『The Original Sin』 ―特警・異能犯罪捜査目録―

草履 偏平

『箱の中の猫』

『箱の中の猫』



 そこはもう既に使われていない、無人の廃ビルだった。もとは大手製薬会社の一支部で、色々な実験が行われていたらしい。

 無論、その栄華も今現在では見る影もなく廃れ、生の気配すら感じられない、コンクリートの塊と化していたが――。

 男が二人、その冷たくひび割れた壁に囲われた空間ハコのなかを彷徨っていた。二人とも黒いコートを着込み、周囲を警戒しながら歩いている。

「いや、しかしねワン先輩、思うわけですよ俺は。何が悲しくてこんな夜中に廃ビルうろついてんでしょうね、俺たち――って」

 黒髪に眼鏡の青年がそうぼやいた。見た目や声からして、それなりに若いようだ。王と呼ばれた男がそれに答える。

「仕方ねえだろ、カイン。異能者を狩るのがオレら特警の仕事だからな」

 王は、茶色い長髪を後ろに結って、頬には大きな傷がある。そして何より目に引くのが、腰に下げた日本刀だった。遠い昔、サムライという種族が栄えたこの国では、文明改革とともに「廃刀令」なる法律が制定された。それが今では「銃刀法」という名に変わり、国民の武器の所持を厳しく取り締まっている。そのような御時世、王の黒コートに日本刀という出で立ちは、明らかに異質なものだった。

 眼鏡の青年カインが軽くため息をついた。やれやれといった感じで王の後をついていく。二人は革のブーツを履いているにもかかわらず、足音を一切発していなかった。

 前方に何かが見え、王が後ろ手でカインを静止した。

 ――暗がりにぼんやりと人影が見える。

 一人の男が壁にへたり込み、息絶えていた。肩口から腰のあたりにかけてまで、袈裟斬りに斬られた傷跡が大きく目立つ。カインは右手で口を押さえたが、堪らずに嘔吐した。

「おいおいおい。死体見たら吐くその癖、いい加減どうにかしてくれよ……」

 王が呆れた口調で首を振る。彼はしゃがみ込み、カインが胃から戻した内容物を覗き込んだ。

「えーと、カツ丼にスパゲティ、おにぎりが鰹と梅。デザートにフルーツサンドとプリンか……。いつも基本コンビニ飯だな、お前」

 王が立ち上がる。

「……あとな、任務前に喰い過ぎだ」と付け加えた。

「いや、先輩こそヒトの吐瀉物見てその日の飯を推理する癖、やめて下さいよ……」

 カインは気分悪そうにそれだけ言うのが精いっぱいだった。

 聞いているのかいないのか、王が真面目な顔で死体へと歩み寄る。死体の男は短く刈り込んだ髪に革のジャンパー、胸元には派手なアクセサリをつけている。そしてだらりと地面に投げ出された腕には、護身用と言い張るにはいささかオーバーパワーであろう大きめの拳銃が、力無く握られていた。とても一般人とは思えない――明らかに、「その筋の者」だ。

「……バカが。寝込みでも襲って返り討ちに遭ったか」

 王が侮蔑とも憐れみともつかぬ表情を浮かべたあと、男の傷口を見るために革ジャンをめくった。

「見ろ、カイン」

そうは言われたものの、カインは一歩もその場を動かなかった。だが、構わずに王は続けた。

「切れ味の鋭いナイフによるものだ。肩の傷が一番大きくえぐれてる。そこから下部へ進むにつれて細く真っ直ぐ、綺麗に抜けていく。恐らくは逆手持ちで肩口を突き刺し、そのまま一気に斜め下に引き裂いた――」

 カインは黙って王の背中を見つめている。詳しく説明するのはやめてほしい。そんなものは、自分たちが仕事を終えた後にやってくる普通警察の鑑識班に任せればいい。

「……ふむ、刃の通り道が綺麗だ。肋骨まで見事にすっぱり切れてるな。相当な力だ。しかも、手慣れてる」

 それを聞いて、カインが不安そうな声を上げた。

「じゃあ――」

「ああ、シュレディンガーの手口によるものと見たほうがいいだろう」

 二人はしばらく無言だった。この予想が的中であれば、自分たちは長年にわたり特警からマークされてきた、強力な異能者の根城に踏み込んだことに他ならない――。

 やがて王が、死体の持つ銃に目を移した。黒光りする、ごついオートマチックの拳銃だ。王はそれを取り上げると、スライドを引きハンマーをコックさせ、撃鉄を起こした。そのまま狙いをつけるようにサイトを覗き込む。

「最近のヤーサンはいい銃使ってやがる……警察がちゃんと仕事してない証拠だな」

 自身も警察の一員であるはずの王が、軽く苦笑した。そして銃の排莢口をくんくんと嗅ぐと、グリップ下方から弾倉を取り出し、残弾を確認する。

「七発も撃ってやがる。カイン、その辺に弾痕はあるか?」

「いえ、ありません。」

 カインは即答した。既に辺りの壁をあらかた見回していたのだが、弾丸の痕は一切見当たらなかったのだ。それにもかかわらず、死体の足元には、発砲があったことを裏付けるかのように、七発分の薬莢が無造作に転がっていた。

「ふむ、おかしいな……」

 そうは言ったものの、王は特別深くは考えていないようだった。

 王が拳銃をカインのほうに放ってよこした。カインがそれをキャッチする。

「まだ弾は残ってるぜ? お前使うか?」

 そう言って王がニヤっと笑う。カインは一瞥もくれずに拳銃を放り捨てた。ただでさえ普通警察の連中は現場を荒らされるのを嫌う。死体の所持していた銃を使ったとなれば、何を言われるか分かったものではない。

