縁切り榎
三砂理子@短編書き
糸切り少女
「夕焼け小焼けで、日が暮れて、山のお寺の、鐘が鳴る」
大樹の太い枝に腰掛けて、足をばたつかせながら少女――ミツエが歌っていた。夕明かりに照らされたミツエの頬は赤く、ミツエが着る子供用の丈の短い着物と揃いの色だった。
日が落ちていくにつれ、ミツエの機嫌は良くなっていった。夜色のぽっくり下駄を左右ぶつけ合わせてカコカコと音を鳴らし、うふふ、と笑う。ミツエは夜が好きだった。
夜は、来訪者が多い。それは、夜の闇色が人の心を黒く染めて、ミツエの元へ連れてきてくれるから。夜の静けさは、人の思いが彼女に届きやすいと、そんな気にさせるから。
「ほらね、うふふ、来たよ」
辺りを気にしながら、女性が一人、やってきた。女性はミツエの存在には気づくことなく、大木の横に建てられた、拝殿と呼ぶにはやや小さい祠の前に立った。賽銭を投げ、手を合わせしばし祈る。すると、女性の小指に、赤い糸が伸びているのが、ミツエには見えた。
女性は祠に来たとき以上に周囲をきょろきょろと確認しつつ、足早に去っていった。
「赤い糸、みいつけた」
その夜は、五人が祠の元を訪れた。うち一人は拝殿の手前にある絵馬掛けに絵馬をつけていった。五人は成人前後から中年の年の幅はあったけれど、全員が女性だった。ミツエは女性達が思い思いに祈っていくのを木の上から楽しそうに眺めていた。
翌日、人の少ない明け方、ミツエは神社を出て町へ出かけた。都内といってもその外れに位置する住宅地であるその町は、朝は閑散としていた。鼻歌交じりで小道を歩き、ミツエは一軒のアパートの前にやってきた。アパートの二階に上がると、その並びの一室から赤い糸が出ているのに気づいた。ミツエは
「ごめんくださあい」
と軽く声をかけると、ノックなしにその部屋へ、――扉をすり抜けて、入った。
ミツエが侵入した部屋は、一人暮らしの女性の部屋だった。その女性は昨日ミツエの元を訪れたうちの一人だった。
女性らしく清潔に整頓された部屋の角で彼女は眠っていた。深夜にミツエを訪問し、帰ってそのまま寝たのだろう。昨夜と変わらない服装のまま、沈むように眠っている。
その左手小指には細く赤い糸がくくりつけられており、家の外まで伸びていた。ミツエは屈んで、その糸を女性が起きないようにそっと手に取った。赤い糸は血が通っているかのように小さく脈打ち、慎重に扱わなければすぐ切れてしまいそうな脆さを感じさせた。ミツエはしばしの間それを愛おしそうに見つめていた。
「んー、切りたいなあ。おいしそうだなあ。だめかなあ。だめだよねえ。んー。我慢、ガマン」
自分に言い聞かせるように呟いて、ミツエは立ち上がると、入ってきたときと同様に扉をすり抜けて部屋を出た。家の外に伸びる赤い糸を見つけ、それを女性がいるのとは反対方向に向かって辿る。日が昇り始め人の行き来が増えだすと、ミツエは「仕方ないなあ」とぼやいて、それから一瞬にして住宅街から姿を消した。
糸は都心のマンション街に続いていた。そしてそこに、消えたはずのミツエの姿があった。ぼちぼち人の影が見える都会の中心で、赤い和服のミツエは浮いていたが、人々はまるでミツエが見えていないようにそれを気にも止めないでいた。
ミツエはマンション群の一つ、赤い糸が伸びる高層マンションに入った。エレベーターで十五階へ上がり、女性のアパートのときと同様にして一室に入る。赤い糸の先で眠っていたのは中年の男女だった。
糸は男女のうち男性の方へ繋がっていた。しかし、男性の元に伸びた赤い糸は一本ではなかった。二本の赤い糸が、それぞれ左手の薬指と親指にくくられていた。女性から伸びた糸は親指に、そしてもう一方の薬指の糸は横で眠る中年女に繋がっていた。親指のそれの細さに対し薬指の糸は太く、そして二本を見比べるとその色は薬指の糸は明るく赤々としており、一方で親指の糸は赤黒く見えた。なにより、寄り添い眠る中年男女の左手薬指には、赤い糸と共に指輪がはめられていた。
