14
ぴんぽん、とインターフォンを鳴らして割合すぐに扉が開いたけれども、足音が全然聞こえなかったので驚いた。
「こ、こんにちは」
「……おう」
中から出てきた幸太郎は、驚いたような表情で悠里を見た。それからちょっと困ったような顔で、
「……入るか?」
「はい」
昨日の夜、あるいは今日の朝と同じようにリビングに通される。
時刻は午後四時半。日没まではあと一時間近くある。
「押しかけてすみません。えーっと……」
悠里は幸太郎に、自分がここに来た理由を説明しようとして、言葉を探す。けれどその前に幸太郎が遮った。
「大体わかってる。家には連絡入れておいたか?」
「あ、はい。昨日と同じようなこと言っておきました」
「そうか」
それだけ言って、幸太郎は悠里の近くにテレビのリモコンを置いた。なんとなく悠里もそれで電源を点ける。ニュース番組だったので、そのままにしておいた。
気になる、と。
ごく端的に言うと、それがすべてだった。
真維がどんな選択をするのか気になる。だからそれを知ることができる場所にいたい。けれど、真維と智己が会話する場所に直接居合わせるのも違う気がした。
結局のところ、悠里はこの件に関して、あのふたりとは無関係なのだ。
今朝までは、『自分が教えてしまったから』という点で、一定の繋がりを持っていたけれども、智己と対話した真維の『悠里のせいじゃない』という言葉が、その繋がりを断ち切ってしまったのだ。
最初は何もせずに家ですべてが終わるのを待つという選択肢も考えた。考えて、結局それを選べなかった。たとえいつか、他の人たちと同じようにすべてを忘れてしまうのかもしれなくても、見ないふり、を選ぶことはできなかった。それはただ自分の中だけにある罪悪感だったのだと思う。
だから、幸太郎のところに来た。
自分と同じように無関係で、けれど一番近くにいる人物のところに。それは、ごく短い間に芽生えた仲間意識にも似た何かで。悠里は、このほとんど初対面の先輩のことを頼ることにしたのだ。
そうした思惑も、話すまでもなく把握されていたようで、かつそれを受け入れられて、悠里はほっと胸を撫で下ろす。あるいは受け入れられなくても、ある種の納得とともに家に帰ることもできたかもしれないが。
「どうせ来るのは日付が変わるころだろ。まあゆっくりしてろ」
早く来すぎただろうか、と悠里は思ったけれど、
「別に迷惑じゃないぞ」
と、心を読まれたかのような幸太郎の言葉に、びくり、と肩を跳ね上げた。
幸太郎はキッチンの方に向かって行く。
「何か飲むか? ……水しかないけど」
「あ、はい。お願いします……」
とぽぽ、と水音がして、キッチンから幸太郎がコップをふたつ持ってやってくる。ソファの前のテーブルにそれを置かれて、悠里はとりあえずそれを手に取って少しだけ口に含む。
正真正銘の水だった。ミネラルウォーターだった。この人はどんな食生活をしているんだろう、と。昨夜の『食べるのが苦手』という悠里にはあまりピンと来ない発言を思い出しながら考えた。
けれど、今大事なのは、そういうことじゃなくて。
「……あの、どうしますか?」
また大雑把な質問をした悠里だったが、幸太郎はその意図をまたすぐに汲み取って、少し言葉を考えて話し出す。
「俺の部屋は、真維の部屋とほとんど繋がってるような配置になってるんだが」
「えっ!」
話の前置き部分ですでに悠里は驚く。隣に住んでいるのはすぐにわかったけれど、さすがにそんな配置になっているとは思っていなかった。ドラマや漫画の世界だと思った。
そこから幸太郎はひとりごとのように。
「あんまり近いもんだから、大声出すと隣の部屋の話し声が聞こえてくるんだ。俺は全然自分の部屋で喋らないから、あいつの方は知らないみたいだけど」
「えぇ……?」
驚きは二回目だった。そして何となく話の流れは読めた。けれどそれは。
「夜になったら部屋に移動するか」
「……あの、それ、盗み聞きじゃあ」
言われると、幸太郎は痛いところを突かれた、という顔をして。
「たまたま聞こえてきただけだ、とか言えればいいんだろうけどな。確かにものすごく悪趣味だし、やめておくか」
「えぇ、やめちゃうんですか?」
「……俺だってやりたくないんだよ、こんなこと」
いらない水を差したかもしれない、と悠里は思った。確かに気は進まない。進まないけれど。
結局は、自分たちは外野なのだ、と、改めて悠里はそう思った。これは真維と智己ふたりが決めることで、悠里はたまたまその始点に関わっていて、幸太郎は途中で巻き込まれたに過ぎない。
だから、部外者のふたりが話に絡もうとすること自体が、悪趣味なのだ。手段がどうこうという問題でもない、と。そう悠里は思い直した。
「……いいんですかね」
「……よくはない。俺も、」
幸太郎はひとつ溜息をついて。
「……俺も、本当のことを言えば、あいつらの勝手にすればいいと思ってる。けど、ひとつだけ――」
「ひとつだけ?」
また幸太郎は言葉を探す。
「……俺がやりたいことと、あいつらが望むことが重なる場合がありうる。だから」
そう言って、幸太郎は静かに瞑目する。
「――言い訳するか」
「はい?」
「俺は腹にドライバーぶっ刺されて、腕に罅入れられた。殴ったのと撃ったのはダメージなかったみたいだし謝ったし、けどこっちは普通に病院送りにされたし謝られてもいない。これなら多少盗み聞くくらいは許されると思わないか?」
「え、えーっと、どうなんですかね?」
並べられると、巻き込まれただけなのにここまで怪我をさせられた幸太郎が不憫に思えた。けれど、殴ったと撃った、というふたつ、昨晩も言っていたけれどこの言葉が気になった。
