突っ込まれることへの恐怖
「それで、お父様は、お元気ですかな?」
「ええ、おかげさまで。先日は、父の会社のパーティーに参加して下さって、ありがとうございました。父は、ずうーっと前から先生の愛読者で、先生が来て下さったことを、とても喜んでました」
「私の他は、純文の作家さんばかりだったね。お嬢さんのお役に立てなくて、申し訳ない」
「いえいえいえいえ。このたびは、父の会社の創業記念の小冊子の御執筆を引き受けて下さって、本当にありがとうございます」
典子と時代作家の大河内の会話は、なごやかに続いている。
今どき珍しい和服姿の作家と。
ピンクの花柄模様のチュニックブラウス姿の典子。下に着た薄緑色のランニングシャツが透けて見える。
直緒は、気が気ではない。
いつ、爆弾が落ちるか。
つまり、典子の……。
「先生にはぜひ、BLを書いて頂きたくて」
……出たよ。
「びーえる?」
のどかに大河内先生は尋ねた。
「Business(ビジネス) Literature(文学)ですかな。それは、どのようなコンセプトで? 創業記念冊子ということは、会社の沿革に添ったものがいいんでしょうね。でも、一乗寺社長は、趣味的なものだから、フィクションでよいとおっしゃっていましたが?」
……やっぱり!
……大河内先生も、一乗寺パパと一緒で、わかってない!
心の中で、直緒はうめいた。
「そうですね」
典子は言った。
その目は、あらぬ方を見つめている。
「最近わたしは、俺様攻めに凝っておりまして」
「オレサマ……攻め? して、守りは?」
「守りじゃありませんよ。攻めの反対は、受けです」
「……もしかして、特攻ものですか?」
「特攻? BL的には、そうですね、定石を覆してまずは、カラダから入るのはいかがでしょうか。強引に奪われ、翻弄され、次第にほだされていく受け、と、このような展開が、マイブームでして」
……言ってくれたよ。
思わず赤面し、直緒は俯いた。
大河内先生が、おっとりと応える。
「将棋の話ですか? 定石を覆すのはいいですね。意外性があって。でも、時代はやっぱり私の得意な分野にしていただかないと。具体的には、八代将軍吉宗の頃が書きやすいのですが」
「もちろん、先生の書きやすい時代でけっこうですわ。吉宗。徳川ですよね」
「はっはっは。お嬢さんには、暴れん坊将軍と言ったら、わかりやすいですかな?」
「あばれんぼう。確かに俺様ですね。すると、受けは、森蘭丸とか?」
「森蘭丸は、織田信長の時代です」
「うーん。えーと、えーと……」
「たとえば、吉宗と水野忠之との関係など、いかがでしょうか」
典子のあまりの歴史音痴ぶりに、直緒は、思い余って、口を出した。
大河内が、じろりと直緒を見た。
「吉宗と老中水野との関係? それはもちろん、政治的なものでしょうな?」
「そうだ、お稚児さんよ! お稚児さん!」
横から典子が連呼した。
「そういうのよね、確か。幼い男の子のこと。少量部数の自費出版ですもの、この際、多少規制がかかっても……」
「つまりあなた方は」
腕組みをして二人を睨みつつ、大河内は言った。
「この私に、陰間を書けと? 衆道を書けとおっしゃるのかな?」
**
「わたし、何か悪いこと言った?」
大河内邸からの帰り道。
とぼとぼ歩きながら、典子がつぶやいた。
あれからすぐに、二人は追い出された。
塩こそまかれなかったが、靴ひもを結ぶ余裕さえなかった。
BLのなにかを説明することは、とうとう許されなかった。
「わたしって、いつも、おとなを怒らせちゃうのよね」
そのあまりのよるべない声音に、直緒は胸がいっぱいになった。
「典子さんは、何も悪くないですよ。典子さんは、悪くない」
「そうよね。お稚児さんとか森蘭丸とか。BL的に間違ってないわよね!」
「……そっちですか」
力が抜ける思いだった。
鼻息荒く、典子は言った。
「今日、わたしね。またひとつ、心のドアが開かれた思いだわ。江戸時代のBL。ああ、なんて、新鮮! ちゃんと存在してるのに、全く手垢がついてない! 直緒さん! わたし達、大変な鉱脈を掘り当てたのかもっ!」
「いや、それはどうですかね……」
「だって、これだけBLに親しんできたわたしが、全く知らなかった世界よ!」
「それは単に、典子さんが歴史を知らないだけで、」
「萌え絵よっ! 萌え絵がつけば売れるわっ! BL編集者としての勘が、そう告げるのっ!」
