』という表現が似合う。


「久しぶり、護」


 そんな少女が、柔らかな微笑みを浮かべながら護の名前を呼ぶ。

 護も優しい微笑みを返し。


「あぁ、久しぶり。月美」


 少女の名を呼んだ。

 護が誰かと接することを嫌う性質であることを知っている人間からすれば、度肝を抜く光景だ。

 感情や自分の思いを表に出さず、ただひたすら誰かと関わることを拒み続けている護が無関心な様子を見せるでもなく、敵意を向けるわけでもない。

 こんな態度を取るときは、少なくとも家族や親族などの親しい間柄の人々と交流するときだけ。

 つまり、目の前にいる少女は、護が感情を表に出すことができる、心を開いていた人間であるということだ。

 一方の月美は、護のその表情を見て、愛らしい笑みを浮かべ。


「よかった。今日はちゃんと声も届けられてるみたいね?」

「あぁ。夢渡りで声まで届けるのは、少し難しいからなぁ……」


 頭をなでるその手が温かく心地よくて、月美は少し赤くなりながらも、嬉しそうに微笑みを浮かべたが、その表情はすぐに曇った。

 うつむく彼女の表情が、何か言いたそうであることに気づき。


「どうした?」

「護、こっちに来て。なるべく早く」


 『こっち』とは、月美がいる現実の場所のことだろう。

 そこへなるべく早く来てほしいということはつまり、夢の中では話しにくいから、夢の外、現世で話したいということなのか。

 それを確かめようと、護が問いかけようとすると、月美は護が口を開くよりも早く、その理由を告げた。


「遠くない未来で、良くないことがお……だか……」


 だが、声は徐々に小さくなっていき、後半の言葉はもはや完全に聞き取ることができないほどになってしまった。

 それと同時に、護は自分の意識がまるでなにかに引っ張られていていき、視界は白い光が広がり始める。

 目を開けたときに見えたのは、月以外の星明りが見えない、東京の夜空だった。

 しかし、同時に背中から感じた冷たさが、ここが現実の世界であることを物語っている。


「……ほんと、肝心なときに戻ってくるんだよな」


 ぶつくさと文句を言いながら、護は自分が何をしていたのか、ゆっくりと記憶をたどる。

 そうしてようやく、屋根に登ったまま眠ってしまっていたことを思い出した。

 いや、それはまだいい。


――屋根に登ってそのまま寝ちまうのは、ここ最近増えてきたし、父さんたちからも指摘されたし


 自覚はあるのだが、直すことができない悪癖である。

 だが、今の護にとってそんな悪癖は重要ではない。

 なぜいつも大切なことを聞く前に眼が覚めるのかということの方が、よほど重要だ。

 夢で占いを行う呪術を仕事の一環にしている人間からすれば、何かを知る時に夢の世界に足を運ぶことがよくある。


――なぜかいつも肝心なところで目が覚めるんだよなぁ……誰かと会った時なんかは特にそうだし。そもそも、話の肝心かなめの部分で目が覚めるというのはどういうことなんだよ


