青春の終わりに

三砂理子@短編書き

青春の終わりに

「おー菜々緒。おはよー」

「おはよ」

暑さの残る季節だった。家を出たところで声をかけられて、振り向くことなく声を返せば相手は自然と私の隣に並んだ。誰とは確認するまでもなかった。幼馴染である馬場篤史。彼は私と小学校から高校まで同じで、こうして一緒に登校するのももう慣れた行為だ。別に待ち合わせをして登校をしているわけではなかった。たまたま家を出る時間帯が同じで、お互い登校時間を変えることもしないから、そうして「たまたま」を毎日繰り返して、二年半を一緒に登校していた。

それだけ長い間一緒にいれば話題も尽きてしまうのだけど、それでもその沈黙が苦にならないくらいには、私たちは互いに心を許しているのだった。

「そういや今日、模試の結果返ってくるってな」

「え、何それ聞いてない」

模試、という二文字の言葉が心にちくりと刺さる。けれどそれを顔には出さないように努めて、篤史の言葉の続きを待った。

「ほら、夏休み前にやったやつ。今日返すって担任言ってたけど、聞いてないの?」

「ううん、うちは何も言ってなかったよ」

「まじかあ。まあ、岡先生は忘れっぽいからなあ」

篤史につられてあははと笑う、私のその心の内は笑ってはいなかった。

その日結果が返ってきた模試は、夏休みの直前に行われた、言わば一学期の総仕上げだった。そしてそれは、予想に反せず、散々なものだった。

教室の隅の席で、返された結果表を睨みつけるように眺める。書かれた点数や志望校のボーダーといったあれこれ。変わりようのない数値が私の心をどこまでも沈ませていく。

夏休みはほとんど遊ぶことなく猛勉強した。だから大丈夫だと言い訳をしてみても、それは虚しいだけだった。

「もっと早くから、ちゃんと勉強しておけばよかったなあ」

机に突っ伏し零した後悔は、教室の喧騒に掻き消された。


「おはよー、菜々緒」

「……うん」

「何、どしたの?」

翌日、もやもやの晴れないままの私に、篤史が顔を覗き込んできた。別に、と答えると篤史は不可解そうな表情をした。そこまでは良かった。心配をしてくれる、彼の優しさだと思った。ただ、続く言葉がいけなかった。

「もしかして、模試の結果が悪かったとか?」

図星をさされた私はかーっとなって、覗き込んでいた篤史を反射的に突き飛ばした。篤史は後ろによろめいて、尻もちをついた。

「うるさい! ばか!」

突然のことに驚く篤史を置いて、私は駅へと走った。彼は追ってこなかった。

電車に乗ったところで、私はようやく冷静さを取り戻した。

冷静になった私の中を渦巻いていたのは、様々な感情だった。篤史に八つ当たりしてしまったことへの申し訳なさ、それでもあの発言を許せないと憤る気持ち。そして篤史への嫉妬や自分の情けなさといったいくつもの感情が私の中でぶつかり合い混ざり合う。

複雑な思いに、くしゃりと歪ませた顔を手で覆いうつむく。大声で泣いてしまいたい気分だった。


篤史と顔を合わせるのが気まずくて、私は次の日朝早くに学校へ行った。行きの通学路を一人で歩くのは随分久しいことで、そしてそれは少し寂しいことだった。

早くに教室に入った私は、声にならない悲鳴を上げた。教室には、クラスの半数近い生徒が既に来ていた。彼らは席に座り教科書や参考書を開いて、黙々と勉強をしていた。篤史との喧嘩のことを忘れてしまうくらい、私は焦燥感に駆られた。

みんな勉強してる。朝早くに学校に来て、夜も遅くまで塾に行って、勉強してるんだ。みんな必死なんだ。

焦りは絶望感に変わる。私は、気付くのが遅すぎただろうか。今更こんな当たり前のことに気付いて、慌ててもがくようにして勉強したところで、私は遅れを取り戻せるのだろうか。

そもそも、私はこの高校に偏差値ぎりぎりで入ったのだ。篤史みたいにランクを一つ下げて余裕で入ったり、相応の学力で入ったわけじゃない。元々落ちこぼれなのに。それなのに、こんな出遅れて、慌てたところで、どうなるというんだろう。

それでも、私は自分の席へついて、参考書とノートを取り出した。今諦めたところで、この先数カ月、受験が続くことは変わらないのだ。このどうしようもない絶望感と共に、それでも私は勉強するしかなかった。