「佐立先輩、そんなことしたんですか?」
「仕方なかった」
悠里は無意識に座る位置を少し幸太郎から離した。
「……よく考えたら、こんなことしといて今更盗み聞きくらいでへたれるのも馬鹿らしいな。俺は夜になったら部屋に行く」
「ひ、開き直った」
「お前の先輩の方がよっぽどひどい開き直り方してると思うけどな」
確かに、と一瞬納得しかけて悠里はぶんぶんと首を横に振った。さすがにそれに同意できるほど自分は開き直れていない。
「で、お前はどうする」
「ええ……」
言われて悠里は唸る。悪趣味だ。わかる。しかしここまで来て蚊帳の外というのも、いや実際にはそれにふさわしい立場ではあるのだけれど。けれど、ここまで来て何も知らないままにいるというのも――。
「い、言い訳ください」
「……散々ぴーぴー泣かされて、今更関係ないとか言われるのもムカつかないか?」
「……」
悠里はその言葉を聞いて、ゆっくりと目を瞑って。
「……佐立先輩」
「ん?」
「悪いことするの、すごい上手いですね」
「ほっとけ」
*
午後九時。
まだ待機には早いんじゃないか、と言った幸太郎だったが、悠里の不安げな表情を見て、早めに部屋に移動することになった。
やや慎重に部屋の扉を開ける。中はカーテンが閉まって真っ暗だった。しかし幸太郎は電気を点けず、携帯で足元を照らしながら進んでいく。悠里もその後を、転ばないように続いていく。
窓の近くのところで、幸太郎が止まる。そこにクッションを移動させて、悠里に座るよう促す。悠里は大人しくそれに従った。
幸太郎もその隣に座って、少し携帯を操作した後、悠里にその画面を見せる。
『たぶんあと三時間はかかる。少し気を抜いてろ』
と。
これはこの部屋に来るまでに幸太郎から告げられた取り決めだった。
隣の部屋までは話し声が響くことはないだろうけれど、ベランダあたりから智己がやってきた場合、ひょっとすると勘付かれる可能性がある、と。だから、何か伝えることがあれば携帯のメール画面を使ってやりとりすることになっていた。
部屋には暖房も入っていない。できるだけ気付かれるような要素は減らしたいと、そのようにした。先ほどまでいた暖房のきいたリビングとの落差で悠里が小さく身震いすると、幸太郎が電気毛布を部屋の隅から静かに持ってきて膝にかけた。
『ありがとうございます』
と、悠里が携帯の画面を見せると、幸太郎が何かを考えるような顔をしているのが画面の光で浮かび上がった。
『どうかしましたか?』
続けて悠里が文を打ち込むと、幸太郎も少しして文を返す。
『俺の部屋なのに俺が隠れていなくちゃいけないって、何かおかしくないか』
「……」
言われてみればその通りだ、と思った。
盗み聞き、というやましい動機があるのでふたりで隠れていたけれど、よく考えればここは幸太郎の部屋なのだから、いつ幸太郎が部屋にいて電気だろうが暖房だろうが点けていても誰に文句を言われる筋合いもない。
何と返答しようか迷っていた悠里だが、特にそれ以上幸太郎は話を続けようとしている様子もなく、本当にただ疑問に思っただけのようだった。
かち、こちと時計の秒針の音がやけに大きく聞こえてくる頃、段々悠里の目も暗闇に慣れてきて部屋を見回せる余裕も出てきた。
リビングと同じく、かなり殺風景な部屋だった。けれど、ひとつだけ明確に違う点が悠里の目についた。
部屋の中に点在するぬいぐるみ。やけに可愛らしいそれらは、悠里の中ではあまり幸太郎のイメージと結びつかなかった。
UFOキャッチャーが趣味なんだろうか、なんてことを考えながら、やることもなく時間が過ぎるのを待つ。
午後十時半。未だ智己が来た様子はない。
時間を持て余した悠里は、携帯に文を打ち込んで幸太郎に見せる。
『ぬいぐるみ好きなんですか』
幸太郎も、すぐにそれに返してくる。
『俺のじゃない』
その文章を見て、悠里は考える。自分のではない。けれど以前幸太郎はこの家に住んでいるのは自分ひとりだと言っていた。だったらこれはいったい誰のものだろう、と。
『真維先輩のですか』
画面を見た幸太郎は頷く。
悠里は、それはそれで少し意外に思った。こういうのが好きなのか、とそう思ったのと同時に、そもそもなんでそれが幸太郎の部屋にあるのか大いに疑問に思った。
ほとんど繋がっているような構造、とは聞いたけれど、私物をお互いの部屋に置くような関係なのだろうか、と。
何となく想像していたよりも、ずっとこのふたりは仲が良さそうだ、と。そう思った。
会話はそれきり途絶えてしまったけれど、悠里は余る時間の中で考えてしまった。
この人は、一体どんな気持ちで今ここにいるのだろう、と。
異常な事態を目にしてもどんどんひとりで進んで行って、何もかも感づいているようにも思えて、けれどそれを頭の中にしまい込んでいる人。
本当は一番関係ないはずなのに、一番深くまであの場所のことを知っているようにも見える人。
悠里にとっては、幸太郎は真維のために進んでいるように思えて、けれど重要な選択の前に、本人には突き放すような態度を取る。ここを過ぎれば、もしかしたら二度と会えなくなるかもしれないのに。
――この人は、真維先輩のことをどう思っているんだろう。
あのとき、濁された答えの続きを。
けれど悠里は、言葉にされないそれを、感じ取ることもできなくて。
かたん、と。
ベランダの向こう、物音がして。
気付けば十二時が来ていた。
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