第8話 九月 大学と思い出 上
夏は受験の総本山!
と良く言うが実はあれは嘘だ。
浪人生は春夏秋冬、一年どの日を取っても総本山でありこの一文も夏期講習に生徒を集めたい予備校やら塾やらが打ち立てた謳い文句に過ぎない。
これが一般的に広まって今に至るとか……
しかし、そうはいっても夏は大きな区切りの一つでもある。
二学期制が多い予備校ではこの時期に前期の授業が終わり、今からの約二か月は夏期講習と言う名の夏休みに入るため、気持ちも多少は切り替わる。
ただそれだけに注意が必要な時期でもある
なんせここでスイッチの切り方を間違えればすぐに、堕落してしまう。
誘惑の多い俗世間は簡単に人を堕としてしまうから。
だからしっかり、気を引き締めなくてはいけない時期……なのだが、そんな初夏の頃に俺は見事にへばっていた。
(あつい、きつい、眠い、あつい、きつい……)
とまるで念仏のように脳内で唱えながら、手だけは動かし続ける。
何でも、よりによってこの時期にエアコンが故障したようで先三日はこの調子のままらしい。
そのため、都会の中心にあるこのビルはすこぶる暑い。
頭が沸騰しそうな勢いである。
(あつい、あつい、あつい……)
何だか、段々と手元が定まらなくなり始めたちょうどその時、ようやくこの日最後のチャイムが鳴る。
(終わったーーー!)
と半分声に出すようにその日の疲れを吐き出して、俺は大きく伸びをした。
ポキッポキポキッ
と長らくの疲労に耐えた俺の背中は小気味良い音を鳴らす。
その最中で、教室の中を見渡すとガラガラの自習室が目に映った。
誰も彼も、空調の不調を理由にさっさと帰宅してしまったのだろう。
フフフ、やはりここで粘って残れる俺は選ばれた人間なのか……
そんなキャンディ並に甘ったれた自賛をしていても暑過ぎて、元気が続かない。
別に残ったのも他で勉強できる場所がなかっただけだしな……
そう思うと段々物悲しくなり俺は早々に荷物をまとめ、帰宅の準備を始めるのだった。
そんな熱帯夜の街を抜け、自転車を漕ぐことを数十分。
汗だくで、家にたどり着いた俺は荷物を自室に投げ込んでその足で風呂場へと向かった。
今の人生の中で二番目に楽しみの入浴の時間だ。
そこでゆっくりと汗を流し、その汗を綺麗に洗い流してパンツ一丁でリビングのエアコンに当たる。
(ふう、生きてる心地がするぜ)
しんどかった熱さを癒し、冷蔵庫から牛乳を取り出し一飲みしすると不意に俺の携帯が久方ぶりに鳴り出した。
「うおうっ」
と慌ててパンツの間に挟んでいた携帯を取り出して、母親の変なものを見る目を避けつつ自室で受信した。
「あっ、じろちゃ~ん?」
と久しぶりに聞いた間延びした声に俺はすぐに答える。
「お、おう。だ、だ、だうした?」
久しぶりの着信の、そして今日初めての会話だっためドモリまくってしまった。
そう言えば、今日誰とも話してないから仕方ないね!
「あはは~、じろちゃん、どうしたの~?」
「どうもせん、いつものじろちゃんだ」
花火大会の事もあって詩織には後ろめたさもあったりする、そんなことは言えないが……
「そっか、そっか~。元気そうで安心だよ~」
「それで、どうしたんだ詩織」
思えば春に慰められて以来、こいつとは疎遠だったな。こいつにとっては。
そう思い返すと、自然と口調も穏やかになる。
「ん~、どうって程じゃないけど、じろちゃんの声が聞きたくなっちゃって~。今の時間ならじろちゃんもお風呂上りで牛乳でも飲んでるんじゃないかな~って」
「すげえな、全部あってるぞ」
「えへへ~、じろちゃんは小さいころから変わらないから~」
そうだっけ、こんな生活って割と最近のような気がするが。
「それでね、ちょっと話は変わるんだけど~、じろちゃんに一つ提案があって~」
「なんだ?金以外なら貸せるぞ」
「もう~、お金なんかいらないよ~。私の提案はオープンキャンパス!
