『百鬼夜行』【玖】






【天狗礫】


 およそ深山幽谷の中にて、一ぢん魔風まふうおこり

 山なり谷こたへて、大石タイセキをとばす事あり。

 是を天狗礫ぐつぶてと云。

 左傳さでんに見えたるさうにおつる七つの石も

 うたがふらくはこれならんかし――――


(――鳥山石燕『今昔百鬼拾遺/雲』)




 【天狗礫】のエミリア・スティフナズは、標的ターゲットと充分な距離をとることができたことを確認し、隠し持っていた武器を取り出した。

 その武器とは、いわゆる「スリングショット」――簡単に説明すれば、子供が遊ぶ玩具の「パチンコ」を、実戦用に大きく強力にしたような射出武器だ。

 しかも、エミリアの使用するスリングショットは、通販で買えるようなただの防犯グッズもどきとは、訳が違う。オーダーメイドの特注品で、丈夫なカーボンセラミック製のフレームに、非常に反動の強い強力なゴムを使用している。拳銃に比べると殺生力は当然低いが、それでも金属球を人体に撃ち込み、肉を裂き、骨を砕く程度の威力はある。

 そして何より、彼女がこの状況でスリングショットという武器を選択したのには、きちんとした理由があった。

 まずは、拳銃のように銃声で居場所が割れないこと。銃器を用いれば、たとえ消音器サプレッサーを装着したとしても、発砲音を完全に消すことはできない。それに比べて、スリングショットは極めて静かに弾を射ち出すことが出来る。

 もう一つには、もし弾が無くなっても、そのあたりに落ちている小石などで、いくらでも代用が利くこと。山の中に隠れながら『跳弾』による攻撃を行うエミリアの戦法に、これほどお誂え向きの武器もなかった。

 また、彼女が兄ユリィの異能と連携を組んでいることも、この戦法とのさらなる相乗効果を生みだしている。

 現在、エミリアの脳内には、〝監視者の結界〟から送られてきた映像――離れて目の前にはいないはずのエリゼの姿――が、はっきりと映し出されていた。

「――うふふっ、そんなに焦っちゃってバッカみたい。こっちからはちゃあんと見えてるんだからね? エリゼ」


 〈◉〉━━ 必死に走って、自分のあとを追おうとしているエリゼの姿。それを、エミリアは分割された視覚情報のような形で受信している。


 彼女に提供されているその映像は、至るところに〈刻印〉された紅い目玉模様が〝視て〟いる映像だった。

 そして、エミリアの額にも、それらと同じ、紅い目玉模様が〈刻印〉されている。

 ――ユリィの異能、〝監視者の結界〟。

 この能力は、物や場所に設置して監視カメラの役割を果たすだけが使い道ではない。人の体に設置することによっても、いくつかの効果を発揮する。

 一つ目は、『受信』。これは触れた相手の「目」を盗む――――つまり、〈刻印〉を取り付けた相手が見ている視覚映像を、ユリィ自身が己のヴィジョンとして覗き見ることができるということ。

 二つ目が、『配信』。ユリィの見ている光景や、周りの目玉模様が集めてきた映像を、彼の脳を経由して発信し、〈刻印〉された人物に〝視せる〟ことが出来る。

 これらを応用することにより、ユリィは能力発動中、一度触れた相手との相互的な視界共有を可能としていた。いうなれば、「視覚情報の通信交換」――そのための受信機であり発信器でもあるのが、ユリィの生み出す真紅の目印アイ・マークなのだ。

 もちろん、相手が必要とする情報を素早く正確に選り分け、「データ」を送信するこの作業は、術者本人にかかる負担も尋常ではない。視覚情報の判別に特化し、高度な演算能力を持つユリィの頭脳だからこそ出来る芸当であった。エミリアに至っても、兄ほどではないにしろ、優れた思考速度で同時5チャンネルまでの視界受信と一斉把握を実現している。常人なら、その情報量と処理作業だけで脳の容量がパンクしてしまうだろう。

 ――実際、暇田の立案した幾つかの作戦の中にも、【牛蒡種】の邪視能力と【目々連】の視界共有を併用し、山中全域に展開した〈目玉模様〉すべてを大量の邪眼発射レーザー 装置として運用するという、無差別大量破壊マス・デストラクションコンボも存在したのだが、小玄間 穿の脳機能と精神力では複数同時の視界を並行処理できずに能力が暴走することが判明し、テストプレイ段階で早々にお蔵入りとなったのである。

 しかしそれも、スティフナズ兄妹に限っては話は別。肉親同士であることも関係するのか、非常に噛み合った効果のほどを、比較的安全に運用することができた。【天狗礫】の『跳弾自在』と【目目連】の『視界共有』――この素晴らしい異能のコンビネーションにより、エミリアは相手から見えない場所に隠れつつ、自分は安全な位置から好きなだけ攻撃を撃ち込むことができる。

「それじゃ、そろそろ狩りを始めようかしら――」

 犯罪者を狩るつもりが、逆に狩り立てらる側に回ってしまったこの状況、刑事たちは一体どう思っているのか。自分がこの能力を手に入れたときから、エリゼらの敗北は決まっていたのかもしれない。その皮肉と奇遇に、エミリアはほくそ笑む。なぜなら【天狗礫】とは、「山での狩猟を失敗させる、不吉の兆候」でもあるのだから――。

 彼女は金属製のベアリング弾をスリングショットに番え、奇怪な飛礫の狙いを澄ました。







 背中に二発、脇腹に三発、左足に一発、両腕に一発ずつ。

 ――この数分間で、エリゼの躰に撃ち込まれた金属弾の数だ。

 林の陰から、頭上から、背後から、あらゆる方向から、容赦なく〝天狗礫〟が降り注ぐ。

 防弾ベストのおかげでどうにか重傷はさけているが、腕や脚など、剥き出しの箇所に攻撃を受けたところは出血している。エリゼは、ベストに弾かれて地面に転がっていたベアリング弾を拾い上げた。

「このベアリング弾、どうやら櫓坂隊長に撃ち込まれていたものと同じ物のようね……」

 おそらく、櫓坂が襲撃を受けた際、エミリアとユリィも敵の側にいたのだろう。あの凄腕の櫓坂が、ほぼ再起不能の重体にまで追い込まれたのも、これで納得がいく。

「何よりこのフィールドと現在の条件下において、『跳弾』の異能はこの上なく噛み合っていると言わざるを得ないわ――」

 エリゼは正直なところ、〈の能力がこれほどの脅威になるとは、思ってもいなかった。原生林に生い茂る樹木は、パチンコ玉を跳ね返らせるためのオブジェクトにもなり、エリゼの行動と追跡を阻む障害物としても機能する。これではまるで、小人が稼働中のピンボールマシンの中に迷い込んでしまったようなものだ。

 辺りは暗く、敵の姿も見えず、弾の発射地点を割り出すことも難しい――――そのような状況で、跳弾の音だけを頼りに、スリングショットの射撃をぎりぎりで躱していくエリゼ。金属弾が、木々や岩、地面に跳ねるその音を、集中して聴き分ける。

 だが、【天狗礫】の異名をとるエミリアの攻め手は、そんなことだけで避けきれるほど、甘くはなかった。

 例えば撃つたびに跳弾の回数を変え、(先に撃った球が三回跳弾している間に、次の球は一回だけ跳弾させる――といった具合で)標的への着弾タイミングを前後させる、時間差攻撃テクニック。

