モメゴトのパートナー



 長雨が続く。

 完璧に秋になりきっていないせいか、むしむしとした日も多い。


 典子は、ほとんどモーリスの方には、出社してこなかった。

 日がな一日、司書の女性と玄関ホールに閉じこもり、蔵書整理をしている。

 このホールに図書館を開くと言っているのだが。


 直緒が覗くと、司書の女性が一生懸命本を整理しているそばで、いつも典子は、本を読んでいる。

 しゃがんでいることもあれば、寝転がって読んでいることもある。


 夢中である。

 声を掛けても、気がつかないことが多い。

 きっと、次の出版計画を立てているのだ、と直緒は思った。


 ……著者を発掘する為に、あんなに熱心に、同人誌を。

 ……図書館の仕事をしながら。

 ……ほんと、仕事熱心な人だ。



 ある日、甲高い悲鳴が、一乗寺家別邸に響き渡った。

 、直緒と古海は一緒にいた。

 ぎょっとして顔を見合わせ、二人、玄関ホールへ走った。


 典子は、開いた本をひらひら振りながら、踊り狂っていた。

 本を、遠くへ投げそうに見えながら、しっかり抱え込んでいるという、複雑な踊りだ。


 司書の女性は、ただ、おろおろするばかりだ。


 「ど、どうしたんですか、典子さん!」

直緒が声を掛けると、典子は泣きそうな顔をした。

「直緒さん! ダニがっ! わたしの大事な本に、紙ダニがっ!」


「そんなに腐った本を集めるから」

古海が鼻でふふんと笑った。

「今の季節は、実は、ダニの多い季節なんですよ。やつらは、夏の間に大繁殖しますからね」

「落ち着いてる場合じゃないでしょ、古海、なんとかしなさいっ!」

「なんとか? BL図書館に関しては、私は、ノータッチです」

「だめっ! 早く何とかして! 他の本にも移っちゃうっ!」


「だったら、」

古海は指を一本立てた。

「BL図書館を作るのは、お止めになることですね。少なくとも、この館には」

「それは、交換条件なの?」

「はい、さようでございます」


「わかった! わかったから!」

典子は叫んだ。

「早く何とかして!」




 久しぶりの晴天の日。

 大量の本が、庭に干されている。

 広大な一乗寺家の庭いっぱいに、典子の集めてきたBL本が、所狭しと並べられていた。


 緑の芝のあちこちで、コート紙がきらりと光る。

 薄いオレンジ色から褐色まで、さまざまな肌色が眩しい。

 つまり、半裸の男の子達が抱き合った絵柄の表紙が、圧倒的に多い。



 「悪夢のような光景ですね」

古海がつぶやいた。


 業者に依頼して、特にダニの発生のひどかった本には、燻蒸処理が施されている。

 工場に運んで、薬剤を当てているのだ。


 残りの本を庭に広げる作業は、朝から、直緒と古海がふたりでやっていた。


 「古海さん、」

地がショッキングピンクの上に、薄桃色と黒のスーツ姿のカップルのイラスト……言うまでもなく男同士……の表紙の本を干しながら、直緒は言った。

「古海さんは言いました。前に。あの。本が嫌いだって。小説とか物語とか、フィクションは大嫌いだって」


 古海が小説を読み慣れていない男だということは、久條の『悲恋』の件で、身に沁みてわかった。

 だが「読まない」と、「嫌い」には、大きな隔たりがある。


「そんなこと、言いましたかね」

本を箱から取り出し、俯いたまま古海が言う。

 開いた本から、微かにラベンダーの匂いが漂ってきた。


「言いました。それに典子さんも」

「お嬢様? お嬢様が、何て?」

「前に、南波さんに……あの、立て籠もり犯の……、古海さんは、小説なんて手にも取らないって」


「直緒さん。お嬢様がお読みになる本って、何ですか?」

「BLです」

「つまり、そういうことです」

古海は言った。

「私はBLは読まないけど、他の小説を全く読まないということではありません」

「本当に?」

「そりゃ、まあ、若干、読み違えることはありますけど」

「でも、じゃ、なぜ、あんな風に……あんなにきっぱりと……。『わかり合えないさだめ』なんて、古臭い言葉まで使って?」


 ……私は、あまり、小説のたぐいは読みません。

 本が好きかと尋ねた直緒に、古海は答えた。

 さらに追い打ちのように、彼は言った。

 ……小説が好きな直緒さんとは、わかりあえない運命さだめかもしれませんね。

 

