つるつるが好きなの!



 3日目。

 版権を交渉することのできるビジネスデーの、最終日である。明日からの2日間は、一般客が来場する。


 直緒のクロネコ姿も、すっかり板についた感がある。

“Hey, bunny cat boy!”(バニーのネコちゃん)

などと呼ばれると、思わずシッポを振りそうになって……もちろんできるわけがない……、自分でも怖い 。



 版権は、英語、ドイツ語、フランス語圏でそれぞれまとまった。意外なことに、北欧圏でも、いくつかまとまりつつある。また、韓国語も、あとは、価格の交渉を待つばかりだ。

 懸案はロシア語だが、これは、焦ることはないと、村岡は言っている。


 日本の典子とは、もっぱら、スカイプを用いて、連絡を取っている。

 が、特に指示らしい指示はない。

 村岡を信じて、任せ切っているのだろうと、直緒は思った。

 直緒と同じく、言葉の壁にぶち当たっているだけなのかもしれないが。

 ただ、直緒の写真を送れと、それだけはうるさかった。



 「お嬢様は、随分とお忙しそうだ」

パソコンから目を上げた村岡は、不服そうだった。

 これだけ交渉をまとめたのに、典子は、そうそうと回線を切ってしまったのだそうだ。

 お褒めの言葉くらいあってもいいと、しばらく嘆いた後、彼は言った。

「いったい、何をしていらっしゃるのか」

「ろくでもないことであることだけは、確かですね」

きっぱりと直緒は言った。




 カナダ人の客がやってきたのは、昼ごろのことだった。

 ちょうどお昼に出ようとしていた直緒は、スーツ姿の、生真面目そうな男と鉢合わせた。

 グレーに近い金髪で、褐色の目をしている。身長は、欧米人にしては、小柄だった。それでも、直緒よりは、やや高い。


 すでに猫耳は外していたが、直緒は、軽く頭を下げた。

 男は怪訝そうな顔をして、右の眉を上げて見せた。

 笑顔はなかった。


 ……お茶を出さなくちゃ。

 ちらりと奥を見た。

 ジェイは午後からの予定だった。

 明日の一般デーに備えて、半日休んでもらったのだ。


「いいよ。俺が相手するから。君は、お昼へ行って来いよ」

村岡が言ってくれたので、直緒は、ブースの外に出た。



 ブックフェアの会場内には、レストランも併設されている。だが、高いし混んでるし、あんまりおいしくない。


 まっすぐに、メッセの中庭に出た。

 初冬の陽射しが、柔らかく落ちてくる。

 中庭では、屋台が出ていた。

 香ばしい匂いを嗅いで、お腹が、ぐうと鳴った。


 直緒は、ソーセージとポテト、それからグレープフルーツの生ジュースを買って、テントの椅子に腰を下ろした。

 ドイツのソーセージは、本当においしい。

 まず、その大きさにびっくりする。皿の上で、渦を巻いているのだ。


 ……さすが、腸詰。


 動物の腸たるもの、これくらいの太さと長さがないと。

 フォークでぐさっと突き刺して、大きな口を開け、端からかぶりつく。

 ぱりっとした皮を噛み切ると、肉汁が弾けるように出てくる。ああ、獣の肉を食べてるなと、満足感が半端ない。


 ふと視線を感じた。

 目を上げると、斜め向かいの椅子に腰を下ろした栗色の髪の中年女性が、目を丸くして、直緒を見つめていた。

 にっと微笑みかける。

 女性は、咎めるような目線を送って寄越した。


 ……また、女の子と間違われたな。


 上着やネクタイは置いてきたので、今は、シンプルなワイシャツに、スラックス姿だ。

 小柄なせいか、ドイツこちらに来てから、よく女の子に間違われる。

 おかげで、”Fräuleinフロイライン”が「お嬢さん」という呼びかけだと、すぐに覚えた。


 ……でも、男だし。

 上品にナイフで切って食べていたら、肉汁が皿に取り残されてしまう。

 ……いいじゃん、せっかくの巨大ソーセージなんだから。かぶりついても。

 構わず、食事を続けた。




 戻ってみると、客はもういなかった。

 接客する人間がいないせいか、他の客もいない。