 もしくは当てる気のない囮玉を使っての視覚陽動と、乱反射した着弾音による攪乱なども織り交ぜる、幻惑作戦。

 さらには、激しく跳ねるベアリング弾どうしを玉突きビリヤードのように衝突させることで発生する、非常に予測しにくい〈跳弾〉――。

 そうやって巧みにエリゼの意識の隙を衝き、死角から本命の〈跳弾〉で急所を狙ってくるため、〝天狗礫〟の動きを先読みすることは困難を極めた。

 ――しかし、飛礫の乱反射に確実に体力を削られてゆく中、エリゼはこうも考える。

「(いくら物理法則を無視した跳弾能力といっても、永遠に森の中を跳ね回っているわけにはいかないはず。跳弾回数には、おそらく限界がある――短い間隔で次々に弾を放ってくるのがその証拠)」

 その制限が判明したところで、彼女にとって劇的に有利になるわけでもない。それでも、跳弾回数が無限でないと分かっただけで、気休め程度にはなるだろう。

「(だったら今は少しでも被弾の確率を下げるため、足を休めずにとにかく動き回ることが重要――)」

 動き続けないことには〝俎上の鯉〟であり、「じっくりと狙いをつけて下さい」と言っているようなものだからだ。

 〝雌豹〟は疾走しながら、獲物の姿を捜す。足だけでなく、目も休ませない。相手は常にこちらから気付かれない距離を保ちながら、一箇所に留まらず次々と狙撃ポイントを変えているようだ。スナイピングの基本――居場所を悟らせないためだろうが、相当に用心深い。

「(それにしても不思議だわ……これだけ沢山の木に囲まれた離れた位置から、一体どうやって、正確に私の姿を捕捉しているのか……)」

 エリゼは素早く木々の間を縫うように走り抜けながら、そこらじゅうに光る紅い目玉――〝監視者の結界〟を睨みつけた。それらのひとつひとつから、「視線」のようなものが感じられる。この目玉模様があからさまに怪しいと、エリゼも思っている。

「(目のような模様……エミリアの躰にも同じものがあった。確かユリィの能力だと言っていたかしら)」

 ――自分の友人だった兄妹が揃って裏切り者に回ってしまったこの現状、エリゼは戦闘に集中することによって、必死にやりきれない心境を抑え込もうとする。

 それにしても、ユリィの能力はかなり広範囲に対応しているらしい。どうすればこの【目目連】どもの眼を消せるのか――エリゼは試しに、短機関銃をその模様に向けて、撃ち込んでみた。

 数発の弾痕で木の幹がえぐれ、目玉模様の浮かび上がっている樹皮表面を削り取った。すると、その模様が光を弱めて消えていく。

 どうやら目玉の印が刻まれている場所を破壊すれば、その部位の〈刻印〉は解けるらしい。

「一個一個潰していくのも、ひとつの手ってわけね」

 もちろん、この山中に設置された全ての〝監視者の結界〟を解除しようと思えば、彼女一人だけでは、弾数も時間も、圧倒的に足りていない。

 しかし。エリゼはそれでも、自分の周りの目玉模様を、片っ端から撃ち抜いていく。その間にも〝天狗礫〟の狙撃をいくつか胴体に喰らってしまうが、怯まずに連続射撃を続ける。

 ――エリゼの目的は、【目目連】の能力を封じることではなく、ことにあった。

 せめて己の半径数メートル以内、こちらに目を光らせている紅い紋章を全て撃ち壊し、「敵から覗くことのできないスペース」を作り上げる。

 エリゼの予想通り、自分の近くを取り囲んでいる〝結界〟を取り払っただけでも、さっきまで正確だった【天狗礫】の狙いが、随分と雑になった。

「やっぱり――あの紅い目印が、何らかの形でエミリアに情報提供をしていたようね」

 その確証を得ることができたエリゼは、しばらくこの安全なエリアに身を潜めることにする。

「(もしあの目が、全て監視カメラのような役割を果たすのなら――そして、ユリィがそれらを全て見張っているのだとしたら……。とてもじゃないけど見つからないように移動するなんて不可能だわ)」

 ユリィの持つ異常な視覚記憶能力――〈サヴァン症候群〉を、エリゼはよく知っている。実際にその仕事ぶりをの当たりにしたとき、ユリィは膨大な枚数の資料を床一面に並べ、それを一目見ただけで全て判読・記憶し、数秒もかからずに必要な情報を見つけ出していた。そのような「眼」を持つ相手が、たとえ一瞬だけでも監視網に写り込んだターゲットを見落とすことなど考えられない。

 だからと言って、ずっとここから動かないわけにもいかない――エリゼは考える。

 こうやって、目玉模様のない場所に隠れていれば、正確に位置を察知されることはない。だが同時に、その狭いエリア内にエリゼがいることは、相手にもばれてしまっているのだ。

 安全圏から出るに出られないエリゼの心情を分かってか、【天狗礫】の攻撃は先ほどから縦横無尽――より激しく、ランダムにエリア内を跳ね回っている。こうしておけばエリゼは動くに動けないし、どんなに逃げ回っても、いずれは弾が当たると踏んでいるのだろう。

 意を決して移動すべきか、それともここでこのまま耐えるべきか――迷うエリゼに、さらなる追い討ちがかけられる。

 跳弾回数の限界に達し、足元に転がってきたベアリング弾。その銀色に磨かれた球体面に、紅く鈍く――――発光する、眼。

「……やられたっ!!」

 気が付けば、辺りに転がっている鉄球にも、多くの『赤眼付き』が混じっていた。それらが、――。

 辣腕で知られる女副隊長にとっても、これは想定外だった。敵は【目目連】によって〈刻印〉された弾を用意し、「射出する偵察機」として使用してきたのだ。

「(居場所が、ばれ――――)」

 精密な狙撃能力を取り戻した鉄球が一瞬にして四発、エリゼの右肩、左乳房、下腹部、左耳下顎部に叩きつけられた。

 強烈な衝撃、強度の打撲。顎部にもひびが入った。口の中が切れたことで溜まった血を、エリゼはべっと吐き捨て、口元をぬぐう。

 彼女はUZIのマガジンに残った全弾をフルオートで吐き出した。地面に撃ち込まれた弾丸が、〈刻印〉付きのベアリングを弾き飛ばし、土埃と枯葉をもうもうと巻き上げる。一時的な煙幕効果。この短時間に、逆転の手を打つ。

「やってやろうじゃないの――」覚悟を決めたエリゼは、低く、小さく転がって、再び居場所を悟られないように。木の根元で地に伏せる。

 彼女は伏射姿勢でUZIを構え、撃ち尽くした弾倉を交換。木の陰から顔と銃口を少しだけ覗かせた。そこから見える【目目連】の刻印に、照準を合わせる。紅く光っているのが文字通り「目印」となり、暗闇の中でも狙いを付けやすい。それらを近い位置から順に撃ち抜き、掻き消していく。

 〝結界〟の消えた位置に反応し、【天狗礫】の弾がそちらに引き寄せられる。敵はどうやら、追い詰められたエリゼがブラインドエリアから打って出て、その方向に〈刻印〉を撃ち消しながら移動していると思ったようだ。

 ――――陽動作戦の成功。

 エリゼは弾の尽きかけたマガジンのリロードも後回しに、すぐさま跳ね起きる。しなやかなネコ科の動物を思わせる動きだった。

 黒影が素早く動き、煙幕の外に飛び出した。

 当然のごとく、〝監視者の眼〟は、それを見逃さない。周囲に無数にちりばめられた【目目連】の「眼」は、瞬時に黒影を発見。その異常を〝飛礫の射ち手〟に知らせる。

 見事な連携だった。新たに射ち込まれたベアリング弾が、一斉に黒影を貫く。

 しかし――あっという間にずたぼろにされてしまった黒い影――そこにあったのは、エリゼが着ていた黒いロングコートだけだった。

 陽動に次ぐ陽動――まずは目玉模様を排除することにより【天狗礫】の狙いを一箇所に引き付け、乱反射による攪乱を一時的に無効化する。その後、囮としてコートを投げ捨て、それに反応した敵が新たに送り込んできたつぶての弾道を「観察」する。これこそが、エリゼの作戦だった。

