『咎負い人の十字架』【6】




【12月29日――事件より4日後】


 大怪我だったにもかかわらず、沙帆のおかげでカインと王の入院期間はわずか三日ばかりで済んだ。とはいえやはり輸血や精密検査は必要だったわけで、これといった問題も無く無事退院できたのは、幸運だったとも言えよう。

 そして退院翌日となるこの日、カインと王は、取調室にて三度目になる遊夛との対面に臨んでいた――。

 拘束着で身動きを封じられた使徒遊夛は、カインから事件の顛末を聞き、信じられないといった顔をしていた。

「嘘だ、屋古部に叉井、それに師匠せんせいまで――」

 きっと自分を助けに来てくれる――そう思っていた当てが外れたのだろうか。しかし、このうなだれ方を見るに、どうやらそういう訳でもないらしい。

「屋古部のやつは小さい頃から短気で、私にもよく突っ掛かってきたものだから、いつも軽くあしらってやっていたよ……。叉井は変に理屈っぽくて信仰熱心でな、不信心な私は何度も説教されたな……」

 遊夛は下を向いたままだった。

「そして師匠は――師匠はまさに私の親代わりの人だった」

 机を挟んで向かい合って座るカインと遊夛、その机の横に椅子をつけて座っていた王が、俯いた神父の顔を覗き込もうとした。

「なんだお前……まさか泣いてんのか?」

 遊夛は顔を上げて、鋭い眼つきで王を睨みつけた。

「それで、だからどうしたというのだ……? 仲間の仇であるお前達に、私から言う事など、何ひとつとしてないぞ。呼び出しておいて今さら一体何を聞き出そうというのだ?」

 カインは懐からそっと、一枚の写真を取り出した。

 ――今回事件の渦中に巻き込まれた、双子の赤ちゃんの写真だ。

「それは――」机の上に置かれたその写真を、遊夛が凝視する。

「少し、聞きたいことと、話したいことがあってね――」

 カインも、写真に写った双子の寝顔に目を落とした。

 結局、老司祭との約束は守ることができなかった。十字の〈聖痕〉を受けた背中が、心なしかずきずきと痛む。

 カインは意を決して、口を開いた。

「遊夛さん、あなた――過去に精子バンクに登録したことは?」

 彼のその質問に、相手は一瞬、質問の趣旨すら理解できないというような、不思議そうな顔をした。

 王が補足をする。

「クヌーズ・ホルム・カンパニーっつう、ふざけた名前の会社だよ。世界中の医療機関に委託されて、精子や卵子、遺伝情報の管理や研究を行ってる」

Cunusu Holm Companyクヌーズ・ホルム・カンパニー》――何がふざけているかと言えば、社名がまさに『ホムンクルス(Homunculus)』のアナグラムだということだろう。もともと前身は《述島製薬》という大手製薬会社の一研究部門だったのだが、異能者シュレディンガーが被験体となった実験が行われる前に早々に述島から手を引いて海外に本拠地を移していたため、彼の粛清から逃れる事のできた、曰くつきの会社である。

 その後他の大企業から引き抜かれ、二十五年の間で今に至るまでの成長を遂げたというわけだ。社のスローガンは、『試験管の中から人間を』――である。本当に、ふざけている。

「そんな会社は知らないし、精子バンクに登録したこともない――何だ、その馬鹿げた質問は?」

 遊夛の返答に対し、カインはもう一度、「本当に心当たりはないんですね?」と問い質した。遊夛は少しだけ、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「だからな、そんなことは不可能なのだよ。以前お前達に話したはずだ。私は幼い頃――あれは五歳の頃だ。トラック事故に巻き込まれたのだ、と。その時私はな、母親と――そしてもう一つのモノを失った。皆まで言わずとも、分かるだろう?」

 遊夛は肩を竦めた。

 下半身に深刻なダメージを与えたその事故は、遊夛から生殖機能も奪っていった――ということだ。

 だとすれば、やっぱりか――とカインは呟いた。

「iPS細胞……」

「なんだって……?」

「人工多能性幹細胞――理論上、ヒトのどんな細胞や組織、臓器にも分化できる、いわゆる万能細胞ってやつの一つです。細胞の癌化など、問題も多いですけど、再生医療に役立てる事が出来ると注目されてる」