じろちゃん、去年いってないでしょ。だから、良かったら一緒にどうかな~って」
以前先生が言っていた事の手回しか。
確かにあれ以来、頭で考えてはいたが直接見に行ったわけでも、足を運んだわけでもない。
なんせ最近、ひたすら勉強しかしてなかったからな……
「まあ、先生にも行けとは言われたが」
「そうだよね~、だから明後日なんだけど、どう?」
「んんー」
しかし、俺は大学生が嫌いだ。
そんな中でわざわざで死地に向かうような必要があるのだろうか……
「すごいよ~、色々な学部とか学科とかサークルとか来るよ~」
「うーむ」
それでもいざ行くとなると結構億劫だ。
俺には足がないし、夜でも暑いこんな夏に昼間出かけようとは中々思えない。
とは言え、この時期にオプキャンや説明会が集中するのも事実。
そういう観点からはオプキャンに行く意義はある。
しかし、大学生は……
「ついでにその日に合同説明会もあるから、そっちも行こうかな~」
なんと!大学の合同説明会もあるのか。
滑り止めの私大選びが滞っている、今現在には非常に魅力的な場所だ。
こういうチャンスは中々ない。
しかし、それでも、大学生……
「しかも、無料で好きなだけ勉強できるフリースペースとかもあるよ!おまけにドリンク飲み放題」
「よし、行こう。すぐに行こう」
声高な詩織の一言に俺は即決で応えた。
環境というのは、時として人の決意すら変えるのだと俺は今日初めて知った。
そして二日経った日曜、休日。
その日、俺は午前中は予備校でいつも通り勉強し午後から予備校の近くで詩織と待ち合わせの予定だ。
後の帰りは直帰のため、一応今日は自転車では来なかった。
流石に大学まで自転車で行くのもきついし、詩織もいるし、なにより暑い。
結果、電車なりバスなりでも使うのだろう。
その辺りは全て、詩織に任せているため詳しくは分からないが。
そして約束の時間。
予備校を出た俺は、日向を避けるようにして道の端を歩き目的地である市役所の前に着いた。まだ、詩織の姿は見えない。
そこで高校の頃から使い続けている自分のガラケーを取り出して、詩織からの連絡を待つがその答えを待つ前に後ろから声を掛けられた。
「お~い、じろちゃ~ん。」
振り返るとそこには五か月ぶりの幼なじみが手を振ってこちらに駆けてくる。
「おう」
俺も片手を小さく上げてそれに応じ、面と向かった。
「今日もあついね~、じろちゃん」
と涼し気な顔で答える詩織は今日は少し浮かれているように見える。
大学生だからだろうか……
「ならささっとバスだか、電車だかに乗ろうぜ。暑くて敵わん」
「は~い、じゃあ付いてきて~」
といつものニコニコスマイルで俺を導いたその先は市役所の地下駐車場だった。
「じゃあ、じろちゃんも乗ったことだし、出発しんこ~」
「おい、待て、ちょっと待て!」
「どうしたの~?、じろちゃ~ん」
市役所の地下駐車場で俺は詩織が運転席につく一台の軽自動車の隣に座っていた。
「お前、運転免許って知ってるか?」
「うん、ほら持ってるよ~」
といって一枚のカードを差し出した。
白の下地に緑のライン、横には満面の笑みの顔写真、そして数多くの日付の記されたそれは紛れもない運転免許証だった。
「お前、これ取ったのか?」
「そうだよ~、もう大変だったんだから」
「まじか……」
なんだ、この絶望感。
今まで、自分の後ろに付いてきてばかりだった幼なじみが、今はもう免許を持って車を運転しているのか。
時の流れが残酷過ぎて死ねる。
「でも、この車はなんだ?」
「ん~、お姉ちゃんのだよ。もう社会人だから今は使わないって私が使っているんだよ~」
「なるほどなるほど、しかしだな、お前はどうせペーパーだろうから今回は少し時間を置いてだなっておい勝手に動かすな。心臓に悪い」
「ほら、急ぐよ~」
かくして俺の幼なじみが運転する車でのドキドキドライブが始まった。
シートベルトの安全な機能を祈りたい。
ブーン
風を切り地を蹴る車はどこまでも進み、そして瞬く間に目的の場所に着いてしまった。
「早いな~、流石に」
文明の利器に俺は改めて感激する。
ちなみに詩織の運転は普通に上手かった。あまりに危うげなく走るものだったからドライビングセンスを感じるまであった。
