『百鬼夜行』【陸】
※
【
(――南方熊楠『十二支考』)
真夜中の百鬼夜行――終わらないように思えた異形の行列にも、いよいよ最後尾が見えてきた。
群がる能力者たちを片っ端から打ち倒す刑事三人。
カインは銃撃と格闘、王は剣術と体術、明満はおもに合気のような投げから柔術的関節破壊や絞め落としへと持ち込み、異能犯罪者たちを制圧していく。
敵はほとんど総崩れといった様子で、このまま壊滅させられるのは、もう時間の問題に思えた。
ところが――――
「ぐぁあっ!!」
突如、王の悲鳴が響き渡った。
見ると、王が苦しそうな表情で、地べたに跪いている。息荒く喘ぎながら、胸板から出血するのを手で押さえていた。
「畜生、油断したぜ……っはぁ……」
数メートルほど離れた所にチンピラ風の男が立っていて、王を見下ろしている。さきほどまでは見かけなかった顔だ――かなり目立つ格好をしているために、百鬼どもの中に混じっていてもすぐ分かる。
「王先輩……!!」
カインはすぐに助けに行こうとしたが、次の瞬間、右手に持っていたリボルバーが、何か強い衝撃で弾き飛ばされた。
この真っ暗闇の中、茂みの中に消えてしまった拳銃を探すことは不可能に近い。一体何を当てられたのか、じん……と痛む手首は、なぜか水で濡れていた。
「オイオイオイオイオーーイ!! 遅れて登場してみればナンっかトンデモないことになってっけどよォー、どうやらちーっとばかしオレらをナメてたようだなぁ、オマワリさんよぉ!!」
ソフトモヒカンのように髪を逆立てた不良少年が、狂気を含んだ濁声で叫んだ。その頭髪は発色の良い黄色とオレンジに染め分けられており、ゴツゴツした髑髏や目玉の指輪など、ファッションセンスもろとも、いかにもチーマーのリーダーといった出で立ち。
さらに彼の後ろにも、新手の異能者らしき男が二人、立っている――。
一人は、髪を水色に染めて、派手な眼鏡をかけた、若い男だ。エナメルのシルバージャケットを着て、白黒の
もう一人は、体長4メートル以上はあろうかという坊主頭の大男で、ガチガチに隆起した筋肉だけで構成された岩山のような上半身をむき出しに、下半身にはプロレスラーのような伸縮性のスパッツ。中身の詰まっていると思われるドラム缶を、まるで仏像――巨大な燈籠を背負わされる鬼の像――天燈鬼像のように軽々と肩に担ぎ、仁王立ちしていた。
「――ゴンボダネさん!!」
「カメオサさん!」
「大入道さん――!!」
自分たちのリーダーとその側近の名を、口々に叫ぶ異能者たち。強力な援軍が現れたことにより、著しく士気の低下していた敵勢も鼓舞され、いくらか体勢を立て直している。
「うるっせえなカスども! オレ様をそのカッコわりい名前で呼ぶなっつってんだろ!!」
仲間をカス呼ばわりして怒声を撒き散らしたあと、彼は再び王に視線を戻した。
「……情報係潰して勝った気になってんのかもしんねえけどよぉ、こんくらいでいい気になってんじゃねえぞ? この『百鬼分隊』を率いる
自ら「ウガツ」と名乗ったその男は、どうやら現在カインたちが戦っている集団の、リーダー格であるらしい。なんとも分かりやすそうな、チンピラらしい性格だった。
穿により怪我を負わされた王は、とにかくまず、立ち上がった。傷口近くの点穴を指で突いて、出血を止める。彼は人体のツボを押さえることにより、止血や毒抜きを行う
カインが先輩刑事のもとに駆け寄った。
「先輩、その傷――何かに撃たれでもしたんですか!?」
どうやら胸板に穴を開けられているらしい。穴の直径は2センチほど、深さはそれほどでもない。
しかし銃声なども聞こえていないうえ、相手は無手である。何かしらの凶器か飛び道具でも使ったのだろうか。
「いや、あの野郎は何の武器も使っちゃいねえし、オレに触れてすらいない。奴と向かい合っただけで、いきなり穴を開けられちまった」
――触れてもいない相手に傷を付ける。聞くだけならかなり手強そうな能力だが、カインはそのような手合いとの戦闘経験がまったく無いわけでもなかった。
「おそらくは、呪術系――」
「くっちゃべってんじゃねえぞ、オラァアッ!!」
そうこうしている間に痺れを切らした穿が、カインのほうに視線を向けて一喝する。
その瞬間、王は先ほど自分に向けられたのと同じ「見えない殺気」を感じ取り、後輩の前に身を呈するように飛び出した。
「――あぶねえっ!!」
己の正中線の前に刀を置き、敵の「殺気」を受け止めるように身を守る。
穿の能力が発動した――。
王の刀は、触れられてもいないのに、ひとりでに、ぽっきりと折れてしまう。
「くそっ、 室町の古刀が……っ!!」
王は自分の躰に穴を開けられた時よりも、幾倍も悔しそうな苦渋の相を呈していた。彼にとって戦友とでもいうべき愛刀が御臨終してしまったのだから、仕方ない。
「せ、先輩……俺のせいで、すみませんっ!!」
申し訳なさの極み、といった表情のカイン。王は折れた刀を構え直しながら「おう! まったくだ!」と投げ遣りに叫んだ。
「……お前の給料から鍛冶屋代天引きしとくからな、カイン!」
「ちょっ! そこは『気にするな、刀より後輩のほうが大切だ。ほんの少しな』とか言って感動させるとこじゃないんですか!?」
――などと言っている場合ではなかった。
もちろん、敵である穿は、そんなやり取りは無視して、更なる「殺気」を次々と飛ばしてくる。
相手の目線と殺気を読みながら、カインと王は不可視の「それ」を上手く躱していく。
「まあ、刀の修理代云々はとりあえず置いといてだな……さっき、見えたぜ」
「どうでした?」
「まず刀身に穴が開いた。キリで開けたような小さな穴だ。それがどんどん広がっていって、ポッキリ逝きやがった」
王が素早く屈んで「それ」を避けると、彼の後ろにいた異能者の眉間に、無慈悲な
「(やはり呪術系の能力とみて間違いない……しかも、この一瞬で対象との間に条件を成立させる能力となると――)」
敵の挙動をよく見ながら、カインは拾い集めたヒントをつなぎ合わせる。
まず、能力の発動は、必ず相手の「視線の先」に起こっているということ。また、一度の発動ごとに、必ず一度は「瞬き」をはさんでいること――。
カインはそれらの情報から、穿の能力を看破した。
「〝邪視〟か――!!」
〝邪視〟――〝イヴル・アイ〟〝マロキオ〟梵語では〝クドルシュチス〟。俗に『魔眼』や『邪眼』などと呼ばれる能力群の総称であり、文字通り、視線で呪いを掛けることだ。本来〝邪視〟とは世界各国に伝承が残っているほどポピュラーな呪術であり、そのことはつまり、人類にとって普遍的に、「視線」というものが、「視られる者」に対してどれほど強く影響を及ぼすものなのかということを、如実に物語っている。
「お前の異能は、対象を『見る』ことで発動する。傷害範囲から考えるに、おそらくは視線の先――焦点の合った場所を削り取るような能力……!!」
カインの放った言葉を受け、チンピラ風の邪眼師は派手に高笑いした。
「ハァーハッハッハ!! その通りだ!! よく分かったなぁ、睨みつけただけで風穴開けっちまう、このオレ様の〝
穿は得意げに、己の眼球を指差した。もっと正確に言えば、〈自分の目で凝視した場所〉が、〈掘削孔のような痕を残して消滅〉してしまう――それが、この不良少年の能力なのだ。
