夏の花

三砂理子@短編書き

夏の花

ガチャリと鍵を回し、扉を開く。埃っぽいにおいと、そして古い紙のにおいが中から溢れ出す。

中へ入り、狭い部屋の奥にある窓を開けるとほとんど葉の落ちた木の枝が風に揺られているのが見えた。

冬の始め、少し肌寒い季節だった。

数分ほど空気の入れ替えをして、再び窓を閉める。そこで僕はようやく首に巻いていた薄手のマフラーを外した。

机にかばんを降ろし、窓の向かいにある椅子に腰かける。この椅子は僕の定位置だった。他の席に座っている人を、僕は見たことがなかったけれど。

五十嵐高校文芸部は、定期的な活動は一切なく、文化祭は古本市で本を売るだけという、ひどく緩い部活だった。創作活動なんてものとは無縁の、名ばかりの文芸部。普段の活動がないため、部員と顔を合わせたのは、文化祭の準備期間の二日間のみ。そこで僕は一年生の部員が僕とクラスメートでもある原田さんの二人だけだということを知った。先輩は三年生と二年生がそれぞれ三人ずつの、全学年合わせても八人という小規模な部活だ。

各部活の部室は、部室棟と呼ばれる建物にある。教室や職員室のある建物とは別に、少し離れたところに部室棟は建っている。

ひとつひとつの部室は狭く、机や荷物を置けばその定員は十人に満たない。そのため、運動部などの大人数の部活には二つの部室が当てられる。

文芸部の部室はもちろん一つだけだ。その狭い部室のほとんどを、本棚が埋め尽くしている。窓際と入口、そしてエアコンの下以外の壁は本棚によって隠されている。そしてそこには所狭しといったふうに本が収められている。それらは誰がいつ持ってきたかは分からないけれど、古紙のにおいと本の黄ばみが年数を感じさせた。

本棚の他に、部屋の中央には机があり、その周囲に椅子が、そして窓際にだけソファが置かれている。机の下には大量の段ボールが積まれていて、その中にもまた古い本がぎっしりと詰まっている。おそらく、本棚に入らなかったのだろう。これら山のようにある本たちは、古本市で可能な限り並べられ売り出されるけれど、その古さ故に多くは部室の棚へ帰ってきてしまう。そうして何年も部室で過ごすそれら古本のにおいは、空気を入れ替えたくらいでは消えないほどに部室にこびりついてしまっていた。

こんな陰気な部室に、毎日のように来ては夕暮れまで本を読んで帰るような変わり者の部員は、僕の他にはいない。

 本棚から、適当に目に留まった本を一冊抜き取りぱらぱらとめくる。この冬が終わってまた春が巡れば、文芸部に入部してきてから一年が経つことになる。それだけの間部室に通っていても、読む本に困ることはない。少し埃っぽいところを除けば、ここは僕にとって天国のように居心地のいい場所だった。


 各部室の鍵は部室棟の管理室に全て置かれているから、部室に入る際は必ず一度そこへ寄って鍵を取ってこないといけない。鍵の入れられているケースの横にはバインダーと紙とペンがあって、鍵の使用者は名前と部活名、そして借りた日時を書くことになっている。そして部室を使い終わって鍵を返すときには返却時間を追記する。

 『新野優 文芸部』の文字は数行置きに書かれている。文化祭の時期を除いて、僕以外の文芸部員の名前が書かれることはまずない。

 だから、この日僕は、幽霊を見たのだと思ったのだった。

 鍵を開け扉を少し引くとその隙間から光が漏れた。部室へ入ると電気がついていて、僕は首をかしげた。いちいち確認しているわけではなかったけれど、今まで部室の電気を消し忘れたことは一度もなかった。とはいえ電気がついていたのは事実だから、次から気をつけようと思い直し、空気を入れ替えるために窓を開けようと横を向く。

 窓の下、ソファに、セーラー服の女の子が倒れていた。

 僕はぎょっと目を見開いた。息が止まり声が出なかった。

 紺色のセーラー服は、五十嵐高校の女子の制服だ。胸元に見えるスカーフは一年生の学年カラーである青。上履きは投げ出され、不健康そうな白い肌をした細い手足はぴくりとも動かない。顔は黒く長い髪で隠れていて、表情は見えなかった。

 これは、誰だ?