「(よしっ――)」

 スティフナズ兄妹の常人離れした反応速度、動作の正確さ、完璧な連携――それらを逆手に取った策が見事、実を結んだ。

 今度の〝天狗礫〟はイレギュラーに咄嗟に反応しての狙撃だったため、これまでと違って跳弾回数も少なく、エリゼはベアリング弾の跳ねてきた方向を逆算し、敵の大まかな位置を割り出すことができた。

「右手前方、約百五十メートル先……!!」

 今度こそ本当に、特攻を仕掛ける。黒い雌豹は、全速力で駆け抜けた。

 飛礫が幾つも連続でヒットするが、エリゼは歯を喰いしばって痛みに耐えた。前屈みになり短機関銃のフレームで顔面と急所を防御しながら、躊躇なく突き進む。

 天狗のように気配を断ちながら、じわじわと相手の体力を削る――その武器選択が裏目に出た。スリングで射ち出される金属球程度では、エリゼの決死の特攻を止めることなど出来ない。

「なっ――どうして!!」

 茂みに隠れていたエミリアが、驚いて立ち上がった。エリゼは迷いなく自分のほうに向かって来ている。

「くっ!」

 ――真正面から堂々と弾を飛ばしても、躱される。エミリアは〝天狗礫〟を二発、地面に向かって素早く射ち込んだ。

 ゴム球のように跳弾したうち一発が、エリゼの右手に当たり、手の甲の中手骨を砕いた。握る力が入らなくなり、マシンガンが地面に落ちる。さらにもう一発が、エリゼの左膝を直撃した。

 膝の皿が割れて、関節部に激しい痛み。走ることのできなくなった躰が、急速な停止に耐え切れず、転倒する。

 両者の距離はおよそ二十メートルまでに迫っていたが、エリゼの足はそこで止まってしまった。彼女は攻め切ることができなかった。

「……まったく、冷や冷やさせてくれるわ。もうちょっとだけ近付ければ勝てたかもしれないのに、残念だったわね、エリゼ!!」

 【天狗礫】がスリングショットのゴムを引き、指を離す。ひゅっと音がしたかと思うと、金属球がエリゼのこめかみに喰い込んだ。血が飛沫になって弾けた。

「あうっ……!!」

 エリゼは頭部を押さえて苦しみながらも、左手に残ったUZI機関銃を相手に向け、引き金を引こうとする。

「のろいわよエリゼッ!!」

 その瞬間、銃口の中に飛び込んできたベアリング弾のせいで、エリゼの機関銃は暴発させられた。エミリアがスリングショットの精密射撃により、銃口をピンポイントで狙ってきたのだ。

 銃砲身内で弾薬が炸裂した衝撃で、UZIは後方に飛んでいってしまう。砕け散った銃身の破片が、エリゼの左手を傷付けた。

「これでようやく落ち着いて狙えるわ」――エミリアはスリングに次弾をつがえる。

 とどめのベアリング弾を引き絞る彼女は、なぜか少しばかり悲しそうな目をしていた。

「さよなら、エリゼ――」

 別れの言葉のともに、彼女がスリングショットから弾を発射させようとした――その時、それは起こった。


 〈◉〉━━━━〝白〟。


「――っああ……つ!!」

 急にエミリアの視界が真っ白に塗り潰されて、何も見えなくなる。

 比喩表現でも何でもなく、文字通り、彼女の目の前は。まるで閃光弾でも喰らったかのように、強い光に包まれた。

 だが、この場に強い光など発生していない。もりの中は相変わらず暗いままで、その強力なフラッシュライトは、エミリアの視覚の中だけで発生したものだった。

 突然の視力消失とその驚きで、スリングショットの狙いが大幅に逸れる。

 エミリアの身に何が起こったのか、エリゼにも把握できていない。

 それでも、今この状況で考えられる可能性は一つだと、彼女は判断する。ユリィの【目目連】――視覚共有機能に何らかの支障が生じたに違いない。何せ、周囲を埋め尽くしていた、あれほどの数の目玉が、この一瞬で全て消え去ってしまったのだから。

 雌豹と字される女刑事は、その隙を見逃しはしなかった。

 流血している左手で、落ちている短機関銃を拾う。二挺のうち、暴発させられたほうではなく、さきほどまで右手に持っていて、取り落としたほうの機関銃だ。

 エリゼは短くトリガーを絞る。短連射の弾丸が疾(はし)り、敵の利き腕――前腕部から肘・二の腕・肩と、登るように叩き込まれた。

 目も見えず、武器も使えなくなってしまった異能者【天狗礫】は、銃弾を受けてよろめき、尻餅をつくように崩れ落ちた。完全に戦力を失い、無防備な状態だ。

 そこに、エリゼが片足を引き摺りながら、ゆっくりと近付いていく。エリゼはしゃがみ込んで、エミリアの肩を掴んだ。

 エミリアは目をつぶったまま、びくりと怯えた。まだ視力が回復していないらしい。

「大丈夫、もう銃は持ってないから。怖がらないで」エリゼは優しい声で言った。そして、破いた衣服でエミリアの腕を縛り、止血をしてやる。

「なんで……」

 つい先ほどまで裏切り者【天狗礫】として戦っていた異能者は、敵だった女刑事のその行為に、驚きを隠せないでいた。

「いいから今は大人しく降伏して、ね? 山を下りたら病院に行きましょう。そのあと、なんでこんな事をしたのか、ゆっくり聞かせてちょうだい――」

 ――友達なんだから。

 エリゼが最後にそう付け加えたのを聞き、エミリアは何も答えず、しゃくり上げるように泣き出した。

 エミリアのこんなくしゃくしゃの泣き顔を見るのは、エリゼも初めてだった。思えば、文武両道、才色兼備、完璧すぎるゆえに学業や仕事での失敗も、歳相応の失恋や人間トラブルさえも経験してこなかった、自信とプライドの塊のようなこの友人が、彼女に涙を見せてくれる機会など、今までにただの一度だってなかったのだ。

 それが今は、まるで泣きじゃくる三歳児のように。

 昔から、頭は良いのに、どこかずっと子供みたいな友人だった――とエリゼは思う。

 親も、教師も、大人たちも。誰も、優秀すぎる彼女を「育てる」ことなど出来なかったのだろう。成長をやめてしまったエミリアの心は、同じく「異端」を共有する唯一の家族である、兄だけを頼りにしていたに違いない。

 守っているふりをして、依存していたのは彼女のほうだったのだ。


「……バカな子。本当に……バカなんだから……」

 諭すように呟いて、エリゼはそっと、幼い友人の頭を抱き寄せた。







 ――鎮守のもりに挟まれた参道。

 苔むし、灯も点さぬ石燈籠が、ずらりと並ぶ。

 原始的な深緑しんりょくに埋もれて連なる石造人工物。それらが織り成す幻想も今、夜の間はただ深いやみに沈む。

 本殿から大鳥居までを繋ぐその林道は本来、日が暮れてしまえば足下も覚束ぬ暗闇のはずであった。

 しかし今は、役目を放棄した石燈籠たちに代わり、名状しがたき紅い光が「目玉」の形をもってして、不気味に暗中を照らしている。

 こびり付いた思念。妄執の目。

 目目連が、視てゐる――。



 現在、〈視線の結界〉と化した参道には、高速で動き回る三つの人影があった。

 人影のうち二つは、特殊刑事の二人――カインと王。

 そしてもう一人は、〝百鬼夜行〟の異能者――【目目連】ユリィ・スティフナズ。

 ユリィの足が、しなるように変則的な動きで振り上げられた。コンバットブーツの背足が、カインの太腿に叩きつけられる。続いて反対足のミドル、再び蹴り足を変えてのハイへと、澱むことのない三段蹴りが炸裂する。

