『蟹地獄』【餓】






 ――『F町・第十七回大漁祭』開催当日。

 漁港を開放して設けられたイベント会場では、ずらり並んだ大型水槽での魚類の展示や、巨大食用魚の解体ショー、競り市、新鮮な海鮮料理の屋台などが立ち並び、客足も上々の大きな賑わいを見せていた。

 一方、そんな楽しそうな人々をよそに、僕は大食い大会会場に集まった猛者たちを見渡して、さっそく胃が痛くなり始めていた。

「うわぁ……優勝とか絶対無理ですって、こんなの……」

 ――並み居る参加者は、総勢128名。

 人数分並べられた長テーブルが列になっており、もうほとんどの選手が着席を済ませている。その周りでは、地元地方紙の取材陣や、ローカルTV局らしきスタッフもうろついていた。どうやら、新鮮なカニ料理だけを思う存分食べ散らかそうというこの企画は、少なからず色々な方面から注目されているようだった。

 それにしても――――

 どこを見てみても、筋肉モリモリマッチョマンの巨漢や、いかにも大食い自慢と言った風貌の豪傑たちばかり。僕の前に座っている太った男なんて、これからまさに大食い大会だっていうのに、いかにもカロリーの高そうなチョコバーをかじりながら余裕をかましている。

 しかもほら、あそこの一角にたむろしているのは、近所の相撲部屋から送り込まれてきたという力士の皆さん方だ(絶対「おいどんが優勝するでゴワス」とか言ってると思う)。

 そして皆からはぐれた隅っこのほうでは、なんか目つきの悪いガリガリで死神のような男が、さっきからずっと「クフフ……クフフフ……」と不気味かつ不敵な笑みを浮かべている。ちょっとヤバイかんじに目がすわってるんですけど、大丈夫なんだろうか……。でもああいうの限って、痩せの大食いだったりするんだよね。

 などと考えていると、反対方向から参加者たちの間で、「おおっ」というどよめきが起こった。気になって彼らの視線を追ってみると、会場の席とテーブルの並べられた間を縫って、チャイナドレスを身にまとったスレンダーな美女が、まるで他の参加者を品定めするかのように練り歩いている。深いスリットの入ったド派手なチャイナドレスと、大きなお団子を二つ乗っけたようなシニヨンヘアがギャップで可愛らしい。彼女はツカツカとヒールの音を立てながら参加者たちの座っている間を闊歩していたが、僕の席の前でピタリと足を止めた。

「ふぅン……ツマラナさそうな相手ばかりと思ってたけど、どうやらオモシロそうなオトコもいるアルね」

 誰のことだろうかと両隣と後ろを見てみたけど、あれ? 誰もいない。もしかして僕に言ってるのだろうか?

「え……うぇ? あ、ハイ」

 いきなり絡まれてテンパっている僕にはおかまいなしに、彼女は「よろしくアルね」と、ウィンクと共に去っていった。

「――あのおねいさん、強いね。健康状態は非常に良好、それに朝ごはんも抜いてない。彼女の放つ『食オーラ』がそれを雄弁に物語ってる」

「はい?」

 今度はいきなり横から声を掛けられた。どうやら僕の右隣の席の参加者が来たらしい。

 見てみると、中学生くらいの少年だった。

「お兄さんも相当、やるね? いい色をした『食オーラ』だ。でも、昨日の夜ご飯と、今日の朝ごはんを抜いてきたのは良くないね。その顔色と、分泌されるストレスホルモン、強い胃酸の匂い……歴戦のフードファイターなら一発で見抜いちゃうよ?」

「えっ? う、うん……」

 ごめん、何言ってるのか全然分からないや。というか、食オーラって何だ。

「ふふふふ……おお、いやだいやだ、これだからオカルト論者は。何が『食オーラ』だ。これからの時代、フードファイトは科学とデータでの戦いになる」

 今度は左側の席に、眼鏡をかけた長髪の青年が腰を下ろした。ノートパソコンを開いて、何やら高速でカタカタと打ち込んでいる。

「ふふ……あそこにいる病気の死神みたいな不気味な男は、ゲテモノ料理と早食いの名手『餓鬼憑きの吉岡』。先ほどのチャイナドレスは、中華四千年の呑喰術奥伝体得者『呑牛のメイリン』。そしてオカルト少年、お前のことはよぉく知っている。最近、生意気にも大食い界に現れた超新星、彗星のごとき食速と宇宙のような胃袋を持つ、食神に愛されし寵児――『流星のタカシ』……ふふふ……強敵が揃っているなぁ……おっと!!?」