 文芸部の一年生は僕と原田さんの二人だけのはずだった。原田さんの髪は肩にかかるかどうかくらいの長さだ。そもそも、部室の鍵は僕が今持っている。管理室の貸し出しリストに他の文芸部員の名前はなかった。

 だから、僕の目の前にいる彼女は、いるはずのない人間だった。

 何か声をかけるべきかと思い近づこうとした瞬間、死んだように動かなかった彼女が身をよじらせ、目を開いた。僕は一歩踏み出したところで止まって、彼女の動きをじっと見つめる。

 彼女は長い前髪をかき分けもせず、ゆっくり身体を起こすと僕の方を睨んだ。それはただ僕を見ただけなのかもしれなかったけれど、その吊りあがった目に僕は怯え、踏み出していた足を引っこめた。

沈黙が続いた。彼女はじっと僕を睨み続けていた。

 その目に気圧されて、僕は部室から出て行った。

 部室棟の廊下で、僕は長い間止めていた息を大きく吐き出した。冬だというのに汗が止まらなかった。鍵を持つ手が震えていた。

 見知らぬ人が部室にいることが怖かったわけではなかった。

 彼女の目を見ていると、魂が吸い込まれてしまうような、心臓がえぐられるような、おぞましい気持ちになったからだった。悪魔のように深く黒い瞳だった。人間だと言うより霊や魔物の類だと言われた方がよほど納得できる。そんな不気味さだった。

 その日の夜になっても、僕はあの瞳が脳裏から離れなかった。

 翌日、恐る恐る部室のドアを開けた僕は、電気の消えた誰もいない室内にほっと胸を撫で下ろした。翌々日も、それ以後も、不気味な女の子は姿を見せなかった。


 冬も半ばの、雪の日だった。零れる息は白く、防寒されず肌をさらした手は赤だった。

 もうほとんど彼女のことは忘れかけていたから、その日部室の電気がついているのを見たとき、僕は初めて彼女を見たのと同じように目を丸くした。

「なに」

 彼女は以前のようにソファに倒れ込んではいなかった。ダッフルコートを膝にかけ、ソファに座っていた。そして、僕が立ち止まっているのを睨みつけ、言葉を発した。

 その言葉に生気を感じて、そこで初めて、僕は彼女が幽霊でも悪魔でもない、人間なんだと思った。

「え、あ、いや……。君は、一年生?」

「スカーフの色が見えないの? あんたのネクタイと同じ色じゃない」

返される言葉は矢のように鋭かった。

「そう、だよね。じゃあ……、文芸部員?」

「当り前でしょう。ここは、文芸部の部室なんだから」

「で、でも、今年の一年生の部員は僕ともう一人、原田さんっていう子だけのはずだよ。文化祭のときだって僕らだけだった」

「知らないわ。私はきちんと顧問に入部届けを出したもの。文化祭は、そもそも出てないわ」

 彼女は僕から視線をそらし、ソファに横になると目を閉じてしまった。

「あ、ねえ、君、名前は? 鍵なしでどうやって入ったの?」

「いい加減、うるさい。私、具合悪いの。騒ぐのなら出ていって」

 再び向けられた視線は、以前に睨まれたときより確かな嫌悪の表情を帯びていた。僕はぐっと言葉を詰まらせたままゆっくりと、ソファの向かい側、いつもの定位置に座った。彼女は僕に背を向け、そのまま動かなくなった。

 その日から、変わり者の部員は二人になった。

「今日も具合、悪いの? 大丈夫?」

「分かってるなら黙ってよ」

「ご、ごめん」

彼女はソファにうずくまって、僕の方を見ようともしない。

それぞれの定位置となった椅子とソファ。会話はいつだって僕からの一方通行で。

「鍵はどうしたの?」

「これがどうしたっていうの」

振り向きもせずに机に投げられたのは、部室の鍵だった。僕の手に握られているそれと同じもの。

「なんで持ってるの」

「つくったわ」

「合鍵は、つくっちゃいけない決まりだ」

「そんなこと知らないわ」

 僕のことなんて、見向きもしないし、話しかけても投げやりな言葉しか返ってこない。無視されることだって、少なくなかった。それだというのに、僕は彼女が厭わしいとは思えなかった。僕は心のどこかで、一人きりの部室を寂しく思っていたのもしれなかった。