「――――『穴が開くほど見つめる』ってのはまさにこのコトだよなぁ! ヒャハハハ!!」
邪視の効果には「見られると死ぬ」「不幸になる」「病に罹る」「石化」という恐ろしいものから、「魅了される」「金縛りにあう」「幻惑」「洗脳操作」「対象の未来や過去、秘密を覗く」といったものまで、様々な類型がある。しかし、穿のように直接怪我を負わせたり無機物を破壊するようなタイプの邪視は、その中でも特に珍しい部類に入るだろう。それはもはや、視線に乗せて直接ぶつける害意、殺意、破壊衝動――そう言い換えてもいいかもしれない。
ちなみに穿が能力名に挙げている〝サリエル〟というのはクルス教の天使の名である。サリエルは高位の天使でありながら邪視を持ち、視線のみで相手を傷つけ、害することができたという。神話や伝承で挙げるのなら、他にも魔王バロール、バジリスク、コカトリス、カトブレパス、メドゥーサ—―――邪視を持つとされる魔物や怪物の類は多く存在する。
「ま、〝サリエルズ・アイ〟っつう名前はオレ様が自分で勝手に付けたんだけどよ――もともとオレの先祖は飛騨の奥地に住んでた〝ゴンボダネ〟っつう、いわゆる『憑き物筋』の家系らしくてよぉ。ダッセぇ名前だよなぁ? 聞いた話じゃ、なんでもそこに産まれる女は皆、邪視持ちだったってハナシだぜぇ? オレ様に強力な邪視能力が発現したのも、きっとそういう血筋が理由だったってワケよ!! ぶっはは!!」
異能の力に酔っているのか、よほどハイになっているのだろう。頼まれてもいないのに、穿はべらべらと喋ってくれる。
そんな風に調子に乗っているリーダーを、水色髪の男が諫めた。
「――穿、油断するな。相手はかなり強いぞ。これだけお前の攻撃を避け続けたやつは今までいなかったし、百鬼分隊のメンバーもほとんどやられっちまってる。遊んでないで、さっさとトドメを――……」
「チッ、うるせえなぁ【瓶長】ァ!! んなこたぁ分かってんだよ!」
怒鳴りながら、穿が指示を出す。
「
リーダーの指示に従い、【瓶長】こと速水 流清は明満に、そして【大入道】の大男が王に向かって、それぞれマンツーマンで強襲をかける。
明満の前に躍り出た流清は、ジャケットの内側から二本のペットボトルを取り出し、両手に持った。
「くらえ――」
親指ではじくようにフタを開けたその刹那――明満は躰の数箇所に突然の打撃を受けた。パパパン! と音がして、何かを高速で叩きつけられたような衝撃。明満の躰に痛みが走る。よくて打撲傷、下手をすれば骨にひびが入ってもおかしくないほどの威力だった。
――流清はずっと離れた位置にいる。おそらく、何かを飛ばしてきたのだろう。
明満は、地面に飛び道具らしきものが何も落ちていないのと、そして攻撃を受けた箇所が濡れているのを見て、確信した。
「水ですか――」
高速で叩きつければ、水の塊でも、ガラスを楽に砕き割るくらいの威力は出せる。流清はペットボトルの中の水を、小さな水球状にして拳銃弾並みの速度で撃ち出してきたのだ。
異能者【瓶長】――水使いの流清。彼は派手なライトグリーンの眼鏡のフレームを、ボトルを持ったまま中指と親指でクィッと押し上げた。
「フッ……たかがH2Oだって、なかなかバカにできないもんだろ?」
笑みを浮かべたまま、たたみかけるように連続で水球弾を飛ばしてくる。
明満は、足元に倒れていた気絶中の異能者を、襟首を掴んで引き起こした。その躰を盾として使い、水球を防ぐ。
パン! パン! と弾けるような音の嵐。やがて、攻撃が止む。
相手の手持ちの水が切れたことを確認してから、明満は走り出した。接近しようと試みる。
流清は空になったペットボトルを捨て、腰のホルダーから、プラスチックの水筒――スポーツタイプのスクイズボトルを手に取った。
「ボケたジイさんめ――接近戦なら勝てるとでも思ったか!?」
叫びながらキャップを外し、水筒を強く圧迫し水をひり出すようにしながら、腕を振り抜く。
明満は危険を感じて素早く横に動いたが、躱しきれず、頬がパックリと割れて血を噴き出した。
「『水圧カッター』ってヤツさ……なかなかの切れ味だろ? 工場で使われてるウォータジェット切断機とかだと、金属だって真っ二つにできるらしいぞ。俺のは簡易的だから、そこまでの威力は無いけどな」
得意そうにニヤつく流清。
遠距離では水球の弾丸で攻撃し、近~中距離の相手には水圧の刃で切りつける――それが水使い【瓶長】の戦い方らしい。
老刑事は敵の手元、腰のホルダー、ジャケットの中にもまだ隠しているであろうボトルのことを考える。そして、公園の池のほうにも目を移した。
「水を操る能力……しかしどうやら、己の持ち運べるだけの水量にしか、効果を及ぼせないようですね。あれだけ豊富にある池の水を使わない、そしてわざわざ幾つもの容器を携帯しているのが、その証拠――」
「なんだ、バレたか。まあ、だからどうって事もないけどな」
【瓶長】――水の動きを自在に操作する能力であるが、ただし、『自分の所有物と認識している容器に入っている水』しか操れない。
なので、流清は、王と交戦している大男に向かって叫んだ。
「オイ! 【大入道】――!!」
【大入道】は先ほどから、ドラム缶をハンマーのように上から振り下ろして攻撃していた。満タンまで中身を満たしたドラム缶の重さは200kg以上――その重量が、ごうと唸りを上げて叩き下されるのはまさに圧巻だ。
大男の粗暴で強烈な攻撃は、周りにいる異能者たちまで容赦なく巻きこんでいた。叩き潰され、薙ぎ払われ、一撃で戦闘不能になってしまう「その他大勢」たち。
王はどうにかその攻撃に当たらないよう動き回りながら、様子見に回る。もし一発でも貰ってしまえば、その時点でゲームオーバー。そのうえ敵の躰は筋肉の重装甲でおおわれており、斬り込んでも果たしてどれだけのダメージを与えられるのか、未知数だった。
だが、「オイ! 【大入道】――!!」 仲間の呼ぶ声に気付いた【大入道】は、突然に攻撃を中止した。そして、武器として使っていたそのドラム缶を頭上に担ぎ上げたかと思うと、「むぅん」と唸り声を上げながら、砲丸投げのように投げ飛ばした。
放物線を描き、うまく垂直に落下したドラム缶が、凄まじい轟音をたて、流清の前に降着した。
――【瓶長】速水流清が、その円筒形の金属缶に駆け寄った。それは天蓋が金属バンドで固定されており、そのバンドを外すことによって蓋を大きく取り外すことのできる、「オープンヘッドドラム」というタイプのドラム缶――。
上部に取り付けられていた固定バンドが、引っぺがされる。
「内容量200リットル。だいたい狭い風呂と同じくらいの水量だ――」
丸蓋を大きく開け放った流清が、缶の
「――さあ、
文献によっては、妖怪【瓶長】とは古い水瓶が九十九神(付喪神)となって化けたものであり、水を自在に操る妖力を持つのだ――とも云われている。それを模した、速水 流清の能力。
逆巻き立ち昇った大量の水が、まるで意思を持って呑み込むように、明満の躰に覆い被さった――。
「ミチハルさん!! 大丈夫か――」
王が助けに馳せ参じようとしたのを、【大入道】の巨大な手の平が遮る。
掬い上げるような、特大の張り手。王の躰が、はるか後方に吹っ飛ばされた。
「(――あのデカブツ、なんて力だ……!!)」