 両腕を交互に使ったエルボーブロックでどうにかガードできたカインだが、反撃を差し込むことは出来なかった。

 ユリィの足技は、旧皇都支部の合同訓練で見た時よりも、一段とキレを増している。スピードとパワー、そして精密機械のような完璧なタイミングとコントロールが同居している。その実力は、幾多の実戦経験で培われてきたカインと王のコンビネーションですら、全く寄せ付けない。


「強えな、こりゃ……」

 しこたま蹴りをもらったものと思われる王が、口もとから垂れていた血を親指で拭い飛ばした。

 踏み込みからの居合抜きを放つも、ユリィには切っ先をしっかりと目で捉えられ、鼻先ギリギリ、紙一重の見切りで躱されてしまう。

 この〈目の良さ〉こそが、ユリィの強みだった。単純な動体視力や反射神経だけではない――サヴァン症候群による異常な「集中力」と「分析力」が、ミリ単位での見切りを可能にしている。

 無論、その〈目の良さ〉が役立つのは、防御や回避の時だけに限られたことではなかった。

 居合の刃を振り切って、わずかに隙の生じた王の躰。そこを見逃さず、完全な死角からユリィの蹴りが入り込んでくる。腹部に、つま先で内臓をえぐられるような、強烈な蹴りをお見舞いされた。

 常に動きの先を読まれ、ガードが間に合わない位置、タイミングで繰り出される攻撃。わずかな隙間を通すように、足技が急所へと差し込まれる。

 これらの的確な攻めも、彼自身の〈目の良さ〉に依存したもの。

 ユリィの慧眼は、サヴァン特有の「観察眼」と「学習能力」の賜でもあり、彼は相対した敵の弱点や攻防時のクセを、ごく短時間の戦闘で見抜くことが出来た。このスキルは、相手の動きの先読みや、防御の隙を探す時にこそ、最も真価を発揮する。

 そして。

「集中力」「分析力」「観察眼」「学習能力」――異能を使わずしても、これらの才覚だけで充分に戦闘のエリートたり得るユリィだったが、そこに彼の異能〝監視者の結界〟が加わることによって、さらに手が付けられないほどの強さが引き出されていた。

 カインは、王が攻撃を仕掛けていたのと同時に、ユリィの背後に回り込み、リボルバーで銃撃する。敵には見えない位置からの銃撃だったが、弾は掠りもしなかった。振り向きもせず、難なく避けられてしまう。

 そのままユリィを中心に半円を画く軌道で走りながら、残った弾も撃ち込んでいくが、まるで当たらない。カインは滑り込むように足を止め、王の隣に並ぶ。

「ダメですね。背後からの奇襲も死角からの攻撃も、全く通用しません。ヤツから見えないはずのアイコンタクトもなぜか読まれて、裏を掻かれてしまうし、小細工を弄する暇も与えてくれない……」

 確実に〝視られて〟いる――カインはそう思った。

 敵は先ほどから、360度全方位、普通なら知覚できないはずの攻撃に対しても、正確無比な反応を見せつけている。マルチアングルな視点からカインたちの動向をつぶさに監視しているとしか考えられない。

「だとしたら、怪しいのは――」

「どう考えてもあの気色悪い目玉どもだよな」

 カインと王は、無数の紅いエンブレム――〝監視者の結界〟に支配された空間を見渡した。張り巡らされた、視線の包囲網。二人とも、同じ結論に至ったらしい。

「どうやらあの目のようなマークを貼り付けた場所から、視覚情報を収集しているようですね」

「今までにも知らぬ間に覗き見されてたのかと思うと、ぞっとしねえ……」

 〈刻印〉はぼんやりと光って見つけやすいため、普段なら目立つ場所には設置できないのが難点だが、この混戦極まる状況ならそんなことは気にせず、心置きなく大量展開できる。つまりこの戦闘の間、特警側の行動は裏切り者の【目目連】に筒抜けだったというわけだ。

 そしてユリィの戦いを見ても分かるように、彼の異能は近接戦闘においても大きな利点となる――。


 警戒しながら敵との距離をはかる、王とカイン。カインのリボルバー弾倉はカラ。取り急ぎスピードローダーでの装填を行おうとするが、異能者【目目連】は遠慮なく攻め込んできた。

 王の迎撃。横薙ぎの刀。

 ユリィは背面跳びの要領で白刃を飛び越し、王の脳天にオーバーヘッドキックを打ち落としつつ、超人的運動神経で宙返り。中空で身を捻った勢いを利用し、着地のタイミングで虎尾脚(後ろ蹴り)を突き出す。

 蹴りは、王の横にいたカインの胸板を打ち穿った。声にならない悲鳴が、吐息と共にカインの口から洩れた。

 ユリィはそのまま、刑事の刀の間合いの内側に滑り込む。この距離では、斬撃が使えない。王は柄打ちで応戦。手刀受けでユリィが止める。奇襲的に真下から、突き上げられる膝。膝蹴りは至近距離でこそ有効な攻撃手段だが、特にユリィのような長身の者が使うとなると、尚更それは脅威となる。ほぼ密着状態の見えない死角から、簡単に顎まで突き上げられる膝は、一撃で勝負を決めかねない。

 ほとんど頭だけで仰け反って、顎先数ミリのところでギリギリに躱す王。しかし、外れた膝蹴りはそのまま、軸足のひねりと屈強柔軟な体幹によって、強引に軌道修正。斜め上から打ち降ろされる、まるで「膝のハイキック」とでもいうような蹴りへと変貌を遂げる。

 上段、腕を掲げて頭部をかばう王。下から受け止めた瞬間、ずしん、と重い打撃がのしかかり、みしり、と骨が悲鳴を上げた。

 よろけて片膝つきそうになった王に、ユリィは逆の足でさらなる加撃。今度はミドルキックのようなフォームで打ち上げる、打点の高いムエタイ式膝蹴り――「テンカオ」。王道にして基本でもある、この真っ当な膝蹴りも、並外れたリーチと高さを持ったユリィにとっては充分に必殺級の技となり得る。

「うぐっ……!!」

 肋に膝蹴りテンカオをもらいながらも、すぐさま反撃に出る王。諸手握りで鍔元をぶつけるように相手を押し離し、横に振り抜いた刀を、続けざまに諸手での刺突へと変化させる。

 だが、ユリィは刀身の腹を撫でるように払って、するりと切っ先の向きを逸らしてしまう。「円」の動きをした、中華拳法の化勁だった。

 化勁の逸らしから、袖を掴んで引き込むように王の躰を手繰り寄せ、半ば密着状態から器用にも顔面へのハイキックを繰り出す。

 王は掴まれた袖を振り解きながら頭を下げ、敵の蹴り足を潜ってユリィの後ろに回る。その回避動作から攻防一致の回転斬りで、背後から斬り付ける。同時に、カインも装填を済ませたリボルバーで加勢。

 ――これまた後方死角から、二方同時の奇襲だったが、【目目連】には通用しない。

 今度はユリィが頭を下げてやり過ごす。すれすれに刀と弾丸が空を切り、ユリィの美しく透き通った銀色の髪が幾本か、はらり、と宙を舞った。

 刹那。ユリィも回避動作と連動し、上半身を前に倒した状態からの、右――上段後ろ廻し蹴り。王がスウェーバックで躱すが、迷いなく連続する敵の攻撃に、次の一手、遅れをとる。

 ユリィは蹴りの遠心力のまま後ろのカインを蹴り飛ばし、王に向き直る。そして左飛び膝、右ハイ、蹴り足を引き戻してからの右前蹴りへと、足技のコンビネーションを繋げていく。