 青年の懐から、何かが転がり出した。瓶の中に、錠剤が詰め込まれている。ラベルには『ザ・オリジナル調合 ~超消化促進・強胃酸薬~』と銘打ってあった。うわぁ……。

「兄さん、あなたはまだ、そんなものに……そうまでして、栄光にしがみつくのか……」

 え? 兄さん?

「だまれッ!! タカシ、お前なんか……お前なんかには分かるまい、生まれつき、恵まれた代謝機能と強力な消化液、大きな胃袋を授かって生まれてきたお前には……ッッ!! 俺の唯一の取り柄……俺には、俺にはもう、フードファイトしか残っていなかったんだ!! それを、あとからきて全部奪っていったお前にだけは……!!」

 えっ何? 君たち、兄弟だったの。

「僕は……僕はただ、兄さんと食べ競べっこするのが楽しかったんだ……また、あの頃みたいに……だから今日こそは、薬を使っている状態の兄さんに勝って、その濁った目を、醒まさせる!!」

 弟の熱い思いに、兄は一瞬見せた悲しげな目を隠すように、眼鏡をクイッと上げて、答えた。

「もう遅いさ……今の俺は、幾度もの薬物使用による副作用で味覚と口腔内の触覚を失ってしまっている……。だがな、同情はいらん。逆に言えばそれは、熱さも辛さも感じない、最強の舌を手に入れたということ……。これが最後……俺は今日、お前を潰して、フードファイト人生を精算する……クククク……ハハッ……」

「兄……さん……」

 えっと……。

 なんか、僕の席を挟んで、すごい因縁が渦巻いているようなんだけど、これ、席を替わってあげたほうがいいのだろうか……?

 と、さらにそこに。

「おやおや、食前に無粋な輩が騒いでますねぇ……」

 またなんか来た。今度は僕の後ろの席だ。

「お、お前は……!!」眼鏡のドーピング青年が、ガタッと立ち上がった。

 そこには、食い倒れ人形みたいなド派手なスーツを着た、やたら背の高いイケメンが。なにやら地方紙の取材陣やTV局のスタッフに取り囲まれている。……あ、この人知ってる。確か、有名な大食いチャンピオンだ。TVや新聞で見たことある。

「控えてくれませんか、下郎。食の戦いとは、己との対話。孤高にして崇高な儀式。誰にも邪魔されず、独りで、静かで、豊かで、エレガントで……なんていうか、救われていなきゃダメなんだ……」

「まさか、チャンピオンのお出ましとはね……昨年までの全国大食い選手権三連続覇者、〝マスター・オブ・グラトニー〟――喰坂くらさか 酔軒すいけん。相手にとって不足はないね……」

 タカシ少年は笑顔を浮かべながらも、その声を震わせ、緊張を隠せぬ様子で、額に一筋の汗を滲ませていた。

 ……なんか自分、場違いというか、もう帰りたくなってきた。

 イオ君とハリヴァは「怪しい奴がいないか見回りする」とか言いつつ、先輩のおごりでイベントを楽しんでいる真っ最中だし。もうやだ。っていうかあの先輩は、ほんとに何しにこの町に来たんだろう……。

 頭を抱えていると、漁船の汽笛が会場いっぱいに鳴り響いた。どうやら、本日のメインイベント開始を知らせるブザー代わりらしい。

 正面の壇上に、やる気なさげな漁業組合会長が上がってきて、イベントスタッフの掲げるカンペを読み上げながら挨拶を始める。

『アーアー、マイク、テステス。ん? OK? 入ってる?……えー、本日はお日柄もよろしく……と言っても、空、曇ってますけどね。うん、どうでもいいですよね。それでは、本日のメインイベント、大量発生して困っていたカニの処分も兼ねて……あ、これ言っちゃダメだった? ゴメンゴメン。まあいいや。それで、えっと……そんなわけで、カニづくし大食い選手権、制限時間は一時間、始めちゃってください』