吹っ飛ばされるがままに公衆便所の壁面に背中を打ちつけ、「かはっ」と血を吐く王。そのまま、どさりと地面に落ちる。
ずん、ずん、と地響きを立てながら向かってくる巨人を見上げながら、どうにか立ち上がろうとする。
「畜生、完璧に油断してたぜ。今まで見てきた肉体強化系の中でも、これほどのタマはそういねぇ――……」
【大入道】――その能力は至極単純。筋肉と骨格を肥大化させ、巨体と強大なパワーを手に入れること。
まるでアメリカンコミックの超人ハルクみたいだ――と王は思った。
その膂力と肉体はもはや、「筋骨隆々の大男」などといったありきたりの形容で表せるものではない。例えば「巨大な筋肉の塊が服を着ずに歩いている」とでも言ったほうが、よほど正しそうなくらいだった。全身はおろか顔面までもが筋肉に侵蝕されているせいで、発達しすぎた眼輪筋と
無言で眼前まで迫ってきた敵は、みしみしと
王が横に転がって回避すると、後ろにあったトイレの壁が、粉々に蹴り砕かれた。まるでトラックでも衝突したかのような威力だ。
「うぉ、やべえ……とんでもねえな」
ガラガラと崩れるコンクリートの壁を見て、王は胆を冷やした。
彼はふと仲間のことも心配になって、後輩と老刑事のほうにちらりと目をやった。
カインは、穿の〝穿視の魔眼〟を、大きく回り込むように走ることによって、何とか回避しているようだ。
一方の明満は、大量の水に上半身を包まれ、溺れるようにもがき苦しんでいる。
「(まずいな――オレが助けにいくまで、何とか持ちこたえてくれよ……)」
とはいえ、行く手を塞ぐようにそびえるこの大男を倒さない限り、仲間のもとに向かうことは出来ない。
「こんな大入道相手に、折れちまった刀じゃ、どうにも心許無えが……」
王は敵の巨躯と、自分の刀を見比べる。先ほど、穿の能力で折られてしまったせいで、余計にリーチが短くなってしまっている。【大入道】の圧倒的巨体を目の前にすると、なおさら頼りない――まるで針か爪楊枝でも持たされている気分だった。
「……ええい、泣きゴト言ったって始まらねえ。ここはひとつ、一寸法師よろしく小さな針で鬼退治としゃれこむか……!」
覚悟を決め、ちゃき、と諸手持ちで柄を握り直した。
ゴツゴツした、まるで隕石のような打ち降ろしストレートが降ってくる。王は深い片脚屈伸で紙一重に躱しつつ、敵の腕が伸びきる瞬間を見切って、〝上段霞〟から〝柳〟の構えへ流すように、手首の動脈を斬り付けてやった。
分厚い肉にスパッと切れ込みが入り、そこからブシュウ、と血が噴出する。
だが、【大入道】がぐぐっと力を込めるようにこぶしを握り込んだ途端、傷周りの筋繊維が不自然に盛り上がって創傷部を圧迫し、あっという間に傷口が塞がってしまう。
それは治癒能力でもなければ、自己再生能力でもない。筋肉の増強と肉体操作による強引な力技――。
「(オイオイ、動脈斬りつけても効果なしかよ……)」
などと、驚いている暇もなく――今度は地面を抉り取らんばかりの勢いで巨拳のアッパーカットが襲ってくる。王は迫り来るこぶしの先を踏み台代わりにし、下から打ち上げられる勢いを利用して飛び上がった。躰に回転とひねりを加えながらの伸身宙返りで、【大入道】の肩を飛び越す。その途中に、天地真っ逆さまの状態でアクロバットな回転斬り。
――首筋を狙っての斬撃だったが、これも有効打にはならなかった。
「(頸動脈のほうも、ぶっとい筋肉で覆われてやがるみたいだな――)」
敵後方の死角に着地する王。【大入道】は振り向きざまのバックハンドブローで薙ぎ払ってくるが、王は地に伏せてやり過ごした。
体表面への斬撃が効果薄となれば、もう狙える場所は限られてくる。王は気が進まなかったが、敵に最後の忠告をしてやった。
「おい、うすのろドでか入道。今降参するならお前さんは死なずに済むが――――どうする?」
【大入道】はその言葉に、一瞬、「理解できない」というような顔をした。相手に有効な攻撃手段はなく、しかも怪我人で、一撃さえ決められれば自分の勝利――そのような絶対的優勢にある【大入道】にとって、王の忠告などハッタリにしか聞こえなかっただろう。
彼はバカにしたような
「ウウウゥオオォォオオオオオォオオオオオオオオオオ!!!!」
巨人の咆哮――それは勝利の雄叫びのつもりだったのだろうか。
それこそ、王の待っていたものだったとも知らずに。
王は後ろには下がらず、敢えて前に出た。スレッジハンマーをすり抜けて巨体の懐に潜り込み、手に持っていた壊れ刀を、敵が大口開けているその真っ只中に突っ込んだ。
刃は口内の上部――硬口蓋に突き刺さる。
勝った! ――王はそう思ったが、口の中に刃が突き刺さっているにもかかわらず、敵の動きは止まらなかった。
「(浅かったか――!?)」
予想外のアクシデントに、思わず舌打ちを漏らす。
口蓋に張り付いた肉の向こうには上顎骨が存在するため、刀は最後まで突き刺さらずに途中で止まってしまったのだ。
だが、ここで焦ったのは王一人だけではない。この戦いで初めて生命の危機を感じた【大入道】にも、もはや余裕など一欠片も残されていなかった。地面に叩き下ろした両手の指をほどき、今度は両腕を広げて、ベアハッグで王を抱き殺そうとする。
敵の懐深くに踏み込んでしまった王に、逃げ場はない。
――死んでたまるか。
極限の集中力と一瞬の判断が、彼の生死を分けた。
王はまず相手の膝に足を掛け、そのあと、でこぼこの腹筋と胸板を素早く駆け昇った。壁蹴りバック宙の要領で、自分を締め殺そうとする巨人の
――通常なら顎を打ち上げているはずの蹴りだったが、この時の王の狙いは違った。蹴りは、口蓋に突き刺さっている刀の柄尻に打ち込まれたのだ。つま先で思い切り蹴り上げられた刀身は、【大入道】の上顎骨と脳髄、そして頭蓋骨のてっぺんまで突き破る。
宙返りする王の両足が接地するのと、絶命した敵の巨体が崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
まるで風船がしぼむように縮んでいく、【大入道】の
それがこの男の正体だったのか、もしくは強大な能力の反動だったのかは、分からない。
王は死体に背を向けて、苦戦している仲間のほうへと駆け出した。
――――老刑事明満は、巨大な水球の中で、もがき苦しんでいた。
水は【瓶長】の異能によって、上半身をすっぽり納めるようにまとわり付いてくる。大量の濁り水が、明満を溺死させようと、容赦なく口や鼻の穴から侵入してくる。
「ごぼ……ごぼ……」
「――さて、何分もつか。見ものだな」
速水流清は、ゆったりとドラム缶の縁に肘を掛けながら、腕時計に目をやった。もはや余裕の見物を決め込んでいる。
……時間こそ掛かるが、やはりこの方法が一番確実。本来ならガソリンや、強酸性の液体などを操ることが出来れば手っ取り早いのだろうが、彼の能力は液中の異物や不純物が多ければ多いほど、流体操作の精度が著しく下がってしまう欠点がある。そのせいで、容器に釘やパチンコ玉を入れて水圧で打ち出す、といった芸当も難しい。色々と試してみたが、結局は流清自身が「水」と認識できるもの――特に、自然水が一番、という結論に落ち着いたのだ。
そんな事情もつゆ知らず、明満はいよいよ意識を保つことも苦しくなってきたのか、一層必死に水の呪縛を振り解こうとするが、まるで事態は好転しない。