 死角を〝視抜く〟ユリィの攻撃は、巧みに王の防御をすり抜ける。膝蹴りは頬に叩き込まれ、ハイキックでは刀を蹴り飛ばされ、前蹴りがへそ下の丹田を突き上げる。

 刀を失った王は徒手空拳での反撃に出るが、その連打でさえも、捌きに特化した敵の手法ショウファーで、全て受け流されてしまう。

 王が連撃のフィニッシュとして、両手での双拳打を打ち出す。馬形拳――正拳を二つ、横に並べた形での諸手突きだ。

 同時に突き出される二つの拳に対し、ユリィは太極図を画くような両手の動きで内側から逸らし、無効化する。そして外側に向かって開かれたユリィの両手が、自然な流れで王の首に伸びてきた。

 掴まれる――。ムエタイの首相撲だ。

 中華拳法の捌きから、スムーズにムエタイ技へと移り変わるその一連の動きに、王は意表を衝かれる。

 ユリィは相手の首の後ろでがっしりと指を組んで、王を捕まえた。その状態から何度も膝蹴りチャランボを腹に叩き込む。加えて首相撲で相手の躰をさんざんに揺さぶり、振り回し、巧みに位置を変えては、再び怒涛の膝打ち。そうして最後はよろよろになった王の躰を、首投げで放り出した。

 ユリィが基本的に使う格闘技は、「サバット」と呼ばれるキックボクシングスタイルの護身術だが、サバットには近距離での肘打ちや膝蹴りを使う技が無く、また、足や脛を使って相手の蹴りを防御することも少ない(革靴やブーツを履いて戦うことを前提としたサバットでは、靴に仕込まれたナイフなどを警戒するためである)。

 その短所を補うために彼が修得したのが、タイ発祥の立ち技格闘技、「ムエィタイ」による肘・膝・脛の運用テクニックだった。

 今見せたような首相撲や、肘や膝などの攻撃こそがムエタイの真骨頂であるが、中でも何より恐ろしいのは、脛である。ムエタイ選手は、ビール瓶でひたすら脛を叩く、コンクリート塊を蹴り続けるなどして、脛を徹底的に鍛える。鍛えに鍛えた強固な脛を利用した蹴り、そして防御は、攻防一体の武器となる。――当然、これらの修行をユリィも行っていた。


 ――その過酷な修錬の果てに手に入れた恐ろしい脛を、ユリィは思い切り振り抜くように蹴りつける。

 鋼鉄のような足が、王の脇腹を捉える。さらに、とどめだと言わんばかりに――肘。脳天に叩き下ろされる。

 王は防ぐこともできず、額から血を流した。

 グロッキーになっている王を前蹴りで突き離し、カインのほうにぶつける。カインは吹っ飛んできた先輩刑事の躰を、慌てて受け止めた。二人は一緒に重なって、背後の石燈籠に叩きつけられる。その瞬間を狙って、ユリィが接近した。刑事二人の首をまとめて蹴り折ろうとする。

「うっわ……!」

 カインは急いで王を横に突き飛ばした。そして自分も身を屈めて、その殺人的なハイキックをやり過ごす。

 蹴りは石燈籠に直撃。年季が入って苔むしていた燈籠は見事に粉砕され、派手に地面に転がされた。

 ゾッとしながらもその隙に横へ逃れようとするカインだが、その動きを自動追尾するかのように、ユリィの足からムエタイ式のリーチの長い左ローキックテッカー・サイが発動。カインが跳び上がって避けると、空振りしたユリィのローが、今度は隣りの石灯籠を根元から叩き割った。石の塔は、ガラガラと下から崩れ落ちる。

 その威力を見て、カインは改めて戦慄し、ごくりと唾を飲み込んだ。足の筋力は一般的に腕力の三倍あると言われている―—殊、鍛え抜かれた格闘技者の蹴りの威力には、想像を絶するものがあってしかるべきだろう。しかしそれを差し引いても、ユリィの足技の破壊力は異常と言わざる得なかった。

 一体、何年間に及んで血の滲むような訓練を続けたのか、想像もつかないほどの業前わざまえ。蹴りのひとつひとつに、尋常ならざる思いが込められている――そんな気がした。

 それもそのはず―――—〈サヴァン症候群〉による驚異的な集中力で、複数の格闘技と拳法をまるで水を吸い込むスポンジのように吸収してきたユリィ。そのうえでなお彼は才能に溺れもせず、一日たりとも休むことなく、取り憑かれたかのように鍛錬に没頭してきたのだ。様々な技術を高い水準で修めることが出来た彼の強さは全て、異質の才能と、膨大な努力の積み重ねによって、確かな裏打ちをされたものに他ならなかった。

 それほどの使い手を相手に、近距離での格闘戦に持ち込まれてしまったことを、カインは悔やむ。

「くそっ……!!」

 拳銃を突き付けようとしても、手の平ですいと逸らされてしまう。

 ユリィは体の内側にももを引き上げ、そこから膝を支点に半円を画くような軌道のアウトサイドキックを振り上げる。「内廻し蹴り」だ。カインがわずかに上体を引いて躱すと、ユリィの足が目の前を通過し、一瞬だけ、目隠しとなった。

 その隙に、ユリィがさらなる牙を剥いた。足技ばかりに気を取られ、カインのガードは疎かになっている。

 裏をかかれたその一瞬のうちに、ボディに左右二発のフックと、顎先へのアッパーカット、そして顔面への掌底を貰ってしまった。パン、と頬を打つ掌底の軽快な音。

 ユリィの手技は完全な牽制用であり、小手先のスピードこそ速いが、威力はさほどでもない。だが、相手を怯ませ、足技で仕留めるまでの繋ぎとしては、充分過ぎるほどの性能だった。回避の暇など、与えない。鍛えられた鋼のような脚から繰り出されるミドルキックが、カインの脾腹ひばらに喰らい付いた。

「……オエッ!」

 カインが嘔吐えづいた。張り込み前に食べた和風おろしハンバーグ弁当が、酸っぱい液とともに食道を上がってくるのを、なんとか我慢する。

 そこへ、立ち上がった王が、飛び蹴りで乱入してきた。

 だが、ユリィは不気味なほど深く上体を反らして躱す。まるで、予期していたかのように――。無数の「眼」を従える【目目連】に不意討ちをかけることは、不可能だ。

 カインは先輩刑事の奇襲に合わせ、フットワークを使って敵の側面に回った。胴体の正中線を隠すために身を屈めつつ、両腕で頭部を守る――ボクシングのピーカーブスタイルのような構えで、高速に接近する。

 刑事二人組が、同時にユリィの前に立った。

 カインの低い姿勢のラッシュから、すくっと起き上がっての上段廻し蹴り。王がその下にもぐり込むようにしゃがみ、下腹と金的、脚部を狙う拳打の連環打。続けて敵の足元を払おうとするカインの水面蹴りを、王は巻き込まれないように跳び上がって回避しながら、自身は飛び後ろ廻し蹴りでユリィを攻撃する。

 ――上下段同時攻撃、抜群のコンビネーションで攻め立てるカインと王だったが、ユリィは相変わらず涼しい顔のままだ。それどころか、【目目連】としての能力を使い、目をつぶりながら相手の攻撃をいなしていくユリィ。その正確で素早い動作は、淡々と作業をこなす精密機械を彷彿とさせる。特殊刑事たちの攻めの手を、一打も被弾すること無く、捌き、躱し、受け止めていく。

 余裕の表情で猛攻を受け切ったユリィは、右つま先でカインのレバーを蹴り込み、軸足をクイと返す動きで体の向きを変え、そのまま右足で刈り蹴り気味のサイドキックを王の腹部にお見舞いする。

 ガッ! ガッ!