 そのあと、イベントスタッフから簡単なルールの説明があった。大食いバトルの進行は、各参加者の目の前にあるファミレスのボタンみたいなのを押して、席に置かれたお品書きから好きなメニューを選び、注文する。すると、それをイベントスタッフのおばちゃんたちが運んできてくれるので、一品ずつ、完食ごとに、食欲の続く限り、また追加注文していく。そうやって次々平らげていった末、制限時間以内に、カロリーと食材の重量、それらの合計ポイントを最も多く取った者が優勝。

 ……なんてバカバカしい。でも、このお祭りに優勝さえできれば、『蟹地獄連続襲撃事件』の次のターゲットはたぶんきっと、僕に絞られる……はず。そう、これも市民の安全を守るためだ――そうでも思わないと、やっていられない。


「(ああもう――どうにでもなれっ!!)」


 試合開始の汽笛が鳴り響くのと同時に、僕はがむしゃらに箸を取り、注文ボタンをひっぱたいた――――



 ――――二時間後。

 イベント会場からの帰り、僕はなぜか、カニの形をした優勝トロフィーを抱えながら、王先輩とハリヴァと一緒に、河沿いの道を歩いていた。

 ゆでガニ13杯、カニチャーハン13皿、カニ茶わん蒸し8杯、かに玉5皿、蟹のお刺身7匹分、カニの海鮮クリームパスタ15皿、カニ汁12杯、蟹ラーメン8杯、カニと海藻のサラダ10皿、カニクリームコロッケ35個を完食した僕は、気が付くとなぜかぶっちぎりで優勝していた。

 まだ腹七分目くらいなのにどんどんギブアップしていく他の参加者のみんなに「え? なんで?」と困惑していると、例のフードファイターたちに、まるで化け物を見るかのような目でドン引きされた。先輩はおろかハリヴァやイオ君にもドン引きされた。なんか今日一日で、色々なものを失った気がする。

 ちなみにイオ君はといえば、僕が迷惑料と事務所への宿泊料金も兼ねて優勝賞金を献上したところ、「貯金してきます!」と嬉しそうに銀行へ直行してしまった。しっかりしてるよね、ホント。ちょうどよかったので、そのまま事務所に戻ってもらうようにお願いした。『蟹地獄連続襲撃事件』の犯人がいつ襲ってくるかも分からない状況なので、僕たちと一緒にいるよりは安全でいいだろうという判断だ。イオ君は察してくれたのか、聞き分けよく了承してくれた。

「それにしてもなあ、まさか本当に優勝しちまうとはな……」

 いや、出ろって言ったのアンタですよね?

「すごかったよね。なんせ大食いチャンピオンに引退宣言させちゃうくらいだもんな」

 ……あの、もう、その話やめにしませんか?

「――そんなことより、これからどうしましょうか、王先輩」

 僕は話を逸らすべく、先輩のほうを向いて言った。

 河沿いの道は、上流のほうへ進むにつれて、だんだん幅が狭くなってきていた。草の生い茂った土手の上に、ギリギリ対向車どうしが行き交えそうなくらいの道路が敷かれている。その先には『F’町』へと繋がる橋が見えてくるはずだ。

「僕とハリヴァは、もう一度二人でF’町に行って聞き込みでもしようかと思っていたのですけど……このトロフィーを持ってうろついていれば、犯人のほうから出てきてくれるかもしれませんし」

 それを聞いて、先輩は妙に心配そうな顔をしている。……なんというか、こいつら二人に任せて大丈夫か? とでも言いたげな表情だ。確かに昨日、あれだけのポカをやらかしてしまったあとなので、そう思われても仕方ないけどさ。

「オレが付いて行けりゃ、それが良かったんだがな……。この通りの有り様じゃあ、文字通りの足手まといになっちまう」

 これ見よがしに、腰のコルセットと松葉杖に目をやったあと、「やれやれ」と首を振る先輩。沙帆ちゃんがいてくれたら彼女の異能であっという間に完治してしまうような怪我かもしれないけど、こうも離れた土地では、特警本部の医療班を頼ることもできない。そのうえ、近場に支部さえ無いときた。