そしてついに、足を
「三分――まあ、潜水夫でもないし、常人にしちゃもったほうか」
流清は、老人の死を確かめるため、池のほうへと近づいていく。池端で足を止め、夜を映した真っ黒な水の中を覗き込んだ。
「浮かんでこないな――」
彼がそう呟いた瞬間、ざばあ、と水中から手が飛び出し、足首を掴んできた。
「――!?」
驚愕する流清の足を引きずり倒したその手は、「河童」でも「手長婆」でも「置いてけ堀」でもない――――水球の中で溺れていたはずの明満だった。
「――やれやれ、これじゃあまるで水辺の怪です。私のほうが妖怪みたいじゃありませんか」
苦悶の相であがく様子も、池の中への落水も、全ては明満の演技だった。そのことに気付けなかった流清は、まんまと池の淵におびき寄せられたわけだ。
明満は、激しく抵抗する流清を池の中に引きずり込み、その首を片羽絞めでがっしりと締めつけた。
「あなたの異能は、『容器に入れて』『携帯している』水にしか効果を発揮できません。ならば、その水があなたの手元の器から離れた別の大量の水と混ざり合ってしまえば――それはもう、あなたの水ではなくなる――」
「(このじじい、まさか、俺の能力を解除するためにわざと池に落ちて――)」
池の深さは、二メートルほど。当然、底に足はつかない。
明満は、相手の片脇の下から手を通して腕を
一箇所だけ自由に動かせる右手で、余っている水筒を掴んでも、この水中では容器から出した途端に周りの水に溶け込んでしまって、彼の能力は充分な効力を発揮しない。「攻撃手段」に使えないとなれば――流清は決死の思いで、ボトルの飲み口からジェット噴射のように水を噴き出させ、水面へと上昇を試みるが、容器が勢いよく手からすっぽ抜けるばかりで、成人男性二人分の重量を持ち上げるには至らなかった。絶望。〝水中〟というステージでこれほど無能になる水使いの能力者というのも、ある意味珍しいかもしれない――。
こうなると、もはや虫けらのように手足をバタバタさせることだけが、流清に残された唯一にして精一杯の抵抗だった。
『がぽ……がぼぼっ……!!』
肺に、気道に、水が
異能を使って、今まで何人もの人間を溺死させてきた流清。彼は、殺された相手がそのときどんな気分だったのか、たった今、己の身を以て思い知った。
抵抗の甲斐も無く、【瓶長】――速水 流清の意識は、暗い水の底に溶け込むように薄れていき、やがて、ぷっつりと途切れた――。
――――必死に走り回り、躰を休める暇もないカイン。【牛蒡種】小玄間 穿の邪視は、敵味方の区別もなく、あらゆるものに穴を穿っていく。
だが、カインもただ闇雲に逃げ回っていたわけではない。その間に観察して、分かったことも幾つかある。
まず、穿の能力はそれが人体だろうがコンクリートだろうが鋼鉄だろうが、視線の先のどんな物質や場所に対しても『穴』という事象を出現させてしまう、非常に殺傷力・破壊力の高い異能であること。しかし、その効果は彼の視線が『焦点』として集束する一点から、ごく狭い範囲にしか及ぼせないこと。そして、「見つめている秒数が長いほど、穴の大きさが広がっていく」ということ。
ゆえに、一瞬だけしか焦点が合わなかった場合、穴の直径は小さめの硬貨くらいが限界といったところだろう。素早く動き続ける標的には、なかなか焦点を合わせられないようで、致命傷を与えることは難しいようだ。
さらに、もうひとつ気付いた点は――――
生き延びるため、勝つために思考を怠らないカインと違って、穿のほうは、まるで獲物を追い回すゲーム感覚のようだった。
「ヒャハハハ!! エキサイトするなぁ!! たまにはこういう狩りも悪くねえ、オンナ子供やパンピーはどうも動きがトロくてつまんねえからよオ!!」
不気味に鈍く光る、赤い瞳。悪魔のような顔でせせら笑っている。
カインはさっと木の後ろに隠れる。だがその樹幹に、連続で貫通した穴が横一直線に並び、木はあっという間にえぐり倒されてしまう。急いで倒木の陰から飛び出したカイン。穿の
「――よっしゃ、ピンポイントぉ!!」
と、穿はガッツポーズ。
一瞬だったため、
そんな穿の態度を、カインは冷めた目で見据えている。
「随分と、楽しそうだな……」
「当然だ、テメエも見ただろ!? ここで穴開けられたガキとババアの死体。特に開通した瞬ッ間、血がドッパドッパ噴き出すサマなんてケッサクだぜえ!? ま、今にお前もそうなるんだけどなあ、穴ぼこのチーズみたいによぉ!!」
邪眼師は高笑いする。
だが、カインはもう聞いていなかった。彼の頭の中には、ここで見た女の子の死体の様子が、鮮明に再生される。
「あの子を殺したのは、お前か――――」
ゆら……と立ち上がったカインの肩に、小さな穴が開通する。まるで映画の銃撃音のような「パチュン」という音がした。
「――だったらどうした? 練習だよ、練習」
つまらなさそうに、穿は言う。
「最初はどんだけ集中しても一円玉くらいの穴が限界だったが、必死こいて訓練して、今じゃ直径10センチくらいは軽くぶち抜けるくらいになった……! もちろんッ、これからだってどんどん活きのイイ獲物で練習して、いずれはドデカイ風穴ぶち開けられるくらい強化してやるぜぁあ!! こんなふうになぁぁあ!!!」
吠えたてながら、呪詛の魔眼でカインを睨みつける――。
しかし、その悪意と殺意、そして〝視線〟は遮られ、カインに届くことはなかった。
二人の間には、遮蔽物が――カインが脱ぎ捨て投げ込んだロングコートが、宙を舞っていた。漆黒の布地には、直径十センチほどの穴が開けられていた。
「やはり遮蔽物を通り越して相手を傷付けることはできないみたいだな」
これが、先ほど気が付いた、もうひとつの点。
カインの思った通り、穿の〝穿視の邪眼〟は、術者の視ている物体――それも
「なっ、くそ! テメエ、どうしてそのことを――」
「どうしてもこうしても、そもそも『視線の遮断』は邪視持ちと戦う際の、基本中の基本だっ……!」
カインは相手が焦っている隙に走り込みながら、地面に落ちたコートを素早く拾った。一気に間合いを詰める。視覚の死角を増やす――「近距離戦」に持ち込むことも、対邪眼戦におけるセオリーの一つだ。
「ナメるなッ!!」――いきり立つ【牛蒡種】の眼が、カインを捉えようとする。
だが、視野も広く簡単に獲物の動きを捕捉できた先ほどまでと違って、相手が近いだけ
穿の狙いが外れて、脇腹あたりを邪視が貫く。浅い。この程度の傷では、人の命には遠く届かない。
カインはそのまま、ジグザグと高速移動しながら、さらに接近。
穿の異能が発動するのは、瞬き一回につき一回――その一回が、穿にとって地獄のように長かった。ほんの一瞬目をつぶっただけでも、相手は5メートルほど動いている。その都度視界の端で見切れそうになって、視線の修正を余儀なくされる。見落とさないよう、目で追うだけで一杯一杯だった。
カインの躰には三箇所ほど、呪眼による穿痕が打ち込まれたが、そのどれもが、急所から大きく外れた、軽微な傷穴ばかり。穿からしてみれば、じっくり視ている暇など無く、一瞬で狙いが外されてしまう。ついに決定打となるダメージは与えられないまま、彼はあっという間に敵の接近を許してしまった。
「(うわ、マジかよ――――って)くお……っ!!」