 奥で、村岡が一人、スカイプを使っていた。

 典子と何か、打ち合わせているようだ。


 直緒が声をかけそびれていると、ジェイがやってきた。クララも一緒だ。

 相変わらず、仲のいいことだ。

 「ハーイ、ナオ!」

陽気な声で、ジェイが挨拶してくる。


 「ナオ、オネガイガアリマス」

傍らで、クララが言った。

 ジェイとは違い、硬い表情をしている。

 思いがけず日本語だったので、直緒は、びっくりした。

「*****」

 しかし、続く言葉は、ドイツ語だった。


「……何?」

直緒は縋りつくような目を、ジェイに向けた。

 すっかり彼に、頼り切ってしまっている。


「……」

ジェイは肩を竦めた。


「***! *******!」

 そんなジェイにも、クララが、激しい言葉の嵐を浴びせかける。

 息継ぎをしながら、ぐいと、顎を直緒の方へしゃくった。

 どうやら、自分の言いたいことを、訳してくれと言っているようだ。


「ナオ、サワラセテクダサイ」

しぶしぶ、ジェイは言った。

「アルイハ、ヌイデ」

「え?」

「クララノマエデ」

「だ、だって、クララは君の恋人だろう?」

「デモ、ミセテ」

「ええーっ!?」

「ウエダケデイーカラ」


 「いや、脱ぐのは君だ、ジェイ」

奥から、村岡が出てきた。


「?」

 ジェイと直緒は顔を見合わせた。


 日本語がわからないクララは、きょとんとしている。


 村岡は、じっと、ジェイの手首を見ている。

 そこには、赤い毛が、びっしりと生えていた。


「君、胸毛が生えてるだろ?」

「アノ、ヌイデクダサイ、ハ、ナオ……」

「手首に毛が生えている奴は、胸毛も豊かな筈だ。だから、本谷君の前で、ジェイ、服を脱いでくれ」




 村岡は、ジェイとクララに説明を始めた。

 ドイツ語だから、直緒には、さっぱりだ。


 「どうなってるの?」

パソコンから、意味の取れる言葉が流れた。

 典子の声だ。

 スカイプの回線が通じたままだったのだ。

「村岡さーん、どこ行っちゃったのぉ?」


「どうなってるは、こっちのセリフですよ、典子さん。なぜ、ジェイが僕の前で脱がなくちゃいけないんですか?」

「あ、直緒さん!」


 ディスプレイの向こうで、典子が嬉しそうな顔をした。

 それから、咎めるような眼差しを向けてきた。


「お耳は、どうしたの?」

「昼休みでしたから」

ぶっきらぼうに直緒は答えた。

「そういう典子さんは、ジャージですね……」


「そんなことより、早起きを褒めてよ。こっちは、朝の7時なのよ!」

「昨夜、お風呂に入りましたか?」

「も、もちろんよ」


嘘だな、と直緒は思った。


「で、答えて下さい。なぜ、ジェイが僕の前で服を脱ぐ必要があるんですか?」

「胸毛よ。胸毛なの。失礼しちゃうわよね」

 典子が答えた。


「胸毛? 胸毛がどうしたというんです?」

 直緒が尋ねると、典子が口を尖らせた。


 画面が揺れた。


「私はね、好みじゃないって言ったのよ。でも、カナダの人が……、」

画面の向こうで、典子の姿が、ゆらりと歪んだ。

「彼、間違いなく、受けよ。だから、胸毛は彼の趣味なのよ。それを人に押し付けて……」


 ざざざざざ。

 画像の乱れが大きくなる。


「……毛がない方がいいの! それは、日本の女子なら、みんな同じだと言うはずっ! 腐女子じゃなくても! 胸毛なんて……、萌えが……」


 ざざざざざ……。


「剃るべきよ! つるつるが好きなのっ! ……わき毛と同……エチケット……ヒゲもじゃも嫌……」


ぷつりと画像が途切れた。


 「……」

空白のディスプレイを、直緒は呆然と見つめた。


 村岡が、ぽんと肩を叩いた。

「つまり、そういうことだよ、本谷君」

「さっぱりわかりません」

「お嬢様の話を聞いただろう?」

「自分の趣味を連呼していただけのようですが」


「うーむ」

村岡は腕を組んだ。


 ジェイは、途方に暮れたような顔で、立ち竦んでいる。傍らで、クララが、まるで、女豹のように、直緒を睨んでいた。今にもとびかかってきそうな獰猛な目つきだ。