「結局、会場じゃあ怪しい奴も、須藤元刑事の姿も見つからなかった。あれだけの人ごみに紛れちまったとしたら、探しようもなかったかもしれんがな……。だが、敵さんがもしイベントに来ていたなら、カインの喰いっぷりを見ていたかもしれんし、今この時だって、オレたちを尾けて、人目に付かないところで襲うのを狙っている可能性だってある……」

 そこまで言って先輩が、「うーん」と首をひねった。

「……しかし、やっぱこりゃあ、今日は切り上げてさっさと帰ったほうが吉かもしれんな。一雨きそうな雰囲気だ」

 そう言われてみれば、まだ昼の3時過ぎくらいとは言ったものの、天気もあまりよくないせいか辺りは薄暗く、雲行きも怪しくなってきていた。

 先輩は足下に目を落とし、

「――ほら、蟹がこんな土手の上のほうまで上がってきてるだろ? 『蟹の高這いは大雨』って言ってな、天気が崩れる予兆だって言われてるんだ」

 草陰からひょっこり、道路を横這いながら通り過ぎていく蟹を見て、そう言った。

 へぇ。確かに、辺りには幾匹かのカニがちょこまかと歩いているなか、道路の横断に失敗し、車に踏み潰されたものとみられるカニの死骸も、散見された。

「ふーん、『猫が顔を洗う』とか『ツバメが低く飛ぶと雨』とかも言うけど、それと同じようなもんか」と、ハリヴァ。

「ああ。そんなようなもんだ。大雨が降ると、ヤツらの棲み家の川が増水したり氾濫したりするからな。それを察知して高い所まで上がってくるのよ。ちなみに『猫が顔を洗う』ってのは、湿気のせいでで張りが無くなったヒゲの手入れのためだとか、『ツバメの低空飛行』は気圧が重くなったせいで低い位置を飛んでいる羽虫を捕らえるためだとか言われてるらしいぜ。なかなか迷信だからってバカにできない根拠があるもんだろ? ……んって、話が逸れたか。

 なんにせよ、捜査を続けるにしても一度事務所に帰って準備を整えてからのほうがいいだろ。そう簡単にコトが進展するとは思えねえんだからよ――――」

 と、先輩が言いかけたところに――――


 ドンッ!!


 先輩は向こう側からカバンを抱えて猛ダッシュで走って来た人物と、派手にぶつかった。

「でふっ!!」

「ぐわおっ!?」

 相手は派手にすっ転び、尻もちをついたが、松葉杖状態の先輩はさらにひどかった。突き飛ばされて後頭部を道路に強打した挙げ句、それでも勢い止まらずに、土手の急斜面をごろんごろんと開脚後転で転げ落ちていく。なんだこれ。

 呆気に取られていると、道路に尻もちついていた相手の男が、むくりと上体を起こした。

「いってえな! なにしやがるっ!!」

 ――悪びれもせずにそう叫んでいる土手猛ダッシュ先輩突き飛ばし男。マスクとサングラス、野球帽で顔を隠している。まるで指名手配中の逃亡犯のテンプレートのような格好だ。どう見ても怪しいことこの上ない。

 僕はとりあえず、相手が落としたカバンを拾って、渡してやろうとする。すると、「触るんじゃねぇっ! 返せ!!」と、土手猛ダッシュ先輩突き飛ばしサングラスマスク逆ギレ男がいきり立ち上がって、僕の手からカバンを引ったくった。

 その際、が起こる――。

 それほど力を入れて引っ張り合ったわけでもないのに、なぜか、カバンが真っ二つに裂けてしまったのだ。

 まるで刃物か何かで裁断されたかのように、奇麗に二つに分かれてしまったカバン。そして、中身がぶちまけられる。カバンの中から飛び出して空中を舞っているのは、大量の札束――――。

「しまった! うっかり『能力』を使っちまった……!!」

 相手がそう叫んだのを、僕は聞き逃さない。

「いま何て?」

 能力……? こいつ、異能者か? っていうか、『切断』の異能――――まさか。

 一連の流れを見守っていたハリヴァも、道端にばらまかれた札束から男の顔へと胡散臭そうなジト目を這わせ、相手を顎でクイと指し示しながら「……で、こいつどうすんの」とでも言いたげな視線を僕に送ってきた。

