カワイイ、ネコチャン



 目の前を、大きな鞄や、キャリーバックをひきずった人々が、群れを成して歩いて行く。


 会場内は、白熱していた。

 時に大声で、時にひそひそと。

 議論し、交渉する姿が、会場のあちこちに見られた。


 フランクフルト、ブックフェア。

 毎年10月半に行われる、5日間の本の祭典だ。

 世界中から出版社が集まって、版権の取引きが行われる。




 空港に降り立つと、りんとした冷たい空気が肌を刺した。

 夏の暑さが残る東京とは、全然違う。

 とうとう来たんだ、と、直緒は実感した。


 典子の用意してくれた出展者パスのおかげで、空港から会場まで、スムーズに辿りつけた。

 Sバーンメッセ駅から、徒歩3分。

 6号館フロアには、アジアの出版社が集まっていた。その一角に、日本コーナーがある。

 フロアの入口真正面だ。

 「JAPAN」という立体電光看板が、眩しい。


 大手出版社や、各種出版協会、著作権事務所などが華々しく構えるブースの奥に、小ぢんまりとした一角があった。


 「……っ」

直緒は思わず、顔を赤らめる。

 裸の男のたくましい肩越しに、陶酔しきった顔をこちらに向けていたのは、他ならぬ自分自身だったからだ。

 モーリス出版社のブース。

 そのパーティーションの外側には、久條の本に使った装丁写真が、でかでかと引き伸ばされて、貼られていた。



 「おお! 来たか!」

40代くらいの男性が、出てきた。

 黒髪に白髪が滝のように流れている。顔立ちは、非常にエネルギッシュだ。

「本谷直緒君。初めまして。村岡要平だ」

直緒の手を握りしめ、ぶんぶん振った。

「すぐわかった。なにしろ、」

写真に目をやって、にやりと笑った。


 直緒は、なお一層、赤面した。

「初めまして、本谷直緒です。……あのこれ、ここに貼っておかなくちゃいけないんですか?」

「そうだよ」

「せめてブースの奥にこっそり貼るとか?」

「それじゃ、意味がないじゃないか」

「でも、ですね。公衆の面前で、このような、なんというか、その、……」

「この顔、イっちゃってるからね」

「イってません!」

「そうか?」

「そうです! 久條先生の小説は、芸術です。この写真は先生が希望されたものですから、やっぱり芸術なんです!」

「なら、いいじゃないか、ここに貼っておいたって」

「でも……」

「芸術作品なんだろ? 公衆の面前にワイセツ物を展示してるわけじゃないんだから」

「……」


「きれいだよ。とても色っぽい。朝から、大評判だ」

「……、……」

「この分なら、版権、売れるね。英語圏とドイツ語圏。規模は小さいけど、フランス語圏も有望な市場だ。中国は無理だろうけど、ひょっとしてハングルなら……」


「他の作品はどうですか?」

「好調だ。特に『文治の風/忍ぶ恋』の評判がいい。日本といったら、未だにサムライのイメージが強いんだろうね」


 話している最中も、ひっきりなしに、人が、入り口から覗く。

 写真と直緒を見比べ、目を丸くしている。




 直緒は知らなかったが、モーリス出版の「ドイツ出張所」が、フランクフルトにはあった。

 それがこの、村岡だ。


 村岡は、フリーで活動している。

 普段は、海外で評判の良い本や、個人的に目についた本があれば、日本に紹介する仕事をしている。


 それにBL要素があれば、真っ先にモーリス出版に話が来る。

 モーリスは、今まで電子書籍しか出版してこなかったので、話が実ることはなかったのだが。



 「で、お嬢様はどうしてる? お元気?」

「はい。村岡さんによろしくと」

直緒はごそごそと紙袋を探った。

「これ。お好きだと伺って」

「おお! ありがとう!」

富士山まんじゅうである。

「可南子の大好物なんだ」

可南子というのは、藤岡の妻だ。


 この二人は、かつて一乗寺家に勤めていたと、直緒は聞いている。

 典子のいる別邸ではなく、一乗寺社長や創のいる本宅の方だ。

 結婚を機に、一乗寺家を辞めてドイツへ渡った。そして、版権ビジネスを始めたという経緯らしい。


 「お嬢様は、いらっしゃらないんだな」

「はい。なにやら企んで……じゃなくて、忙しいようです」


 自慢じゃないが、直緒は、ドイツ語など、全然全くわからない。

 英語も、簡単なものならかろうじて読めるが、話す方は、おぼつかない。


 確かに、言葉に関する仕事をしている。だが、守備範囲は、あくまで、日本語に限定されていた。

 我ながら、つぶしがきかないこと、この上もない。


 だから、フランクフルト出張の話を聞いた時は、本当に驚いた。

 出版したばかりの四冊の紙の本……大河内先生の時代BLと、奈良橋沙羅先生の甘い恋愛BL、そして久條先生の本とくりいむメロン先生の作品……の版権を売ってこいという話は、最初、とんでもなく無謀に思えた。


 しかし、モーリスは毎年、フランクフルトのブックフェアに参加してきたという。

 もっとも、ブースを持つのは今回初めてだ。今までは、日本コーナーの片隅に、ひっそりと、電子書籍のパンフレットを置いていただけだ。

 村岡の伝手で、所定のコーナーに置かせてもらっていたわけだが、今年は、大々的にブースを出すのだと、典子は意気込んでいた。


 ……なにしろ、紙の本をだしたのですから!