 彼女と部室で顔を合わすようになってからひと月が経っていた。

 その頃になってようやく、僕は彼女の名前が高木華と言うのだと知った。高木は何度聞いても名前を教えてくれなかったから、顧問の先生に聞いて知ったのだった。

 昼休みに高木のクラスを覗くと、そこに高木の姿はなかった。

「よお、新野じゃん。どしたの?」

 声をかけてきたのは、顔見知り程度の、中学が一緒だった男子だった。

「あ、うん。高木さんって人を探してるんだけど」

「高木? 高木って、うちのクラスの? あいつ変わり者だぜ。いっつも髪で顔隠してて不気味だし、誰かと喋ってるとこ見たことないな。高木華、なんて名前負けもいいとこでさあ。高木に何か用でもあるのか?」

 聞いてもいないことを長々と笑い話す彼に、僕は苦笑いだけ返し、その場を去った。

「さむい」

吐息のように小さな声が、静かな部室に響いた。声と共に漏れた息は白かった。室内だというのに、僕も高木もコートを着込んだまま、それぞれの場所で彼女は丸くなり僕は本を読んでいた。

「今日の最低気温はマイナス二度だって。雪降るかもね」

「暖房ないの」

「エアコンが壊れてるのは知ってるだろ」

 部室に取りつけられているエアコンは暖房機能だけが壊れていて、何をしても冷気しか吐きださない。

「だから代わりの暖房機具は支給されないのかって聞いてるの」

「他にもエアコンの壊れた部活がいくつかあるんだって。こんな人のいない部活よりもそっちが優先されるから、暖房がつく前に春になるだろうって、顧問の先生に言われたよ」

「役立たず」

 高木の悪態に、僕は笑って応える。

 高木はそのまま丸まって黙ってしまったから、僕も再び本に目を落とした。

「高木、華」

 沈黙に言葉を発すると、高木が珍しく僕の方を見た。髪の隙間から覗く瞳は鋭く、眉間には皺がはっきりと刻まれている。

「なんで知ってるの」

「高木が教えてくれないから、顧問に聞いたんだ」

「あんた、悪趣味ね」

 高木の毒言や厳しい眼差し。ひと月という月日の中で、それらを笑って流せる程度に、僕らの関係は徐々に変化していた。それは、僕が高木のそれらに慣れたというだけではなかった。高木の言動もどことなく角が取れたような、昔ほど棘を感じない。会話の端々に見えた拒絶の意思も、最近はほとんど見られなかった。

「そりゃ、どうも」

何か悪言を言われるかと思ったけれど、高木はじっとこちらを見た後、そっと目を閉じただけだった。


一つの季節が終わり、僕らは二年生へと進級した。僕と高木は別のクラスになった。そして、三月の終わりに部長と顧問に呼ばれた僕は、新年度から文芸部の部長となった。

年度が変わっても、文芸部は相変わらずだった。新入生は二人入ったけれど、一度顔を合わせたきりで、おそらく次に会うのは秋の文化祭の頃だろう。古紙のにおいが染みついた部室は僕と高木の二人きりで、高木はいつも青白い顔でソファに伏せり、僕はいつも本を読んでいた。


若葉の香る頃だった。空では太陽が眩しく照りつけていて初夏だというのにとても暑い日だった。昼を過ぎた頃には汗が止めどなく溢れてきて、午後の授業は全然身が入らない有様だった。

放課後、部室の扉を開けると冷気が僕の額の汗を撫ぜた。室内ではオンボロなエアコンが大声をあげて冷気を吐きだしていた。

部室に先にいたのは高木だった。前日からキャスターが真夏日だと言っていたのにもかかわらず、高木は未だに冬のセーラー服だった。いつものように、ソファでお腹を抱えるようにして丸くなっている。

「暑いなら、夏セーラーにすればいいのに」

「うるさいわね。いいでしょ、別に」

 高木の、深く黒い瞳と目が合う。高木は珍しく、身体をこちらに向けていた。

「寒いだけじゃなく、暑いのもだめなの?」

「見ての通りよ」

 ふうん、大変だねと軽く言葉を返しながら、僕の気は既に彼女ではなく手元のビニール袋に向いていた。がさがさと袋から取り出したのは、バニラ味とチョココーヒー味の二つのコンビニアイス。部室に行く前にコンビニに買いに行って、二つで迷った末にどちらも買ってきてしまったのだった。

