雨色の猫

三砂理子@短編書き

雨色の猫

扉が閉まるコンマ数秒前、電車に飛び乗った。ギリギリ、セーフ。危うく終電に置いていかれるところだった。

ここ数ヶ月、こんな生活が続いている。一応、帰りの電車を逃すようなことは、今のところない。けれどいつ終電に乗りそびれて会社に泊まるかネカフェで一夜を明かすか、なんてはめになるか分からない、そんな生活。

「あーあ、三年目、ってなあ」

つらいなあ、社会人。思ったけれど、口には出さなかった。言ってしまえば、つらさが増してしまう気がした。

座席でうとうとと夢と現の狭間を行ったり来たりし、帰り道も半目になったまま、それでも今日もどうにか春風に揺られ自宅のアパートへたどり着いた。

一人暮らしの寂しい男性さま、なんて文字が浮かんでいそうな、防犯警備もろくになっていない安いボロアパート。鍵を開け部屋に入る。六畳一間。かろうじて、キッチンと風呂、トイレは備え付けてある、けれどそれだって風呂なしじゃあ終電で帰ったときに周辺で入れる銭湯がないから備え付けの部屋を選んだというだけのこと。どこまでも、悲しい話だ。

家に着くと疲労感がどっと増す。ネクタイを解くのさえ面倒で、そのまま部屋の中心に寝ころんだ。銀フレームの眼鏡だけは、脱力した手でもどうにか外して、部屋の脇に放り投げるように置いた。

暮らし始めて三年目ともなると、アパートのボロさに身が染まったのか、哀愁漂う悲しい独身男が板についてしまった。持ち主に似る、とは言うけれど。持ち主が、似る、ってなあ。もしかしたら俺の背にも、一人暮らしの寂しい男性さま、と書いた紙が貼られているのかもしれない。

「どうせ、貴族にもなれない独身ヤローですよ」

と悲愁に呟くと、どこからともなく、にゃあ、と相槌が聞こえた。寝転がったまま視界をぐるりと動かすと、窓の外、ベランダに黒っぽい影が見え、そして、影の上方にある二つの金色のぐるりと光る瞳と、目が合った。

黒に近い藍色の毛をしたその猫はじっとその場に止まり、視線を逸らすこともしなかった。「なんだよ」と声をかけてみたが、今度は返答はなかった。

「餌ならあげないぞ。……おい、食べづらいだろ、帰れよ」

そう言ってしばらく待ってみても、猫は変わらず静止しこちらを見続けるものだから、先に音を上げたのは俺の方で、けれどあげられる餌もないから、仕方なく俺まで猫と一緒に晩ご飯抜きだ。冷蔵庫に入れておいた朝食の残りのおかずを取り出せば猫がにゃあ、と鳴くのだから、本当にお手上げだった。翌朝の支度を済ませ布団に横になると身体が大きな腹の虫を鳴らして空腹を訴えてきたが、両手で耳を塞いで聞かないふりをする。窓をちらりと見やると先ほどの猫とまた目が合う。その金色に引き込まれそうで、逸らすようにして目をぎゅっと閉じると疲労のせいかすとんと眠りに落ちた。


朝目が覚めると、ベランダから猫の姿は消えていた。これで気兼ねなく朝ご飯が食べられるぞ、と昨夜食べ損ねた弁当を取り出す、その脳裏の端を、ぼんやり寂しい気持ちがかすめた。


その夜は、珍しく終電前の電車での帰宅だった。ここ数ヶ月で他に例のない、本当にいつぶりか分からないようなことだった。二十三時までの営業の駅前のスーパーにだって入ることができた。そこで晩ご飯のカツ丼とおにぎり二つ、五〇〇mlのお茶が二本と缶コーヒーを一本、そして明日の朝食と昼食のためにパンをいくつか買い物かごに入れ、レジへ向かおうとした。

「……あ。猫缶」

そこでうっかり目に留まったのは、ペットフードのコーナーだった。犬や猫の写真がプリントされたパック商品や缶詰。昨夜の野良猫に似た猫は一匹もいなかったというのに、どうしてか引き寄せられるように視線がそこへ向かっていた。しばらくコーナーに並べられた猫のプリント達と睨み合った末に、