「ふうん、うふふ、そっかあ。これかあ」
ミツエは中年二人の寝顔をなめるように見つめ、それからどこからともなく糸切り鋏を取り出し、
「いただきまあす」
と丁寧に手を合わせると、二人を結ぶ糸を掴み鋏でそれを切った。
「ごちそうさまでした」
切られた糸は脈打つのを止め、砂が零れるようにさらさらと消えた。ミツエは再び手を合わせ、丁寧にそう言った。
寝たままの二人は糸が切られても一見して変化はなかった。ミツエが立ち去る間際、再び二人をちらりと見やると、男性の親指に結ばれていた赤い糸がほどけているのが目に留まったが、ミツエは微笑を浮かべるだけでそのままマンションを後にした。
昼を過ぎ、ミツエが神社に戻ると、ミツエの特等席である木の枝に人影があった。
「ただいま」
「おかえり、仕事の帰り? 精が出るなあ」
人影に声をかけると、それは手をひらひらと振って応えた。
ミツエが軽く地面を蹴り上げる。するとミツエの身体はふわりと宙に上がり、人影の横にすとんと着地した。人が二人乗っても大木はぴくりともしなかった。人影は、大人の男の姿をしていた。
「うん、そーよう。今日は五人。最初の人がね、一番おいしかったなあ」
「おいしい、ねえ。そりゃあまあ、三つ榎はそういう存在だって、分かっちゃいるけどさ。人の不幸喰らっておいしいってのは、どうかと思うんだよねえ」
大木の枝に座っていたその男――イツキは金髪の頭をぽりぽりとかきながら困ったような顔をした。
「もう、一槻はすぐそうやって、うるさいの。だって、私は人と人との縁を切って生きる、縁切り榎なんだから、仕方ないじゃない。おいしいものはおいしいのよう」
「うん、だからそれは、分かってるさ。ただそれなら俺も、曲がりなりにも縁結びの神様だからね。そう思ってしまうのも、仕方ないだろう」
神様、ね。とミツエはぼそりと呟いてイツキの全身を流し見た。金色の長い髪を後ろで一つに結んでいる。着崩した和装のその姿は、神らしいと呼べるものではなかった。
三つ榎は「縁切り榎」の神木であり、一槻は「むすびのけやき」の神木の一つである。縁切り榎は古くからその名で信仰されてきた神であり、三つ榎はその三代目にあたる。一方で「むすびのけやき」は長らくは変哲のないけやきだったが、現代になり町のシンボルとなった後、駅の近隣に立っていた老樹三本を祀ってそう名付けられた経緯がある。三つ榎は神としては一槻の先輩だが、木としての樹齢では一槻の方が上になる。
縁を切る榎と縁を結ぶけやき。二つは対照的でありながら、どこまでも近しい存在であり、離すことのできない関係だった。
ミツエが鋏の手入れをしていると、まだ日も落ちきっていないというのに、縁切り神社に来客があった。
「おや、こんな時間にこんな子が、珍しいね。冷やかしかな?」
「んーん。お客さんだよ。私には分かるもん」
「さすが神様だねえ」
頭上でそんな会話がされてるとは思いもせず、来客である少年は絵馬を持ち神社へ入ってきた。少年は辺りを見回すようなこともなく、迷わず祠の前まで歩みを進めた。
「ほほう。近頃の子にしては、礼儀がなってるね。関心、関心」
とイツキが首肯し言うように、少年の参拝は正式な作法のものだった。
少年がお参りをし終え真剣に絵馬を書くのを、二人は静かに見守った。絵馬をかけ終えた少年は神社を後にするとき、再び振り向き、縁切りの神木に向かって深く頭を下げた。
ミツエはそんな少年を、後ろ姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。
「彼はどんな願い事をしたの?」