勉強をしないよりは、した方が随分ましだろう。誰かに追いつくことはできなくても、引き離されない、あるいは引き離されたとしても、その差は小さくなる。

受験のために勉強するというより、安心感のために勉強をする。心の平穏のため。目標をすげ替えることで、現実から目を逸らす行為。それは歪みだったけれど、そうすることが、つまり私の心を守る唯一だった。

SHRの開始のチャイムが鳴る中、廊下を走る篤史の姿が視界の端に見えた。反射的に廊下の方に視線を移すと、教室の壁に隠れてしまう直前の篤史と目があった。慌てて目をそらす。廊下を走り抜ける音と隣のクラスに駆け込む音がして、それからチャイムが鳴り止んだ。一瞬目のあった篤史は驚きの表情をしていた気がして、私はその顔がしばらく頭から離れなかった。

その日から私は学校に早くに登校するようになった。塾のコマ数も増やして、塾が閉まるぎりぎりまで自習室にこもった。篤史と登校することもなくなって、それを篤史がどう思っているかは気にかかったけれど、気まずさが晴れず篤史を避けて過ごすうちに受験への焦りが日に日強くなり、彼を思う余裕はなくなっていったのだった。


私の努力をあざ笑うように、現実はどこまでも非情だった。

学校で塾で繰り返し繰り返し受ける模試と、その結果。上がらない合格率。ほとんど横ばいの偏差値や点数。

秋も半ばに差し掛かる頃、担任との面談で、ついに「ひとつ下の大学も視野に入れた方がいいかもしれない」と言われてしまった。志望校はそのままでいいけれど。挑戦してみてもいいと思うけれど。滑り止めもね、と。

悔しいと思った。けれど私の成績はそう言われるだけのものだということも分かっていた。


昼間の学校では平静を装っていた。みんなと同じように朝に学校に来て自主学習をして、授業を受けて。休み時間はクラスメイトといくつか会話を交わしたり、単語帳を眺める。

それでも、夜になると心情を取り繕うのは限界があった。ストレスから、頭痛に苛まれるのはほぼ日常化していた。塾の自習室で人知れず過呼吸を起こすこともあったし、家で吐き気に襲われることも少なくなかった。夜遅く塾から帰る道でふらつくことも度々だった。生理痛は今までとは比じゃないくらい酷くなり、日によっては朝起き上がることさえできないこともあった。寝る前、布団に入り電気を消すと、この先のことを考えてしまって、不安に押しつぶされそうになったり、そこから胃痛や吐き気を誘発した。

精神的な不安からくる体調悪化は、最初のうちは病院で薬を処方してもらったが、その頻度と摂取量が増え続ける中で、それを心配した両親に止められた。

けれど、そのとき私はもう薬なしでは過ごせないほどに心身をやられてしまっていた。そして私は、親に隠れて市販の薬を買うようになった。

薬は鎮痛剤や吐き気止めが主で、精神安定剤は服用していなかったけれど、薬の種類なんていうのは小さな差異でしかなかった。苦しみの中で薬を飲む、薬を飲めば苦痛が和らいで気分も良くなる。薬を常飲する、その行為自体が私の精神安定剤だった。


秋の終わり、肌寒い夜だった。

その日は塾の自習室が開放されない日で、私は塾の授業が終わり直帰しているところだった。

「……久しぶり」

偶然出くわしたのは、篤史だった。私は内心気まずく思っていたのだけれど、それはおそらく、相手も同様だった。実際、闇色の空の下で、篤史の顔は少し引きつっているようだった。

「おう。……久しぶり。菜々緒、こんな時間にこんなとこで、珍しいじゃん。塾?」

問いに首肯すれば、篤史は、俺はお使い頼まれて、その帰りで。と、やけに饒舌に言葉を重ねた。その饒舌さに頭が痛む気がした。

「受験勉強、毎日夜遅くまで頑張ってるってこの間おばさんに聞いたよ。菜々緒は高校受験のときも凄く頑張ってたし、ほんと凄いな」

数ヵ月ぶりの会話で、篤史は前のことを挽回しようとしていた。私との関係を修復しようと思って、それで彼は褒め言葉のつもりでそう言った。けれどそのときの私は、数ヶ月前よりももっとずっと切羽詰まっていて、疲れきっていて。そんな彼の優しさすら、気付いてあげることができなかった。