 そのアイコンタクトに僕は、こくり、と頷く。

「……あの、すみません。失礼ですが、カバンの中身と、それからあなたの顔――よく見せてもらってもいいですかね?」

 懐に手を差し入れて、特警手帳を取り出し開示しようと思ったが、そういえば先日、空き家での一件で紛失してしまっていたことを思い出した。

「ふ、ふざけんなアンタ何様だ! なんで俺がそんなこと……」

 あからさまに挙動不審な態度を見せる相手に、僕はじりじりとにじり寄る。男の出方を警戒しつつ、腰のガンホルダーへこっそりと手を伸ばす。

 それに気付いた相手は、開き直ったのか、マスクとサングラスを威勢よく剥ぎ取った。

「ちっきしょう! てめえら、刑事デカか――!!」

 案の定、隠されていたその顔は、扁平で、角張っていて、目が極端に離れている、カニのような風貌――――脱獄犯、蟹澤漁だ。

 けど、なんで彼が生きているんだ?

 もし目の前のこの男が本物の蟹澤であるのならば、あの空き家で見つけた死体は、一体――。

「――あ、そうか!! 〝整形屋〟!!」

 目まぐるしく回る思考の中で僕が『答え』を見つけ出した時にはもう、蟹澤の手が、すぐ眼前にまで迫って来ていた。

 〝鋏手男シザー・ハンズ〟――触れられたら最後だ。この手は、実体の在るあらゆるものを『切断』する――――。

 その魔手に触れられるや否やの瞬間、僕は横から強く突き飛ばされた。

 どうやらハリヴァが助けてくれた――らしい。そう理解できたのも、突き飛ばされたであろう僕が今現在、さきほどの先輩と同じような感じで土手を転がり落ちている真っ最中だからである。なんだこれ。

 そして間の悪いことに、僕が転落していくであろう軌道の先には、よたよたと刀で杖を突きながら土手を登って来ている先輩がいた。

「先輩、避けてっ!! っていうか出来るなら受け止めて!」

「……無茶言うな!!」

 当然そのままローリングアタックをぶちかまし、二人でくんずほぐれつ転がり落ちてく。ホントもうなんだこれ。

 川辺に二人重なって倒れ込み、ようやく回転の勢いが止まった。

 全身の打ち身に苦しんでいる先輩を、急いで引き起こす。もともと満身創痍でもあったせいか、まともに受け身が取れなかったらしい。松葉杖も最初の転落でどこかに飛んでいってしまったようだ。

「あの……先輩、あいつ何か蟹澤だったんですけど……どうしましょう?」

 土手の上を見上げてみると、今まさに、蟹澤が掴み掛かってはハリヴァがいなしての格闘が繰り広げられているところだった。

「どうって、お前……そりゃ、元はといえば今回の任務はヤツの逮捕がそもそもの目的なわけであってだな、生きているとなれば、そりゃ、最優先の捕縛対象になるというか何というか……」

「とにかく……」

「ああ。捕まえとくに越したことはねえ……ッ!!」

 合点承知。そうと決まると、僕は急いで土手を駆け登った。先輩も足を引きずって、よじ登るようにあとをついてくる。

 土手を上がりきったところで、僕は叫んだ。


「ハリヴァ! 接近戦は危険だ!! そいつの手に気を付けて!!」


「え? なんて?」

 僕のほうを振り返ったハリヴァ(ていうか、聞こえてなかったんかいー! )。いやいや、だから、危ないからって! お願いだからちゃんと前見て前!! ――みたいな心配してる僕をよそに、両手のラッシュで掴み掛かってくる蟹澤の攻撃をすべて、ハリヴァは超わき見運転かつオートドライブな手捌きでいなしていた。うん……意外と余裕そうね。いや、いいんだけどさ。よかったね。

 接触発動系、それも一撃必殺にも等しい異能を相手に、プレッシャーもなく巧く立ち回っている。

 右弧拳で蟹澤の左手を打ち払い、続く蟹澤の右を逆の背腕で払いのける。そこへもう一度、蟹澤が左手での『切断』を喰らわせようとしてきたが、ハリヴァは半身になって〝鋏手男シザー・ハンズ〟の接触を躱しつつ、目の前に差し出された相手の前腕部を、両手の甲どうしを使って挟み込み、合気道のように、くん、と下に逸らした。それと同時に左のハイキック。