少年が帰り辺りが再び静寂になると、イツキは神木から下り、絵馬掛けから先ほど少年が掛けた絵馬を手に取った。
「お母さんが、病気と縁が切れますようにーって」
「健気だねえ」
「……でも、だって、私はまだ病気の糸は見えないわ」
縁切り榎は様々な縁を切るとされているが、古くから効くとされているのは色恋事-と酒断ちについてのみで、それ以外は人々が「縁切り」を広く解釈しただけにすぎない。とくにミツエは神木といっても過去二代に比べればまだ若く、それゆえに未熟なところも多い。それはたとえば、ミツエは色恋事と酒類の縁以外は未だに「縁の糸」として見ることができないのだった。
「先代たちは、病は黒の糸で見えたそうだね」
「私は、恋の赤と、お酒の青しか見えない。見えない糸は、切れないのよ」
ミツエは、少年の丁寧なお辞儀を思い出していた。今まで出会ったどんな人間よりも、純粋な願いと祈りだった。その純粋さはそのまま、少年の純粋さであるのだろう。それは、ミツエに生まれて初めて、「助けてあげたい」と思わせた。
「三つ榎は、どうしたい?」
「……んー。わかんなあい」
ミツエの気持ちを察して問うたイツキに、ミツエは淡く笑うだけだった。
翌日ミツエは一日少年の元を訪れた。少年は、まだ新しい制服に着られているような中学一年生だった。とくにこれといった特徴はなく、小学校時代のやんちゃさが抜けきらない平凡な少年だったけれど、縁切り榎の前を通るときだけは必ず立ち止まって丁寧に頭を下げていった。
「どうだった? 翔くんは」
少年の名前はカケルと言った。
「んー。ふつー」
「母親も見てきたんだろう?」
「うん。でもやっぱ、だめだったよ」
ミツエはカケルが近くの病院に母親の見舞いに行くのについて行ったが、やはり病の糸を見ることはできなかった。
「落ち込むことじゃないよ。俺たちは神様とは言っても、できることと、できないことがあるんだから。そもそもミツエは、他のぐうたらな神たちよりもずっと、よくがんばっているじゃあないか」
ミツエは、即日全員とまではいかないまでも、ほとんど毎日、参拝者の周囲へ飛んでいってはその縁の糸を切っている。あるいは、神社にきていなくとも、思いの強い人のところへ行くことも少なくない。ほとんど縁結びの仕事もせず、縁切り榎を訪れたり遊んだりしているイツキと比べても、その仕事ぶりは明らかだった。
「一槻は、彼のこと、どうにかできないの?」
「どうにかって、たとえばどんな?」
「一槻は、縁を結ぶ神でしょ。何かと縁を結ぶっていうのは、別の何かとの縁を結ばないとか、結びつきを弱めるってこと。私が縁を切ることで他との縁を結べるようにするのと、やり方は違うけど、同じこと。だから、」
言葉の続きを、ミツエは言うことができなかった。イツキの困った表情は、ミツエの気持ちへの答えを何よりも雄弁に物語っていたから。
「俺はひよっこだからね。三つ榎にできないことは、俺にもできないんだよ」
ごめんな、と顔をくしゃりと歪め笑うイツキに、ミツエは胸が締め付けられるようだった。
[newpage]
それからもミツエは度々カケルの後をついて回った。カケルは毎日母親の見舞いに行っているようで、そのために中学の部活動には入っていないらしかった。
その日はミツエはカケルのところへは行っていなかった。別の参拝者の元での縁切りを終え、拝殿に寄りかかってうたた寝をしているところだった。
「こんにちは?」
声をかけられ、ミツエははっと目を覚ました。イツキかと思ったが、それにしては随分声が高く、ミツエは目をごしごしとこすって相手のことを見た。
「こんにちは、君、この辺の子?」
声の相手はカケルだった。学校帰りにお参りにきたのだろう、制服姿で五円玉を手にし、祠の前に立っていた。
「あ、え、うん、そう」