「今日も邪魔されたらたまったもんじゃないし、な……」

そう言い訳のように呟いて、俺は一番安い猫缶を一つ、買い物かごに放ったのだった。


それは予感だったのかもしれない。

家に帰ると俺は、無意識のうちに「ただいまぁ」と口にしていた。一人暮らしの寂しい部屋に、これまで声をかけたことはなかった。返ってくる声などないと知っていたからだった。

けれど今日は、部屋の奥から、にゃあ、と鳴き声がしたのだ。昨夜耳にしたのと同じ声だった。

そして俺は、その返事が聞こえることに、何一つ驚きはしなかった。まるで、その声が返ってくるのを分かっていたようだった。何ヶ月も何年も前から、そうあることが日常だったみたいに。

青毛の猫は、昨夜と同じ位置に立っていた。俺が姿を見せると、猫はゆっくりと俺を見た。俺も猫を見た。

「今日は、あるぞ、餌」

スーパーの袋から俺の晩ご飯と猫の餌を取り出し、ベランダの窓を開けてやる。開けてから、しまった、と思って、慌てて濡れ雑巾を用意しようと立ち上がったが、そこで猫がぴくりとも動かないことに気がついた。

「入ってこないのか?」

尋ねれば、猫は低い位置にあった視線をすうっと俺の顔がある方へ上げた。

もしかしてこいつは、自分が部屋に入ることで床が汚れることを分かっているのかもしれない。猫にそんな知能があるわけないのだが、何故か俺はそう思って、床に置かれた猫缶を拾ってふたを外し、ベランダにこつん、と置いてやった。

すると猫は、静かに餌を食べ始めたのだ。俺は少し満足げになって、床にあぐらをかいて共に晩ご飯を食べた。

その日から、猫は俺の家のベランダに居着くようになったのだった。


猫がいる生活は、けれどほとんど代わり映えのないものだった。仕事は相変わらず多忙で、終電でボロアパートに帰る日々。唯一変わったのは、帰路にコンビニで買うものの中に猫缶が増えたという、その一点。

とはいえ、かの野良猫を飼い猫にしたわけではなく、そもそも猫は一度も俺の部屋の中に入ってきたりはしなかった。

「ほら、食べろよ」

猫缶をベランダの適当なところへ軽く放り、猫へ声をかける。猫は動かず、俺を見つめている。

「なんだよ、いらないのか?」

問うても返答はない。鳴き声一つ出しやしない。しばらく睨めっこを続けて、それから俺ははぁ、とため息をついて、缶を猫のそばまで寄せてやった。

猫はお礼の一つもなく、俺が少し離れると黙って餌を食べ始めた。

「意地でも動かないのな、おまえ。わがままお坊ちゃん気取りかっつうの。それともお嬢様ですかー?」

嫌みを言いながら、俺も晩ご飯を食べる。猫が居着くようになってから、晩ご飯のときの独り言が増えた。どうにも、一人じゃない気がしてしまうのだ。猫を見ていると。ろくに鳴き声も上げないような、人ですらない相手に。

そもそも、鳴き声だって猫撫で声なんて可愛いものじゃない。「ふぅん、そっかあ」みたいなぶっきらぼうな相槌を、二、三聞ければ良い方なのだ。

それでもはじめはそこそこに可愛がっていたのだけれど、今では猫のあまりのふてぶてしさに憎らしさを覚え、猫に対して嫌みまで言うようになってしまった。

猫が姿を見せるのは、夜の一瞬だけだ。夜中に帰った俺が晩ご飯を食べる、その数刻にのみ現れる。そんな猫を、俺はまるで一時の夢のようだと思った。夢の猫を憎らしく感じながら、けれど一方で癒されていることもまた事実だった。