 その音につられたのか、高木は少し身体を起こして、僕の手元へと視線を下げた。

「食べる?」

「私に、けんか売ってるの?」

「ご、ごめん!」

非難の言葉に含まれた敵意がむき出しだったから、謝罪は早かった。

あまりに日常的なことになっていて、高木が身体が弱いのだということを失念していた。失言だったと思った。

「別に、いいけど」

そう言って高木は再び肢体を丸めて、眠ってしまったようだった。


初夏の暑さが抜けきらないままに、六月、梅雨になっていた。

雨は嫌いではない。ぽつぽつと落ちる雨音は何かのメロディを刻むようだ。雨のにおいは部室の本のにおいとよく馴染む。

ドアノブを右に回す。ノブはガチャガチャと音が騒がしく鳴るだけで、扉は開かなかった。反対手で持っていた鍵を指し、ドアを開ける。中は薄暗く、ソファは空席だった。

高木が僕より後に部室に来るということは、今までに数えるほどしかなかった。部室に入れば高木がソファに寝ている、それが当然のようになっていたから、ソファに紺色の丸い姿がないのを見て、少し寂しい気持ちになった。

棚から抜いた適当な本に目を落とす。文字を追いながら、ちらちらと人のいないソファを見てしまう自分がいた。

読んでいた本がちょうど半分を過ぎた頃、部室の扉がギイィと静かに音を立てて開いた。

「おはよう。なんか、珍しいね」

「ちょっと、先生に呼ばれてたの」

「えっと、そっちもそうだけど。制服」

「だって、夏だもの」

高木は夏のセーラー服を着ていた。衣替えの季節、学生の半数以上は夏服を着始めていた。けれど、五月の暑い日でも頑なに紺色の長袖でいた高木が六月の初旬からそれを着ていることに物珍しさがあった。

「なに?」

興味本位でじいっと見ていると、吊り気味の目がじろりと睨んできた。

「あ、いや。……冬服の方が似合ってたなあと思って」

「うるさい!」

強く叫んだ勢いのまま、高木はズカズカと窓の前まで歩いていき、飛び込むようにソファに埋まると動かなくなった。突然のことに、僕は目を丸くする以外、何も動けなかった。

「ねえ、高木、僕何か気に障るようなこと言った? もしそうなら、ごめん」

「なんでもない」

「でも高木、怒ってるじゃないか」

「怒ってない。なんでもない。あんたには関係ない」

ソファから顔を上げることなく、くぐもった声だけが返ってくる。

「なら、いいんだけど。高木、今日は体調いいの?」

「……なんで?」

「肌が。血行が良さそうだなと思って」

紺色のセーラーにコートを羽織っていた冬の頃とは違い、明るい白の夏服は高木の白い肌を外気にさらしていた。その四肢が、いつもの青白さと違い赤みがかっているようだったから、そう言った。

「うるさい。お腹痛い。もう、やだ!」

埋めた顔を乱雑に振る。長い髪が右へ左へと乱れる。

「ごめん。なんか、ごめん」

乱れた髪の中にちらりと見えた耳がほんのり赤かったように見えたのは、気のせいだったろうか。


教室を一歩出ると、熱気が待ち構えていたかのように襲いかかってきた。一瞬前までいたクーラーの効いた教室が恋しくなるほどの暑さだった。蝉の鳴き声が騒がしい。

「新野、また明日な。しっかり復習しろよ」

後ろから声がかかり、肩をぽんと叩かれた。

「はい。ありがとうございました」

先程僕がいた教室から出てきたその人は国語教師の中谷先生だった。

八月の初旬、いわゆる、夏休みだった。そんな暑い日に学校に登校して先生に「復習しろよ」と言われるのは、希望制の夏期講習を受けたからだった。

朝の気温が上がりきらない時間からの講習だったから、終わった時刻は正午より一時間半も早かった。お昼に太陽が昇りきる前に涼しい家に帰るのが良いだろうと思うのに、自然と足は部室棟へ向いていた。

管理室で鍵を借り部室へ向かうと、部室の前の廊下に段ボールが山積みされていた。僕は目を疑って何度もぱちぱちと瞬きをしてみたけれど、目の前の山は消えることはなかった。