「ひえっ……!!」

 蟹澤は目をつぶりながら情けない声を上げ、慌てて頭を下げた。

 だが、この蹴りはそうやって回避されることまで想定済みの、いわゆるブラフ。当たって仕留められるのならそれで構わないし、外れても、問題無く次の技に繋げることができる。

 空振ったハリヴァの左足が、敵の頭上を通り越し、さらに、両手で押さえ込んでいた敵の左腕も跨ぐように弧を描く。その足が着地したとき、ハリヴァはちょうど、蟹澤の肩の付け根あたりを股で挟んだ形だ。この状態で上から体重をかけ、蟹澤を跪かせる。背手(手の甲)どうしで挟んでいた蟹澤の腕を、両手の平で、がし、と掴み直す。取った腕は螺旋状に搾り上げるように肘と手首を極めつつ、己の腰から下も逆方向にひねり、肩関節を同時破壊。――古流に見られるような、実戦重視の蔓技かずらわざだ。

 蟹澤の左肩と左腕――その二箇所はゴギンッと音を立て、機能しなくなった。

「ぐああああああ!!!!」

 蟹澤が絶叫を上げ、四つん這い――あ、正確には「三つん這い」か――になった。その状態から一番掴みやすい場所にある、ハリヴァの足首を掴もうとした。

「おっと……!」ハリヴァは急いで関節技を解き、跳び退いて距離をとった。

「クッソ……!!」

 涙目の蟹澤は、地面に落ちていた札束のひとつを掴むと、それを投げ付けてきた。僕が拳銃を持っていないほうの手で払いのけた瞬間、札束は大量の半切れの一万円札となって、紙吹雪のように舞い散った。それらは蟹澤の能力によって〈切断〉されていた。目くらましだ。

 その目分量にして約300万円は使ったであろうと思われる贅沢な目くらまし(どうせ押し入り強盗とか金庫破りとかATMを真っ二つにしたりとか、悪事で貯め込んだお金なんだろうけど、もったいないな……)に視界を覆い隠されている間に、蟹澤は片手で拾えるだけの札束をありったけ掴み取って、今度は僕らに背を向けて、一目散に逃げ出した。

「あ、こら! 待てっ!!」

 来た時のような猛ダッシュで走り去っていく蟹澤。それを追う僕たち。


「――カイン、逃がすなよ!!」


 背後から、やっとのことで土手を登りきったっぽい先輩が檄を飛ばしてくるのが聞こえてくる。無論、相手は凶悪犯罪者、そのうえ『蟹地獄連続襲撃事件』とも関わっているかもしれない。ここで逃がすわけにはいかない。

 土手を全力疾走していると、頬に、幾滴かの水滴が当たって弾けたのを、感じた。雨が降り始めたらしい。

 遁走する蟹澤を追い掛けていくにつれ、前方に橋が見えてくる――河で分断されている『F町』と『F’町』とを繋ぐための橋だ。車両用の橋梁(二車線の道路)と、柵で仕切られた人道橋(歩道)が併設された、よくあるタイプの桁橋けたばしである。

 蟹澤が橋を渡ろうと、道を曲がる。せまい歩道は無視して、なりふりかまわずに車道を駆け抜ける。僕とハリヴァもそれを追う。しかし――――。

「うわぁあああっ!!!」

 蟹澤が、驚きの悲鳴。前方からは軽トラック。

 急ブレーキを踏んだ車体が、濡れたアスファルトの上を滑る。そこに蟹澤が衝突。撥ね飛ばされてきた蟹澤に、僕が追突。後ろからハリヴァも追突。玉突き事故が発生し、三人で将棋倒しになる。