カインの上段蹴りが飛んできて、穿は防御態勢をとった。まずは蹴りを両手で払いのけていなし、続く拳打をダッキングで回避する。
「……ハンッ! オレ様をしょぼい能力にすがるだけの、そこらへんのザコと一緒にすんじゃねえぞ!?」
穿は左右のフック、膝蹴り、反対足でのミドルキックという具合に、キックボクシングスタイルで攻撃してくる。ケンカ自慢の不良らしい、勢いに任せた攻めだ。蹴りを受けたカインの腕が、ズキズキと痛んだ。
「(こいつ、靴に鉄板を――)」
普通なら腕の骨の折れているところだろうが、鍛えられた頑強な躰を持つカインにはなんとか耐えられるレベルの攻撃だった。
だが、邪眼師の狙っていたのはハイキックによるノックアウトではなく、ガード後の硬直。その隙に、異能発動の条件――
カインは防御のために上げられていた腕――その袖口から手の内へ、すっと何か銀色に光るものを抜き出す。それを自分の顔の前に持ってきて、敵の目前にかざす。
――穿も瞬時に視認したそれは、小さな長方形の手鏡だった。本来は特警隊員用いるタクティカル・キットのひとつで、室内戦等では曲がり角や背後の確認など死角のクリアリングに使用され、また、野外や市街戦時には離れた仲間への合図ほか、敵狙撃手の狙いを光の反射で攪乱したりなどにも利用できる。さきほど逃げ回ってるうちに、コートの内ポケットから取り出して、仕込んでおいたのだ。
カインが土壇場の接近戦でこのアイテムを持ち出した一番の理由――それは、『鏡』が〝邪視能力〟を跳ね返すのにも使える場合があるからだ。
――――――パキンッ。
しかし、穿の〝穿視〟は鏡像として映った自分自身を無視し、鏡面を貫いた。
「(なるほど、やっぱりか――)」
「視認した対象に術を掛ける」タイプの能力者に対しては有効に働く『鏡』という〝魔除け〟も、「視た場所そのものに穴を開ける」という穿の異能にとっては、単なる破壊対象としか認識されなかったようだ。
「んなモン通用するかよッ!!」
穿は、躰ごと押し込むような大振りのスイングフックで追撃。メリケンサック代わりの派手な指輪が既に半壊状態だった手鏡をダメ押しで打ち抜き、耳障りな音と一緒に破片を砕き散らす。
カインにとっては、ハンドミラーと引き換えに手と眉間を守れただけでも、儲けものだ。充分に「御守り」以上の働きをしてくれた。そのまま右手に残っていた鏡の破片を目潰し代わりに投げつけ、左の廻し裏拳からの右ショベルフック。左手に掴んでいるコートがぶわりとはためきながら拳打に追随し、邪眼に対するブラインドと格闘時における攪乱効果を発揮する。途切れることなく死角から右膝、そして相手の視界に入らぬよう上体を大きく動かしながら屈んでの肘鉄。
穿のほうも、カインの反撃をスウェーやダッキングで避けながら、どうにか必殺の〝視線〟を、急所の位置に合わせようとしてくる。
確かに言うだけのことはあり、多少は格闘技を使えるうえ、喧嘩慣れもしているようである。
しかし、それでも所詮は二流――場数を踏んできた特殊刑事の敵ではない。
カインは握りこぶしをグーからパーに開きながら、相手の目の前で素早く横に動かした。穿の目は、つい反射でその動きを追ってしまう。
――「横方向の動き」というのは人間の目にとって、特に反応しやすい動きなのだと言われている。眼球が顔の正面、それも横に並んで付いているためである。しかも生き物には、視界の中で速い動きをする対象には無条件で反応してしまうという習性がある。カインが行ったのは、それを利用したフェイントだった。
視線誘導に乗せられてしまった穿の目が、高速でスライドしていくカインの手の平に一瞬だけ、釘付けになった。カインの右手は当然、邪眼の穿孔に貫かれるが、これで敵の唯一の凶器――その矛先を逸らすことができた。
視線が逸れたその間隙、カインは手に持っていたコートを、穿の顔面に覆い被さるように投げ付けた。さらに右内股へのローキックを打ち込み、敵の動きを止める(本来なら踏み蹴りで足の甲を潰しにかかっていたところだが、鉄板仕込みの安全靴を履いている穿には通用しないためだ)。
「ボケが!! オレ様に二度も同じ手が……――――」
激昂した穿が、目隠しになっているコートを払いのけた。だが、視界の拓けたその先に、忌々しい刑事の姿は無かった。
カインは穿から見て左側面へと回り込んでいた。右内股へのローで相手の意識を右側に向けさせておいて、自分はその一瞬で相手の左側に移動していたのだ。
「(ひだ――り)」
穿も、かなりのスピードでそれに反応し、カインのほうを向き直ろうとしたが、振り返ろうとした顔の動きに、カウンターの掌底を合わせられてしまう。見事、顎の横にヒットした。
穿がガクンと膝を落とす。脳震盪だ。視界がぐにゃりと歪み、世界がぼやける。脳を激しく揺らされたせいで、焦点が合わない――。
「眼に頼り過ぎなんだよ」
今度はカインのほうが、跪く敵を冷酷に見下ろした。
「――まともに焦点を合わせることもできないだろ? その状態で能力を使えるか?」
穿は声のするほうを見上げてみるが、景色はブレにブレていて、カインの姿も三人四人に重なって見える。
「(クソ、クソッ……!! ヤバイ……視界を、焦点を、やはく――……)」
穿はぶるぶると首を振って、意識を持ち直そうとした。
彼は今まで無敵だと思っていた己の能力が、こんなにも簡単に打ち破られるなどと、想像すらしたこともなかった。戦闘者としてアマチュアの穿が、プロフェッショナルであるカインたちを侮ったことが、この現状を招いたのだろう。
そしてなにより、「プロフェッショナル」は相手が回復するまで待ってくれたりなどしない――。
カインは容赦なく、人差し指を、穿の目の片方に突っ込んだ。深く。根元まで。軍隊格闘仕込みの、えげつない目潰し――。
潰れた眼球ごと指を引き抜くと、穿は激痛のあまりに絶叫した。
「うっぐぁあああああああああああああああああああああああ!!!!! め……目がぁぁあああ!!!!」
両目から発せられる『線』が交わらないかぎり、邪眼の『焦点』は生まれない。だから、カインは片目を潰した。これで、穿の邪視力は完全に封じられたはずだ。
「もしあんたが片目だけでも能力を使えるというのなら、残ったほうの目も潰す。抵抗するなら、容赦しない――」
耳元でそう囁かれ、穿の動きはピタリと止まった。
今カインの中にあるものは、『首狩り』を射殺した時と同じような、冷たい怒り。
あの少女は、幼くして殺された弟と同じくらいの歳だった。異能を振りかざし、沢山の罪もない一般人や幼子を惨殺してきたこの男に対し、慈悲をかけるつもりなど毛頭なかった。
穿も、カインの言葉に嘘や脅しが一切含まれていないことを、瞬時に理解した。今ここで投降しなければ、この男は本当に、隻眼になったばかりの自分のもう片方の目を、何の躊躇いもなく潰すだろう――と。
「ま、参った――オレはもう、戦えねえ……」
【牛蒡種】小玄間 穿は、うつ伏せに地面に取り押さえられながら、全面降伏した――。
――【大入道】を倒した王が、冷たい池の中から明満を引き上げてやる。水面には【瓶長】の死体が浮いていた。
もはや数えるほどしか残っていなかった百鬼夜行の残党も全員片付け、王と明満はカインのほうに歩み寄った。