猫は、俺の愛憎など素知らぬふりで、黙々と餌を食べていた。


それは雨の夜だった。ざあざあと雨が降る中、電車に揺られる帰路で、ふと脳裏に猫のことがよぎった。そういえば、猫が居着くようになって、初めての雨天かもしれない。

今まで、昼間に降ることは何度かあったが、夜、俺が帰宅する頃には止んでいて、猫も何食わぬ様子で餌をせしめに来ていた。

今日の雨はまだまだ止む気配を見せない。きっと明日まで降り続けるだろう。猫は一体どうするだろう? 雨でもまた平然と現れるだろうか、あるいは。

漠然とした不安を抱えたまま、電車を降り、傘を差して家へ帰る。重い扉を開けたところで、不安は現実になる。

「ただいまぁ」

返事はなく、暗い部屋に俺の声が空しく響くだけだった。

猫が来ていない。そのことに、俺は激しくショックを受けていた。数ヶ月前までは当たり前だった、いやそれどころか帰っても声をかけることすらない、寂しい生活を送っていたというのに、たかが野良猫の一匹に、癒されるどころかここまで依存していたなんて。

一人きりの部屋はとても悲しく感じられた。外の雨はうるさい程に降り続けていた。


翌日は快晴だった。五月晴れと呼ぶに相応しい程に、太陽がかんかんと照りつけ、前日の湿気を吹き飛ばすような暑さだった。

冷房が効ききらない食堂で、額にじんわりと汗をかきながら一人カレーライスをかき込む。今日はこのまま夜も晴れるだろう。それはつまり、今夜はきっと……。そんなことばかり考えてしまう。


「よぉ、元気ないな。彼女にでもふられたか?」

業務中、隣のデスクから声がかかった。同期の高橋だった。

「まさか。彼女つくる暇なんて、ないだろ」

「そりゃあそうか。でも最近おまえ、やけに生き生きしてたから、てっきり彼女でもできたんじゃないかって矢口と話してたんだぜ」

言われ、ぱっと脳裏に浮かんだのはあの猫だった。彼女ではないけれど、他に理由は浮かばなかった。

「なんだそれ。そんなこと話してたのかよ。別に、いつも通りだよ。まあ、終電ばっかりだからな、少し疲れてるのかもしれないな」

「そうかぁ。身体壊すなよ」

「ありがと。おまえこそ気をつけろよ」

と誤魔化すように笑い、デスクに向き直った。仕事に集中しようとするけれど、思考は藍色一色に塗りつぶされていた。


それから三ヶ月が過ぎた。あの日、猫は現れなかった。あの日だけではない。この三ヶ月、雨の日も晴れの日も、猫は一度も姿を見せなかった。

最初は寂しいと思っていた気持ちも、多忙の中で徐々に薄れ、ひと月もすれば以前の独り身生活に馴染んでいた。家に帰ってきて部屋に挨拶を投げることも、コンビニでペットフードの棚の前で立ち止まることもしなくなった。ただ、消費のしようがない猫缶の買い置きはどうにも捨てられず冷蔵庫の隅で眠り続けている。


「おいおい、これ今日帰れるのかあ?」

「帰りに電車が動いてるか心配だな」

高橋が窓の外をうかがいため息をつく。そのぼやきには全面的に同意だった。

秋の半ば、最後の一仕事と言わんばかりの大型台風が本土を襲っていた。朝の注意報は昼過ぎには警報に変わり、それに応えようとするかのごとく雨風はゴウゴウと叫び吹き荒れる。

都内は交通網が発達しているとはいえ、自然災害には弱い。耐えきれるとは思えなかった。

「定時で上がらせてくれればいいんだけどな」

「あんま期待すると裏切られたときにつらいぞ」

「それもそうだなあ」

今後の台風の行く末と会社の決断を憂いながら、現実逃避のように仕事へ向き直る。気持ちが上がらないのは俺たちだけではないようで、社内は外の天気のようにじめじめとした空気が蔓延していた。


社内の陰気な様子を察したのか、あるいは上からの通達があったのか。俺たちの願いは通じ、定時過ぎには残業を切り上げ帰宅するようにとのお達しがあった。交通網は遅延こそあれど運転を見合わせているところはなく、湿気を多分に含んだ服と服が接し合う満員電車に押し込まれ俺は自宅へと戻った。