 テンポよく打ち込まれた二面蹴りが、刑事達を蹴散らした。まともに喰らった二人は、よろけて後ろに下がる。

「(おかしい。回避の精度も攻撃の精度も、ここにきてますます上がって来ている――)」

 カインはそこで、あることに気が付く。王のうなじが、紅く光っているのを。

 目を凝らしてよく見てみると、そこには、参道を挟む木々や石燈籠にあるのと同じ、目玉の形をしたマークがあった。

「先輩、その、首の後ろ……」

「あ?」と振り返った王。だが、彼もカインの顔を見て驚いた。

「お前、何だその目玉模様は?」

 カインの右頬を指差して、王が言った。

「え?」

 ――カインの頬にも、同じように目のマークが刻まれ、鈍い光を浮かべていたのだ。

「ようやく、気が付いたか……〝監視者の結界〟で

 異能者ユリィ・スティフナズが、ぼそりと口を開いた。軽く手を広げた彼の手の平には、カインたちに刻まれ、そしてこの山中を埋め尽くしているのと同じ、紅い目のエンブレムが光っている。

「この手で触れたものには……全て、【目目連】の『眼』を取り付けることが……出来る。〝刻印〟だ」

 ユリィはたどたどしい口調で続ける。

「……モノに〝刻印〟された『眼』は全て、己の目と同じ役割を……果たす。そして生き物に〝刻印〟すれば……その者が目で視ている光景を、生中継のように……『視る』ことも可能……」

「なるほど、先輩には首相撲の時、俺のほうにはさっきの掌底打で、それぞれマーキングを済ませていた――というわけですか」

「格闘時に『相手がどこを見ているのか分かる』ってことは、それ即ち心を読まれているのにも等しい。こっちの狙いが筒抜けになっちまうのも必然だよな」

 道理でほいほいと避けられるはずだぜ――と、王。

「同時にオレたちが『見ていない』、もしくは『見えていない』場所も分かるってえことだから、死角を探して攻撃するのも簡単だったってわけだ――」

 そう、ユリィの攻防の技巧を飛躍的に上昇させていた秘密は、【目目連】の〈視界共有能力〉にあったのだ。

 ――そして、〈視界共有〉の応用法は、これだけではない。

 ユリィが大きく足を振り上げ、蹴りかかる。

 刑事二人組は、その大振りのキックを察知し避けようとするが、突如、姿

「――これは!?」

「――どうなってやがる!?」

 二人は困惑した。

 正確に言えば、ユリィが消えたのではなかった。さっきまで見ていたのものとは違う映像が、彼らの目に飛び込んできたのだ。カインと王の目には、ここではない、「林の中のどこかの光景」が映されていた。

 異変はほんの一瞬の間だけで、彼らの視界はすぐに元に戻った。しかし、わずかとはいえこのタイムロスは、ユリィの攻撃を前に、致命的なものであると言わざるを得なかった。

 カインは頭に強い衝撃を受けた。ユリィの蹴りだ。

 しっかりと認識できたのは、最初の一撃のみ。そのあとは、もはやどこをどう蹴られたのかも分からなくなる、蹴撃の弾幕。

 圧倒的な手数――否、足数と言うべきか――カインと王は多段蹴りで滅多打ちにされ、最後には二人の後頭部に左右二足、軽く跳び上がっての落下を付加された、重いブーツのかかとが連続で降り落とされた。

 ドガッ、ゴヅッ。――明らかに、人間の頭からはしてはいけない音がした。鈍器のような重量が、分散することなく攻撃箇所にダメージを与えた音。

 それでも、二人は倒れなかった。敵の攻撃が見えずとも防御を固め、急所への強打だけは免れ、なんとか意識を守り抜く。

 連撃が途切れた頃合いを見計らい、後ろに跳んで、ユリィと間合いをとった。

「くそ、今のは一体……」カインは眼鏡のレンズ下に親指を差し込み、目をゴシ……とこする。

 先ほどの一瞬、カインたちを幻惑した光景。あれは一体何だったのか――。

「お前も見たか。どうやら錯覚や幻覚――ってわけじゃあなさそうだな」と王。

 もはや虫の息といったところのカインと王に、ユリィが答えてやる。


「〈視界共有〉――〝監視者の結界〟から送られてきた映像を……お前達の目に


 無数の「目」に囲まれた参道――その中央を堂々と歩きながら、カインたちに詰め寄る。

「普段は……仲間への情報提供手段として……使っている能力だ。ヴィジョンを拒絶する相手には……一瞬だけしか〝視せる〟ことが出来ないが、あのように使えば……攪乱程度にはなる」

 ――つまり、「〈刻印〉された相手に視覚映像を送ることができる」という能力を利用し、視界をシャッフルさせたというわけだ。一時的に相手の視力を奪うのと同等の効果があり、そのうえで別風景を見せ混乱させる、凶悪な技だった。

 ただでさえ、格闘技術の差に加え、異能によりこちらの視線は相手に読まれ、攻撃は当たらず、死角も衝かれ放題。そのうえで、このような搦め手までも行使してくるとなると、もはや手が付けられない。

 カインは相手の接近を妨害するため、リボルバーを発砲するが、【目目連】に盗まれた己の視線から弾道を読まれ、難無く躱されてしまう。至極当然――的を狙い撃つ時に、弾を当てたい場所を見ないなどということは、不可能なのだ。ユリィはとってそれは、どこに飛んでくるのか分りきった弾に当たらないよう躰を動かすだけの、簡単な作業である。

「……野郎、まるで豆鉄砲でも相手してるみてえに涼しい顔して避けやがる」

 弾を避けながら悠然と近付いてくるユリィを見て、王は歯軋りをする。

「あの異能と、天性の集中力、そして動体視力に反射神経――いくら撃っても当てられる気がしません」

「畜生、これじゃ刀も拾いに行けねぇ……!」運の悪いことに、蹴り飛ばされた王の刀は、ユリィを隔てて遥か向こう側に落ちている。

 じりじりと後退しながら、カインたちは追い詰められる。

「組手の時も驚かされたが、まさか、ここまで強えとはな……。能力だけなら、ただの出歯亀覗き野郎なんだが……」

「見事に異能を使いこなしてますよね。そのうえ、ユリィさんは格闘技だって超の付くくらいエリートだ……」

 〝監視者の結界〟の働きは、情報収集や偵察だけにとどまらない。異能者【目目連】としての能力はユリィの生まれ持った資質と共鳴し、強力なシナジーを生み出している。彼は決して直接戦闘向きとは言い難い己の異能を、自らの才能、そして鍛え上げた格闘術を融合させることにより、見事、戦いのツールとして昇華させていた。

 使う者の資質によって、異能とはこれほど恐ろしいものに成り得る。逆にいえば、【牛蒡種】の穿が使っていた異能〝穿視の邪眼〟も、非常に強力な能力だったが、使用者がお粗末だったせいで真の威力を発揮できなかった最たる例だろう。それは、先日の異能軍団や、今日戦った百鬼夜行の面々にも言えることだった。


 異能の、使い方――――――。

 カインは先ほど自分たちが倒した異能者のことを思い出しながら、はっと気が付いた。


 敵の〝眼〟は、ありとあらゆる場所からこちらを見張っている。ならば――。

「王先輩、俺が奴を食い止めます。その間に先輩は……――――――――」

 敵に悟られないよう、カインが小声で何かを話す。

「ああ?」

 その内容を聞いて、王が「なんだそりゃ?」と呆れた声を上げる。

「……何っつうか、よくもまあそんなバカバカしいこと思い付いたな……」

 だが、確かに今はそれしかないか――そうぼやきながら、王は背を向けた。

 カインの指示に従い、突如、全速力で参道を走り出す王。それも敵に向かってではなく、自分たちが来た方角、境内の中心方向に向かって――である。

 余裕を見せていたユリィも、王の迷いのない走り方を見て、これは只事ではないと思ったのか、急激にスピードを上げて追おうとする。

 その道を、カインが塞いだ。

 一瞬でスピードローダーでの装填を済ませ、銃撃に移る。ガンマンの早撃ちのような速射を喰らわせる。

 ユリィは全力で走りながら、ステップを踏むように銃弾を回避していく。半身を引く足運びと体捌きで敵の攻撃を躱す、中華拳法の「三才歩」「反三才歩」と呼ばれる歩法。そして、「八卦掌」の〝円〟の動き。――それらを高速で用いているユリィは、まるで華麗な舞を披露しているかのようだった。