「どうやらお前のほうは、生け捕りにできたみたいだな」
ぐったりとした様子の穿は、手錠で拘束され、さらに頭全体を頭巾ですっぽり被せられたかのようにコートを巻かれ、目隠しをされている。
「強力な異能者でしたのに、たいしたものです」
明満が褒めるように言ったが、カインは眼球を潰した指先に残る不快な感触を思い出し、目を逸らす。本来なら、あんな技は使いたくない――。
「こいつには、喋ってもらわなきゃならないことが沢山ありそうですからね――」
カインは茂みに飛ばされていた自分のリボルバー銃を拾って来て、そう言った。
確かに、様々な情報を知っているであろうリーダー格の人物を生け捕りにできたことは、大きな収穫だった。
そこで、ふと、あるものが彼の目に付く。
「これは――――」
穿の右肩、上腕二等筋の上あたりに彫られたタトゥー。戦闘中には気付く余裕などなかったが、それは見覚えのある紋章――格子模様と五芒星だった。そう、《暇田コンサルタント》の社章だ。
カインがその図形を凝視していると、王も気になったのか、「ん、どうした?」と覗き込んできた。
「何だ、ただのイレズミじゃねえか――だがこの模様、確かどこかで……」
先輩刑事が首をひねっているのを見て、カインが説明する。
「ちゃんと報告書に写真を添付してあったじゃないですか。例の暴力団コンサルタント会社の社章ですよ。ほら、大隅氏の血痕が残っていた現場に落ちていた――」
とは言っても、ただでさえ『百鬼夜行事件』のせいで、彼らは皆、毎日膨大な量の報告書に目を通しているのだ。そのうえ、この異常事態と大乱闘のあとである。王がすぐに思い出せなかったのも、仕方のないことかもしれなかった。
「ああ? そういえばそうだったな――何か違うところでも見たことあるような気がするんだけどな。気のせいだったか」
そうは言いつつも、王はまだどこか、納得していないような様子だった。
明満も、二人の横に立って、穿の肩に刻まれた紋様を興味深げに眺めている。
「――なるほど、これはますます、この人たちと『百鬼夜行事件』、そして暇田コンサルが関連を持っている疑いが濃くなってきましたねぇ……」
「はい。それにいくら多勢に無勢とはいえ、櫓坂隊長率いる計六名の実戦部隊が、この程度の連中相手に壊滅したとは、とても考えられません。きっと、敵にはもっと恐ろしい何かが――」
とにかく、詳しいことは明日にでもすぐ取り調べで判明するだろう。
「――しかしこれだけの人数、連行するだけでも一苦労ですな」
王が死屍累々(正確にはほとんどの者が気を失っているだけだが)となった公園内を見回した。
今ここにいる三人だけでは、大勢の異能者が昏倒しているこの状況には、とても対処できない。拘置所に運ぶにも取り調べするにも、とにかく人手が必要だ。
ずぶ濡れの明満、そして出血多量気味のカインと王は、三人で顔を見合せて溜め息をつき、特警旧皇都支部への緊急連絡網に電話した。
なんとか異能者の群れをやりすごしたことで、刑事たちは安堵する。
彼らは、まさか、ここから異能犯罪史上最悪の三日間が始まろうとは、この時点では思ってもいなかった――。
※
――たった一夜にして、京の都は魔都に変わった。
日が昇っても、悪夢は終わらなかった。それどころか、夜が明けてみると事態は一転、昨日よりもさらに悪化していた。
「おいおい、なんだよこりゃ……忙殺ってレベルじゃねえぞ」
「ここまでくると、もはや災害に近いですね」
ようやくのことで昨晩の悪夢から抜け出せたと思ったカインたちだったが、今日になって突然活発化したさらなる異能犯罪者たちの襲撃に、休まる暇も与えられなかった。
昨晩の〝百鬼夜行〟で火蓋が切って落とされたかのように、今まで蔭に潜んでいた犯罪者たちが蠢き出したのだ。
平日――月曜日の正午過ぎだというのに、京の街中には戒厳令と外出禁止令が出されている。まさに異例の事態だ。
厳重な警戒と捜査人員の巡回もむなしく、警邏の網目を巧みに掻い潜りながら頻発する異能犯罪。まるで、特警側の動きを読んでいるかのように、先手を打ってくる。
「敵側には、広域に対応した通信傍受・索敵系能力者、もしくは千里眼系の能力者でもいるんでしょうかね?」
カインの述べたような仮説でも立てないと、この状況にはとても説明がつかない。
「分からんが、この有り様が異常すぎるほどの異常事態っていうのだけは確かだよ――」
これまでも充分に「異常事態」だったが、それでもせいぜい日没後に二、三件ぽつぽつと起こる程度だった異能犯罪が、今や白昼堂々徒党を組んだ異能集団の暴動にまで発展している。一般人への通告では、右翼組織や広域暴力団による組織的無差別攻撃だと説明し、自宅からの外出を禁じているが、特に危険な地帯に至っては、最寄りの警察機構などへの避難警告が発令されているほどだった。
目下、特警の旧皇都支部戦闘部隊が鎮圧のために街中を駆け回っている間、カイン、王、明満の三人は、昨晩捕らえた異能者たちの取り調べを行っていた。大勢の異能者を拘置所に留めておくのは危険も伴うため、その見張りも兼ねた居残りだった。ユリィやエミリアも、最初はカインたちの手伝いをしていたが、あまりの街の混乱ぶりに、さきほど出動を要請されて飛び出していったところだ。
カインはクリップボードに挟んだ書類を、ぱらぱらとめくって目を通している。これから彼が明満と共に取り調べを行う、小玄間 穿に関しての調書だ。
王が横目で、その書面に添付された不良少年の写真を恨めしそうに見ていた。
「しかし、まさかこんな野郎に大事な刀折られちまうとはな……一応、馴染みの刀鍛冶に頼んで、急ごしらえの新品を明日にでも届けてもらう予定なんだが。やっぱり現代刀はどんなに質が良くても古刀や新古刀には劣るからな……」
そう言ったあと、彼は愛刀の差されていない自分の腰に、少しばかり寂しそうな視線を落とした。
「俺だって、躰に五、六箇所も穴をもらっちゃいましたよ。あと、コートもズタボロにされちゃいましたしね。替えを何着か持って来ていたのでよかったですけど」
そう言うカインは、以前とまったく変わり映えしないような黒コート。だが右手には、昨夜の闘いで開けられた穴を塞ぐための包帯が、痛々しく巻かれていた。
「――それにしてもこの事件、まだ気になることも全然多いですし、一応、牧俊君にも穿や暇田コンサルのことを色々調べてもらうよう、頼んでみたんですけどね……」
カインは複雑な表情で言った。
特警の電脳部門でバックアップを務める民間協力者(と呼ぶにはいささか抵抗があるが)の
「あー。あの小僧、何でかお前の言うことだけは妙に素直に聞くからなぁ」
王はそう言うが、相手は気まぐれな少年ハッカーなだけに、あまり期待しないほうがいいかもしれない――とカインは思う。
「外は今、昨晩以上に危険な状態になっていると聞きます。エリゼさんや菅原さん、エミリアさんとユリィさんも、大丈夫でしょうかね……」
「まあ、ここでオレ達が心配してても仕方ねえだろ――現場の状況が変わるわけでもなし。兎にも角にも、オレらはオレらの仕事をするだけさ」
「ですね」
二人は廊下で分かれ、それぞれの持ち場に向かった――。
――狭く殺風景な取調室に、昨晩の傲慢な態度とは打って変わって臆病に震える【牛蒡種】小玄間 穿がいた。
