13
とんとん、と肩を叩かれて悠里は目を覚ました。
瞼を上げると目の前にテレビリモコンを手にした私服姿の幸太郎の姿があって、びっくりして一瞬で意識が覚醒した。
いつの間にか寝ていたのだ。疲れていたから、と言い訳するのは簡単だけれど、より負担が大きかっただろう幸太郎はしっかり起きていたようで、それが悠里には何か気恥ずかしく感じた。
身体の上には薄い毛布がかけられていて、部屋の中の電気は消えていて薄暗かったが、しかし空気は暖かかった。
「い、今何時ですか?」
「朝六時」
寝過ごしたかと心配した悠里はとりあえずはそうでなかったことに安堵する。薄暗いのは日が昇りかけだったからで、部屋が暖かいのは、よく見れば暖房がかかっていたからだった。起きている間に点けた記憶はなかったので、自分が寝てから幸太郎が気を遣って動かしてくれたのだろうと思った。
「す、すみません寝ちゃって。もう行きます」
「そうか。気を付けて帰れよ」
そそくさと毛布をたたんで部屋を後にする悠里。一応は、と幸太郎も見送りに家の外に出てくる。
「すみません、ありがとうございました」
玄関前でもう一度一礼。それから家に向けて歩き出そうとしたところで――。
「悠里……?」
「――あ」
ばったりと、真維に遭遇した。
その姿を見て悠里は、自分たちとの遭遇の前後はわからないが、昨晩智己と会ったはずの真維が無事であることに安堵した。
「だ、大丈夫だったんですか、真維先輩?」
「……うん。ちゃんと話した。悠里はどうしてここに?」
しっかりと頷く真維。しかし悠里は返された質問の答えに窮した。言ってしまってもいいのだろうか。たぶんよくない。
「自転車取りに来たんだってよ」
後ろから助け船がやって来た。幸太郎だった。話すのが苦手な割に、嘘をつくときはやたらと堂々としている先輩だ、と思いながらも悠里はそれに乗っかる。
「あ、はい。置きっぱなしなので」
けれど、真維の注意はすでに悠里から幸太郎に移っていた。
「あんた、病院にいたんじゃ……」
「もう治った」
ほら、と跡ひとつ残っていない腕を掲げて見せる幸太郎。それを真維は不思議そうな目で見つめる。
「どうなってんの?」
「さあな。お前こそ朝からどうしたんだ」
「……特に理由はないわよ。ただ外に出たくなっただけ」
じっと、気まずい沈黙が流れた。幸太郎は特にどうということもない顔をしているが、一方真維は何かを深く思い悩むような表情をしている。
「……これから時間ある?」
その一言に、一瞬幸太郎は呼吸を止めて。
「……いや、これから寝る」
と、静かに告げた。その言葉に、真維はとても複雑そうな顔をして。
「……そっか。そうだよね」
誰に言うでもなく、噛みしめるようにそう呟いて。その後、悠里に向き直り。
「ごめん、自転車ね。車庫の方から取ってくるからちょっと待ってて」
そう笑顔で言って、家の中に入っていく。悠里は後ろに立つ幸太郎を見上げて、少しだけ迷った後、こう尋ねた。
「いいんですか?」
「……あいつが決めることだ」
何気ない調子のその言葉が、かえって悠里には重たく感じた。何を言うべきか、何を言わないべきかを考えているうちに、真維が何も持たずに戻ってきた。
「ごめん、よく考えたら片手じゃ自転車引くの危ないわ。悠里、来てもらっていい?」
「あ、はい」
頷いて、ふと後ろを見ると、幸太郎が自分の家の方に去っていくのが見えた。その背中に少しだけ視線を留めて、すぐに悠里は真維の後に続く。それから、彼女の背中に向かって問いかける。
「あの、昨日は……」
「うん、智己と話した」
先読みされたように答えを返される。
「あの、それで、どうしたんですか?」
「……ちょっと考えさせて、って」
断らなかったんだ。先ほどから感じる悩みの空気で、きっぱりとした答えを出したわけではないだろうことは感じ取れていたけれど、あらためて言葉にされると悠里にはショックだった。
「どう、するんですか」
「……まだ考え中。いきなりは決められないから、一日待ってもらうことにしたの。今日いっぱい考えて、それで答えを出すつもり」
「……そう、ですか」
一日。今夜には、答えが出てしまう。悠里はそれについてどう思ったらいいのかわからなかった。
昨日の幸太郎との会話で大体のことは、詳しくはないけれどイメージできるようになった。
真維が智己を選べば、きっとふたりはあの場所で、『神』と繋がれる。あの、思い出すのも眩暈がするような存在のように。接続のムラだとかいうのが気がかりだけれど、きっとふたりはあの場所で永遠に一緒にいることになるのだろう。
一方、真維が智己を選ばなければ。それはつまり、ふたりの決別ということで――。
どちらの選択をしたにせよ、それは。
ある種の終わりのように、悠里には思えた。
「大丈夫、悠里のせいじゃないよ」
気が塞ぐ悠里に、真維が慰めの言葉をかけた。実際のところ、悠里は今そこまで自分の責任について思いを巡らせていたわけではなかったけれど。
「話してみてわかった。あれは智己が決めたことだから。だから悠里のせいなんかじゃないよ」