帰宅するなり、じんわりと濡れたスーツを投げ捨てる。ネクタイと眼鏡、ワイシャツのボタンを外し、床に倒れる。コンビニに寄ることさえ億劫だったために、晩ご飯は買っていない。気分が上がらないせいか、あまり食欲もなかった。

外は嵐が止む気配を見せず、安眠を阻害する騒がしさだった。けれど日々の疲れはそれを凌駕したらしく、俺はほとんど気絶するように眠りに落ちた。


頭がピリピリと痛むような気がして目が覚めた。ぼんやりと意識が戻ってくると、それがインターホンの音に脳が刺激された結果としての痛みなのだと気づいた。

ピンポン、ピンポンと鳴り止まないその音に少し苛立たしいと思いながら、眼鏡を手にとりふらふらと立ち上がり扉を開ける。そこに立っていた姿に、寝ぼけていた脳が一瞬で覚醒をした。

扉の前にいたのは、小さな女の子だった。

少女は、あまり綺麗とは言い難い白のワンピースに裸足という身なりをしていた。青みがかった黒髪は伸び放題で毛先が自由奔放にはねている。そして傘を持っておらず、髪も服も雨でびしょ濡れだった。けれどそんな有様よりも俺を驚かせたのは、その乱れた髪から生えた、髪と同色の猫耳、そして少女の背後で揺れる尻尾だった。

「……は?」

奇怪な少女の登場に寝起きの頭がついていかず、思考回路がショートし素っ頓狂な声が漏れ出た。少女は口をへの字に結んでじいっとこちらを見ている。

互いに黙ったまま見つめ合う。雨音が世界を支配していた。

先に口を開いたのは少女だった。

「おなかすいた、ご飯は?」

「はあ?」


























よもやそんな言葉が出てくると思っていなかった俺は、再び素っ頓狂な声を出してしまった。

「いや、誰だよおまえ」

年端のいかない相手であることも忘れ、思わず語気を強める。けれど猫耳少女は臆することなく、俺を見つめ言うのだ。

「いつもご飯、くれたじゃない」

その言葉に、俺はぽかんと少女を見た。中学校にも上がってないだろう幼い少女に、見覚えはない。ましてや猫耳に尻尾までつけた少女なんて。

「……え?」

ただ一つ、心当たりがあるとすれば、それは。

「にゃあ」

とってつけたような鳴き真似。その声が俺の記憶を呼び戻す。心当たりを確信に変える。その鳴き声を、俺はずっと忘れられずにいた。

少女の鳴き声は、猫の声真似なんてする気がない、人間の雑で棒読みな声だった。けれど、その可愛げのないぶっきらぼうさは、あの猫の鳴き声そのものだった。

「ほんとにおまえ、あいつなのか?」

「まだ疑うの」

いいからご飯ちょうだいよ、と不機嫌そうに訴えるその図太さに、俺は大笑いした。

「なに!」

「はは、すまんすまん。妙な姿になっても変わらないんだなと思って。幽霊だの化け猫だのなんて信じちゃいないけどさ、いいよ、上がれよ。猫缶が残ってるんだ。久しぶりに晩ご飯付き合えよ」

笑いが収まったあとはやけに饒舌になり、少女を部屋に招き入れた。

これが夢なのか幻覚なのか、それとも疲労で俺の頭がおかしくなったのか。そんなことはもうどうでもよかった。なによりも嬉しかった。どんな形であれ、また会いに来てくれた。それだけでよかった。