「篤史はいつもそうやって、余裕で、ずるい。そういうとこ、大嫌い」

その日は篤史を突き飛ばすことはなかったけれど、篤史はやはり追いかけてはこなかった。

その夜は、特別に長く、そして不快な夜だった。

篤史との再会が、どう作用したのか。異常なまでの吐き気が私を襲った。吐き気ばかりで嘔吐そのものはなかった。ただ、布団の中で枕に顔をうずめながら、何度も何度もえずいた。えずく度に無様に喘いだ。目の奥がちかちかして、涙がぽろぽろと零れた。枕は涙で濡れて冷たかった。胸の内にある不安が恐怖が零れ出すようにして、唾液と胃液を吐き出した。吐き気のせいで呼吸がうまくできず、酸素が足りなくて頭痛がした。震える手で、汗とも汚物とも分からない口周りの液をティッシュで拭った。布団を出てトイレにこもる気力さえなかった。

つらさのピークを越えた頃、どうにか布団から這い出て、机の引き出しに入っていた薬を取り、種類も数も確認せずに無理やり飲み込んだ。えずいて薬が逆流しないように、ひくつく喉をどうにか耐え抑える。吐き気が薬を押し戻そうとする。堪えきれない気持ち悪さがうめき声となって落ちた。

薬が効いたのか、あるいは心身疲労が限界にきたのか。いつの間にか私は布団に倒れ込むようにして眠っていた。


長い受験戦争の中で、私は心を摩耗させることで生きていた。

あの夜を境に涙は枯れたようにして流れなくなった。薬の量はそれまで通り、増加の一途をたどった。既に心身はボロボロになっていた。昼間でさえ、うまく笑えていないように思えた。

だから、寒い初冬の夜、私がふらっと海へ来たのは、私の意思だったのか、それとも悲鳴を上げた身体が無意識にそこへ導いたのか、私には分からなかった。

気付いたときには、海にいた。家から六駅ほど先にある海辺だった。塾の荷物を持っていたから、塾帰りだったのだろう。終電まであと一時間もないような、そんな時刻だった。

広い広い海を見渡して、私は本能的に「私はこれから死ぬんだ」と思った。私は死ぬためにここに来たんだと思った。

砂浜にかばんを置いて、その横にローファーと靴下を脱いで置いた。砂に裸足をつけると、砂のぬるい温度が気持ちよかった。

ブレザーのポケットに手を入れると携帯が入っていた。いくつもの着信通知がきていた。母からだった。それを無視して、携帯をかばんの上に置くのと携帯が鳴るのは同時だった。

「……もしもし?」

『菜々緒! お前、今、どこ!』

母からなら出ないつもりだった。けれど、かけてきた相手は母ではなかった。電話に出ると、相手は切羽詰まった声でそう問うた。

「……なんで」

『おばさんが! お前が帰ってこないって探してんの!』

「だからって、なんであんたが、かけてくるのよ」

『心配だからに決まってんだろ。いいかげんにしろよ、菜々緒』

「うるさいわね! もう、放っておいてよ!」

『放っておけるかよ! ……菜々緒の気持ちも考えずに、傷つけるようなこと言ったのは、悪かったって思ってる。ほんとに、ごめん。だから、そんなこと、言わないでくれよ。なあ』

篤史の声は震えていた。八つ当たりをしたのは私の方なのに、悪いのは私の方なのに、篤史は本気で、自分が悪かったと思っていた。そんな篤史を愚かだと思った。そしてそんな彼につけ込む、私はそれよりもっと愚かだった。

「ねえ、篤史。本当に悪いと思ってるなら。……私と一緒に、死んでよ」

そのとき私は笑っていた。そしてその笑い声はきっと篤史の耳にも届いただろう。篤史はしばらくの間黙っていたけれど、再び口を開いた。

『いいよ』


一時間もしないうちに、篤史はやってきた。駅から走ってきたらしく、随分と服装や息が乱れていた。

篤史は一言も何も言わなかった。ただ、私の姿を見て、それに倣うように靴と靴下、そして上着を脱いで、私の荷物の横に並べた。

私達は手を繋いで、海へと入った。海水は冷たく、皮膚の感覚が徐々に殺されていく気がした。

一歩一歩と歩みを進める。海水が足首からすね、太ももと上がってくる。スカートが濡れて皮膚にへばりついた。篤史のスラックスの方が塩水をよく含んで歩くのがつらそうだった。波は穏やかに私達を浜へ押し返そうとした。

水深が私の胸元を超えた頃、私は立ち止まった。篤史は黙ったまま私の方を見た。

私は泣いていた。私の意思ではなく、本能的なものだった。涙と一緒に、いろいろなものがせり上がってきて、流れる。そんな気持ちだった。私は本能に抗うことなく、濡れた手で涙を拭うこともできずに、声を上げて泣いた。