将来は人里は離れた山の中で峠を攻める日も来るかもしれない。
見かけによらないとはこれのことだな。
最後に無難なバックで駐車場に車を停めると、颯爽と詩織は車から降りたった。
くそ~、運転できるとこうも人は変わって見えるのか。
「はい、それじゃあ行くよ~」
「は~い」
暑いくらいの日差しを浴びながら、のこのことその後に続く。
車が快適だった分、歩くのがつらいな。
暑いし、疲れるし、なんか人多いし。
「どこだ、ここ?」
「市民会館だよ~、ほら毎年、成人式とかある。」
「行ったことないから知らんが思い出した。」
テレビで毎年見てはいるから記憶の端にあった。
街の中心から少し離れたここは市民会館というより、イベント会場に近い。
たまに大型の展示会などもあることから、それなりに需要も多いという。
入口に向かう人の波に流されながら、そんな会話をしているとすぐに体に悪そうな冷たい風が吹いてきた。
会場の中は中心に長机が真っ直ぐに並び、その上にカラフルなパンフレットがズラリと置いてある。
その外側に向かい合うように仕切られたいくつものパーティションが設置されていた。
「ほら~じろちゃん、いっぱい大学が出てるよ~。」
やや興奮ぎみの詩織に手を引かれ、俺は出展されている大学案内に目を通す。
確かにかなり多くの大学が軒を連ねている。
県内はもちろん、県外果ては関東や関西の大学までもが登りを立てている。
「すごいな」
こういうのはニュースなんかではよく見るが、実際にこうして目の当たりにしてみるとなんかこう、胸に迫るものがある。
別に受けるつもではないのだが……
「それじゃー、どんどん行ってみよ~」
「あっ、おい!」
「どうしたの~?」
「どうしたの~じゃねえよ。どこ行く気だ」
「どこって、ブースに決まってるじゃん」
何言ってんの?みたいな顔で応えるな。
「先に言っておくが、今日この場所に俺の志望する大学は来てねえ」
「うん」
見る限りでは、そのほとんどが私大で国公立はパンフレットのみの参加になっている。
日曜だから、公務員はお休みという訳だ。
「でも、いっぱい大学来てるよ」
「でもも、ヘチマもない!今ここでもし、俺の志望校が揺らいだら今後の方針も変わるでしょ。
だから、あまり余計な情報は入れたくない。必要最低限の奴だけ行くぞ」
「え~、勿体ないな~」
「ほら、行くぞ」
ごねる詩織を無理やり引っ張り、手早く目的のブースに歩いていく。
「はあ、回ったな」
両手にドッサリと大学のパンフを抱え、俺達二人は会館を後にした。
「も~、結局説明聞かなかったじゃ~ん」
「いいんだよ、俺は自分で大学選ぶから」
詩織の言う通り、俺はどのブースにも最後まで足を伸ばさず、遠くから様子だけを見てとっとと立ち去るというのを永遠と繰り返した、その結果がこの様だ。
なんか制服姿が多くてね、うん、入りづらいよね。
しかし、これでも実りはあった。
「それにタダでパンフがこんなに手に入ったんだ。ほれ、良いだろう~」
「そんなの今、郵送でもらえるよ~」
「それじゃ、金がかかるだろ」
私立大学はそうでもないが、国立大学となると紹介パンフは有料であることが多い。
とは言って100円、200円程度だが、それでも数冊頼もうと思えばそれなりの金額になる。自分の立場を考えたら、節約はしていきたい。
だからただでもらえるのなら、頂くに越したことはない。
「ふふふ」
「じろちゃん、なんか嬉そ~だね」
「まあな」
喜びのない浪人生に取ってゴールである大学の詳細を知ることは砂漠の真ん中にあるオアシスのような存在に等しい。
サークル活動や大学祭、果ては学生生活。
そこには夢と希望が詰まっている。
そして、それを読んで自分の遠くない未来を想像して悦に浸るのが愉快極まりないのだ。
まだ、受かってないのに……
「それにしても、腹減ったな」
「だよね、私も。えへへ」
今の会話の何が面白かったのかは知らないが、二ヘラと笑う詩織はすぐにまた車に駆け戻った。あれはなんだ。
よく分からないその切り替えに、戸惑いつつ俺はその背中を追うのだった。
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