「おまえ、他に服持ってないのか? 風呂は貸してやれるんだけど、服はサイズがなあ」

「ない」

少女が濡れた身体のまま部屋に上がるので、床は少女が歩いた通りに濡れていた。

「だよなあ。元々猫だもんなあ。なにかマシな服あったかな……。あ、とりあえず風呂入ってろよ、服は探しておくから」

「や」

「は?」

「嫌」

少女は先程と同様に口をへの字に曲げて拒絶を主張した。俺も負けじと口を曲げる。

「なに言ってんだ、そんなずぶ濡れの格好で。とっとと入れよ、部屋中雨に降られるのはごめんだぞ。風呂入ってこないと猫缶はやらないからな」

無表情に近い様子でこちらを見ていた少女が、最後の言葉で一変、目を見開いた。

「お風呂いや! でも、でも!」

「おまえ、風呂嫌いなのか。だから髪もそんなボサボサなんだろ。でも、だめだ。ほら」

ぶんぶんと首を左右に振り雨水を飛び散らす少女の背中を押して、洗面所に追いやる。少女は振り返り、俺の方を見上げ瞳で拒絶を訴えてきた。

「ちゃんと綺麗にしてきたら、いつもより高い猫缶用意しといてやるよ」

高い猫缶、の言葉に少女の耳がぴょこんと跳ねたのを確認して、俺は洗面所の扉を閉めた。


雨の中晩ご飯と猫缶を買って戻ると、部屋の中央で少女が正座をして待っていた。

ボサボサだった髪は綺麗に整い、藍色も艶を取り戻していた。そして俺が用意したシャツは少女のワンピースと同じくらいの丈のようで、少女の体躯をすっぽり収めていた。その見違えた様は、猫耳がなければ彼女だと思わなかったかもしれない。

「ご飯はー?」

「ちゃんと買ってきたよ。ほら」

ビニール袋から取り出し少女に手渡す。少女は表情こそ変わらなかったが、とても大切そうにその小さな手のひらに猫缶を収めた。

プレミアム、と金色の文字で書かれたそれは、少女との約束通り、いつも猫にあげていたものの倍額近くするものだった。

「いただきます」

ぺこりと小さく頭を下げ、缶詰のプルトップと格闘を始める少女の正面にあぐらで座り、ビニールから自分の弁当と惣菜の唐揚げも取り出す。

「おまえが人間のご飯食べれるか分からなかったから猫缶にしちゃったんだけど、もし足りないならこれ食べてもいいから。いらなければ俺が食べるし」

唐揚げのパックを開けてやると、少女はまじまじと唐揚げを見て、それからようやく開封した手元の猫缶と交互に見つめ、猫缶を膝に置くとおそるおそる唐揚げを一つつまんで口に持っていった。

ゆっくりと咀嚼し、こくこくと頷く。どうやら気に入った様子で、二つ目にも手を伸ばす。またゆっくり頬張る。膝の上の猫缶を思い出したようで、次はそちらをつまんで食べ、頷く。その後ろでは、尻尾がぱたぱたと揺れていた。

あまりに分かりやすい行動に、俺は食事に夢中な少女にばれない程度に小さく笑った。あんなにふてぶてしく憎らしいと思っていたのに、猫のときも内心はこんなふうだったのだろうと思うと愉快な気持ちだった。

少女を見ていると自分もお腹が空いてきて、弁当を食べ始める。少し前までは全く食欲がなかったというのに、今はどれくらいかぶりに食事を楽しんでいる自分がいた。


翌朝、目が覚め寝ころんだままに部屋を見渡すと、少女の姿はなかった。そのことに俺は半分落胆したし、半分納得した。

昨日のことはやはり夢だったのだ。一瞬でもそうでないことを期待した自分が愚かだったのだ。

ため息を一つ。そして会社へ向かう準備をしようと身体を起こす。

その目の前に突然、影が落ちた。見上げれば、藍色の髪が視界に入る。

「ね。ご飯」

さも当然のように、少女はそう言葉を落とした。少女の髪は少し濡れているようで、水滴が一つ、俺の手に落ちた。


少女はそのまま我が家に居着いた。これが夢の続きなのか、少女そのものが幻なのか、俺にはもう判別がつかなかったから、俺は疲れた頭で考えることを止めた。異常を異常であると思えない程度に、俺は思考が麻痺しているようだった。