泣きながら、つらかった、疲れてしまったと叫んだ。

勉強しても勉強しても成績が上がらなくてつらかった。周りが勉強しているのを見ると置いていかれそうで怖かった。余裕そうに笑う篤史が羨ましくて憎らしかった。期待をかける両親も現実をつきつけてくる先生も嫌いだった。もう限界だった。もう何もかもに疲れてしまった。

「死にたい。もう、死にたいの」


さんざん泣いて、泣きつかれた私に、ずっと黙っていた篤史が「帰ろっか」と言った。その声は電話越しに聞いたつらそうな声からは想像できないくらいに芯のしっかりした声だった。私は静かに頷いた。砂浜に戻るまで、篤史は私の手を離すことはしなかった。

ずぶ濡れで浜に戻った私達は、靴下は脱いだまま、裸足に靴を履いて海を後にした。篤史の上着は、「風邪引くぞ」と私にかけてくれた。篤史も全身濡れているのだからと言っても、彼は聞かなかった。

終電はとうに過ぎていて、私達は夜じゅう歩いて家まで帰った。帰り道、私達は一言も言葉を交わさなかった。

家に着くと、母がまだ起きていた。私のボロボロの姿を見て、母は怒るでもなく「お風呂を沸かすわ。先にタオルで身体を拭きなさい」と言った。



私はその日から三日三晩熱で寝込んだ。四日目の朝には熱が引いて、昨日までの苦しさが嘘のような目覚めだった。

一日自宅で安静に過ごして、五日目には学校に出た。家を出ると、通学路と反対側にちょうど篤史の姿が見えた。母から、篤史も同様に三日間熱を出していたらしいと聞いていた。

「おはよう、篤史」

「おはよ。久しぶりじゃん、こんな時間に」

「昨日まで熱で休んでたからね。朝、起きれなくて」

私達は先日の一件が、そして今までの数カ月がなかったかのように、元通りに収まっていた。

寝込んでいる間に、熱と一緒にいろいろなものが排出されてしまったみたいだった。あるいは、海に入ったときに、私は一度死んだのかもしれない。熱の引いてからの私の心は晴れやかで、不安や苦痛はどこにもなかった。篤史の姿を見つけたときも、嫉妬の気持ちや気まずさは欠片もなく、自然と声をかけることができた。

篤史が笑っている顔を見るのは久しぶりで、私もつられて笑った。


生まれ変わった私は、今までと変わらずに受験勉強を続け、薬に頼ることもなくなり、春には第一志望の大学に合格した。篤史も志望校に無事受かったと聞いた。

合格発表の帰り道、あの冬の夜のことを考えた。あれは受験の中で病み続けた私の、ほんの一時の迷いが起こしたことだったんだろう。あのときの私は様々なところが壊れていて、歪んでいた。篤史がいなかったら、私はあのまま死んでしまっていただろう。

でも、あの夜は必要な夜だったと、そう思った。

「卒業おめでとう」

「おめでとう……って、髪、どうしたの」

卒業式の日は、私達の最後に一緒に登校する日でもあった。制服を着るのも、高校に行くのも、全て最後の日。

「どうって。切ったのよ。バッサリと」

私は、胸まであった髪を、肩にかからないほどに短く切っていた。

「なんで」

「失恋したの」

笑ってそう言えば、篤史は驚愕の表情を見せた。

「嘘よ」

「……なんだよ」

驚愕から拗ねた顔に変わる、そのコロコロと変わる表情がおかしかった。

「失恋したから切った、ってのは嘘よ。でもね、好きな人がいたのは、本当。……ずっとずっと、好きだった」

私は笑おうと頬を持ち上げたのに、涙が目に溜まって、それを堪えようとするせいでうまく笑えなかった。篤史といると泣いてばかりだと思った。

篤史は何かを言いたげだった。けれどそれを制止させて、私は続けた。

「私達は、間違ってたのよ。きっと、どこかで。……だから、好きだったけど、諦めるの。篤史を好きだった私は、あのとき、海で死んだのよ」

篤史は優しいから、大学できっといい人に巡り合えるだろうと思った。思ったけれど、言わなかった。これを篤史に対する最後のわがままにしようと決めた。

しばらく私の言葉を聞いてくれていた篤史は、ふっと笑顔に戻って「学校、行こっか」と歩き出した。その力強い声と笑顔は、私の好きだったものだった。


End.

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