 外れた銃弾は、参道を挟むように林立している木々に当たって、湿った木片を撒き散らす。そのうちの一発が偶然、ユリィの能力〝監視者の結界〟の〈刻印〉を、粉々に撃ち砕いた。

 撃たれた場所にあった目玉模様が消えたことに、カインは目を付ける。

「(なるほど、マーキングされた場所を破壊すれば、能力が解除されるのか――)」

 そのことに気が付いた彼は、迷うことなく、自分の右頬に取り憑けられた〈刻印〉を引っ掻いた。べりべりと皮が剥がれるくらい、思い切り爪を立てて、手を引き下ろす。

 血が流れ、その赤に洗い流されるように、皮膚の表面にあった〈刻印〉も消える。

「…………」

 ユリィは無言だった。多少驚いてはいたが、もともと、感情を表に出すほうではない。そもそもこの程度では、自身の絶対的優位が揺らがないことを、彼は理解していた。

 もちろん、カインもこれしきでは気休め程度にもならないことを、重々承知している。今は少しでも長く時間を稼ぐために、敵の有利になる要因を一つでも多く排除しておきたかっただけである。

 敵はすぐ眼前に迫ってきた。胸に膝がつくくらい高く足を掲げた、ムエタイ式の前蹴り。カインは両腕を門のように顔面の前で閉じ、ガード。強靭な足腰から繰り出される前蹴りは、足の裏で突き押すように、カインの躰を数メートル後退させる。

 ユリィがさらに踏み込み、跳ぶ。飛び後ろ廻し蹴りの一種、ローリングソバット。だが、跳び上がって上段を警戒させておいたその大技は、意表を衝いて変則的な軌道を画き、下段――カインの膝を踏み砕くように繰り出される。

 フェイントに釣られてガードを上げたままだったカインだが、慌ててその蹴りを手で打ち払い、凌ぐ。

 着地したユリィの額に銃口を突き付ける。が、手の甲で押し流すように方向を逸らされてしまう。狙いを変え、さらなる至近距離射撃を連続で行うも、背手受けからぴったりと吸い付くように離れないユリィの手が、巧みにカインの射線をコントロールし、弾丸は一向に的中する気配を見せない。き手のほうで打ち込んだストレートやフック、下突き。それらも手刀、背刀、掌――あらゆる受けで遮られ、ユリィまでは届かなかった。

「(『推手』――これが、先輩も言っていた太極拳の〝化勁〟か)」

 なるほど、何時間攻め続けたとしても徒労に終わりそうだ――戦意さえ削がれるほどの、圧倒的な防御性能。

 苦戦するカインに対し、ユリィは両手を手刀の形にして前へ押し出すような構えで、カインに正対したまま素早く側面に回る。「八卦掌」の歩法だ。

 その独特な歩法、時計回りの動きから、惑わすようにステップを踏み変え、逆回りの左後ろ廻し蹴りに繋げる。

 ――ガツン!

 カインのこめかみにヒット。

 その後ろ廻しから次の右ローキックへと繋げ、膝を狙うユリィ。こうやってコンビネーションの中に自然な流れで膝関節の破壊を織り交ぜてくることろが「サバット」の恐ろしさだ。カインは脛を上げて、ローを受け流すカット

「せあっ!」

 左、右のワンツー、そして右肘振り上げ。三連撃で反撃するカイン。

 ユリィは右腕の鶴手(折り曲げた手首の、手の甲側の骨を使う、空手などに見られる手型)と腕刀でワンツーを捌き、両手を手の甲どうしが触れるように重ね合わせ、手の平で、カインの肘を上から押し止める。そのまま手の平でグイとカインの肘を押し下げつつ、連動する動きで自分の右肘を、相手の肩へねじり込むように打ち下ろす。

 強く肩の付け根を打たれ、カインの腕がじんじんと痺れた。力が入らなくなり、手から拳銃が落ちる。

 さらにユリィの左肘がカインの顔面に、右肘があばらを、そこからまた左肘が反対側のあばら骨を砕く。立て続けに打ち込まれるパンソーク(ムエタイ式エルボー)の連打。

 その全てをまともに喰らってしまったカイン。最後にダメ押しで、回転しながらの肘鉄が彼の顎をひしいだ。

 カインは意識を失いそうになった。だが、今寝たら本当に殺されてしまう。奥歯で舌の端を噛み切って、その激痛で気付けをする。

 ユリィは容赦せず、とどめにかかった。

 跳躍から、一挙に繰り出されるのは、顎への膝打ち上げと、脳天への肘打ち落とし。それらが同時に、虎のあぎとのように相手の頭蓋を挟み込む――必殺の絶技である。

 カインは敵の肘膝でサンドイッチされてしまう前に、頭頂部と顎下に腕を置いて、その恐ろしい牙から逃れた。まともに喰らっていたら死んでいたかもしれない。

 だが、大技が防がれてもユリィは全く慌てない。打ち上げた右膝を支点に、膝から下の下肢が90°回転。その足は空中でミドルキックに変わって、カインの脇腹をえぐる。さらに一瞬で引き戻し、右前蹴り。これはカインの胸板にヒット。そこからタイミングよく左足が振り上げられ、今度は左前蹴りが腹にめり込む。同時に右足が着地。軸足へとシフトチェンジした右足に捻りを加え、左足を斜め上から叩き下ろすようなハイキックに変化させる。首筋を完璧に捉えた。

 強力、迅速、的確にして変幻自在――その足技に為す術なく翻弄される。

 たまらずバックステップで仕切り直そうとするカインを、ユリィは逃がさずローで追撃。サバット式のローキックは躰ごと軸足も回して打つので、相手と正面向かって至近距離で放つようなローキックと違い、リーチが非常に長い。特にユリィの長い脚からは、後退しようと逃げきれるようなものではなかった。

 足首を、つま先で横からくじかれる。動きが鈍ったところへ、さらに反対足での踏み蹴りが襲う。

 サバットにおける下段前蹴りシャッセバ――かかとでの下段攻撃は、北派中華国術の「斧刃脚」にも似る。斜め下に真っ直ぐ突きだされるストンピングのようなサバットのそれとは違い、「斧刃脚」はつま先を横に寝かせた状態で、相手の脛へ伐採の斧を打ち込むように踵で踏み折る。ユリィは、ちょうどそれらの中間のような形と軌道での踏み押し蹴りを好んで使っていた――そもそもが中華回族ムスリムの「十二路弾腿」などから蹴りの技術を取り入れているサバットは本来より、中華武術との相性が良いのだ。

 ユリィの踏み蹴りは、完全にカインの足を止めた。もしカインが咄嗟に足を引いていなかったら、弁慶の泣き所から真っ二つに折られていたかもしれない。

 カインはついに、地べたに這いつくばるほど追い込まれた。それに比べ、特警刑事二人を相手にしていたユリィは、掠り傷ひとつさえ負っていなかった。肉弾戦における絶望的な戦力差が、そこにはっきりと表れていた。