「そりゃ、僕は女性にもてないですけどね。でもなんで、クララさんに嫌われなくちゃならないんですか? ジェイの恋人に」

「まさに、ジェイの恋人だからだよ」

村岡は答えた。



**



 「いやー、これは、編み物ができますね……」

直緒は感嘆した。

「冬でも、セーター一枚分は、暖かそうだ」


 ホテルの直緒の部屋で、ジェイは、シャツを脱いだ。

 隅のスチーマーに、腕を組んで、クララが寄り掛かっている。


 髪の毛と同じく、ジェイの胸に生えた毛も、赤毛だった。

 両胸にびっしりと生えている。

 胸を覆った毛は、腹にも波及していた。

 胸と同じ密度の毛が腹の中心を覆い、脇腹はやや粗かった。


“My chest hair is abundance.”(俺の胸毛は濃い)

自慢そうにジェイが言った。


“It’s mine.”(私のものよ)

きっぱりとクララが言った。


 村岡は、メッセから直帰した。

 愛妻家の彼は、仕事は5時までと決めている。

 その前に、彼は、胸毛について、説明してくれた。


 きっかけは、昼前に訪れたカナダ人の版権バイヤーだった。

 マイケル・サザーランドと名乗った彼は、ハーレキング社の編集者でもあった。


 彼は、日本のBLに、深い感銘を受けていると話した。英語に翻訳されたBLを、かなり読んでいた。

 モーリスの4冊の本のシナプシスにも目を通していた。

 その上で、日本のBLには、足りないものがあると言った。


 胸毛である。

 胸毛……。


 抱きしめられた時、顔に被さる、あの感触。強い匂いと、汗のしずく。

 濃いヘアの間から覗くふたつの乳首の、なんと愛らしく、また、猛々しいことか。


 事実、日本以外の国では、胸毛の描写は普通にある。なのになぜ、日本のBLには、それがないのか。

 こんなにもセクシーなものを。

 自分は、日本のBLでも、胸毛の話を読んでみたい……。



 「だぁってぇーー。ふけつ、なんだもーーん」

激しい拒絶反応を示したのは、スカイプの向こうの典子である。

「剃ってないお髭とおんなじでぇーー、ほっぺにちくちく、きっとするんだもーーん」



 ……もし、日本のBLとして、胸毛をきっちり描いた作品があるのなら、ハーレキング社は、是非、買いたい。


「そんなのぉぉぉー、モーリスにあるわけないでしょ!」



 ……待てないということではない。これから、書いてくれるのなら、いくらでも待つ。

 そう言い置いて、マイケルは帰って行った。



「何言ってるんです! ハーレキング社ですよ? 世界に冠たる、ロマンス小説の。その一角を、モーリスが突き崩す、これは、チャンスなんです!」

いやがる典子を、村岡は、必死で口説いた。

「胸毛。胸毛が何です。ちょっと胸に毛を生やせば、それで、世界中にモーリスの本が流通するんです!」

「だめぇーー。そんなの、作家さんが、いやがるぅーーー」

「世界に名が売れるのですよ? 嫌がるもんですか」

「そもそも胸毛の生えた人なんて、作家さんの回りには、いないからぁ」

「います」

「いないっ!」

「なんでそう、言い切れます?」

「わたしが嫌いだから!」

きっぱりと典子は言い放った。

「だから、胸毛のある作家さんや、そーゆー恋人や家族のいる作家さんなんて、モーリスにはいないのっ!」


 運悪く、そこへ直緒が帰ってきてしまった。

 回線の具合が悪く、スカイプの映像は一度途切れた。


 再び、回線が繋がると、満面の笑みの典子が現れた。

 ふっきれたように、いや、むしろ幸せそうな表情で、彼女は言った。

「直緒さんが取材してきてくれたらっ! 直緒さんが、胸毛にぎゅっとして、その感想を作家さんに教えてくれるんなら! そしたら、考えてもいい!」

 ……。



 そういうわけで、このような仕儀となったのである。

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