「……腐女子としての勘じゃなくて?」
「直緒さん、何言ってるの? 今は、空前の時代小説ブーム。ファン層は厚いわ。しかもこの層は、比較的、お金を持っている。歴女やオジサマや、新しい読者を開拓するのよっ。すべてひっさらって、
「歴女はともかく、オジサンはどうでしょう……」
「その為にもぜひ、大河内先生をモーリスの著者にしなくては! いい仕事を紹介してくれたお父様に、感謝だわ!」
考えてみれば今回、大河内先生の本は、全て一乗寺建設が買い上げてくれる。
確実に捌ける部数しか刷らない、初めての紙の本の出版……。
それは、直緒にとっても、たいそう魅力的だった。
「それにしても、先生、すごい拒絶反応でしたね」
「たまにいるのよね。男同士の恋愛をひどく嫌う人って。特に男性に多いわ。なぜかしら」
「なぜって、」
直緒は言った、
「それはつまり、自分が突っ込まれることの恐怖なんじゃないでしょうか」
「……自分が、……突っ込まれる?」
「あ、いや、なんでありません」
顔を赤らめ、直緒は打ち消した。
典子のような若くてかわいらしい女性の前で言うことではない。
慌てて、話をそらした。
「で、どうやって説得します?」
「まかしといて!」
どん、と、典子は胸を叩いた。
「わたしに任せておいて!」
なにやら悪い予感が、そこはかとなく立ち昇ってくるのを、直緒は禁じえなかった。
**
大河内先生に書かせるために。典子は、何やら画策を始めたようだった。
「ああっ、電話の調子が悪い!」
典子がぼやいている。
「この忙しい時に。ねえ、直緒さん。大河内先生への顔つなぎは、直緒さんにお願いするわ」
典子多忙の為、当座、直緒が、定期的に、先生に連絡を入れることになった。
あくまで、モーリスのことをお忘れなく、という挨拶の為だが、どうにも旗色が悪い。
メールや電話の他、近くに立ち寄った際は、ご自宅に足を運ぶこともある。
「すみませんねえ」
年輩の家政婦さんが出てきて、申し訳なさそうに頭を下げる。
「会いたくないって。先生、頑固で」
「いえいえ、こちらこそ、御無理をお願いしておりますから」
爽やかに笑って、直緒は、菓子折りの入った紙バックを差し出す。
腰の曲がりかけた家政婦の手が、直緒の手を握った。
紙バックの取っ手を掴もうとして間違えたのだろうと、直緒は思った。
それにしては長い間、家政婦は、直緒の手を触っていた。
「……あの、」
「あら、ごめんなさい」
紙バックをさっとひったくって、家政婦は言った。
「義元君がいてくれたらねえ。ほんと、そう思いますわ」
「義元君?」
「先生の息子さんですよ。亡くなった奥様との間の、一人息子さんなんです。先生とひどく衝突して、家出しちゃったの」
「そんなことが」
「そういえば、あなた、ヨシ君に似ている」
家政婦は一歩下がって、しげしげと直緒の顔を見た。
「……もちろん、あなたの方が、ずっといい男だけど。でも、眉の生え具合とか、唇の形とか、あら、細かいところが、ほんと、よく似てる」
「……」
「だからよけい、先生は、あなたに会いたくないのね……」
しみじみと、家政婦は言った。
**
「ふうん。息子さんが。なるほど」
帰社して直緒が報告すると、典子は考え込んだ。
「直緒さん。コレは、いけるかも」
「いける?」
「ま、見てて下さい」
その日から、典子は、あちこちに、しきりと指示を飛ばし始めた。
あいかわらず電話の調子が悪いのか、スマホを使っている。
人相風体の怪しい男が、尋ねて来たこともある。
不審に思った直緒が、あれは誰かと尋ねても、典子はにたりと笑うだけだった。
私立探偵だと教えてくれたのは、メイドの女の子だった。
典子の部屋に入ることを許されている、たったひとりのメイドだ。
以前も、作家さんの後を尾行させて住所を割り出したと、メイドは言った。
……くりいむメロン先生のことだ。
直緒は思った。
メイドは眉を顰めた。
「ったく、腐女子がお金を握ってると、ロクなことをしませんからね」
「でも、典子さんは自分で稼いでいるのだからいいじゃありませんか」
思わず直緒は言った。
モーリス出版は、典子のデイトレードによって、なんとか存続している。
本業のBL出版による収入が少ないのが、辛いところだ。