 ――ま、ほとんど沙帆ちゃんからの受け売りですけどね、とカインは付け加えた。

「それが一体どうしたというのだ? 全く話が見えんぞ……?」

 遊夛は興味がないのか、つまらなさそうな顔をしている。カインは卓上の写真を指で示した。

「この双子の赤ちゃんはね、処女の卵子と童貞の精子を使った体外受精で、《十字背負う者達の結社》が意図的に作り出した命だったんです」

 代々異能力の出現しやすい遺伝子が、特異な設定を与えられ、特異な状態で産まれ、特異な状況で死の天秤に掛けられる――もしあのまま儀式が完遂されていたとすれば、生き残った方の赤子は、さぞかし強力な異能者としてのポテンシャルを得ていた事だろう。

 そしてその能力は、教団の洗脳教育と非人道的じみた訓練という、さらなる特異な環境下で発現し、磨きを掛けられたはずだ。歪んだ教義のもと育った〝救世主〟は、歪んだ教徒たちに祀り上げられ、一層歪んだ思想で彼らを導いていく―――気の長い話だが、それこそが彼らの計画だったのだろう。

 それを聞いて、まさにその教団に属していた元神父の遊夛が、楽しそうに甲高い笑い声を上げた。

「ハァ~ッヒャッハッハ!! 何だおい、愉快だなぁ! まさにイカレた宗教組織が思い付きそうなことじゃないか……!! ほとんどの宗派で禁忌と見做されている人工生命、それを新たに教主に祀り上げようというのだから! しかも処女と童貞ときたもんだ、傑作だよ! やっぱり奴ら、ブッ飛んでる! 考える事が違う――!!」

  拘束着がなければ腹を抱えて笑っていたであろうその破戒僧は、涙目でひぃひぃと笑い続けていた。

「ちっ、ゲス野郎が……」王が舌打ちする。

「それで、母親に選ばれたのは、言ったらまあ――異能の血筋を持つ旧家のお嬢様で、この人は極度の男性恐怖症だったそうですけど――」

 構わずに話を続けるカインに、遊夛は身を乗り出してその先を催促した。

「で、赤ん坊の父親と言うのは何処のどいつなんだ? 分かっているなら、是非とも聞かせてほしいものだ」

 愉快そうな顔をする目の前の男を、カインは憐れみのこもった眼で見つめた。

「……彼女の卵子を体外受精させる作業は、先ほど言った《クヌーズ・ホルム・カンパニー》に任された。この会社にも今は捜査の手が及んでいるけど、民間協力者の情報屋が調べてくれたリストにも、君らの組織に資金援助する企業として名が連ねてあったから、恐らく《十字背負う者達の結社》とクヌーズ・ホルムとの間には、程度はどうあれ癒着関係があったのは確かなはずだ」

 ――カインの言う「民間協力者」とは、もちろん特警御用達の少年ハッカーである初道 牧俊のことだ。相変わらずこの少年のことを口に出すときは、少しだけ苦い顔をするカインだった。

「その何かしらの利害関係で、クヌーズ・ホルムは預言を実現させるための計画を幇助し、〝予言の子ら〟の両親となる男女の情報と一緒に、条件の合った卵子と精子を提供したんだと思う」

 王は机に肘をついて、黙ってその話を聞いている。

「で、あなたが師匠と慕う、あの老神父の話になるんだけど――」

 そこで遊夛もぴくりと反応する。

「彼はずっと昔から、宗教結社に務めながらも、遺伝子工学の研究をしていた。《クヌーズ・ホルム・カンパニー》にも何度か招かれて、研究を共にしたり、指導などを行ったことがあるらしい。きっと、この辺からの繋がりなんだろうな……」

 ――ここから先は、牧俊が事件後に集めてきてくれた情報でもある。

「あの老神父は〝預言〟の双子が生まれる二週間ほど前と、九ヶ月ほど前の計二回、教団からの極秘命令で、クヌーズ・ホルムの日ノ本東都支社まで、客員研究者として身分を偽り来訪している。

 時期的に見てもおそらく、出産間近の来訪は、母親のお腹を開いて、『預言の子』であることを示す〝印〟を双子に刻み付けるため。そして九ヶ月前――逆算してちょうど受精卵着床の時期と合致するこの来訪はおそらく、医師として母体に接触するためと、自らが担当として体外受精の作業を行うためだった。この際に遺伝子操作と卵細胞分割術式で意図的に双子を生まれやすくしたんだろうな」

 自分で話していても、反吐の出そうな内容だなと、カインは思った。王に至っては、「何が預言だ、とんだ茶番じゃねえか」と憤りを隠せないでいた。

 そう――茶番なのである。預言も双子も、全ては組織の命令で老司祭が仕組んだ脚本通りの出来事だったのだ。そうであれば、彼自身の用意した〝預言の子ら〟が産まれる病院を、彼自身が知っていたとしても、何の不思議もない。もちろん、それは味方である構成員たちがその事実を知れば、一斉に反旗を翻すことだってあり得るほどの機密事項だ。故に、《十字背負う者達の結社》の幹部連は、その事実を下々の者には伝えず、囮に踊らされているふりをしたのだった。当初誘拐の任務しか知らされていなかった遊夛も、まさにこの茶番劇に遣わされた、哀れな先兵だったわけである。

