第24話 いつもと変わらない日常~夜の光景~

 無礼な闖入者にからかわれながらも、護と月美は寄り道することなく帰宅した。

 奇妙なからかわれ方をされたためか、着替え終わるまで、二人とも顔を紅くしたまま、終始無言の状態だったが、制服から私服に着替えて、ようやく気持ちが切り替わったらしい。

 二人は現在、学校の課題を終わらせてしまおうということで、護の部屋で勉強会を行っている。


「ねぇ、護。ここって?」

「ん? あぁ、ここはな――」


 少し小さいちゃぶ台をはさみ、向かい合う形で座っている護と月美だったが、やるべきことを優先しているのか、それとも互いに奥手なのか。

 必要以上の会話を交わすことなく、淡々と自分の課題を片付けていた。

 やがて。


「終わりっと」

「こっちも」


 護が課題を終わらせると同時に、月美も課題を終わらせたが、お互いにそのことをねぎらうと、再び沈黙が部屋を支配した。

 先ほどのようにそれぞれのやることに集中しているわけではなく、何を話したらいいのかわからなくなったために生まれた沈黙であるため、まるでお見合いでもしているかのようだ。


「あ、そうだ。試してみたいブレンドがあるんだった」


 庭で育てているハーブと、先日思いついたブレンドを試そうと思っていたことを思い出し、そのことを口にした。

 その言葉を聞いた月美は、そのお茶を使ってティータイムにしようか提案する。


「それじゃ、いい時間だし、何か軽く作る?」

「ん~。いや、そろそろ母さんが台所に立つころだしな。月美の手料理は、こんどの休みまで取っておこうかな」

「ふふっ、なら、楽しみにしててもらわないとね」

「あぁ、楽しみにしてる」


 そのやりとりで緊張が一気にほぐれたのか、そこからは普段通りの会話が交わされたのだが、夕食ができたことを告げる雪美の呼び声で中断されるのだった。




 夕食を終えて、護は一人で邸の中にある小部屋に入り、部屋の真ん中に置かれた蝋燭ろうそくに火を灯した。

 蝋燭の隣に置かれていた机の前に正座すると、和綴わとじの本を開き、そこに記されている般若心経を唱え始める。


観自在菩薩かんじざいぼさつ行深ぎょうしん般若はんにゃ波羅蜜多時はらみたじ……」


 護は蝋燭の炎しか明かりがないその部屋の中で、般若心経を唱え始めた。

 部屋の外では、誰かが廊下を歩いていったのだろう。

 ぎしぎし、という床板がきしむ音が響いてきた。

 だが、護はそれに気づいた様子はなく、静かに般若心経を唱え続ける。

 ただただ静かに、リズムを乱すことなく、小部屋の中に護の般若心経を唱える声が響き続けた。

 その瞳からは徐々に光が消えていき、意識がどこかへ飛んでいってしまっていたが、護の口は般若心経を唱えることをやめない。


「……般若心経はんにゃしんぎょう


 およそ一時間、いや、それ以上が経過したかもしれない。

 護が般若心経の結びの一節を口に出すと同時に、小部屋を照らしていた蝋燭が燃え尽き、自然に消えた。

 どうやら、蝋燭は護が般若心経を唱え終わるころに消えるよう、長さが調整されていたようだ。

 いや、あるいは蝋燭の火が消えるまで、護が般若心経を唱えていたのか。

 どちらにしても、長い間、この修行を行っていなければ、こうはいかないだろう。

 光源が一切なくなった、真っ暗な小部屋で護はゆっくりと体を傾け、床に寝ころび、ほっとため息をつく。

 その瞬間。


「……いだだだだだだだっ!!!」


 今まで出したことがないような悲鳴を上げた。

 どうやら、長時間、正座していたために足がしびれただけではなく、ふくらはぎがつってしまったらしい。

 何年やっても、こればっかりは治らないなぁ、と痛みをこらえながら、護はどうにか楽な格好になり、しびれと痛みが引くのを待つのだった。

 一方、月美は雪美とともに夕食の後片付けをしている。

 雪美が洗った器を受け取り、水気を拭き取り、同じ種類の器ごとに重ねていく。

 その流れ作業を黙々とこなしていると、突然、雪美が。


 「ねぇ、月美ちゃん。今度から夕ご飯は月美ちゃんが作ってみない?」


 と、唐突な提案をしてきた。

 あまりの唐突ぶりに月美の思考は一瞬、停止し。


「ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ??!!」


 と、驚愕の声を上げた。

 その様子があまりにも面白くて、雪美はくすくすと高校生の息子を持つ親とは思えない、愛らしくも若々しい微笑みを浮かべ。


「だって、いつもわたしの手料理じゃ護が飽きると思って。それに、女の子なら好きな男の子の胃袋は捕まえておいて損はないわよ?」

「そ、そういうものなんでしょうか?」

「そういうものよ? わたしだって、最終的には胃袋を捕まえて今の主人のところに嫁いだんだもの」


 あっけらかんとした態度でそう返され、月美はなんと答えたらいいのかわけがわからず、混乱し、顔を真っ赤にしたまま目を回していた。

 だが、ここであっさりと話を終わらせるほど雪美は優しくはない。


「それじゃ、今度の日曜日からお願いしようかしら? いいわよね?」

「は、はい……」


 思考停止してしまった頭で、月美は了承してしまった。

 雪美としては、意地悪で言っているつもりはない。恋人同士になれたとはいえ、これから先、護が心変わりしないという保証はない。

 ならば、心変わりしないように、今のうちからしっかりと手綱を持っておくにこしたことはないと、長年の経験でそう判断してのことだ。

 もっとも。


――まぁ、護は月美ちゃんにぞっこんみたいだから、別に今さら胃袋をつかまなくても大丈夫だとは思うけどね


 影で悪い微笑みを浮かべていたので、全部が全部、善意で言っていたのかと聞かれれば、悩ましいところではあるのだが。

 なお、そのあと少し冷静さを取り戻した月美だったが。


――いつか、わたしも台所を任せられることになるんだよね……な、なら、今から花嫁修行を始めても遅くはないよね?


 という結論が彼女の脳内で成立し、週末の二日間の夕食だけ雪美の代わりに台所に立つことを決めたのだった。

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