「使いませんよ。オートマチックは嫌いです」

「だろうな……。気になってたんだが、なんでお前いつもリボルバーなんて使ってるんだ?」

 そう言われて、カインが自分のコートからリボルバー拳銃を取り出した。

「別に、こだわりがあるわけじゃ……。昔はオートマの拳銃使ってたんですけど、一度戦闘中にジャムを起こしましてね。本気で死にかけました。以来、オートマチックは使ってません」

「あぁ、トラウマってわけだ」納得したかのように王が笑った。

「先輩こそ、たまには銃を使ったらどうです?」

 カインが、先輩刑事の腰にある日本刀を眺めながら言った。

「はは、冗談だろ?」

 王がその質問を笑い飛ばした。もちろんカインにも最初からそう答えるのは分かっていたが。

 射撃訓練を見る限りでは、王の狙撃技術は一流である。だが彼の剣士としてのプライドが銃の使用を許さないのだろうし、何より王が銃を使う必要などない。事実カインは、彼が刀で弾丸をはじき返すのを、何度も見ているのだ。

 二人は暗黙の了解であるかのように無言で頷きあうと、上の階を目指し、再び歩き出した――。



 現在カインと王の二人は、8階建てビルの6階に差し掛かっていた。辺りはやはりひっそりと静まり返り、ひんやりした空気に満たされている。

「しかしまあ、酷いですね……。述島のべしま製薬といえば、医薬品のシェアの八割を占める大手だったそうじゃないですか。それがこの有様じゃあ……」

 カインは荒れたい放題の周りを見回した。既にほとんどの壁は取り払われ、鉄筋が剥き出しになっている箇所も見受けられる。王がおもむろに口を開いた。

「まあ、それも二十五年前までの話だけどな……。これは極秘事項でお前は知らないだろうが、この会社の社長、述島満義のべしま みつよしってのがかなりイカレた人間でな。自らの財力と社の研究施設を惜しみなく投入して、非人道的な実験を繰り返していたらしい。それがついには政府の知るところになって、こうやって会社ごと取り壊されちまったって話さ」

「非、人道的な実験……」カインが抑揚のない声で繰り返した。

 王は言おうかどうか迷っているかのようにしばらく沈黙した後、こう言った。

「なあお前、『シュレーディンガーの猫』って実験、知ってるか?」

 何のことだか解らないカインは、曖昧に「さあ」とだけ返事をした。上の階への階段を昇りながら、王が構わず後を続けた。

「シュレーディンガーって科学者が提唱した理論でな。ある箱の中に、時間ごとに1/2の確率で毒ガスが発生する装置を入れる。その箱の中に、更に一匹の猫を入れる。そうして一定時間後、装置が作動すれば猫は死ぬ、そうじゃなければまだ生きているか、そのどちらかになるはずだろ?」

「えぇー……そんな、猫が可哀そうじゃないですか」

「いいから最後まで聞けよ。だが、これを量子論的に『事象の確定は観測者がその事実を認めた瞬間に初めて発生する』という考えに当てはめると、箱を開けて確認する前までの段階であれば、猫はその時点において、いや、箱を開けて確認するまでは、永遠に生きても死んでもいない状態――つまり生と死が半分ずつ重なり合った状態であり続けることになってしまう。とまあ、これが『シュレーディンガーの猫』で言われてる内容なんだが――」

 王がそう言って振り返ると、すぐそこには、カインの顔に浮かんだ深刻な「クエスチョン」の表情があった。おもわず、王の口からも軽い笑いが漏れてしまう。

「いやな、実はオレもよく分らん。本来は量子力学だかの分野の思考実験でな。シュレーディンガー本人も理論を唱えただけで実際こんな実験はやっていない。もともとは、別の科学者の唱えた論文への批判で、つまりは皮肉のようなものだったらしいが、だいたいこの話を聞いた人間は小難しい理論よりも〝生きても死んでもいる状態の猫〟ってキャッチフレーズに目が行ってしまうわけだ」

 カインが「は、はぁ……」と何とも言えない声を上げる。

「(理系でもないし、別に学者だったわけでもない脳筋体育会系な王先輩が、一体どこからこんな妙な雑学を仕入れてくるのだろうか……)

 ――で、その猫の実験と今回のターゲットであるシュレディンガーは何か関係があるんですか? 名前が似てるみたいですけど……」

 先輩刑事王は、後輩が失礼なことを考えている微妙な間を見逃さなかったが、ここでは追及しないでおくことにした。

「似てるもなにも、それこそが異能者シュレディンガー誕生の由来なんだよ。述島はその実験をやってのけたのさ。単なる興味本位でな。しかも――だ」

「それってつまり……」

「真っ暗な部屋の中にさっき言ったような毒殺装置を取り付けて、人間一人放り込む。毒ガスは一日に一回、50%の確率で発生するものだったそうだ。……不幸だったのは、猫とは違って被験者が自分の置かれた状況を理解できてしまったことだろうよ。そんな環境、大概の人間なら耐え切れず、あっという間に発狂してしまうだろう」

 ――カインにも段々、分ってきた。異能者が能力を開花させるのは往々にして「命の危機に晒された特殊な条件下」だからだ。

「なるほど、その被験者というのが――」

「ああ、当時二十代の青年だったシュレディンガーだ。奴は驚異的な強運でな。実験が打ち切られる最後の時まで、毒ガスは発生しなかった……十年間もの間だ。この確率はもはや天文学的と言ってもいい数字だが、奴はそれだけの間、何も見えない部屋で死に怯えながら過ごしたということだ」