ガタガタと中から音がして、段ボールがまた一つ増える。

「高、木……?」

「あー? その声、新野? ちょうど良かった、手伝って! 棚にあった本は全部段ボールに詰めて出したんだけど、肝心の棚が一人じゃ動かせなくって! ね、早く!」

部室にいる人、で思い当たる節は一人しかいなかったから、その名前を呼んだ。段ボールで姿は見えなかったけれど、その声は確かに聞き覚えのある声だった。

一番小さな山を横にずらして、部室の中へ入る。本のない部室は、それでも消えない古本のにおいが充満している。

「なに、ぼーっと突っ立ってるの。手前のから、出してくから。ほら」

あ、うん、と声の方を向く。そこに立っていた姿に、僕は再び瞬きを繰り返した。

女子の夏制服である白いセーラー服を着た、黒い髪の女の子。その黒髪はうなじのところで二つに結ばれ、前髪は結わいて頭の上でヘアピンで止められて、おでこを出している。セーラー服から伸びる手足は健康的なうすピンク色。吊りあがった黒い瞳だけは、見覚えがあった。

「高木?」

「なに」

「えっ、本当に高木?」

「他に誰がいるっていうの!」

その鮮烈な声の響きがソファで丸くなっていたときのそれと同じだったから、僕は声を出して笑った。高木の目がいっそう細まるのが分かった。

「ごめんごめん。ところで、この段ボール全部出したのって高木だよね? 身体の具合は大丈夫なの?」

「夏だから。ほら、そっち持って!」

 曖昧な返答に首をかしげる暇もなく高木に急かされ、何が何だか分からないままに棚の端を持つ。「せーの!」という掛け声と共にそれを持ち上げ、部室の外へと運んだ。

 本棚と机とソファと椅子。部室にあった一切のものを廊下に出す。隣り合っている部室は夏休みにはあまり活動をしていない文化部のものだったから、遠慮なく廊下を占拠した。

「私、掃除用具持ってくるから、窓開けておいて」

 窓を開けると風が吹き込んできて、疲労の中にしばしの安らぎを得た。空っぽの部室は一年半通い詰めたそれとは到底思えない、ただの箱のようだった。

 高木が二人分のほうきを持って戻ってきたので、僕らは作業を再開させた。ごみはほとんどなかったけれど、長年掃除をしてこなかったためか、本棚のあった壁際からは埃がたくさん出てきた。掃除が終わって部室が綺麗になったら、あの埃っぽいにおいは消えてしまうだろうかと、そんなことを思った。外に出した家具類も、底などについた埃や汚れを雑巾で拭き取った。用具を片づけて、一旦休憩を入れてから、廊下に置いた全てを元々あった場所に戻していく。本の入った段ボールだけは一度空いた場所に積んで、先にお昼を食べよう、ということになった。日はとうに空の真上に昇っていた。

 疲れただろうから、と高木を部室に残して、二人分の昼食を買いにコンビニへ向かう。その途中、「パンとおにぎり、どっちがいい?」と尋ねたのに対して「サラダ。たまごの、入ってるやつ」と答えた彼女のことを思い返して、口元が緩んだ。

「ただいま」

 部室に戻ると、クーラーが騒がしく動いていて涼しげだった。高木は棚に本を並べていた。本棚の一番上に手を伸ばし背伸びをすると、二つに結んだ髪がぴょこぴょこと揺れた。

「上の方はあとで僕がやるよ。サラダと、あとおにぎりも買ってきたから、食べれそうだったらどうぞ」

「うん」

「あ、あとこれ、溶けちゃうから先に食べよう」

 サラダやおにぎりの入ったビニール袋とは別の、一回り小さな袋を机の上に置く。高木が頭にクエスチョンマークを浮かべながら中に入っていたものを取りだす。

「え、なんで」

「だってこの間、食べたそうにしてたから。今日は体調良さそうだから、いいかなと思って」

 それは、先日買ってきたものと同じ二つのカップアイスだった。

「別に、食べたそうになんてしてない!」「いらなかった?」と口をへの字にして怒る高木に問うと「そうじゃない!」とまた怒られる。

「じゃあ、どっちがいい?」

高木の癇癪はいつものことだから、あまり気にしないことにした。

「……こっち」

不服そうなへの字の口のまま、高木が選んだのはチョココーヒー味の方だった。残ったバニラ味を受け取り、それぞれの席で二人で食べる。

「今更だけど、なんで今日部室にいたの?」

「補講」

「補講?」

「体育の。ほとんど、見学だったから。でも、先生が日付間違えて学校来てなくて。それで……なんとなく、部室に来たの」

高木はソファで体育座りのように膝を抱えて座っている。

「それでなんで、掃除?」

「だって、この部室、埃っぽいじゃない。ずっと思ってたけど、具合悪くて何もできなかったから。でも、思ったより本棚が重くて困ってたの。新野が来てくれて、助かったわ。……ありがとう」