 老司祭もまた、悩んでいたに違いない。自らの信仰と組織への忠誠を秤に掛け、このような茶番を行う事を、屈辱に感じていたはずだ。

 それはさて置き、もともと〝預言〟などどうでもいい事極まりなかった遊夛にしてみれば、明かされた事実自体には大して驚きも興味も見出せなかったようだった。

「まあ、どうせそんな事だろうとは思っていたよ。話はそれで終わりか? 今の話が、さきほどの『何とか細胞』とかいうのと、一体何の関わりがあるというんだ?」

「いや――」と、双子の写真を苦しそうに見つめながら、カインはあとに続く言葉を吐き出した。

「ここでひとつ、結社側も企業側も予測していなかったことが起きた。組織の思惑を出し抜こうとしていた、ある人物によって、ね。どうやら父親の精子だけは、あらかじめ用意されていたものでなく、全く別人のものにすり替えが行われていたらしいことが分かったんだ。それも、教団側の担当者――あの老司祭が、独断で、秘密裡に」

「待て待て、精子のすり替え――というのはどういうことだ……?」

 遊夛はそこで初めて、言い表しようもない不安に飲み込まれ、真剣に表情をゆがめた。

「だからなぁ、もともとは違う男の精子が使われる予定だったんだよ。そのお嬢様の親である旧家の当主の希望に沿った、立派な家の出で、厳格な審査に通った、優良な遺伝子とやらがな。しかしそれはこっそりとすり替えられたってわけだ、てめえのセンセイが用意したどこの馬の骨とも知れない野郎のモンにな――」

 ま、誰の種を使ったところで、強制的に身籠らされたその女の子にとっちゃ、たまったもんじゃなかったろうけどな――と王は忌々しそうに言った。

 カインは「それで――」と言ったあと、一拍置いた。


「――事件後、双子のDNA鑑定をした結果、遊夛さん――逮捕時に異能犯罪者データベースに登録したあなたの遺伝子情報と一致したそうですよ」


 その目は、遊夛の顔をしっかりと見据えていた。

 彼は唐突に自分に向けられた矛先に、困惑した。目の前の刑事――この男は、自分が知らない間に二児の父親になっていたのだと――そう言っているのである。

「おいおい、だから私は――――」そこまで言いかけて彼は、はっと息を飲み込んだ。

「そうですよ、だからiPS細胞、なんです」

 これは倫理観の問題で、まだ実現されてはいないんですけど――とカインは前置きした。

「その『人工多能性幹細胞』を使えば、別の細胞をもとに同じそれと遺伝子情報を持った精子や卵子を作り出すことも可能なんです。極端なことを言えば女性の細胞から精子を、男性の細胞から卵子を作ることだってできる――。

 あの老神父はね、あなたの細胞からiPS細胞を使って作り出した精子を〝預言の子〟の受精に用いたんですよ」

 カインが最後まで言い切る前に、遊夛はいきり立って反論した。

「馬鹿な!! 師匠せんせいがそんな事をするはずが――何のために、私でなくとも他に候補はいくらでも探せたはずだ! せんせいは、せんせいは私に自分の子を殺させようとしていたというのか――!? お前達は嘘を言っている!!」

「それは……」

 カインは廃教会で看取った、老司祭の死に際を思い出す。

「――それはきっと、あなたが双子を全て確保した後、真相を打ち開けて、そしてあなたの息子たちである本物の双子を連れて逃げるように、仕向けようとしていたんじゃ……ないですかね」

 カインは確証のない考えだったが、ずっと自分の思っていたことを述べた。

「どういう……ことだ?」と遊夛。

 遊夛はおろか、横で聞いていた王までもが神妙な顔つきになる。

「でも、あなたは失敗した――俺達に阻まれて。だからこそ老神父は迷っていた……このまま組織に忠誠を果たし任務を遂行するか、それともあなたへの情をとって、双子の命を助けるか――」

 本来なら、生まれてこようはずもなかった、遊夛の血を継いだ小さな命――老司祭はその穢れなき双子を、この男に見せて、一体何をどうさせるつもりだったのか。

「おいおい、カイン、本気かよ? あの悟りきった狂信の権化みてえなジィさんが、そんなセンチメンタルな理由で悩んでただと? ヤツの強さは、その程度の半端な覚悟で発揮できるモンだとは思えねえ。しかも勝手に自分の子供作られて、それを押しつけて逃げろって……? そんな押しつけがましい愛情表現があるかよ」