 あれはとても辛かった。

 いつも優しかった古海に、いきなりばっさり切り捨てられたような気がした。

 今思い出しても胸が痛む。


 ふっと、古海が笑った。

 優しい目で直緒を見た。


「それはね。あなたを盗られた気がしたから。本に。大好きなあなたを。ごめんなさい。ちょっとひがんでみました」

「え?」

「ひがんで、あなたを傷つけてやりかった」

「そんな。ずっと気にしてたのに」

「あなたの注意を惹きたかっただけです。ごめんなさい」

「意外と、子どもっぽいんですね……」

「そんなことありません」

「……じゃ、ほんとは?」

「本、好きですよ」


 最後の一冊を、古海はシートに広げた。


「たとえ嫌いでも、好きになります。あなたが好きなものを私が嫌うわけ、ないです」

「小説も好き?」

「大好きです」

「……よかった。古海さんが本を好きでいてくれて」

「直緒さん……」


「だめです」

両腕を広げた古海から、直緒は、ひょいと身をかわした。




 「直緒さん!」

典子が走り寄ってくるのが見えた。

 直緒と古海に本の虫干しを押し付け、久しぶりで、オフィスに出ていたのだ。


 「直緒さん」

はあはあと息を切らせながら、典子が言う。

鈴麗リンリーから言付け、預からなかった? フランクフルトで。あなたに預けたって言うのよ。今、メール見たら」


古海が眉を顰めた。

「鈴麗? お嬢様、まだあの方とつきあってらっしゃったのですか?」

「うるさいわね。誰と付き合おうが、わたしの勝手でしょ。鈴麗は、大事なビジネス上のパートナーよ」


「ビジネスねえ」

古海が首を振った。

「モメゴトの、じゃないですか?」

「うるさいわね。あなたは黙ってて」


 直緒に向き直った。

 かなりあせっているように見える。


「ね、直緒さん。鈴麗から、なにか、書きつけのようなものを貰ったでしょ。中花国のブースは、モーリスの隣だったはずよ」

「中花国ブース……」


 言われて直緒は思い出した。

 中花人の女の子から、紙つぶてをあてられたんだった。

 丸められた紙を広げてみると、数字のようなものが書かれていた。村岡は、メモ用紙の再利用だろうと言っていたが……。


 「それよ、それ」

「まだ、持ってます」


 古海がさかんに目配せしていたが、直緒は気がつかないふりをした。

「あの女の子、なんだか必死だったから。捨ててしまうのもしのびなくて」

言い訳のようにつぶやいた。


 オフィスに戻り、ガイドブックの間から、しわくちゃの紙を持ってきた。

「これ」

「やっぱり直緒さんだわ。大好き!」

典子が直緒に飛びついた。


 「お待ちなさい」

古海が言った。

 典子の手から、すっと紙片を取り上げる。

「あっ!」

「説明してください、お嬢さま。これはいったい、なんですか?」

「見ればわかるでしょ? ただの英数字の羅列よ」

「ただの英数字なら、電子で送ればいいでしょ。それを、わざわざ紙に書いて、しかも無関係な直緒さんに運ばせるとは。然るべき理由があるはずですよね?」

「理由なんてないわよ」

「傍受されるのを恐れましたか? 中花国は、そういう国ですものね」

「古海には関係ないわ」


「ちゃんと説明しなければ、お返しできません」

きつい声で、古海は言った。

「お嬢様、今度は何をなさるおつもりですか? いったいどのような災厄を、一乗寺家に、いや、この国に齎すおつもりか?」


 「古海さん、それほどのことでは……、僕にその紙を投げた子も、純情そうなかわいい女の子でしたし、」

直緒が割って入った。


 「直緒さん」

古海の声が、氷のように冷たくなった。

「あなたは女に甘すぎます。だから簡単に腐女子の罠にはまるんです。……いったいいつになったら私は、人類の半分を、監視ライバルの対象外におけるのか……」


「なにわけのわからないこと、言ってるのよ、古海。その紙、早く寄越しなさい。大事なものなんだから!」


 「典子さん、それ、なんなんですか?」

改めて直緒が尋ねた。


 典子がためらう。

「言ったら、古海から取り返してくれる?」

「ええ、もちろん」


「直緒さん!」

古海が短く抗議する。


 直緒は言った。

「フランクフルトのブックフェアが発端ですもの、本に係わることなんでしょ? 典子さんの大事なお仕事BLに。あの女の子、必死でした」

「だから、女は人をダマすんです! 現にお嬢様を御覧なさい! 本当は腐女子でヒモノだくせに、ピンクのゆるふわ女子に化けて、さんざん、あなたをたぶらかし……」


「男も女も関係ありません!」

きっぱりと直緒は言った。

「僕は、典子さんの仕事に対する情熱を、尊敬してます」



「口座番号よ」

とうとう典子が言った。

「鈴麗の会社の。隠し口座の番号なの」


「やっぱり」

古海がため息をついた。

「送金なさるおつもりですね。中花国へ」

「ええ、そうよ」

「何のために?」

「ええと。そうだ。鈴麗が素敵なお洋服を買う為に、ちょっとした資金援助……」

「嘘でしょ」

「安心安全な日本製品を買うようにと、日本経済の発展の為に送金……」