 カインには、そのような部屋の中でこれほどまでに理不尽な十年間を過ごすということが、どういうことなのか全く思いも及ばなかった。

「やがて述島の違法研究や諸々の不祥事が発覚し、強制捜査が入った際に、シュレディンガーも救出された。……その時奴はもう、とっくに人間を辞めた後だったみたいだがな。これらの事実が露呈してから述島製薬が法的に解体されるまで、約十五年の歳月を要している。そうやって司法がもたついている間に、シュレディンガーは厳重な監視の目を抜けて、保護施設を脱走。以降は行方知れずだ。

 そしてそれからのち、社長から幹部から含め、述島製薬に関わった全ての人間が殺されていった。その家族までもな。当時の研究主任の殺され方なんて一等酷い、原型を留めないほど切り刻まれた挙句、警察が回収できたのは片腕だけだったそうだ。事件はことごとく迷宮入りだが、全てシュレディンガーの手によるものと見て間違いない……」

 カインは何も喋らずに、王の話を聞いていた。この話を聞く限りでは、シュレディンガーは一人の被害者のようにも思える。その被害者を、今から自分たちが殺さなくてはならないのかもしれないのだ。

 特警の対異能犯罪任務は大体において「捕縛任務」という名目が掲げられるが、その通りにいったことは滅多にない。異能者相手の戦闘では捜査官自身の安全確保が最優先であり、対象の殺害も許可されているからだ。事実、特警に仕事が回ってくるような戦闘慣れした異能者の生け捕りなど、不可能に近い――。

「さあ、おしゃべりの時間は終わりだ……仕事をするぞ」

 そう言うと王は、7階フロアの広い空間に躍り出た。



 述島製薬第三研究支部跡――7階。情報では、シュレディンガーは「実験室」があったこの階を根城にしているらしい。カインが辺りを警戒しながら見回した。

 7階エリアの損傷は他の階に比べて特にひどく、ビルの壁自体も壊され風が吹きざらしになっている。まるで建設途中であるかのようだ。

 周囲をほぼ360度見渡したあと、カインは視界の端に奇妙なものがぶら下がっているのを見つけた。

 差し込む満月の光の中、天井の鉄骨から一本の太いロープでぶら下がったそれは、シルエットだけだとまるで奇妙なサンドバッグのように見えた。

「王先輩……」

 カインがその物体を指差した。王が頷くと、何も言わずに近付いていった。その間、カインは襲撃に備え王の背後を守るべく、リボルバーを構えて援護する。

 粗方予想はついていたが、近くまで来るとそれは首吊り死体であることが分かった。

「ふむ……」

 王が刀の柄に手をかけた。一瞬暗闇に閃光が走る。次の瞬間、死体と天井を繋いでいたロープが切れ、それはどさりと音を立ててコンクリートの床に落ちた。

 居合だ――。抜いたと同時に鞘に収まる太刀。カインにはその一瞬を見切ることができなかった。いや、むしろこの暗がりの中、王の太刀を見切ることのできる者など、いない。

「シュレディンガーだ」

「……え?」

 王のその言葉に、思わずカインが聞き返した。王は死体の首に手をあてた。

「完全に死んでるな……。後頭部の手術痕、そして実験体であることを表す手首のバーコードのシリアルナンバー。述島のデータサーバから押収した資料の記述通りだ。これらから見てもシュレディンガーであることは間違いない」

 しかし、カインには信じられなかった。目の前の男はどう見ても二十代後半の青年だ。述島製薬倒産から二十五年の歳月がたった今、彼はとうに五十代相応の見た目になっていなければおかしいのだ。カインの思惑を見透かすかのように王が言った。

「確かに若すぎる……それが奴の能力だったのかもしれん。だがもう、死んでいる」

 カインも王の隣にしゃがみ込み、シュレディンガーの死に顔を覗き込んだ。仕事の関係上雄、死体は今まで何度も見てきたが、これはそのどれもと違う違和感を感じる。

 何というか――そう、まるで現実感がない。それほどまでにシュレディンガーの死に顔からは、何ひとつの人間味も感じ取ることができなかった。

「――こんなこと、初めてですね。捕まえにきたターゲットが既に死んでるなんて……」

 その時だった。


「……へぇ、いったい誰が死んでいるんだい?」


 男の声――何の気配もなく現れたもう一人の人間が、王とカインの肩に気さくに手をまわして話しかけた。

 鋭く尖った殺気。自分は今死んだ。この男に殺された――。王とカインは間違いなくそう思った。

 ――だが、そう思う既にはるか以前。肩に第三者の手が触れるや否かのその瞬間、王とカインは恐ろしいほどの速さで反応していた。

 抜刀と、銃撃。

 刹那の時間経過もなく、男の心の臓には、王が背後へ繰り出した逆手の刀が突き刺さり、カインのリボルバー銃の弾丸が三発も撃ちこまれた。

 男は後ろに吹っ飛び、どさりと倒れた。誰の目から見ても、完全な即死である。カインが立ち上がり、男の死体に歩み寄ろうとした。

「バカ野郎!! そこから動くな!」

 王が大声をあげてカインを制止する。カインは言われたとおり、動きを止めた。

「よく見ろ……シュレディンガーだ……」

 言われた意味が分からない。なるほど、よく見ればそれは先ほど見たシュレディンガーの死体にそっくりな男だった。だが、シュレディンガーはこの男が現れる前に、すでに目の前で死んでいた。それを見ていた自分たちの後ろから、死体本人が気軽に肩に手をまわし、声をかけてくるなど、あり得ないことなのだ。