 先生方から原稿を拝領したそばから、英語とドイツ語のシノプシスを作らせていたというから、驚いた。

 日本語の紙の本と同時進行だったわけだ。

 


「それなのに、肝心のお嬢様がいらっしゃらないんじゃ……」

「自分は行かない方がいいと、おっしゃってました。BLというジャンルの特性上、ブースに女性がいない方が、話が進むと。でも、僕がみたところ……」

「君が見たところ?」

「日本で、なにやら計画があるようです。なにしろ今は、天敵がいないからとおっしゃって」

「お嬢様の……天敵?」

「いや、まあ、その……」

うつむいて、直緒は言葉を濁した。


「ふうん。なんだかよくわからないけど、」

村岡は言った。

「自由を満喫されているわけだね、お嬢様は」

「悪だくみをしてないといいんですけど。あと、暴走も」

直緒はため息をついた。




 「ほら、日本から届いた荷物だ」

村岡が段ボール箱を示した。

「本は既に展示しといた。残るはこれだが……」

ぺりぺりとガムテープをはがす。

「アメリカでは、緑茶がブームなんだってな。なら、大丈夫だろう。お茶菓子は、……甘納豆か」


「ほんとうは羊羹が良かったそうですが……手間のかからないように、一口サイズの……、でも、甘納豆の方が軽いから、送料がかからないって」

「個包装か。さすが、日本では駄菓子に至るまで、行き届いた気配りだな。いつも感心するよ」


「お茶は、茶葉で持ってきましたけど。やっぱり、その方が、ペットボトルより軽いから」

「誰だ、これを手配したのは」

「メイドさんです。篠原さんといいます」

「しっかり者のメイドだな。だったら、お嬢様も安心だ。天敵がいなくても」

「は?」

「いや、こっちの話」


 日本コーナーでは、生け花が活けてあったり、来場者と一緒に折り紙をしたり、各ブース、さまざまな工夫がなされている。

 モーリスでは、ブースに来たお客さんを、簡単な茶菓でもてなそうというのだ。



 「で、これが、」

最後の段ボール箱を、村岡は開いた。

「君の衣装な」


 チャコールグレーの荒い縦縞のスラックスに、黒のモーニングが出てきた。ネクタイは、白の蝶ネクタイだ。

 それらの衣装の上に、ちょこんと乗せてあったのは……。


「あの、村岡さん? これ、なんですか」

「日本で流行ってるんだろ?」

「え?」

「ネコのミミと、シッポ」

「……」

「道行く人は、みな、つけているというじゃないか」

「……、流行ってません。流行ってませんから!」

「そうかい?」

「つか、どうするんですか、これ」

「君がつけるんだ、もちろん」

「えっ!」

「そして、その恰好で、お客さんに茶菓を供するんだ」


 クロネコなのか、黒い耳のついたカチューシャと、同じく黒の、長いしっぽである。しっぽは、安全ピンで止めるようになっている。

 どちらも、毛並みがつやつやしていた。


 「さ、早く着替えたまえ」

「衣装があるなんて、初めて聞きました。普通にスーツで十分じゃないですか」

「君のそのスーツは……」

村岡は、じろりと直緒の頭から足の先まで見渡した。

「華やぎに欠ける」


「しょうがないでしょう、ビジネススーツなんですから。百歩譲ってモーニングはいいとしても、ですね。さすがにシッポとミミはないでしょう」

「ふ、お嬢様の不意打ちだな」

村岡はにやりと笑った。

「ここまできたら、君も、拒否はできまい。どうせ知らない人ばかりだ。モーリスの社員である以上、君も腹をくくるんだな」

「そ、そんな……」


「だって、最初の案では、濡れたYシャツにズボンなし、だったんだぜ。さすがに風邪をひくからと、俺が説得してやったんだ、お嬢様を」

「……」

「たった5日間のことじゃないか。君もホストに専念するといい。さあ、衝立の向こうで、着替えておいで」

「い、いやです」

「英語もドイツ語もできない君が、どうやって、お客さんとコミュニケーションを図ろうっていうんだい? その恰好でお茶を運んで来たら、言葉はなくてもばっちりだ。なんとかそれで間を持たせて、ビジネスの話は、俺にふってくれればいい」