「まぁた、本谷さん、すぐにお嬢様をかばうんだから。まあ、まともな男性である証拠ですけどね。でも、お忘れになっちゃいけませんよ。お嬢様は欲しい物があると、すぐにお父様である一乗寺社長にタカッて……」
「……篠原さん。勤務中のおしゃべりは感心しませんね」
刺すような声が聞こえた。
辛辣だけど、なんだかひどく胸を揺さぶる声だ。
直緒の心が、じくっと疼いた。
「すみません、古海さん」
素直にメイドが頭を下げた。
謝ったくらいでは、古海は小言を止めない。
「本谷さんは、お嬢様の会社の方なんですから。いってみれば、外部の方です。それを、そんなに馴れ馴れしく接するのは、考えものです」
「メイドさんは、馴れ馴れしくなんかしてませんよ」
慌てて直緒は取りなした。
自分が原因で、この女の子が、叱られるのはいやだった。
「メイドさん……」
女の子が繰り返した。
古海が、薄く笑った。
「おやおや、名前もご存じなかったとは。彼女は、篠原もなみといいます。典子お嬢様の、もっとも近くにいるメイドです」
「それは知ってます」
直緒は答えた。
確か、一乗寺家のダンスパーティーの時も、典子に同行していた。
「篠原さん、キッチンでコックが呼んでいましたよ。クロスの染みがぬけていないそうです」
「わかりました。すぐ行きます」
古海は、ちらりと直緒を見た。
だが直緒は、その目に表われた感情を読み取ることができなかった。
無言で、古海は立ち去った。
「ああ、あ。古海さんも大変だ。男も女も、全方位に嫉妬しなくちゃならないんだから」
メイド……もなみがつぶやいた。
小さいけれど、よく通る声だ。
「……嫉妬?」
直緒は聞きとがめた。
もなみは肩を竦める。
「あ。聞こえちゃった? ごめんなさい。別に何の意図もないんです。それより本谷さん、あの人には嫌われない方がいいですよ。将来、一乗寺家の跡取りになるかもしれないお方ですから」
「一乗寺家の跡取り? それはどういう……?」
「ニブイ人ですね。お嬢様のご夫君になるかもしれないってことですよ」
「御夫君? 典子さんの……?」
「まだわかりません? ま、お嬢様と結婚が結びつかないのも無理はないか」
「典子さんが、結婚ですって?!」
……それは自分が阻止したはず。
……一乗寺家のパーティーで。
……女性のドレスまで来て。
「古海さんは違うって言うけど、あのパーティーで、本谷さん、古海さんと踊ったでしょ?」
「ええ……。多分……」
……耳たぶの、ほくろ。
「でも、あの時の本谷さんは、本谷さんじゃなかった。あなたは、お嬢様の身代わりだったのです」
「はい」
「パーティーで仮装し、お嬢様にダンスを申し込むことができたのは、どんな人ですか?」
……一乗寺社長が、娘に求婚するのを、許した男性……。
電撃に打たれたような気がした。直緒はその場に立ち尽くした。
もなみが、肩を竦める。
「古海さんは違うって言うけど、本谷さん、古海さんと踊ったでしょ。お嬢様の身代わりとして。お嬢様にダンスを申し込めるのは、どんな人ですか?」
「それは……」
一乗寺社長から、能力を認められた男性。
……つまり、
娘の結婚相手としてふさわしいとみなされた男。
電撃に打たれたような気がした。
直緒はその場に立ち尽くした。
「ま、御長男の創さまがおられますけどね。でも、なんか頼りないというか……。それに、なんといっても、一乗寺財閥は巨大ですからね、お身内は多い方が……って、あれ、本谷さん? 本谷さーん」
直緒は、はっと我に返った。
本能的にほほ笑んだ。
一応、メイドも女性だから。
もなみが、にっと笑った。
「私の名前は、篠原もなみです。それを忘れたら、いやですよ?」
ただの「メイド」ではなく、と、もなみは付け加えた。
「本谷さん、今、危ないから。あっちに行ったら、戻ってこれなくなりますよ? 友達の元カレが言ってました。アレはクセになるんですって」
「アレ? クセ?」
「だから、久條先生です。古海さんが懸命にガードしようとしているみたいだけど……どうですかねえ」
「篠原……さん。僕、よくわかりません」
「本谷さん、顔色、悪いですよ?」
「か、過労かな。今日は早く帰ります」
臼杵の編プロで働いていた頃に比べれば、モーリスでの勤務状況は、天国に近かった。
過労などではない。
……これは心労。
そう自覚せざるをえなかった。
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