 王は刀を振って刀身に着いた血を切り、すっと鞘へと納める。戦闘は終了したはずだ。確かにとどめは刺した。だが、二人の刑事の心中は未だ緊張で張り詰めていた。

カインは先ほどの首吊り死体があった場所に目を移す。そこには王が斬ったロープだけが残され、死体がなくなっていた。

「目を逸らすな――!!」

 王が忠告したが、すでに遅かった。カインのすぐ横に、さきほどまで死体だった男が立っている。

「そうだぞ、青年。先輩の言うことはよく聞いておくことだ」

 そう言うと、男のなんとも言えない毒々しい色彩のスーツの両袖から、2本のナイフが滑り出した。それを両手に持ち、カインに向けて振りかざす。

 ナイフは黒塗りの艶消し仕様で、素早く動かされると、この暗さでは目視できない。カインは何とか相手の手の動きから軌道を見切り、間一髪で躱した。それと同時に銃を下段に構え発砲する。相手はその弾丸をもう一方のナイフではじき返した。

 カインがその隙に敵から距離をとる。一足飛びで五メートルほど後ろに跳び、王の横に着地した。相手は特に間合いを詰めようともしてこない。

「せ、先輩、一体あれは……」

「おれにも分らん。だが確かに奴は初め死んでいたし、さっき刺した時も手応えはあった……」

 カインは幻術系の能力を疑っていたが、自らその可能性を否定した。幻覚にかかったのなら、記憶に妙な空白が存在するはずだし、何より術者は最初に自らの目を合わさせるか声を聞かせるかしたあと、さらに術者ごとの条件をクリアする必要がある。そんな時間は到底無いに等しかった。

 カインと王が緊迫した表情で見つめるなか、シュレディンカーと思しきその人物は、嬉しそうに両手をばっと広げた。



「歓迎するよ、ようこそ僕の城へ! ……何もないところで悪いけどね」

 それはカインたちから見て、心からの笑顔に見えたような気もしたが、まるで貼り付いた仮面のような、感情の存在しない単なる表情筋の引き攣りにも見えた。

「貴様が……シュレディンガーか?」

 王が片手を柄に添えたまま、居合抜き特有の腰を落とした構えをとった。相手は気にも留めずに大げさなお辞儀をした。

「いかにも。僕こそがフォン=シュベインド・シュレディンガー。殺し屋業などを営んでおります。以後お見知り置きを」

 顔を上げたシュレディンガーの表情は、まだにっこりと笑っていた。そしてその表情のまま、目にも止まらないスピードで踏み込んでくる。それはノーモーションでの移動だったため、二人は反応を遅らされることを余儀なくされた。

 シュレディンガーはあっという間に王とカインの間に割り込み、両手に持ったナイフで攻撃した。器用にナイフを回しながら逆手と順手を使い分け、素早い連撃を繰り出す。

 王は刀を抜く暇が与えられなかったため、そのまま鞘で防御し、カインは体捌きでそれを躱した。

 シュレディンガーは逆手に持ったナイフを横に振って、カインを突き刺そうとしたが、その刃がこめかみに到達する前に、カインは自らの腕でシュレディンガーの腕を押し止めた。王が横から上段の回し蹴りを放つが、蹴りは足を潜って躱された。シュレディンガーはそのまま起き上がる動きと同時に右手のナイフを振り抜く。それを上体反らしで避けた王に向かって、さらにもう半歩踏み込みながら、左手に持った逆手持ちのナイフを殴りつけるように斬り付けた。王はそちらもスウェーイングで回避する。

 シュレディンガーがナイフを振った遠心力に任せて身を翻し、右手のナイフもくるりと逆手に持ちかえると、回転しながら更なる斬撃を放った。

 王が鞘を振ってその斬撃を払いのける。攻撃を弾かれたシュレディンガーは、反対方向に身を翻し、今度は左手で回転斬りを繰り出す。王はそれも鞘で払いのけると、自分に向きなおった敵の水月すいげつ(人体急所で言うところの、鳩尾みぞおちにあたる)に柄尻で思いきり突きを入れた。

 シュレディンガーは堪らずに一歩下がった。その隙を王は見逃さない。この一瞬を待っていたとばかりに、鞘から走った刀身がシュレディンガーの胴を真っ二つに切り裂いた。

 二つに分かれた敵の身体が地面に転がる。

「今度こそやったか……?」

 王がそう思った刹那、死体は既にそこから無くなっていた。目を離さなかったにも拘わらず、消える瞬間は目撃していない。まるで死体など、最初からそこには無かったかのように……。

「カイン、後ろだ!!」

 王がそう忠告を発する前に、既にカインは振り向きもせずに頭の後ろに手を回して拳銃を発砲していた。背後に迫っていたシュレディンガーの額を弾丸がぶち抜く。撃たれたシュレディンガーは「ぐあっ」という悲鳴と共に後ろに吹っ飛んだ。

「い、いつの間に……」

 カインが死体を確認すべく振り返る。だが、当然の如くそこに死体などなかった。血痕だけが真新しく床にこびり付いている。敵を撃ったという事実だけはしかとそこに存在していた。やはりこれは、幻覚などではない――。