いきなりのことに、ミツエは動揺を隠せなかった。ミツエは人の形をとってはいるが、神様であり、普段は人間の目には見えないはずだった。自らの意思で姿を現すことはできるが、今はその意思もない。
「起こしちゃってごめんね。でも着物って、あんまり汚しちゃだめなんじゃない? ここで寝てると着物汚くなるよ」
言われ、ミツエは飛ぶようにして立ち上がった。
「そう、ね。ありがとう。……きみ、は?」
「あ! ごめん! 俺は翔。なんか別に不審者とかじゃないから!」
慌てて弁解するカケルに、ミツエは内心ほっと胸を撫で下ろした。どうやら今までずっとミツエの姿が見えていたわけではないらしかった。
「あ、うん。えーっと、私は、ミツエ。翔はここで何してるの?」
「ああ、俺は榎にお願いしに来たんだ。ミツエもそうじゃないの?」
「んーん。私は違うわ。ここが静かだったから、それで寝ようと思って」
「こんなとこで寝るなんて、ばち当たっても知らないぞ」
「うん、そうねえ。うふふ」
ミツエの正体を知らないカケルの言葉に、ミツエはなんだか愉快な気持ちになった。
「神様が悪いことをしたら、一体誰が罰を当てるのかしら」
「うん? 今、何か言った?」
「うふふ、なんでもないのよう」
ミツエの呟きはカケルには聞こえていなかったようで、きょとんとするカケルにミツエは楽しげに笑いかけた。
「ミツエは、小学生?」
「うん、そーよう。六年生」
「すぐそこの?」
「ううん、もっと遠いとこ」
カケルが縁切り榎に来る度、ミツエは故意に姿を見せ、人間のふりをして接するようになった。カケルは最初の印象と違わず、どこまでも純真無垢な男の子だった。カケルに嘘を吐くのは罪悪感に駆られる行為であったが、本当のことを答えるわけにもいかないのだった。
「俺、もう帰らなきゃ。病院に寄っていかなきゃいけないんだ」
「明日も、来てくれる?」
「うん、明日も来るよ。約束な」
「うん!」
そうして仲を深めていく二人を、イツキは不安げな表情で見つめていた。
「万が一何かあったらどうするんだ」
「んー? 大丈夫よう。ばれたりなんてしないわ。一槻は心配しすぎなの」
二人をはらはらと見守るイツキに対して、ミツエは呑気であるというより周りが見えてないようだった。
「ばれる、ねえ。うーん。それも、そうなんだけどねえ」
何かを言いたげなイツキだったが、ミツエは心ここにあらずといったふうな様子で、イツキは続きの言葉をそっと心に飲み込んだ。
イツキの心配をよそに、二人の親密度は増していった。
ミツエはカケルが参拝を終えるのを榎の木の上で待ち、それから姿を現すことで、カケルの母親の近況を知った。
カケルの母は順調に回復の方向に向かっているらしかった。カケルはそのことを拝殿で何度も感謝を述べた。感謝される度に、ミツエは自分の無力さをつらく思った。
そしてその母親の回復は、ミツエにとっては喜ばしいこととは言い難かった。母親が回復の兆しを見せたことで、カケルは安心したのか、遅ればせながら部活動に入った。病院と部活の往復によって、榎に来る頻度は減ってしまったのだった。
「明日も来てくれる?」
「ごめん、明日は部活の練習があって、そのあと病院にも行かなきゃいけないから、無理なんだ」
「そっかあ」
その言葉にミツエは残念に思ったけれど、カケルもまた同様の表情だったから、ミツエはそれ以上の追求はできなかった。
「ミツエも、たまには学校の友達と遊んだりしないの?」
「んー。私、あんまり友達いないのよう」
ミツエは本当は学校になど通っていないので、それはただの嘘であったのだけれど、そうとは知らないカケルは、「ご、ごめん!」と慌てて謝った。
「だから、翔と遊べて楽しいの」
ミツエはカケルの謝罪の意図が分からなかったから、その話を流して微笑んだ。カケルも照れたように笑った。
「翔は陸上部なのよね?」