 言葉の壁を指摘されると、直緒にできる反論はなかった。

 しぶしぶと段ボールを抱え、直緒は、衝立の陰で着替え始めた。




 「やあ、いいじゃないか」

衝立の陰から出ると、村岡が言った。

「よく似合ってるよ、それ」

「僕はネコではありませんが」

「モーニングのことだよ。サイズもぴったりじゃないか。日本人の若者が着ても、様になるものなんだな。ちょっとした紳士に見える」

「慣れないせいか、少し窮屈で……」


直緒が言いかけた時、赤毛の大男が飛び込んできた。

「ナオ!」

いきなり直緒をつかまえ、ハグをする。


「……! ……!」

 ぎっちり抱き込まれ、直緒は息もできない。

 暑い胸板に押し付けられた鼻が、潰れそうだ。


「ジェイ!」

村岡が呼びかけた。

「ムラオカ サン」

やっとのことで、男は直緒を離した。

 その時には直緒は、軽い酸欠状態だった。


「本谷君、紹介するよ。彼は、ジェイ・ウィルソン。奈良橋先生の本の、英語の紹介文を書いてくれた人だよ」

「そ。ナラハシ センセ、サイコー!」

ジェイは言った。


 ……日本語、わかるんだ。

それは、安心事項ではある。

 だがしかし。


「ジェイは、ドイツこちらの大学で、比較文学の研究をしているんだ。今回は、ブースでの雑用を頼んだ。ジェイ、本谷君は知ってるね?」

「知ッテル、知ッテル」

ジェイはそう言って、にやりと笑い、パーティションの写真を指さした。

「ホンモノ、ホンモノノ、ナオ!」

「……」


 モーリス入社以来、いろいろ学んだ直緒である。

 自分の不用意な一言が、どれだけの災厄を招いたことか。

 すぐには言葉が出ずにいると、村岡が口を出した。

「大丈夫、ジェイは、異性愛者ヘテロだから。れっきとしたオランダ娘の恋人がいる」


「いや、べつに、僕は、その……」

口ごもりつつも、直緒はほっとした。

「カワイイ、ネコチャン。ナオ、So Cool!」

ジェイはそう言って、直緒の頭の、黒い耳をそっと撫でた。



**



“Cute!”

“Du bist hübsch. “(かわいいね)

“Come, this way!”(こっちへおいで)


 さまざまな言語が飛び交う。

 呼ばれるままに、お茶を運び、笑顔を振りまく。


 学生時代にウェイターのバイトをしていたのが、役に立った。

 紙コップの中身をこぼさずに運ぶことができるし、愛想笑いも苦にはならない。


 客の入りは、かなりのものだった。

 その多くが、用意されたテーブルにつき、村岡の体が空くのを待っている。

 待たせている間、茶菓でもてなすのが、直緒の役目だ。


 ……版権は、売れているのかな。


 言葉がわからない直緒は、不安だ。

 そっと村岡のいるテーブルをうかがっていると、誰かが、ぎゅっとしっぽをひっぱった。

「!」

ぎょっとして振り向くと、金髪を刈り込んだ欧米人が、にやにや笑っていた。

 Tシャツに短パン、この場にそぐわない軽装だ。


 ……なにをする!

言おうとして、言葉に詰まった。

 ……ドイツ語で、なんというんだ?

 あるいは、せめて英語で……?


 男はしっぽを離さない。

「……! ……!」

言葉に詰まり、直緒は立ち竦んだ。


 ブースには、他に客がいる。女性客が多い。

 物珍しそうに甘納豆を口に含んでいる彼らを、動揺させたくない。


 薄気味悪い笑いを、男は、満面に広げた。

“Are you free tonight?”(今夜、ヒマかい?)


 以心伝心というやつか、さすがに、直緒にも伝わった。


“No! No!”

馬鹿の一つ覚えのように、必死にノーを繰り返す。


“Why, gay boy!”(なぜ、カワイ子ちゃん?)

金髪男は、大口いっぱいに下品な笑いを浮かべながら、さらに手を伸ばした。直緒の尻を撫でまわそうとしているのだ。


「この……っ、」

思わず日本語でどやしかけた時、


“Get off!”(手を離せ!)

電気ポットで湯を沸かしてたジェイが、走り出てきた。


“Cunt!”(なにをっ! ※Cuntには、女性器の意味あり)

男は叫び返したが、ジェイの方が、遥かに体格がいい。


“Kiss my ass!”(くそくらえ! ※直訳は、「俺の尻の穴にキスをしろ」)

ジェイはそう言って、こぶしを握り中指を立てた。


 男は顔色を変えた。

 振り払うように直緒のしっぽから手を離すと、大股で、ブースの外へ出て行った。


 幸い、他の客は、何も気がついていないようだ。


 「ありがとう」

直緒は、ジェイに言った。

 言葉が通じないからといって、まさか殴り合うわけにもいかない。

 ここは、ビジネスの場なのだ。

 ジェイが助けてくれて、助かった。


 「ドーイタシマシテ」

にっこり笑って、ジェイは答えた。

「コレ、シゴト。ムラオカサン、タノマレタ」


 自分の警護も、ジェイの仕事のうちとは。

 ……そもそもこんな格好、させなければいいじゃん。


 任務とはいえ、ため息の出る思いだった。

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