 カインと王の二人はすぐさま背中合わせになり、辺りを警戒する。敵はどこから現れるのか分らない。お互いの死角をカバーし合う必要があり、離れているのは得策ではないと判断したのだ。

「お見事……!! 身体能力、反応、状況判断――どれをとっても素晴らしい」

 二人が声のするほうを振り返ると、シュレディンガーは何事もなかったかのように、足を組んで瓦礫の上に座っていた。

「一度の戦闘、それもこれほどの短時間で三回も殺されたのは初めてだ。君たちの実力に心から敬意を表するよ」

 そう言うと、シュレディンガーはニコリと微笑んだ。その笑顔だけを見ていると、どこにでもいるような好青年に見えないこともない。

「……お前、まさか不死身なのか?」

 カインが言った。床には確かに大量の血が残っているのだ。放たれた弾丸の命中と、それが与えた敵の死が、幻ではなかったことは明らかだ。

 シュレディンガーは興味深そうに二人の刑事を観察しながら、少し楽しそうに身を乗り出した。

「不死身というのは、少し違うかな……。事実、僕は君たちに三度殺され、そのたびに確実に死を体験している」

 カインは目の前の不可思議な存在を凝視した。――やはりどこか、存在しない虚構のような雰囲気がシュレディンガーには漂っている。生きているのか死んでいるのか分らないような、不思議な感覚が――。そこでカインは気が付いた。


「重なり合った状態……。〝シュレーディンガーの猫〟か!!」


 王もはっとしたようだ。カインのほうをちらりと横目で見た。

「御名答! よく解ったね!!

 今の僕は生と死が、存在と非存在が半分ずつの、非常に不確定かつ不安定な状態だ。述島の狂った実験のお陰でね、生死のスイッチを切りかえれるようになった。僕は未だに〝箱の中の猫〟というワケだ」

 シュレディンガーは自嘲気味に口の端を歪めた。やれやれと目をつむると、瓦礫の山からゆらりと立ち上がった。

「化け物め……」

 王が言った。今までカイン以上に数々の異能者と渡り合ってきた歴戦の特警刑事がそう言ったのだ。「化け物」と。それは目の前にいるこの異能者が、殊更特殊で人智を超越した事例であることを意味していた。



「化け物……だと?」

 この言葉は、どうやらシュレディンガーの気に障るものだったようだ。彼は下を向いて溜息をついた後、不愉快そうに首を振った。

「……そうだよ、化け物さ!! あの確率が死を支配する部屋で十年間!! 仕方がないじゃないか、僕はなってしまった、そういう“モノ”に。一種の概念に! 現象と呼ぶべきものに!

 もはやこれが人間と言えるか!? いたずらに生と死を繰り返す、存在すらも怪しい、虚無の狭間で薄ら笑いを浮かべるだけのチェシャ・キャットだ!!

 ならば爪痕を残してやる……。のうのうと暮らす全ての人間に思い知らせてやるんだ! 僕は此処に居る!! この憎しみをばら撒いてやる!!!!」

 シュレディンガーは一気に捲くし立てた。それはもう、先ほどまでのにこにことした好青年の顔とは程遠いものだった。極限の憎悪で歪んだ表情。離れていてもピリピリと伝わる殺気――。

 紫のスーツをまとった細身の体が、ゆらりと揺れた。その腕が微かに動く。次の瞬間、王とカインに目がけて複数のナイフが飛来し襲いかかった。カインは急いで体を左右にスイングさせ避けたが、それでも一本のナイフが肩口に刺さった。王は鞘と刀の二刀流でナイフを数本たたき落としたが、同じく一本のナイフが太ももに突き刺さる。

 シュレディンガーは懐から再びナイフを取り出し、両の手の指に挟んで四本ずつ計八本のナイフを装備した。さらに投擲してくるつもりだ。

 この暗闇の中、恐ろしいスピードで飛来する黒塗りのナイフを躱すことは困難を極める。

「まずいな――」王がそう呟いたが、時すでに遅し。両腕を交叉するように振り上げたシュレディンガーの手から、ナイフは解き放たれていた。

 カインは早急に専用のスピードローダーを使いリボルバーの弾を込め直し、自分に向って飛んでくるナイフを撃ち落とした。王も足を怪我しているものの、見事な体捌きでナイフを避けつつ、回避不能なものは刀で払い落す。

「飛び道具は嫌いなんだがな……!」

 王はそうぼやくと、素早くコートの下に手を入れ、胴体に巻かれたベルトに装備していた「ヒョウ」を数枚取り出した。それは大陸で使われる、柄のないナイフのような形状をした手裏剣タイプの武器だった。本来は紐に繋げて投げるため、持ち手のところに小さな穴が開いているが、王はいつも(といってもヒョウ自体滅多に使うことはないのだが)紐を通さずにそのまま投げつけて使用している。

 普段は飛び道具を使わない王ではあるが、ヒョウを素早く取り出し投げるその一連の動作は驚くほど洗練されていた。だがシュレディンガーは別段驚いた様子も見せず、超人的な動体視力と反射神経でそれらを空中で掴み取ると、寸分たがわず王に目がけて投げ返してきた。驚きのあまり反応の遅れた王は、身体の数箇所に切り傷を受けた。

 更にシュレディンガーが腰の後ろからまた数本のナイフを取り出す。

「これは堪らん……カイン、柱の陰に隠れるぞ! お前は左だ!!」

 王がそう言い終えるのと同時に、二人は左右別方向に、横っ飛びに跳び退いた。受け身をとるように分厚いコンクリート柱の蔭に転がり込む。

「王先輩、大丈夫ですか!?」

 別の柱に隠れたカインが大声で訊いた。

 王は官給品の応急キットから特製止血剤を傷口に塗り込み、その上から刀で裂いたコートの切れ端を包帯代りに巻いて、応急措置をしている。カインもこの隙に再び弾丸の装填を済ませた。