カインに潰された片目には、眼帯の上から包帯が巻かれている。
明満が穿の正面に座り、聴き取りを担当。カインは椅子には座らずに、机の脇に立っていた。
穿の取り調べはこの二人で担当し、その他の逮捕者は王と旧皇都支部非戦闘員の面々が担当している。
しかし、さっきから穿は、何を訊かれても「知らない」「分からない」「言えない」と返すばかりだった。躰は何かを恐れているかのようにぶるぶると震えていて、もう三十分ばかりも、ずっとこの調子だ。
「――困りましたねぇ。一体あなたたち異能者の集団が、どういった経緯で知り合い、グループを形成するに至ったのか。これまで京で起こっていた、
正面に座っている明満が問い質してくるが、穿は頭を抱えながら首を横に振るだけだ。
「――では、あなたが〝牛蒡種〟という憑き物筋を知ったいきさつは……?」
老刑事は、質問の方向を変えてみた。穿は弱々しい声で答える。
「……オレの母親が、そういった能力を持っていて、それが『ゴンボダネ』なんだと言っていた……詳しいことは知らねぇんだ」
明満は「ふむ……」と頷きながら、ペンを置き、トントンと机を指で叩き始める。
「曰く飛騨の奥地と信濃の一部西域に点在していたとされる牛蒡種ですが、その家筋の者が負の思念を以てヒトを睨みつけると、その相手は頭痛と発熱、しまいには鬱のような症状と神経障害を発症し、寝たきりになってしまった――などと云う話も残っています。中には重症で死に至る者もいたのだとか。彼ら憑き物筋の人間は決して自ら家筋を明かすことはなく、牛蒡種の名は、いつも病床に苦しむ者の口からのみ語られたのだといいます。しかしこの邪視能力は同じ牛蒡種どうしには通用せず、また、県や村の有力者、そして警察署長のような、目上の者にも効果を発揮しなかったという話もあり……――」
一定の間隔でトントンと机を叩くリズムを響かせながら、刑事でもあり陰陽師でもあるその老人は、講釈を始めた。
「――柳田國男や南方熊楠の書物にもあるよう、この牛蒡種特有の邪視は、特に遺伝によって女性に備わるケースが多かったそうで、その筋の女性と結婚した男性は、睨まれただけでたちまち病気になってしまうものですから、掃除洗濯はもちろんのこと、針仕事までこなすほど尻に敷かれてしまう、まるで奴隷のような有様だったそうです。そもそも〝憑き物筋〟というもの自体が、かつてのこの国におけるムラ社会での敵対者差別の象徴的存在である面も持っており、婚姻遮断のためや、もしくは汚れ仕事を押しつけるための言い訳に使われてきたシステムでしたから、こういった伝承も単に異端者の家系と係わりを断つための創作である可能性も否定できませんがね。他にも、流浪していた宗教者、外部からやって来てムラに居付いた成功者などに対する説明や排斥などの意味も含まれていたのです。『あの家には座敷わらしが憑いているから栄えた』、『あの家には犬神が憑いているから近寄るな』というように。これらの内にはもちろん、あなたの母上のような、昔から隠れ潜んでいた本物の異能者たちも、少なからず混じっていたのでしょうが――――」
穿は顔を上げ、一つだけ残った目で明満を見る。ぽかんとしたその表情を見る限り、どうやら話しの内容についていけていないように見えた。そんなことには構いもせず、明満は続ける。
「―――—で、本来、憑き物筋といえば大体が『狐憑き』『犬神憑き』『ゲドウさん』に代表されるような動物霊を使役する一族が挙げられます。もしくは先ほど言ったように座敷わらし系統の妖怪が住み憑いた家や、他、『オサキ』や『
カインは机のそばに立ちながら、これも明満ならではの尋問術なのだろうかと、無言でなりゆきを見守っている。しかし、突然――
「もういい! やめてくれっ!! 頼む……」
「そんな話は聞きたくない……頼むから……」
がたがたと震え出す穿。戦闘中には意気揚々と自分の能力や出自を語っていたくせに、随分と身勝手な話だ。
穿は、不思議そうに首をかしげる明満の顔から目をそむけ、次にはその恐怖に染まった表情を、カインの方に向けてきた。助けを求めるかのような視線――。
その視線を、カインはふいと目を逸らして無視した。
「俺達には、いやでも容疑者・証言者としてのあんたの身柄を守らなければならない義務がある。つまり、あんたは特警の施設の中にいる限りは身の安全を保証されているということだ。一体何に対してそんなに怯えているんだ?」
「……そうですよ。それに、貴方が喋って下されば、暇田やその他関係者の逮捕にも繋がり、より身の危険に曝されることへの防護策・対抗手段にもなります――」
確かにこの邪視使いは、今まで散々王様気取りで仲間を痛めつけてきた。それが今や囚われの身で、おまけに、頼りの邪眼までも失ってしまっている。圧倒的無力。ゆえに、仲間からの報復を恐れるのも仕方のないことかもしれない。
それでも穿は首を横に振る。しかし、決して仲間をかばっているわけではない。
「無理だ……言えない。喋れない。殺される――」
「殺される? 先ほどから言っているではありませんか。我々があなたの身を守ると――」
「うわぁぁあああああああ!!!!! 嫌だ、聞きたくない! 聞きたくない!! オレは何も喋らない!!!!!!」
明満が最後まで言い切る前に、穿は猛然と立ち上がって、叫んだ。あまりの唐突さに面喰ったカインと明満だが、穿に逃げ出そうとしている様子はない。ただその場で頭を振り乱して泣き叫んでいるだけだ。よほど追い詰められ混乱しているのか、情緒不安定にもほどがある。
カインが素早く取り押さえ、暴れる穿の躰を床にねじ伏せた。その状態でもなお泣き叫び続ける尋問対象者。これではまるで、拷問していると勘違いされかねない状況だ。
「どうやら、落ち着くまでまともな取り調べは出来そうにありませんねェ……」
「そのようですね……」
二人の刑事は顔を見合わせ、溜め息を吐く。
カインは仕方なく、穿が暴れたときに机の上から落ちたペンや調書を拾おうと、壁際まで歩いて行った。
だがその途中、彼は視界の端に異様なものを捉えた気がして、足を止めた。
素早く振り返ると、ふと、何かがよぎる――――それは壁の落書きなのか、赤く光る、模様のようなもの。
しかし、カインがもう一度よく見ようと壁に視線を戻したとき、それはもう消えて無くなっていた。
「(――目の錯覚、かな……?)」
そう思おうとしても、違和感だけは確実に残っている。その「模様」のようなものを見たとき、何故か、この部屋にいる者以外の第三者に、視られているような気がしたのだ――。
カインは不思議に思いながら、落ちている調書を拾い上げた。
※
その日、旧皇都支部では隊員たちの決死の制圧活動もむなしく、異能犯罪に振り回され、東奔西走させられるはめとなっていた。
だがそんな中、異能者連中の派手な暴動の陰に隠れて、ひっそりと密会を執り行う者達もいた。
――――また、それを監視する者達も……。
――夜の十一時近く。
旧皇都支部・戦闘部隊副隊長であるエリゼ=イルマルシェを筆頭に、菅原、そしてユリィとエミリアが、とあるテナントビルの一室に待機していた。
十階からなるビルの最上階で、まだ借り手が付いていないため、オフィスの中はがらん堂だった。大きな窓には、表通りに向けてでかでかと「テナント募集中」の広告が貼り出されている。