「うん。短距離をやってるんだ。他の人より遅くに始めたし、まだ先輩たちみたいに速くは走れないけど、でもすごく楽しいよ」
「走って疲れないの?」
「うーん。疲れるけど、それが気持ちいい、っていうのかな。疲れたら疲れただけがんばれた気がするし、いっぱい練習してタイムが縮んだら、すごく嬉しいから」
今までの時間を取り戻すように、カケルは部活にのめり込んでいるようだった。部活でのことを楽しそうに話すカケルに、聞いているミツエも嬉しい気持ちになる。
「練習、見に行ってもいい?」
「学校の中に入るのはどうかなあ。フェンス越しで良ければ大丈夫だと思うけど」
「じゃあ! 行く!」
ちょっと恥ずかしいな、とカケルははにかんだ。
「なんだか随分と、人間らしくなったねえ。三つ榎」
「うん? そう?」
「三つ榎が縁切り以外のことをしているだなんて、生まれて初めてじゃないか?」
「そういえばそうかもしれないわ」
カラコロとぽっくり下駄を打ち鳴らし、ミツエは上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「三つ榎は、彼のことが好きかい?」
「ええ、好きよ」
イツキの問いに、ミツエは即答した。イツキは一瞬面くらって、それからゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃない。そういう、簡単な好意ではなくて、三つ榎や俺が司る、恋情のことだ。三つ榎、君には、彼と君の間に糸が見えるかい?」
言われて、今度はミツエが面くらう番だった。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、イツキの言葉を脳裏で反復する。そしてゆっくりと、自分の左手を空にかざした。
左手小指に、今まで見えていなかった、赤い糸が今ははっきりと見ることができた。ミツエは再び瞬きをして、それからイツキの方を見やった。
「縁結びの神としては、おめでとう、と言うべきなのかな、これは」
イツキは笑うとも困るともつかない微妙な表情をしていた。
梅雨の訪れを知らせるような、雨の夜だった。
雨の日は皆外に出たがらないから、縁切り神社に来る人の数も若干に減る。その日最初に訪問しにきたのが、中学生の女の子だった。
少女は制服姿にピンクの傘をさしていた。斜めに降る雨に、スカートの裾が少し濡れていた。
神木の上から少女を見下ろしながら、雨に濡れることのないミツエはぼんやり首をかしげていた。
なんだか、彼女の顔を見たことがある気がしたのだ。
けれど暗い夜の闇の中では少女の顔ははっきりとしなかったし、人間の知り合いがほとんどいないミツエは、早々に気のせいだろうと決めつけた。
少女は祠の前に立つと傘を器用に腕と首で固定して、空いた両手で財布から賽銭を取り出した。賽銭を投げると、雨で湿気った賽銭箱が重たい音を上げた。
そして、少女がミツエに祈るとき、ミツエはようやく彼女が誰であるかをはっきり認識した。
「最近翔くんに会いに来る和服の女の子と、翔くんとの縁が切れますように」
少女は、縁切り榎にそれを願った。
少女はカケルと同じ中学、同じ陸上部のマネージャーだった。ミツエが何度かカケルの部活を見学しに行ったとき、視界の端にいたジャージの少女がそれだった。ミツエは全く意識すらしていなかったが、少女の方はそうではないらしかった。
少女の思いはとても強かった。嫉妬と欲望がないまぜになったその強く黒い願望に、ミツエは無意識にごくりと喉を鳴らした。
ミツエは、何をせずとも平気なイツキとは違い、人間が呼吸をし食事をするのと同様に縁を切ることで生きる神だったから、その思いの強さはつまり、そのまま生きる糧の大きさに等しいのだった。