 自らの手当てを終えた王が、傷の痛みに顔を顰める。どれも急所に近い。彼の鋭い勘で躰をずらしていなければ、今頃大事な血管を何本もやられていたところだろう――。

「あの野郎、この薄暗がりの中、存外正確に狙ってきやがる……」

 それもその筈、シュレディンガーは十年間もの間、光の一切差すことのない真っ暗な箱に閉じ込められていたのだ。月明かりの差し込むこの程度の暗闇など、昼間にも等しい明るさなのだろう。そして何より、闇の中で研ぎ澄まされた彼の神経は、野生の獣並み、いや、それ以上の反応を可能にしている――。

 王が柱から顔を出して覗き込むと、すぐさまナイフが飛んできたので、急いで顔を引っ込めた。コンクリートの柱に刃がかすめ、顔の横でチュンッ、と火花が散る。

「くっそ!」

 この調子では、柱の後ろから動くこともできそうにない。

 業を煮やしたカインは牽制のため、柱の陰から銃だけを出して無茶苦茶に発砲した。

「な、馬鹿やめろ、撃つな――!!」王が声を張り上げた。だが、覆水が盆に返らないのと同じように、発射された弾丸が弾倉に返ることはないのは当然だった。

 その距離は、シュレディンガーが弾道を見切るのには充分すぎる距離だ。だが、彼のしたことは弾丸を避けることではなく、その軌道を読んで自らの眉間に弾を受けることだった。

「(しまった……!)」カインは今の行動が悪手であることをようやく自覚した。シュレディンガーは十数メートルも離れた場所で、額にマグナム弾を受け即死した。そして次の瞬間には、さも当たり前のようにカインの目の前に立っている。

「撃たれるのって、結構痛いんだよ?」

 無表情でそう言うと、シュレディンガーはナイフを振り下ろした。カインはぎりぎりで横に転がって危機を逃れた。そのままブレイクダンスのように足を旋回させ、相手の両足を蹴り払う。シュレディンガーは盛大にすっ転んだが、受け身をとったようだ。カインもその隙に距離をとり、スピードローダーで弾丸のリロードを済ませる。



 素早く起き上ったシュレディンガーが間合いを詰める。左手に持ったナイフをまっすぐに突き出した。ジャブのように素早い刺突を何度も繰り出す。

 カインがスウェーで右へ左へと躱す。相手の脇腹めがけ、拳銃を持っていない左手で斜めにショートフックを繰り出した。

 シュレディンガーはそれを右手の掌で止めると、反時計回りに回転し、左の肘打ちを喰らわせようとした。カインが上半身を屈めて回転ヒジをやり過ごす。そして体を起こす動きと連動しての膝蹴り。

 これはシュレディンガーの交叉した両腕にガードされた。その瞬間カインは相手の、ガードの開いた頭部に銃底を振り下ろした。だがこれも当たらない。敵はカインの腕を潜り抜けるように身を躱した。それと同時にナイフを横一文字に払い、カインの脇腹に切り傷を付ける。

 痛みはあったが、傷は浅い。カインは怯まずに、振りぬいた右腕の遠心力を利用して回転、左の回し裏拳でシュレディンガーのあごを強打した。

 さらにそこから右の上段回し蹴り。これはさすがに腕で防御された。足を取られないよう素早く引き戻すのと同時に、拳銃で二発の銃撃を与える。致命傷を与えないよう、両肩の付け根を狙ったが、シュレディンガーは二発の弾丸をナイフで防いだ。

 相手が反撃で繰り出した左ハイをのけ反って躱すカイン。シュレディンガーはそのまま深く沈むと、カインの足を刈るべく水面蹴りに技を繋げた。これを受けてカインは足元に迫る蹴りを、側方宙返りで避ける。それと同時に、空中で発砲した。

 シュレディンガーはその弾をナイフではじく。カインが着地と共に再びの銃撃を与える。弾丸はシュレディンガーの頬をかすめ、耳の肉をえぐり取った。だがシュレディンガーもこの程度の傷では怯まない。左足で勢いよく踏み込み、ナイフを相手の喉元に向かって突き出した。

「(耳の傷は治らない……そのままか――)」

 カインはたった今敵に与えた傷口を瞬間的に注視する。じっくり見ている暇はない。ナイフが迫る。

 カインも深く踏み込みながら、肩で風を切るように刃を避けた。そのまま二人が一瞬、背中合わせになる。カインもシュレディンガーも、回転に身を任せ素早く振り返った。回転の途中でカインが背中に手を回し、後ろ手で銃を発砲する。シュレディンガーは素早く右手に持ち替えたナイフを同じように背後に持っていき、銃撃を防御した。金属音と共に散る火花――。

 カインは背後に回した銃を次の攻撃に繋げるために左手に持ち替え、シュレディンガーも同じく、背中を通してナイフを再び自分の左手に渡した。

 お互いが正面に向き直る。

 遠心力に任せてナイフを振り下ろす左腕を、カインが右手でがっしりと受け止め、シュレディンガーはカインの銃を持った左腕を、開いたほうの手でしっかりと掴んで止めた。弾丸は発射されたが、コメカミをかすめただけだった。