「それにしても、絶好のポジションが見つかってよかったっすよねぇ」
湯沸かし器を使って作ったカップラーメンを啜りながら、菅原が言った。どうやら、オフィスや店舗は入っていなくても、この階に電気は来ているようだった。
「監視対象はこの窓から向かいにあるホテル五階の503号室。明満さんやカイン君の調べてくれた、例の暇田組の構成員からの内通情報が普警のほうに入ったみたいで、《安生興業》――もとい暴力団組織『安生組』との取引があることが分かったわ。前もってホテル側に許可をとって盗聴器も仕掛けさせてもらったし、準備は万端よ」
エリゼが双眼鏡でその一室を覗きながら言った。今のところ安生組の幹部しか来ておらず、カーテンなどは閉まっていない。取引のことが警察側に知られているとは思ってもいないようで、おそらく油断しているのだろう。
「一連の『百鬼夜行事件』で逮捕された異能犯罪者――特に暴力団関係者にはアンジョウ組の構成員も何人かいたはずよ。それに、昨日カインやワンが捕まえてきたあの異能者。ゴボウダネだかコゲンマだかだったかしら? 彼の腕に彫られていたタトゥーも、ヒマダ・コンサルタントの社章と同じだったし、何かしらの関連があるのかも。ひょっとしたら、今回の監視で何か分かるかもね」とエミリア。
確かに、地主の失踪事件にも関与している線は確定であるし、《暇田コンサルタント》の尻尾を掴むことは非常に重要だ。
そしてユリィも、他の三人には負けじと、真剣な表情でぼそりと一言。
「…………『安生』と『アンジェリーナ・ジョリー』は…………似ている……」
「似てないわよっ!」とエミリアに頭をはたかれた。
「アンとジョしか合ってないっす……」菅原も呆れていた。
「しっ! 三人とも、静かに――!」
エリゼが三人を手で制して、双眼鏡を覗き込みながら身を乗り出す。菅原、エミリア、ユリィはピタリと押し黙った。
「暇田麗司と、秘書の二人が姿を現したわ。菅原君、盗聴器の受信機をONにしてちょうだい」
指示通り、受信機器のスイッチを入れる菅原。スピーカーから、雑音の混ざった話し声が聞こえてくる。
『よう……ひ……しぶりだな、安生の』
『ああ……ひま……さ……今日はよろ……くたの……よ』
ザザザ……とノイズ音が混じって、よく聞き取れない。
「あれっ? おかしいっすね。使用前の点検ではちゃんと正常に作動したのに……」
「ええっ――ちょっとなんで? どこか近くで強力な電波が邪魔してるんじゃないの?」
エミリアが菅原の肩から、受信機を覗き込む。
「電波状況も事前に調査したし、そんなはずはないんだけど……」とエリゼ。
『じゃあさっ……く……はじ……ようじゃ……いか。ビジネ……ざざざざ……』
しまいには、「ピー」という音や「ガガガガ」という雑音まで大きくなってきて、何も聴こえなくなってしまう。
「仕方ないっすね」と菅原が立ち上がり、双眼鏡を手にして窓際に立った。
「えっと……『きょうするはなしは、おたがいにとって……ゆうえきに……なるはずだ』『われわれも、あなたがたの……ていきょうしてくださる……じんざいには、たいへん……たすかっています』……」
菅原が、望遠レンズの向こうで話している暇田と安生組幹部の唇を読みながら、声に出して追っていく。地味な特技なので活躍する機会は少ないが、彼は読唇術を心得ていた。
エリゼも、即座にそれをボイスレコーダーに録音していく。菅原が相手の言っているであろうことを読み上げているだけなので証拠能力は皆無だが、今はこうするより他ない。
暇田たちが話している一方、その脇で秘書の権田と若槻、安生組構成員の面々が何やら書類のやり取りをしながら別の話をしているようだが、さすがにその様子にまで気を配っている余裕はなかった。菅原は、暇田と安生組幹部の唇の動きを追うだけで精一杯だった。
「『とうしゃは……これからも、にーずにこたえ、しつのよい……』ああ、畜生、早口のせいで読み取りにくいっすね……『より……きょうりょくな、いのうりょくの……こうじょうをめざし……』――異能!? 今、異能力って言ったんすかね!?」
「いいから、続けて!」
エリゼにどやされ、慌てて集中し直す菅原。
「『れいのものは……じゅんびができて……』『それは、たすかる……あれは……こんかいのぷろじぇくとの……かぎに……』」
「例のモノ? 鍵? 何のことかしら? ねえ、兄さん?」
「……」
エミリアが、兄に向って問いかけるが、ユリィはさっきからずっと無言である。
「『ばしょは、にしく……はずれにある……つくよみぶんしゃ……じかんは、あさっての、しんや、にじゅうろくじ』――あ!」
突然、菅原の声が途切れた。
双眼鏡の向こうに見える部屋の中の光景は、窓辺に近寄った秘書の若槻によって、遮られている。神経質そうなコワモテ秘書は、きょろきょろと外を見回してから、窓のカーテンを引いてしまった。
「……だめっす。なんか、秘書のやつがいきなりカーテン閉めちゃったっすよ」
こうなってしまっては、もう視覚情報から相手の様子を探ることさえできない。
「まさか、部屋に隠してあった盗聴器が、見つかったんじゃ……」とエミリア。
そうなった場合、(結果的に盗聴器で会話内容を傍受することは出来なかった訳だが)敵が話していた内容が全て変更されてしまう可能性が高い。
「いや、そんな切羽詰まった様子じゃなかったみたいなんで、大丈夫だと思うっすけど……」
でも、今日はこれ以上の張り込みは意味なさそうっすね――と菅原は悔しそうだった。
「――いえ、充分よ。重要取引のある日時と場所が分かったんだから」
エリゼはしょんぼりする菅原の背中を、ぽんと叩いた。
「それにしても、『例のモノ』っていうのは、よっぽど重要な代物なのかしら? なぜ、今日それを持ってこなかったのかは謎だけど……ひょっとしたら、何が何でも人目には付けられない物なのかもしれないわね。とにかく当日、現場を張り込んで押さえるわよ」
エリゼは並々ならぬ意気込みとやる気を見せる。櫓坂隊長が未だ意識を取り戻さないこの状況下、旧皇都支部の隊員たちに、副隊長の自分が情けない姿を見せるわけにはいかない。
「でも、ツクヨミ分社って、いったいどこにあるの? 京中の寺社仏閣は全部暗記しているけど、そんなところ聞いたこともないわ」
スティフナズ妹が肩をすくめたが、そこで菅原が少し得意そうに「ふふん」と鼻を鳴らした。
「そりゃ、
「詳しいんだな……」とスティフナズ兄。
「自分はちょうど西区が地元で、子供の頃よく、あの山で遊んでたんっすよね。あの辺の地理も把握してますし、隠れるところならいくらでも思い付くっすよ!」
「それは頼りになるわ。とりあえず明日、またこのメンバーで月読分社の下見に行くことになるから、菅原君、先導任せられるかしら?」
「はい! もちろんっすよ!」
若い新人刑事は役に立てることがよほど嬉しいのか、エリゼに向かってピシッと決まった自衛軍仕込みの敬礼をした。
「では、これより一度本部へ帰投。芒山隊長代理への報告と、明満班とのミーティングを行うわ」
エリゼの号令とともに、四人は手早く機器を片付け、颯爽とテナントビルから撤収した。
※
(【漆】へ続く――)
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