 もはや、あとは息の根を止める作業のみ――そう思って、ユリィは先ほど逃げ出した王のほうを確認する。

 しかし――――

「ユリィ、そこまでだ!!」

 王の叫び声が響いた。

 見てみれば、王が数十メートル先で、異能者を一人、人質に取るような形で拘束していた。先ほど参道でカインたちに襲い掛かり、返り討ちにあって気絶していた異能者連中の一人だ。王にかつを入れられて目を覚ましたのか、その異能者は必死になってじたばたと抵抗している。

 王は鉄拵の鞘で首を絞めるように、異能者の動きを封じ込めている。このまま顎下を鞘で押さえながら捻りを加えれば、てこの原理で簡単に首の骨を折れるという形だ。

 異能者【目目連】は、感情のない目でその様子を傍観していた。

「なんの……つもりだ? 人質など……通用しない」

 殺すなら殺せと言わんばかりに、冷酷な目をしている。彼にとって、大量に湧いて出る使い捨ての構成員の生死など、どうでもいい事柄のようだった。

 しかし、王はニヤリと口の端をつり上げた。

「ほう。お前さんには、この男がのか――」

 得意気にそう言ってから、自らが拘束している異能者の耳元に顔を近付け、一言二言、耳打ちする。

 王が何を言ったのか、当然、ユリィには聴こえなかった。だが、人質の男は助かりたい一心か、猛烈な勢いで首を縦に振った。完全に抵抗力を奪われたうえで、屈強な刑事がドスの利いた声で脅してくるのだから当然か。

 そして王は一度だけカインに向かって頷いてから、張り裂けんばかりの大声を上げた。


「今だ――――――――――――――――!!!!」


 ――それは、作戦通りの合図だった。

 ユリィはそこで初めて、人質の異能者に目をやった。

 彼の記憶力と情報処理能力は、ほんの一瞬で、その男の名前と能力を導き出した。

「しまっ……」

 だが、もう遅かった。

 真っ白な閃光。

 辺りの全てを覆う怪光が、ユリィの視界を満たした。

 王がカインの指示で叩き起こしてきたのは、つい先刻、菅原と戦って気を失っていた男――【鬼火】。ストロボフラッシュのように発光する能力を持つ異能者だ。その能力を、光源として利用した。王は異能者を人質に取っていたのではなく、無理矢理能力を使わせるために、脅していただけなのだ。

 即座に目をつぶって、白光の直視を免れたユリィ。その反応速度は、まさに超人と呼ぶにふさわしいものだった――――しかし。周囲には〝監視者の結界〟により、彼の「眼」が無数に設置されているのだ。それら全てとのリンクを瞬時に遮断することは、不可能だった。

 【目目連】自身の能力が、様々なアングルから〝視た〟膨大な光量を、一気に彼の脳へと送り込んでくる。異能者【鬼火】の、我が身可愛さに全力で発した失明級の光は、ユリィの視覚に関する全ての機能を、一時的にシャットダウンさせた。

「ぐっ……うぉおおおおおおお!!!!!!」

 ――精密な眼と繊細な頭脳を持つユリィにとって、それは耐え難い苦痛だった。

【鬼火】の光が治まると、周囲の目玉模様――〝監視者の結界〟は、まるでまばゆい朝日に掻き消される怪異のように、綺麗さっぱりと消えて無くなっていた。それは術者に与えられた精神的ダメージが凄まじいものであることを意味していた。

「み、見え……エミリア……見えない」

 盲いたユリィ・スティフナズは、妹の名を口にしながら、よろよろとした足取りで彷徨う。しかし、彼は数歩も歩かないうちに、どん、と何者かにぶつかった。

「――!?」

「どこへ行く気ですか――?」

 声の主はカインだった。

 カインが、ぼろぼろの肉体を酷使しながら、ユリィの前に立っていた。

 刑事二人組は打ち合わせ通り、合図と同時に目をつぶって【鬼火】の閃光をやり過ごしていたのだ。

「あんなに沢山の目、開きっぱなしじゃ、さぞや疲れたでしょう――」

 胸ぐらを掴んで、ユリィの躰を捕まえる。

「――とりあえず、休んどいて下さい」

 立つのもやっとの足で、カインは、頭を振りかぶった。力の限り、倒れ込むように、叩き込む。渾身の、ヘッドバッド――。

 ユリィの彫刻のように整った顔の、鼻っ柱のど真ん中に、クレーターを作る勢いで思いきり額がめり込んだ。

 ユリィが格闘者となってから、今まで一度も受けたことがなかった、顔面へのクリーンヒット。その一撃は、ユリィの鼻骨と上顎を砕き、意識まで完全に刈り取っていった。

 敵が大きく地べたに倒れ込むのを見て、満身創痍のカインも、緊張の糸が切れたかのように崩れ落ちた。刑事二人は、疲れた顔を見合わせる。

 王はついでに、【鬼火】の延髄に当て身を喰らわせて、もう一度気絶させておく。

「きゅうっ……」と唸って、発光異能者は再び眠らされてしまった。

 ユリィに手錠をはめてから、カインが王のほうに歩み寄った。

 王も「よっこらせ」と立ち上がる。

「しかしまあ、上手くいったもんだな」

「やはり〝目〟を潰すには強力な光を使うのが一番かと思いまして。それで、菅原さんが闘っていた時、その男が楽しそうに自分の能力を語っていたのを思い出したんですよ」

「あれだけの数の目ん玉に同時に閃光弾喰らわせたのと同じだからな……ユリィにとっちゃ、普通の人間が喰らった時の何十、いや何百倍もの威力だったんじゃねえか? しょうもない作戦ではあったが、よくよく考えると恐ろしい――」

 王は少しばかり気の毒そうな顔で、気絶しているユリィのほうを見ていた。

「彼が言うには、あの能力で〝視た〟視覚映像は、〈刻印〉された仲間にも中継して送られていたそうですから、ひょっとしたら今ので他の連中も一網打尽にできたかもしれませんね」

 ユリィは最悪で失明、そして〝監視者の結界〟で繋がっていた他の者たちも、一時的に視覚が機能しなくなる程のダメージを負ったはずだ。

「やれやれ、えげつねえこと考えやがる……」

 溜め息をつく王。

 これでようやく一段落――そう思って二人が山を下りようと歩き出した時、彼らの懐から『ざざざ……』とノイズ音が聞こえてきた。

 どうやら暇田の異能で使えなくなっていた無線機が、復旧したらしい。

 スピーカーからは、エリゼの声が聞こえてきた。

『王! カイン君! 無事!?』

 王が無線を手に取り、応答する。

「ああ、無事だ。異能者として敵サイドに内通していたユリィを確保。これから山を下りて菅ちゃんらと合流するつもり……」

 しかし、もの凄い剣幕で、王の言葉が遮られた。

『その菅原君たちよ! 大変なの、急いで――!!』

「おいおい、一体どうしたって……」

『菅原君が警察病院で、いきなり明満さんと櫓坂隊長を、銃で撃ったらしいの! 明満さんは重傷、櫓坂隊長は死亡。そのあと、彼は医師数名と警備班数名を射殺して逃亡したわ――』

 王はその報告を聞き、絶句した。

 カインも驚きを隠せないでいる。

「そんな、菅原さんが……」

 しかし、既にユリィとエミリア――特警のうちから二名の裏切り者が出ているのだ。決してあり得ないことではない。

「そういえば、菅原さんはここ月読分社にも妙に詳しかったですが、まさか――」

 思い返してみれば、暇田たちの嘘の取引を読唇術で解読し、ここ月読分社に特警隊員たちを導いたのも菅原であり、また、彼だけこの混戦の中、あれだけの異能者に襲われながら、大した怪我を負っていなかった。

『とにかく二人は至急、病院に向かって、他の捜査班と合流して。私は残ったみんなと、ここの後始末をするわ』

「「了解――」」

 ぐずぐずしている暇はない。

 カインと王は急いで山を下りるため、階段を目指し、参道を駆けていった。






(【拾】へ続く――)

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