照れ臭そうに笑う高木に、花が咲くようだ、と思った。

名前負けだ、なんてあざ笑った男子のことを思い浮かべて、全然そんなんじゃないよ、と心の中で呟いた。

「今日は、身体の具合は大丈夫なの? さっきは、夏だから、って言ってたけど」

「私、夏の間だけは、どうしてか身体の調子が良いの。でも、それ以外は全くだめなのよ。中学の頃は保健室に行ってばかりで、顔色の悪い私をみんな気味悪がったわ。……新野が、私に初めて会ったときみたいに」

「あのときは、ごめん」

「いいの。あの頃はああやって、誰も近づかないようにしてたのよ。どうせみんな内心気味悪がってるんでしょう、って思ってた」

高木が自分から饒舌に語るのは今までにないことだったから、僕は静かに聞き手に徹した。手元のアイスが溶けかけているけれど構わなかった。

「二回目に新野に会ったとき、こいつもまた気味悪がって逃げて行くんだ、って思ったわ。……でも、あんたは、部室に残った。私……それが、嬉しかったのよ」

嬉しかったの。と復唱する高木の顔は、抱えた膝に隠れてうまく見えない。

クーラーは騒がしく声を上げているのに、僕の顔は熱を感じていた。何と言葉を返していいか分からなくて、僕は手元の溶けきったバニラアイスをしばらく見つめていた。


本棚に本を戻し、入りきらなかった分は段ボールに詰めたまま机の下や空いている場所に再び積み上げる。昼食の後、一時間近くかけてそれらを終わらせた。いつもの姿を取り戻した部屋は、埃のにおいはほとんどなくなっていて、けれど相変わらず紙のにおいがする。

部室を出ると、数秒もしないうちにシャツが汗ばむ。後から高木が出てきたのを確認して、鍵を閉めた。いつもならここで高木は先に帰るし僕は管理室に鍵を返しに行くのだけど、今日は自然と高木が管理室までついてきて、一緒に校門を出た。

「あつい」

「暑いのは平気じゃなかったの?」

「夏は体調が良いっていうだけよ。暑いものは、暑いの」

「またアイス食べる?」

「うるさい!」

「ごっごめん。あ、ねえ高木」

「なに」

僕はまた高木の怒りを買ったようで、高木の眉は逆への字に吊りあがっていた。

「夏服。似合うよ」

前に冬服の方が似合う、と言ったことの訂正だった。制服と肌の明るい色彩がまるで高木じゃないみたい、というのは思ったけれど黙っていた。きっと怒らせるだろうと思ったから。

「うるさい! 新野のばか!」

黙っていたのに、結局どうやら高木を怒らせてしまったみたいだった。急に足を速めて歩いていく彼女に、僕は慌てて走って後を追った。

高木を追いながら、何か変だな、ということを考えた。何が変なのかはすぐに分かった。高木に、名前を、呼ばれていた。そういえば今日一日ずっと呼ばれていた気がする。ばたばたとせわしなく動いていたから、気づかなかったけれど。名乗る機会は一度もなかったし、問われたこともなかった。ずっと「あんた」としか呼ばれなかったから、てっきり知らないのだと思っていた。

どうして名前を知っているのか。高木の名前を勝手に調べたときは「悪趣味」なんてなじったのに。

そう問おうとして、けれどまた彼女を怒らせるような気がしたから、黙って追いついた高木の横に並んだ。僕の顔は燃えるように熱を持っていた。横を歩く高木の頬も真っ赤だったから、高木も僕と同じくらい熱を持っているのだろうと思った。それは走ったせいだったかもしれないし、夏だからかもしれない。今日は、暑い日だったから。


End.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の花 三砂理子@短編書き @misago65

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