 王が「どこまでお人好しなんだお前は」と、呆れた顔をした。

「でも、そう考えると彼の遺言は納得がいきます」

「せんせいの、遺言……?」

「ええ。叶えることはできませんでしたが、死ぬ前彼は確かに俺に言いました。『生き延びた双子を遊夛に会わせてやってくれ』――と」

 結局、写真しか持ってこれなかったですけどね――カインは少し申し訳なさそうにそう締めくくった。

 遊夛はしばらくの間、無言で双子の写真を見つめていた。そして一言、

「私の――子なのか」

 と呟いた。感慨深そうに……というよりは、どちらかと言うと茫然自失という感じではあったのだが。

「話はこれで、終わりです――」

 カインはそう言って、椅子から立ち上がった。今回の対面は、この為だけに無理を言って記録外オフレコで実現してもらったものだ。それを遊夛に伝える事が良いことだったのかどうか、カインには最後まで分からなかったのだが。

 そして彼にはもう一つだけ――伝えようかどうか迷っていたことがあった。

 でもそれは、今のところ全く根拠のない想像に過ぎないうえ、流石に無責任かもしれないので、結局は黙っておくことに決めたのだが。

 そんなカインを、遊夛が静かな声で呼びとめた。ちょうどドアノブに手をかけ、部屋を出ようとしていたところだった。

「おい――」

「……何ですか?」

 カインが再び歩み寄ると、遊夛は、離れた場所にいる王には聞こえないくらい消え入りそうな声で、

「ひとつ、思い出したことがある。昔、母から聞いた話だ――」

 と切り出した。

 その声は、僅かに震えている。

「…………」

 カインは何も言わず、その続きを待った。

「……私の家は、貧しい母子家庭だったが、母はいつだって嬉しそうに、恨み言の一つもなく、どこに消えたとも分からない私の父親の話をしていた。私も母がそんなに楽しそうに話す父親とやらに、常日頃から会いたいと思っていたよ。その頃に一度だけ聞いた事なのだが、これは印象に残る話だったのでよく覚えている……。

 ――母は言ったよ。もし私が成長して、その時も父を探したいと思うのであれば、『あるもの』を目印にしろ……とな。その聖痕は、両親が私を授かったことに対して、神が祝福として印してくださったものなのだと、嬉しそうに――」

 遊夛はそこでさらに一拍置いた。そして長年肩に担いできた重たい荷物を下ろすかのように――――


「――――私の父はな、腕に十字の傷を持った神父だったそうだ」


 カインが遊夛の顔を見てみると、彼は寂しそうな笑みを浮かべていた。

「気付いて――いたんですね?」

 暗黙の了解を取り交わした二人だったが、やがて遊夛の顔が普段の軽薄な笑みを取り戻した。

「さて、何の話をしているのか……さっぱり解らんな。ただのくだらない昔話だ。ほら、もう行けよ――」

 顎で「さっさと出ていけ」と促す遊夛。

 王は一体何の話なのか、理解できておらず不思議そうにしていたが、カインは「それじゃ」とだけ言って、取調室を後にした。

「一体、ヤツに何を言われたんだ?」と、王。カインが少し沈んでいる様子だったので、心配して声を掛けたようだ。

「何でもありません……。たぶん、俺達が知っても、どうしようも無いことですよ――」

 きっともう、この先あの男と会う事は、一生ないだろう――。



 ――遊夛との話を終え、王とカインは二人で外を歩いていた。

 ぼおっと上の方に目線をやりながら歩いていたカインは、冬の空はやっぱり澄みきっているな――などと、どうでもいいことを考えていた。もしくは、どうでもいいことを考えて、極力頭の中を空っぽにしておきたかったのかもしれない――。

 とりあえず今から王の家で、お昼ご飯を御馳走になることになっている。奥さんに呼ばれて沙帆も来ているのだと、王は言っていた。

 近道の為、平日の昼で誰もいない公園を横切る。砂場を過ぎたあたりで、王が少し気まずそうに口を開いた。

「なあ、前からひとつ気になってたんだがよ――」

 彼は、ポケットに突っ込まれたままのカインの手を見ながら、語り掛けた。

「何でしょう?」とカインが返事をする。

 王は顎をぽりぽりと掻きながら、こう言った。


「お前がいつも大事に持ってるそれ、クルス教の十字架――だよな?」


「ああ……これですか」

 カインはポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出して、握っていた手を開いた。そこには彼のお守りとしていつも携帯している――古びた鉄の十字架が握られていた。