 心中でぐちぐちと文句をこぼしていた。

 だが、夢である以上、自分でコントロールすることはできないため、目が覚めてしまったものは仕方がない。

 護は思考を切り替え、先ほどの夢で言われたことを思い返した。


「近いうちにこっちに来て、か……こっちってことは、つまり出雲か」


 夢で月美に言われたことを思い出しながら、護は小さく呟く。

 出雲。

 そこは神集う地として知られる、日本でおそらくは最も神聖とされる土地。

 その地で、ほぼ確実に放置しておくことのできない問題を抱えながら、月美が待っている。

 元来、護は『頼られる』ということに弱い性質の人間で、夢の中で依頼されたことや、親を経由して寄せられてきた仕事となると、断ることがない。

 今回も例に漏れず、すでに護の心は決まっていただが、一つだけ決して小さくない問題があった。


「……行けるかどうか、掛け合ってみる必要があるかなぁ」


 今日から連休になっているため、どこへ行こうと護の自由である。

 時間はあるし、高校生という身分で、面倒な手続きも必要ない。

 むろん両親を説得する必要はあるだろうが、護が自分の意思で決めて、一人でいろいろとやってみたくなる年頃だということをすでにわかっている。


――月美が『よくないこと』って言っていた以上、何かしらの災厄があるってことだろうけど、ちゃんと話せば、俺を向かわせてくれるはず


 土御門家は陰陽師の家系であり、科学技術では解決できない事案をひそかに解決することを生業としている。

 今回は縁のある風森家からの連絡であるため、報酬は出ないだろうが、しっかりと説得しなければ、見習いである護を向かわせることもしない。

 屋根から降りると、部屋で手早く着替えと準備を済ませ、出雲に向かう許可を得るため、説得に向かった。


 翌日の午後。

 護は出雲行きの新幹線に乗車していた。

 昨晩、父親に夢渡りで月美に出雲で何かが起こることと、自分が呼び出されたことを話した結果だ。

 だが、翼もこのことは占いで見えていたらしく、意外にもすんなりと許可をもらえた。

 そればかりか、翌日の午前中には東京を離れ、その日のうちに目的地へと行ける新幹線に乗れるように事前に手配していたほど。


――多分、最初から俺を向かわせるつもりだったんだな……だったら最初から言ってくれればいいのに


 と、心中で文句を言う護と一緒に、出雲へ同行する人間はいない。

 本来ならば、月美の実家がある風森神社と様々な面で縁の深い父親が付いてくるところだ。

 しかし、その話をした時。


『随分と急だな……本来なら、向かいたいところだが、至急、片付けなければならない仕事があるから、同伴することはできん』


 と眉根一つ動かさずに返してきた。

 その言葉に、自分一人で向かうことについて、どう説得をしようか考え始めていたのだが。


『とはいえ、災厄が起きる可能性があるのなら一刻も早い対処が必要になる。護、お前が先行して調査しろ』


 本来なら、単独行動ではなく、護以上の実力を持つ弟子の一人くらい同伴させてしかるべきなのだろうが、翼はあえて護が一人を出雲へ向かわせることにした。

 千年前ならばいざ知らず、現代ならばメールや電話を使って今回の事態を伝えることもできたはずだ。

 だが、月美はあえて夢で伝えるというまどろっこしい方法を取っていた。

 そのことから、直接連絡を取ることが難しく、緊急を要する事態に発展しているのかもしれないと推察したらしい。


――俺だけでどうこうできる状況でなければ、すぐに連絡するように言われたから、助っ人は用意してるんだろうな……まぁ、だから見習いの俺一人でも向かわせることにしたんだろうけど


 出発前の翼とのやり取りを思い出し、護はため息をつく。

 自分が信頼されていないことについての不満ではない。


――どんな状況かはわからんけど、助っ人が到着する前に事態が悪化するなんてことにならないだろうか? そもそも月美は今どんな状態なんだ?


 様々な不安が脳裏に浮かんだことで出てきたものだった。

 その心を察したのか、呆れたような声色で護に声がかけられる。


「下手に心配するのは、あまり得策とは言えないぞ」


 普通の人間では聞こえない声が、護の頭の中に響いてきた。

 だが、護は慌てることなく、そっと目を閉じ、心のうちでその声に応える。


――それは無理。得策ではないことはわかっているけど、どうしても心配になるんだから、仕方ねぇだろ


 人間、誰しも心配で仕方がないという他人が一人や二人はいるもの。

 護の場合、それが家族以外で唯一、心を開いている幼馴染であるというだけの話だ。

 むろん、年に一度、日本の神々が集う地で高い霊力を有する巫女である彼女のことだから、こうしている間に自力で異変を解決しているかもしれない。

 それだけの実力を持っていることを、護は知っている。

 それでも、無事であることを信じつつも、月美が心配で仕方がない。

 その矛盾を抱えた様子に、声をかけてきたものは再び、やれやれ、とため息をついていた。


「人間嫌いといっても過言ではないお前がそこまで気にかける女ってのは、いったいどんな奴なんだ?」

――そうか。お前はあいつに会うのは初めてか

「あぁ。教えてくれないか? できることなら、だが」


 頭の中に響く声の調子から、声の主がにやにやと微笑みを浮かべながら語りかけてきている様子が、護の脳裏に浮かんできていた。

 いや、そもそもこの声の主は人ではないため、笑うという感情表現が存在するのかどうかは怪しいのだが。

 だが、楽しんでいることは確かなので、どうしたものか、と思案にふけっていると、列車は目的地である出雲に到着したことを告げるアナウンスを響かせる。

 護はアナウンスを聞くと、さほど慌てずに荷物を取り出し、列車から降りた。

 目的地が護と同じ人々の波に身を投じ、人の動きの流れに任されるまま改札口を出ると、そこには服装こそ違っているが、夢殿で護に出雲に来るよう呼びかけた張本人が立っていた。

 迎えに来てくれた月美は、護の姿を確認すると、ぱたぱたと駆けてきて、そのままの勢いで、いきなり護に抱きついてくる。

 その予想外の行動に、護は驚きはしたものの、できる限り倒れないようにして、彼女を抱きとめた。


――変わらないな、本当に……


 護は抱きついた少女の頭をなでながら、少女と出会った時のことを思い出していた。

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