「おい、荷物届いたぞ」

「う?」

「俺じゃなかったらおまえしかいないだろ」

段ボール箱を抱え玄関から戻る。きょとんと小首を傾げ自分を指さす少女の目の前に箱を置いてやり、封を切る。

「一昨日話しただろ。おまえの洋服だよ。いつまでも俺のを着てるわけにいかないし」

子供用の白のTシャツと黒のスカート。サイズは曖昧に選んだのだけど、実物を見てみるとちょうど良さそうだった。

着替えてこいよ、と洋服を渡し背中を押せば、少女は洗面所の奥に入っていく。

しばらくして扉が開き、少女が落ち着かない様子で出てきた。

「ど?」

「うん、いいんじゃないか」

スカートの端をつまんでいじり、うつむく少女。顔を下げると前髪がばさばさと揺れ、少女の視界を妨げるようだった。

手招きで少女を呼ぶ。とことこと近づいてくる。床に座らせ、段ボール箱の底からヘアゴムと鈴を取り出した。

「ちょっと動くなよ」

それだけを告げて、少女の前髪に手を伸ばす。少女はぎゅっと目を閉じ、動かなくなった。その前髪をまとめて一つに結う。後ろ髪はそれぞれに鈴をつけて、二つ結びで縛る。シャン、と音が鳴る。

「もういいぞ」

少女がゆっくりと目を開け、それから少し目を細めた。光が明るすぎたのかもしれない。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、それからようやくもう一度目を開いた。

「ど?」

「うん。楽になったろ」

シャン、シャン、と少女が動く度に鈴が鳴り、その音に反応して少女が左右に首を揺らす。そのうちに少女は目が回ったようで、ふらふらと回った後にすとんとへたり込んだ。

「あらら?」

「おいおい、怪我するなよ。その鈴は首輪の代わりみたいなもんだから。外すなよ」

「うん!」

返事と共に、鈴が軽快な音を鳴らした。


「ただいま」

終電で家に着き、扉を開け声をかけると返事の代わりにシャン、と鈴が鳴る。それは少女の返事だった。俺が帰ってくる時間になると、少女はいつも正座で待っている。どうやら、それが彼女にとっての食事への作法らしかった。少女は俺への反応は猫であった頃と変わらず口数は少なく感情の起伏も乏しいが、さて食事となると一変、どこまでも真摯だった。野良猫であったのなら大した食事はできなかったのだろうというのは俺の勝手な想像であるけれど。

「なんだ、まだ食べてなかったのか。先に食べてていいってのに」

「や」

少女はいつも一人では食事をとらない。朝と夜は俺と一緒に食べ、昼は食べていないようだった。以前は毎日昼食用に猫缶を用意していたが、全く手をつけられた気配はなく、今は用意もしていない。

「はいはい。じゃあ、食べるか」

「うん!」

猫缶以外も食べるようになった少女に、俺はちょっとした実験でもするみたいにいろいろなものを買って帰った。焼き魚やハンバーグ、お米もパンも少女は様々なものが食べることができた。それでも一番のお気に入りは、初めて食べた唐揚げのようだった。

「今日はイカのゲソ天な。あとサラダも食べないと身体によくないぞ」

「や! 野菜嫌!」

「じゃあ他もなしだぞ」

けれど少女は野菜が大の苦手で、手の掛かる子供のようだった。

「うー……一口食べたら、いい?」

「うーん……まあ、一口でも、いいぞ」

言われて、少女はサラダと闘うみたいに険しい表情でそれを睨み、震える手でフォークを刺した。ゆるゆると手を持ち上げ、ぎゅっと目を瞑りそれを口に放った。眉をハの字に曲げながら噛みしめ、長い時間をかけごくりと飲み込んだ。ようやく目を開けた少女は俺を見てべえ、と舌をつきだし、不快を訴える。

「がんばったな。他も食べていいぞ。水飲むか?」

少女は頷き、水を受け取ると喉につかえたものを流し込むようにがぶがぶと飲んだ。一息ついて、大仕事をやり遂げた少女は数刻前とは打って変わり、遠足へ行く前日の小学生みたいなわくわくとした表情でゲソ天にフォークをおろした。