「いてっ!」

「痛っ!」

「つべっ!」

 ……なんなのこれ。

 とにかく気を取り直して、蟹澤の容態を確認する。重度の打撲に、肋骨、胸骨の損傷、内臓の破裂。少しマズイかもしれない。

 軽トラから、助手席の男が窓を開けて顔を出した。

「んだコラァ!! なにぶつかってんだクソが轢き殺すぞボケェ!!」

 いや、蟹澤さんすでに轢かれてるし今まさに瀕死なんですけど……。

「いや、既に轢いているし死にかけだと思うのだが?」

 と、運転席の男も冷静に同じツッコミを入れる。いや、轢いたのお前だろ。

 二人の男は、ドアを開け、降りてくる。

「う……ぁ…あ…」

 蟹澤が、言葉にならない声を、血と一緒に吐き出しながら、震える手で、男たちのほうを指差した。

 一歩一歩、近付いてくる――まるでその歩調に呼応するかのように、雨の勢いも強くなってくる。ついには、ざぁざぁと、――――土砂降りに。

「んー……?」

 二人組の片割れが、まじまじと僕らのことを観察してくる。

 その男は中肉中背で中途半端な長髪、どんよりとした特徴のない顔をしている。服装は、ピンクのポロシャツにゆったりとしたジーンズと、ハンチング帽。肩には掛けず腰から垂れ下がっているサスペンダーと、ベルト付きのツールポーチが、どことなく芸術家肌というか、なんだか「イタリアで靴職人見習いやってます」みたいな印象を受ける。さらに、それらを差し引いても飛び抜けて異様な点を挙げるとすれば、この男、。血まみれの包帯を巻いている腕が痛ましい。

「なんだぁコイツら……どっかで見たことあるような……」

 男はそんなことを呟いていたかと思うと、やがて

「あぁぁあああああーーーーーーっ!!!」

 と、僕と蟹澤を交互に指差しながら、大声をあげた。

 そして、もう一人――――


「――なんだ、大声出してどうした? メガネカラッパが脱皮でもしているのか?」


 まるで茹でたカニのような色をした、派手だかくすんでいるんだかよく分からないカラーのロングコートを羽織った、長身の男――。

「んなわけねえだろ! どんだけ蟹バカなんだよお前! つかなんで南太平洋に主な棲息地を置いているカラッパ科のカニがわざわざこんなところまでやってきて砂泥地でもない橋の上で脱皮しなきゃならねえんだよ!!」

 ポロシャツの男がやけに専門的な突っ込みを入れているが、それはさておき――。

「なあ、アイツってもしかして……」

 ハリヴァがそう言いかけたところで、僕も気が付いた。

「あぁぁあああああーーーーーーっ!!!」

 今度は僕が相手を指差して大声をあげる番だ。

 それに反応して、カニ色ロングコートの男がこちらを向いた。両手に付けた革の手袋をキュッと引っ張りなおす。


「……ああ、なんだ。蟹澤と、例の特警の捜査官か。しかも大食い大会のトロフィーまで持ってるじゃないか。まとめて出てきて手間が省けたな」


 ――――こんなバカげた遭遇エンカウントにも、まったく驚く様子を見せない。

 目鼻立ちのスッと通った、彫りの深い、しかしどこか無個性に感じる顔。

 ゆるやかにウェーブした、赤茶色の髪。

 そして、態度、表情、声色――全身からだだ漏れになっている、厭世感――。

 僕はこの男を知っている。それはまさに、警察署で見せてもらった資料写真にあった須藤すどう 將臣まさおみ刑事そのものだった。

「――何だ何だ!? どうしたカイン! どうなってやがる!?」

 遅れてやってきた王先輩。息も絶え絶えで足を引きずっている。

「って、そいつ、須藤じゃねえか! 何で今ここにいるんだ!? どうなってんだ!?」

 うーん……自分でもよく分かってないから説明できないんですけど。

 混乱しつつも、とりあえず邪魔なトロフィーを脇に置いて、臨戦態勢に移る。須藤の視線は、さっきからもの欲しそうにジーッと蟹トロフィーに注がれている。……まさか、えっ? これ? ウソでしょ。