 そのままお互いの腕を掴み合った状態で膠着する。緊迫した表情で睨みあう二人。

 先に膠着を破ったのはシュレディンガーだ。前蹴りで思い切り腹を蹴りつけて、カインを突き放す。

 だが、カインは後ろに吹き飛ばされながらも拳銃で相手の肩口を狙撃した。弾丸は見事命中した。

「うぐっ……うぉぉ……」

 シュレディンガーは苦しそうに肩を押さえた。即死から蘇った時のように、傷が治っている気配はない。そこでカインは疑問に思っていたことを確信した。

「先輩、動けますか!?」

 柱にもたれ掛っていた王が、刀を杖にして起き上がる。

「何とかな……」

 カインは撃ち尽くした弾を込めなおしながら、自分が気付いた事を王に話した。

「先輩、奴はどうやら致命傷を受けて死んだ時にしか、怪我が治らないみたいです。コメカミや耳の傷、肩の銃創が治癒しないのがその証拠……!」

 装填を済ませ、カインが再び発砲した。今度はシュレディンガーの左膝を射抜く。

「手傷を負わせている今がチャンスです! 奴を行動不能にし、捕縛します!!」

「なるほどな……そういやコレは本来生け捕りの任務だったな」

 王が刀を正眼に構えた。

「先輩は右足を頼みます! 援護してください!!」

 カインはそう叫ぶと、弾丸を四発、シュレディンガーに向けて発射した。狙いは、まだ無傷の、ナイフを持った左腕だ。

「なめるなぁッ!!」

 さすがに読まれていたのか、シュレディンガーがナイフで全発防御する。だがその隙を待っていたかのように、カインが勢いよくシュレディンガーの懐に飛び込んだ。

 慌ててナイフを突き出したシュレディンガーだが、負傷した躰での雑な反撃――流石にこれはカインにも読めていた。相手の突き出してきた腕をつかみ取る。そしてその腕を捩り上げつつ脇に挟み、関節を極めた。同時にもう一方の手で、関節技の極まった相手の肘に銃口を突き付け、躊躇うことなく引き金を引く。弾丸が貫通し、血飛沫が上がる。

 これでもう、相手は両手を使えない。ナイフで自害することも不可能だ。カインがロックしていた腕を放し、シュレディンガーから距離をとる。そこへ王が駆け込んだ……!

「うおおおおおぉぉぉ!!」



 王は野球のスライディングのように滑り込み、通り過ぎ様に勢いよく刀を振り抜いた。シュレディンガーの右足、その膝から下がスッパリと刎ね飛ばされる。今や残っていた唯一の支えを失ったシュレディンガーの躰が、ゴロリと床に転がった。

「や、やったか……」

 安堵の表情を浮かべ振り返る王。

「まだです! 急いで止血しますよ! このまま失血死されたら元も子もないですからね……!」

 そういうとカインは、自らのコートを破って、素早く的確な応急措置でシュレディンガーの右足に巻きつける。

「こっちが殺されないがために、相手を生かさなきゃならないなんて、全くあべこべだぜ……」

 王がさきほど自分に使っていた特警御用達の止血剤を、今度はシュレディンガーの傷口に塗りながら、そうぼやいた。目下の脅威である当のシュレディンガーは、苦痛に顔を歪めながら呻いている。

 しかし、カインも王も、手当てに集中するあまり、その時シュレディンガーが密かに起こしていた行動に、気付くことができなかった――。

 ――シュレディンガーは極力あごを動かさないよう、舌を使って、奥歯に埋め込まれていた「何か」を取り出した。

 小さく「カリッ」とだけ音がする。シュレディンガーの口の中に「何か」が広がる。粘膜から摂取される有害成分と、瞬く間に神経を駆け巡る、尋常でない苦痛――次の瞬間、彼は夥しい量の血を吐きだした。

「!?」

 カインと王がようやくシュレディンガーの惨たらしく歪んだ顔に目を向けたとき、それは既に息絶えていた。そして、認識する暇もなく、あったはずの死体が、消える。

 突如、カインの後ろで王が悲鳴を上げた。

「せ、先輩ッ……!?」

 肩甲骨あたりに深々と突き刺さったナイフ。そして跪く王の顔面を、革靴が勢いよく蹴り飛ばした。王の身体がズサーッと床を滑る。

「酷い目にあったな……」

 シュレディンガーが苛立ちの形相を浮かべ佇んでいた。もはや、最初に浮かべていた余裕の表情は、そこにはない。

「詰めが甘かったね。……こんなこともあろうかと、奥歯に致死性の猛毒を仕込んでいた」

 床にへたり込むカインを見下しながら、シュレディンガーが言った。獲物をなぶる猫のような嗜虐的な目でカインを眺めまわし、懐からゆっくりとナイフを取り出した。

「正直、奥の手を使わされるとは思ってなかった。僕の捕獲を諦めて殺しにかかる輩はいくらでもいたけど、まさかその逆をやってくれるとはね。恐れ入ったよ……。

 ――――だが、これまでだ」

 至難の策が、成功目前にして無情にも崩れ去った。しかし、カインは諦めていなかった。弾丸を込めながら、ゆっくりと立ち上がる。

「どうかな……」

 銃を構える。

 それは、先ほどから頭の中にぼんやりとした形で浮かんでいた。全く確証のない考えだった。だが、今はそれに賭けるしかないのだ。失敗すれば、どのみち死ぬ。

「おいおいおい、この期に及んでよしてくれよ。いい加減、馬鹿でも解るだろ?」

 シュレディンガーが冷笑を浴びせる。カインの表情は変わらない。

 二人はそのまま静かに睨みあった。沈黙の時間が流れる。



 破られた均衡――――。二人が動いたのは、全くの同時だった。

 シュレディンガーの投げたナイフが、一瞬早くカインの腕に突き刺さる。カインが銃の引き金を引いた。相手の急所を外して狙いをつける。発射された弾丸は、五発。

 シュレディンガーの両袖から、スペアのナイフが滑り出す。彼はそのまま二本のナイフを両手に持ち、弾丸を全て弾き飛ばした。獲物に対する一切の遊び心を捨て去り、本気で死闘に臨むシュレディンガーの反応速度は、凄まじかった。