 「典子さん」

直緒が割って入った。

「何の為の資金援助ですか?」


「……BLの出版」

典子は答えた。


 古海がため息をついた。

「中花国において、BLは、弾圧されてるんですよ? BL作家が逮捕され、BLサイトが摘発される国ですよ?」

「もちろん、ただの出版じゃないわ。隠れてやるの。地下出版よ!」


「地下出版!」

古海が強く短く叫んだ。

「はっ! よその国のモメ事に首を突っ込むとは! どうです、直緒さん。これでも、この紙を、お嬢様に渡しますか?」


「約束ですから」

 背伸びして直緒は、古海の手から紙片を抜き取った。

 案に反して、古海はあっさりとそれを手放した。

 典子に手渡す。

「僕は、どこまでも典子さんについていきます」


「ありがと、直緒さん」


「本当に懲りない人ですね。仕方ない。私もお嬢様と共にまいりましょう」

古海が言った。

 言葉とはうらはらに、なんだか嬉しそうに見えた。



**



 直緒がお昼に出ようとしていると、向こうから、司書の女性が歩いてきた。

 大きな段ボール箱を、重そうに抱えている。


 ……名前、名前。

 一生懸命思い出そうとしていると、女性は、しんどそうに箱を抱え直した。


「僕が持ちましょう」

反射的に直緒は言った。


 女性に重いものを持たせるのはよくない。

 たとえそれが、自分の倍ほどの腰回りを誇る中年女性であっても。


 「いえ、そんな……」

思いがけず可愛らしい声を、おばさんが出した。


 ……いけない。おばさんはダメだ。えと、名前……。


「悪いわ。私が典子さんに頼まれたのに」

「典子さんに? それなら、なおさらですよ」


 中身は本であろう。

 本は、段ボールに詰めると、非常に重い。

 そんなものを、女性に持たせるわけにはいかない。


 なおも遠慮するおばさんから、半ば奪い取るように、直緒は、箱を受け取った。

 ずっしりと重い。


「これ、どこへ?」

「発送室へ。これも、図書館の所蔵本にするそうです」

直緒の後をついて、ちょこまかと歩きながら、おばさんは言った。


 ……って。

 ……名前、名前。


 ……わりとよくある名前だった。ええと、日本で一番多い姓は佐藤さん。……違う、もっと、この、電気屋っぽい……。


「山田さん!」

直緒は叫んだ。


「ええ、そうです」

嬉しそうな顔を、山田はした。

「私の名前、覚えててくれたんですね!」

「もちろんです」

「意外ですね。本谷さんはてっきり……」


 ……俺の名前、知ってるんだな。

 直緒は思った。

 ……この人の名前、思い出してよかった。


「女性には、全く興味がないって思ってましたから!」


思わず直緒は立ち止まった。

「え?」


 ……いや、まあ、確かに忘れてましたが。

 ……一応、女性であるあなたの名前を、確かに俺は、忘れてました。

 ……っていうか、なんです、その、非難するみたいな言い方!


 言いたいことが頭の中を駆け巡ったが、直緒は口をつぐみ、口の端をきゅっと上げて、微笑みを作った。

 「なぜ、そんな風に?」

微笑を形作ったまま、直緒は尋ねた。


「だって、古海さんとつきあってるんでしょ?」

 その瞬間、直緒の腕から段ボールが滑り落ちた。


 床に当たった衝撃で箱の底が抜ける。

 大量の薄い本が、廊下いっぱいに散らばった。


「あらら、大変! 大事なご本が!」

山田は、床に這うようにして、本を拾い始めた。



 ばらばらに詰めてあったらしく、ページが開いて落ちた本もある。

 薄い本は、傷みやすい。

 慌てて直緒も、本を拾い集める。


 「それにしても、あなたみたいにきれいで優しい人が、……ほんと、もったいない」

薄い本の挿絵をしげしげ眺めながら、なおも山田が言った。

「誰が母親であろうと、かわいらしい赤ちゃんが産まれると思いますよ。相手が女性ならね!」


 ……余計なお世話です!


 だが、相手は自分の母親くらいの年代である。

 敬い、大切にしなければならない。

 直緒はうつむいて本を拾い続けた。


 大量の本を抱え、山田が立ち上がった。

「子どもを生み育てるのは、国民の義務でしょ」


「僕はそうは思いませんけど」

思い切って、直緒は言った。

「国の為に。そんな風に生まれてくる子どもは、不幸だ」


遠い目を、山田はした。

「まあ、私も、子どもは産みませんでしたが。そしてもう、手遅れですが」

「……」

「仕事に捧げた人生でした」


 女性の生き方について、直緒にどうこう言うことはできない。

 困っていると、山田は、ふっと笑った。


「ひとそれぞれですものね。この頃そう、思います。……それにしても、」

にわかにその目が生き生きと輝きだした。

「古海さんって、ちょっとアレだけど、本谷さん、大丈夫ですか?」


「アレじゃありませんから」

耳まで赤くなりながら、それでも直緒は言い返した。








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