そんな一連の少女の行動を梅干しを食べながら見ていた俺は、彼女すらいない独り身だというのに、まるで父親にでもなったみたいだった。


「なあ、今夜空いてるか?」

ひそひそ声で高橋が尋ねてきて、俺は何と返せばいいか迷ってぎこちない微笑を浮かべた。

給料日後の週末、花の金曜日。それが一体どんな誘いであるかなんて、考えるまでもなかった。

「なんだ、今日もだめなのかよ。最近付き合い悪くないか?」

「ううん、だめ、ってわけじゃないんだが……全く用事がないわけでもない、というかなあ」

「彼女か?」

「違うっ!」

コントのようなやりとりに、俺たちは小声のままに笑った。

上京して就職、近くに友人はおらず、仕事ばかりの寂しい日々。特に用事があるわけではない。けれど気にかかるのは、あの少女のことだった。

少女は頑なに一人で食事をしない。時には眠そうに目をこすりながら、いつも帰りの遅い俺を待っている。それを思うと、定時で帰れる日はなるべく早く帰ろうと、最近は夜の誘いはすっかり断っているのだった。

「……まあ、今日くらいはいいよ。付き合うよ」

「いいのか?」

「たまにはな。俺も飲みたいし」

もし少女が腹が空いても、家には猫缶の備え置きがある。いくら彼女でも耐えきれなければ俺を待たずに食べるだろう。それに、遅くとも終電で帰ればいつも帰るのと同じだから大丈夫だろう。

そう言い訳を重ね、脳裏に浮かんだ少女から目を背けた。


ふらふらと電車に乗り込む。がら空きの車内、その隅に倒れるようにして座ると一瞬意識が遠のきそうになった。頭ががんがんと叩かれたように痛む。

ちらほらと他の朝帰りのサラリーマンや夜の仕事を終えたきらびやかな女性が乗ってくるのが視界の端に見える。

土曜の始発電車。どれくらいかぶりの酒に耐性がめっきり落ちていたようで、早々に酔いが回った俺は思考力も低下し、結局、勢いのまま高橋と矢口と終電後まで飲み明かしてしまったのだった。

「あいつ生きてるかな……」

ゆっくりと思考を取り戻し始めると、酔って忘れていたぼんやりとした懸念が一人の少女の姿を形成する。

死んでいることはないだろうけれど。食事はとっただろうか。そもそも、どうして家にいると断定できるだろう。彼女は餌につられて俺の前に現れただけの猫であり、それ以外に俺と彼女の繋がりはないのだ。食事を与えてくれる存在がいない家に、どうして居続けるというのか。

懸念は不安に変わる。猫がいなくなったあの雨の日を思い出し、不安がさらにかき立てられる。

また一人になるのか。またあの寂しい部屋で一人でご飯を食べる生活に戻るのか。

不安と寂しさを抱えながら、けれどその感情の吐き出し口がない。電車が揺れる度に頭が痛み寝ることも叶わず、ただ駅に着くのを待つしかなかった。


恐る恐る扉を開く。挨拶はしない。返事がなかった場合を考えると言えなかった。

部屋の中央に丸まっている姿を見たとき、言いようのない安堵感がどっと押し寄せた。少女はいつも俺の帰りを待っている場所に、正座を崩したように座り、うつむいてうずくまっていた。背中がわずかに上下するから、寝ているらしかった。

起こさないように離れて、シャワーを浴びる。

「あー……」

ため息のような声が漏れる。ぬるいシャワーがぼうっとしていた脳を活性化させ、目が冴えてくる。

部屋に戻ると、少女が目を閉じたまま身体を起こしていた。

「起きたのか?」

「んー。あー。にゃあー」

半分無意識的な脈絡のない言葉を上げる。目を強くこすり、どうにか起きようとしているようだった。

「おまえ、夜じゅう待ってたのか」

「んー」

シャン、と頷く。

「食べていいって言ってるのに」

「やー」

シャンシャン、と首を振る。

寝ぼけたその仕草にいつものふてぶてしさはなく、不覚にも愛らしさを感じてしまう。

彼女の消失に寂しさを感じることはあっても、愛らしさを覚えたのはこれが初めてだった。

「あーほら。猫缶買ってきたから食べるぞ。顔洗ってこいよ」

手を差し出せば、少女がその手を取り立ち上がる。ふらふらと歩いて洗面所に入っていく。水の流れる音がして、それが止まると再び少女が戻ってくる。顔を拭くのが下手なようで、まとめてある前髪から水が少し滴っていた。