 それに気付いたハリヴァが、ダメもとでの投降勧告に踏み切る。

「……あのさぁ。このトロフィーあげるから、自首しない?」

「魅力的な申し出だな。……だが、お前達に勝利して奪ったほうが、もっと良い」

 あ、やっぱり欲しいんだ。でも、交渉は決裂。

 ――とにかく、ようやく役者は揃ったのだ。


 中途半端な季節の、中途半端な時間帯。土砂降りの中。町と町に挟まれた、橋の上で。

 おそらくは特警設立以上最もナンセンスであろう死闘が、幕を開けようとしていた――。






【蟹の行軍歌――ザ・クラブマーチ――】


 ――さて、どうしたものか。

 私の目の前には、敵が三人。

 ――眼鏡をかけた黒髪の青年、『カニづくし大食い選手権』チャンピオンのカイン刑事(なるほど、良い眼をしている)。

 ――黒いスーツを着た、銀髪の若い男(こいつは果たして特警関係者かどうかも疑わしい)。

 ――そして最後に、ふらつきながら日本刀を杖代わりにしている茶髪の毛ガニ……じゃなかった、怪我人(一体何しに来たのか)。

「可笑しな三人組だな。しかし、佇まいから分かる――彼ら三者とも、例外なく戦闘のプロであることが」

 私は隣りの〝整形屋〟に小声で忠告する。おそらくは敵全員が、気の抜けない相手であることに違いない。

「……おっと。あともう一人、蟹澤が居たか。しかしこの死にかけの小者は物の数に入れなくてもいいだろう。我ら蟹族の面汚しだ」

「ん!? 蟹族て何!? まさかその変な族、俺も入ってんじゃないよな?」

「…………」

「おい、なんか言えよ!」


 無論――私とて、戦闘で、彼ら特殊刑事ごときに後れを取るなどとは、思っていない。

 刑事時代――不規則な勤務形態の中でも、非番になると私は必ず水辺に出向き、泣きぬれながら蟹と戯れていた。そんな日々を過ごしているうちに、偶然にも川辺で、同じように熱心に蟹を観察していた謎のチャイニーズ老師――〝白眉和尚〟と出会うこととなる。

 老人の話を聞いてみると、どうやら蟹の動きをヒントに、拳法の研鑚を重ねているのだということが分かった。そのクリエイティヴな発想と研究心に甚く感銘を受けた私は、すぐさま意気投合し、彼とともに厳しい修行の年月を過ごすこととなった。

 ――地面に這いつくばって、食い入るように蟹を観察し、撮影し、スケッチし、動きを模倣した毎日。

 ――腰に三十キロの重りをつけ、河川岸や苔で滑る岩場を、上流から河口までカニ歩きで往復し続けたロードワーク。

 ――二本指だけで行う片手懸垂は、一日両腕交互に千回ずつ。このトレーニングで流派最大の基礎である「指の力」と、蟹の動きを倣う際に重要な広背筋や三角筋を鍛え上げる。

 ――その鍛えられた二本指で胡桃くるみを挟み、ひたすら殻を割り続ける「蟹手かにで」の修行。ついには小石程度なら軽く砕けるまでになった。

 ――そして、それら総ての基礎を集約するのは、河の流れに腰までどっぷり浸かりながら、老師と交わした激しい実戦的散打(組手)の数々。

 荒行の日々が、今は血肉となって、私の心・技・体を支えている。

 その末ようやく極めるにまで至った幻の拳法――『蟹型十六拳』。

 最強と断ずるに、いささかの迷いも非ず。


 ――この自信が揺らぐことは、微塵もない。

 それでもやはり、認めよう。「通常」であれば――目の前の彼らが、それぞれ一対一で戦うのならばともかく、一度に相手にするとなっては少しばかり厳しい者達であることは、間違いのない事実でもあった。

 だが、今はその「通常」とも違う。は確実に私の味方をしていた。

 ――そう、天候だ。

 降り注ぐ豪雨。

 この状況でなら、私の異能力は最高のパフォーマンスを発揮できる。なんと言っても、蟹の生存・繁殖には、水は必要不可欠なのだから。

 魅せてやろう。節足動物門甲殻亜門軟甲網真軟甲亜網エビ上目十脚目エビ亜目短尾下目蟹類という完成された種族を前に、いかに人間が無力であるかを――――。


「――――〝蟹群行軍歌ザ・クラブマーチ〟!!」


 軍靴ほきゃくの轟きは、軍歌うたとなる――。

 進め、轟け。

 行軍し、蹂躙せよ。

 同胞たちよ、我が眷属たちよ。

 今こそ、我らが忌む敵を、挟み、啄み、喰らい尽くせ。


 いくさの始まりを告げるラッパが意気揚々と鳴り響くがごとく、私は高らかに能力の発動を宣言した――。







(【修羅道】へ転ずる――)


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