けれど、そんな風に言われたら、どうしても気持ちは楽になってしまう。悠里はそんな自分を恥じた。
「……すみません」
「謝ることないって。はい、自転車」
いつの間にか車庫に着いていて、悠里は自分の自転車を示される。それを手に取って、スタンドを蹴る。ちりり、とタイヤが音を立てた。
「悠里、これから学校?」
聞かれてふと、そういえば自分は学生だったと思い出した。平日の朝、本来ならこれから学校に向かう時間だ。今制服を着たままなのも、そういえば一応、昨日の朝の時点では真維の様子を見て、それから学校に行く可能性を視野に入れていたからで――。
悠里は曖昧に頷く。とても学校になんて行っていられるような精神状態ではなかったが、『行きません』と答えて話が広がるのもなんとなく避けたかった。
真維もそれはただの世間話くらいの話振りだったようで、それ以上は追求してこない。
「それじゃあ、行きますので」
「うん、気を付けてね」
さようなら、とは言えずに一礼だけして悠里は真維の家を後にした。
今夜、すべてが決まるのだ。
*
悠里を見送った後、真維は家の中に戻って行った。
家の外に出たのは、本当に何の理由もなかった。ただ、部屋にいたらカーテンの隙間から朝日が差し込んできたので、ふと外に出たくなったのだ。
その気まぐれのおかげで、幸太郎と悠里に会うことができた。
ふたりの顔を見て、薄らと決心が固まってきたような、そんな気がした。
起き始めた両親に挨拶して、また二階の自室に上る。動かない腕は結局原因が見当たらず、当面は心因性ということで自宅療養になった。だから真維は今日も学校に行かない。ただ、智己のことを、自分のことを考える。
一緒にいたい、と。そう言ってくれた。
好きだ、と。そう言ってくれた。
同じ気持ちだった。真維も智己のことが好きだったし、一緒にいたいと思った。それは決して間違いのない確かな気持ちで――。
カーテンを開けた。ベランダへと続くカーテンを。
少しだけ眩さを増した朝日が射し込んできて、けれど向かいの窓は、カーテンで遮られている。
いつもだったら、きっと、ベランダを伝ってまた幸太郎の部屋に行っていた。
寝る、と。そう言って時間がないと断ったけれど、きっとあの窓をノックしたら幸太郎は自分を迎え入れてくれる。そういう経験的な確信が真維にはあった。あいつはいつも突き放しているようで、どこか押しに弱くてひどく甘いところがある。
しかし――。
もうきっと、それはするべきじゃないと。そう思った。
智己は自分に好意を向けてくれた。自分と一緒にいたいと言ってくれた。
なら、その答えは自分自身で出すべきだし、他の誰かに相談すべきことじゃないと、そう思った。
ふたりだと思っていた。あるいは、もっと多くの。けれど、他の人の目から見れば、自分はひとりだった。ひとりで立つ、ひとりの人間だった。
朝日を胸いっぱいに受けて、真維はカーテンの閉まった窓に背を向けた。
考えよう、と。
そして、自分の答えを出すべく、彼女の一日が始まる。
*
「もしもし、三年四組の佐立です」
リビングで、幸太郎は固定電話を握っていた。
「はい。担任の津嘉山先生は今いらっしゃいますか? ……はい、お願いします」
それから少しだけ保留の音楽が流れて、すぐに切れるのが受話器から漏れ出てくる。
『おう、佐立か。どうした』
「はい、欠席の連絡を」
受話器の向こうからかすかな笑いが聞こえる。
『どういう風の吹き回しだ? いつもなら勝手に休んでんのに』
「いつもは寝坊してるから連絡が入れられていないだけです。毎朝起きるたびに申し訳なく思ってるんですよ」
『嘘こけ』
「嘘です」
幸太郎も軽く笑い、それから。
『で、今日はなんで休むんだ?』
「昨日と同じです」
『昨日? ……ああ、そういや昨日も休んでたな。いつも通り過ぎて気が付かなかった。で、なんでだ?』
「サボりです」
『堂々と言うな』
津嘉山は笑う。
『ま、お前はなんだかんだしっかりしてるし必要な分は来てるからな。中学生活ももう残り少ないんだし、勿体なくなったらちゃんと来い』
「はい、いつもすみません」
『おう。そんじゃ切るぞー』
それを合図に、ガチャリ、と電話が切れる。
幸太郎は受話器を置いて、けれどしばらく考え込むように電話機を見つめていた。
やがて、ふう、と小さく瞑目して溜息をつき、リビングへと歩いていく。
疲れ切った様子でソファに座り、ふと思い出したように近くに置いてあったテレビのリモコンを取る。
それから電源を点けて、パチパチとチャンネルを一通り切り替えて、けれどどこにも止まらずに電源を切る。
もう一度幸太郎は溜息をついて、背中をソファに預け、首を反らして天井を見た。
じっと天井の一点を見つめながら、何事かを考え込み、どれくらいそうしていただろうか、小さく微笑んで目を閉じた。
その表情は、安心しているような、寂しげなような、あるいは何もかもを諦めたような――。
暖かいリビングには、朝日が強く射し込んでいる。
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