「いただきます」

猫缶とおにぎりをそれぞれに食べる。笑顔をほころばせて食べる少女。満腹感だけではない、心が満たされていく感覚。自然と頬が緩む。

ふと、少女の笑顔の根元はこれなのかもしれない、と思った。一人では得られない、誰かと一緒に食事をとる喜び。それは幸福の味だった。

朝食を食べ終わると、俺たちはスイッチが切れたように眠りについた。眠る中で、俺は少女の夢を見た。夢で見た少女は食事時でもないのに笑っていて、俺もそれに笑い返していた。


目が覚めると既に日が落ちていた。横に少女の姿はない。部屋をぐるっと見渡してもその影はなく、また洗面所にでもいるのかとぼうっと考えたが、水の音もしていないことに気づく。ぱちぱちと瞬きを数回。ぼんやりと洗面所の戸を開けると、そこはがらんとしていて誰の姿もなかった。

突然の虚無感に俺はなにも考えられずにただ立ち尽くした。

部屋中を探し、なにか彼女の痕跡だけでもないかと隅々まで見たけれど、あったのは蓄えの猫缶のみで、今朝の食事のごみさえ見つからなかった。なにか悪い夢かと思い布団に戻り寝直そうとするけれど、十二分に寝た身体はそれを許してくれなかった。

そもそも、この今までのひと月ばかりの出来事が夢だったのではなかったか。猫が人の形をとって現れるなんて、あるはずがないのだ。夢でも構わないと、そう思ったのは俺だ。その夢が覚めただけのことじゃないのか。

そうは思っても、二度目の喪失は一度目以上に堪えるものだった。また長い月日を経て孤独に慣れないといけないのかと途方に暮れる。

「にゃあ」

突然、背後から声が聞こえた。反射的に振り返る。そこに少女はいない。

いたのは、雨色の猫だった。

初めて見たときと変わらぬ風貌でベランダに背筋良く静止し、にゃあ、と猫が鳴く。その懐かしい姿にまた俺は夢を幻を見せられているのかと何度も目をこするが、猫は消えることはなく、金色の瞳が俺を捕える。

半信半疑で猫缶を取りだし猫の前に置こうとすると、猫が一歩、歩みを進めた。例のないことに驚いて、その行動を見守る。猫はそのままベランダの窓枠を乗り越え、部屋へ入ってきた。そうして、部屋の中央まで歩いてくると、そこで再び背筋を伸ばし座った。

猫の行動に、俺は言葉を失っていた。なぜなら、猫が座ったのは、少女の定位置だった場所なのだった。

俺が猫缶を手にしたまま茫然と見つめていると、猫がねだるように小首をかしげにゃあ、と鳴いた。シャン。猫の動作に重なるように聞こえた、鈴の音。当然、鈴なんてどこにもあるはずはなく。第一、あの猫少女は夢のはずなのに。

シャン、と鈴が再び鳴り、俺の思考を遮る。猫は待っている。猫の前に猫缶を開けて置いてやる。それでもまだ猫は動かない。

「おまえ、唐揚げは食べれるか?」

俺は冷蔵庫を開けるが、その中には晩ご飯になりそうなものはなにもなく、飛ぶようにしてコンビニへ買いに走った。猫は待っている。彼女は、俺が一緒に食べるのを、待っているのだ。

よれたシャツ姿で走りながら、猫に名前をつけてやろうと思った。彼女はもうきっとどこへも行かないだろう。朝も夜もうちで猫缶を食べるだろう。今まではなくても不便はなかったけれど、野良でなく飼うのならば、名前がいる。首輪は必要ない。響く鈴の音が、彼女が彼女であることを教えてくれる。そうして一緒に暮らして、一緒にご飯を食べるのだ。俺はそれだけを思い、猫の元へ一心に走った。


End.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨色の猫 三砂理子@短編書き @misago65

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