「ふははっ! また致命傷以下の傷で僕の戦闘力を削ぐつもりだったのか!? そんなカビ臭い銃の弾丸では、僕を掠ることすらできるものかッ!!」

 シュレディンガー勝ち誇った笑いを浮かべた。だが、カインは一発目の弾丸を発射した直後、既に走り出していた。もとよりこの五発は、当てる気などなかった。この離れた距離からシュレディンガーの隙を作るには、それだけの弾数が必要だったのだ――。

 隙をついてシュレディンガーの懐に飛び込んだカインは、そのまま敵を組み伏せ、馬乗りになった。そして額に銃を突き付ける。

「まだ、弾丸は一発残ってる――」

 シュレディンガーが相変わらずの薄ら笑いを浮かべた。

「だからどうした? たとえ脳天にそれをぶち込もうとも、僕にとって無意味なのは明白な理だ。そんなこと、君もとうに解ってるだろう?」

 ――この男にとっては、生も死も、まるでシステムのひずみに生じたバグのようにちらつく、虚構に過ぎないのだ。だったら、そのバグが生じた理由にまで遡り、


「確実な方法じゃ、お前は殺せない。いつまでも終わらない実験の中に生きてるから。――――違うか?」


 その言葉に、シュレディンガーが不可解な表情を示した。カインは構うことなく、リボルバー銃の弾倉をかちゃりと外し、勢いよく回転させる。

「ロシアンルーレット。知ってるだろう?」

 カインがそう言って手首のスナップで弾倉を戻した時、初めてシュレディンガーがはっと気付いた。手に持ったナイフを振り上げる。

 チャンスは恐らく一回のみ。それ以上は引き金を引いてる時間はないだろう。既にシュレディンガーのナイフはカインの喉元を掻っ捌く一歩手前にまで来ていた。

「これで確率は……1/6だ!!」

 カインはトリガーを引いた。



 ――――弾丸は、発射された。至近距離から放たれた強装弾は、シュレディンガーの頭部の右半分を吹き飛ばす。

 完全な即死。カインはしばらく死体を見張っていたが、もはやシュレディンガーが動くことはないと、確信していた。それは今までの虚構の死とは違う、確かな存在感を持った本物の死だった。言葉を残す時間すらも与えられなかったが、人間を辞めた者にはふさわしい最期だったのかもしれない。

 実験の成立。確率1/2以下での殺害方法……それこそが、異能の存在へと成り果てたシュレディンガーを本当に終わらせる、最後の手段だったのだ。

「……終わったのか?」

 先ほどまでの様子を見守っていた王が立ち上がり、カインに声をかけた。

「終わりましたよ……。これで、終わりです」

 カインも、馬乗りの状態から立ち上がり、シュレディンガーの死体を離れた。

「しかし、よく思いついたもんだな、ロシアンルーレットなんてよ」

 王がそう言ったが、カインは首を横に振った。

「こんなもの、ただの屁理屈ですよ。奴の合意があったからこそ、成功したようなものです」

「合意……?」首を傾げる王。

「シュレディンガーのスピードなら、俺が最後の引き金を引く前に首筋をナイフで掻っ捌くことくらい、容易にできたはずです。それなのに、俺のほうが速かったのは、彼に迷う意思があったから――」

「つまり、こう言いたいわけだ。奴は本当は死にたがっていた。自分が囚われている実験を終わらせてくれる奴を待っていた――と?」

 これに対してもカインは、目を瞑って首を横に振った。

「Dead men tall no tales. ……死人に口なし、ですよ先輩。俺たちにそれを追求する権利もありません」

 王も納得したように、それ以上は踏み込まなかった。

「そうだな……どのみちオレたちには奴の頭の中、少しだって理解することはできなかっただろうよ」

 コンクリートの床に静かに横たわるシュレディンガーを見ながら、寂しげにそう言った。空は白みがかって、死闘の夜の終わりを告げている。この死闘も、お互いが抱いた感情も、当事者たる彼ら以外には、誰も知らない「観測外の出来事」となる。

 それでいい――。

 二人は現場を離れるべく、その場を後にしようと歩き出した。

「何にせよ、よくあんな化け物を倒せたもんだ……」

 王がそう呟いたのに対し、カインはふと足を止める。

 最後に、振り返って見た。

 まだ朝日には満たない仄かな光が、横たわるシュレディンガーの躰を照らし、輪郭を縁取る。それは、この大きな冷たい箱の中で虚ろだった彼が、本物の死体となって初めて手に入れることができた、確かな存在感――。


「化け物? 倒す? ……何のことですか?

 俺は帰るべき場所に帰してやっただけですよ。一匹の、迷い猫を――」


 シュレディンガーの死に顔は、その壮絶な最期にも拘わらず、まるで安らかな微笑みを湛えるように穏やかだった――。




 (―箱の中の猫―完)

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