少女が神社を立ち去りしばらく経つまで、ミツエは呼吸をすることも忘れ、じっと自らの左手、その赤い糸に視線を落としていた。糸の脈動だけがミツエの耳に響いていた。
翌日も雨が降り続いていた。その日ミツエはどこにも出かけなかった。縁切りもせず、カケルの元へも行かず、ただ神木の枝に小さく丸くうずくまっていた。イツキは神社の下まで訪れたが、ミツエの様子をうかがうと声をかけることもなく黙って帰って行った。
夜になると、ミツエは祠へ下りて、今度は祠の角でしゃがみ込んで静かに泣いた。一日何も縁切りをしなかったために空腹が限界に達してお腹が痛んだけれど、それ以上に胸がひどく締め付けられていて痛かった。小さな呻き声を漏らしながら、ミツエは泣き疲れて眠った。
「生きてるか?」
朝の日差しが声と共に遮られる。ミツエが顔を上げると、イツキは思いきり吹き出して笑った。
「どしたの、その顔」
ミツエの顔は、目を泣き腫らしていてひどい有様で、イツキが笑うのも無理ないといったふうだった。顔を上げたミツエは、イツキを見て安堵し、それから泣き笑いのような表情をした。
「ねえ、一槻。私、どうしたらいい?」
発した声が震えていて、イツキはミツエがまだ泣いているのかと思い頬に手を伸ばしたが、夜じゅう泣き続けていたミツエの涙は枯れてしまって、流れてはいなかった。
「だから大丈夫かと聞いたんだよ、俺は」
ミツエの頭をゆるゆると撫で、諭すようにイツキは答えた。
「三つ榎も本当は、分かっていただろう。たとえどんな姿を取っていても、俺たちは人間ではないんだ」
「でも、だって、私、私、翔のこと、でも、切りたい、やだ、違うの、切りたくない、のに」
ううう、とえずくように呻くミツエに、イツキは黙って頭を撫でていた。昨晩の泣きじゃくったときの疲労が抜け切れていなかったのか、ミツエは静かに意識が沈んでいった。その心地のよい大きな手に「お父さんみたい」とミツエは思った。
「ミツエ? ミツエ、いないの?」
一か月、ミツエはカケルの前に姿を現さなかった。カケルは度々縁切り榎に来てはミツエを呼んだが、ミツエは一度も出ていかなかった。
陸上部の少女の願いは、未だ叶えていなかった。
ベッドでカケルが静かに眠るのを、ミツエは悲痛の表情で見下ろしていた。ミツエは右手に糸切り鋏を持ち、左手に自らの赤い糸を掴んでいた。トクン、トクンと自らの心音と糸の鼓動が重なって聞こえる。
「ごめんね。……ごめんね、翔」
悲しく微笑み、ミツエは糸に鋏をあてがって――けれど切ることは敵わず、鋏を取り落とした。
「やだ、助けて、誰か」
痛みに、ミツエは自分の身体をぎゅっと抱きしめた。足元の糸切り鋏を拾おうとして、けれど足に力が入らずがくんと膝から崩れ落ちる。そのまま床にうつ伏せになり、身体をがくがくと震わせる。
「切りたい、切りたくない、切りたい、切りたくない、切りたい、切りたい、切りたい、切りたい!! あああああ!!」
叫び、勢いよく身体を起こして、床の糸切り鋏を掴むとそのまま左手薬指から伸びる赤い糸を叩き切った。
ミツエの絶叫は誰の耳に届くこともなく、静寂の中に糸がはらりと落ちる音が聞こえた気がした。
「三つ榎、大丈夫?」
ミツエがしばらく放心状態でいると、どこからともなくイツキが現われ、ミツエの背後に立った。
「うん。……あのね、一槻」
ミツエがふらふらと立ち上がる。今にも倒れそうなその脆さに、イツキがそっと支えてやる。
「あのね。私の恋、とっても甘くて、でも苦くて、それで――、すごく、おいしかったの。だから、大丈夫よう」
そう儚く笑うミツエを、イツキは黙って抱きしめた。
抱きしめた胸の中で聞こえる小さな嗚咽は、幼い少女の初恋の答えだった。
End.
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