「ええ、確かにそうですね。十字架です」

 カインは再びそれを手の内に握り込んで、大事そうにポケットに戻した。

「でも一応言っておきますけど、俺はクルス教信者ではありませんよ。

これはもともと、母が生前肌身離さず身に着けていていたロザリオだったんですけど、俺にとっては、まあ――」

 そこでカインは、改めて強く握りしめるその十字架の感触を確認するように、


「――俺にとっては、まあ、ただの大事な鉄くずです」


 そう言って、弱々しく笑った。

「そうか、おふくろさんの――」王はそう言いかけて、口をつぐんだ。

 カインは、通り過ぎようとしていた公園のベンチに腰掛ける。

「先輩、すみませんけど、先に行っててくれませんか? 俺、ちょっと休んでいきます」

王は、「そうか」と、カインの肩にポンと手を置き、

「沙帆ちゃんが心配するからな。なるべく早く来いよ」

 と、それだけ言って歩き出した。「すみません」と謝るカインに、先輩刑事は振り返らずにヒラヒラと手を振って応える。


 カインは、まだ少しだけ痛む背中を、手の甲で軽くさすった。

 先の戦闘で負った他の傷は全て、沙帆の能力で跡形も残さず完治したというのに、カインが最後に老司祭に吐いた嘘――その戒めの〈聖痕〉だけは、怪我が治ったのにもかかわらず、消えることはなかったのだ。

 王が負わされた十字の聖痕も、カインやアキラが屋古部に付けられた神槍の傷口でさえ、綺麗さっぱり消えてしまったというのに――。

 カインの背中の傷痕が消えないことには、沙帆もかなり動揺していた。このようなことは初めてだと――そして自分の落ち度で傷が残ってしまったのではないかと、ひどく落ち込んでいた。

 もっとも、カインにとっては今回も命を救われ、そして怪我を治してもらっただけでも御の字すぎるほど御の字なのだ。感謝こそすれ、恨み事などありようはずもない。

 おそらくは、それほど老司祭の最期の想いが強かったということなのだろうな――と彼は一人で勝手に納得していたのだから――。

 しかし――とカインは思った。


「やれやれ。皆、僕に十字架を背負わせたがるんだな――」


 ついぼそりと、声が漏れてしまう。

 事件は文字通り、カインの背中に一生消える事のない十字架を残すこととなったわけであるが――それはなにも今回に限った話ではない。

 彼自らの手で引き金を引き、終わらない実験から解き放ってやった迷い猫――。

 改心もせず、責任を果たすこともなく、嗤いながら消えて行った摘出者――。

 殺し屋の手に掛かり顔を奪われ、救う事が出来ずに死なせてしまった同僚――。

 教義に溺れ、狂信に身を任せて散っていった聖職者たち――。

 

 それら全て、カインにとっては背負わされた十字架以外の何物でもなかった。


 そして―――。


 ――そして彼は手に握った十字架に目をやる。

 神様っていうのが本当に居るのなら、なぜ敬虔なクルス教信者だった両親と、年端もいかない弟が、自分の目の前で殺されなくてはならなかったのか――。

 カインは、あの日の事件の時から、生粋の無神論者になった。

 だから、この「元ロザリオ」は、先ほど彼の言ったとおり、母の形見以外の意味は持ち合わせておらず、本当に「ただの大事な鉄くず」に他ならなかった。

 神に責任転嫁することさえ出来なくなった彼にとって、当時はまだ非力な少年だったことも、真っ先に襲われて瀕死の状態だったことも、何一つ言い訳にはならなかった。目の前で異能者に殺される家族を救えなかった事は、それもまた、その身に背負わされた十字架であることに違いはなかったのだ。


「咎負い人の十字架――か……」


 再びぼそりと呟いて、カインはベンチから立ち上がった。

 老司祭もまた、様々な「十字架」を背負っていたのだろう。そして、それを背中から下ろし、カインに押しつけて、逝ってしまった。

 いいだろう――。老司祭の前でも、あれだけ偉そうに「逃げない」などと言ってしまったのだ。今さら後には引けない。

 カインは改めて決意した。いくつ背負わされようとも、それらがどんなに重くても、たとえ自分が押し潰されそうになったとしても、逃げずに最後まで歩ききってやる――。

 そして、十字架を背負って登りきった丘の上。その上から望む景色を見てやろう――と。彼はそう思った。


「さあ、奥さんや沙帆ちゃんをあんまり待たせちゃ悪いな。あと、先輩も――」

 カインはそう言って、王の家に向かって歩き出した。






(―咎負い人の十字架― 完)


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