実家は肛門科の専門病院です
「よく来たな」
小説家は言った。
「入れ」
「いえ、ここで」
カバンをしっかりと前で抱え、直緒は言った。
玄関から、一歩でも中へ入る気はない。
「あまり長いことドアを開けておくと、アラームが鳴るぞ。警備会社の人間がすっ飛んでくる」
「でも」
「いいから入れ」
仕方がなかった。
直緒は靴を脱ぎ、踵を返す小説家の後について、家の中へ入った。
簡素な応接間だった。
ソファとローテーブルのセットが一組あるだけだ。
部屋の隅に花瓶が置かれていたが、花は挿されていなかった。
小説家はどっかとソファに腰を下ろすと、両手の先を突き合わせて直緒を見た。
「で?」
「はい?」
「ここへ来たということは、決心がついたということだな」
「決心?」
「だから、俺に抱かれる」
「違います! っつか、何を言ってるんですか! 僕がここに来たのは、原稿依頼の為です。久條先生には、是非、弊社モーリス出版に新作をお書き頂きたく……」
「ああ? 俺はお宅の編集長に言ったが。書いて欲しければ、本谷を差し出せと」
「は? いや、先生は僕を、担当編集としてご指名下さったと聞いておりますが? 僕、先生の大ファンなんです。ずっと前から」
「ふうん」
久條の口元が、微かにほころんだ。
「その話は、前に聞いた」
その時の状況を思い出して、直緒は思わず頬を赤らめた。
「なにをエロい顔、してる」
「エ、エロい? 違いますっ!」
危険な方向へ行きそうで、直緒は必死で話を逸らした。
「あ、あの、先生はあの時、僕が男だと一発で見抜かれましたね。化粧はプロも保証するほど完璧だったのに、どうしてわかったんですか?」
「手」
「え?」
「手だよ。それは、女の手じゃない」
言われて直緒は、自分の手を見た。
細いが、筋張っていて、確かに、女性の手ではない。
それにしても。
あの状況で、手に目がいくとは。
ドレスを着て、完璧なメイクを施した「女性」の手に……。
作家と言うのは、侮れない感性をしていると、直緒は感心した。
……いや。
……感心している場合じゃない。
あわてて営業トークを再開する。
「えと。僕……いえ私、作家の先生についたことはないんです。校正やら割り付けやらの、実務担当なもので。それが、いきなり、久條先生のような方に抜擢して頂いて、なんというか……感激です!」
これは本当のことだった。
小説家の久條泰成は、直緒にとって、神様みたいな人だった。
久條泰成は、有名な純文学作家だ。
まだ若いのに、文学賞を総なめにし、今最も売れている小説家である。
彼の作品は、出版されるそばから映画やゲームにタイアップされている。
そう。
久條泰成は、純文学作家なのだ。
それなのに、モーリス出版で書いて下さるという。
典子の言う、次の企画とは、このことだった。
「誠心誠意、頑張ります! 一緒に売れる本を作りましょう! 読者の心に届く本を!」
「BLだろ、モーリスで
「はい」
作家にとって、ジャンルを変えるのは、おおごとだ。
そのことは、直緒とて、重々承知している。
「先生のご意志を尊重し、必ずやよいものを読者の手に……」
「交換条件で、本谷を差し出すと、お前んとこの編集長は言ってたぞ。実録物でも構わないそうだ」
……差し出す?
……てか、実録物?
……BLの実録物って。
悪い予感しかしない。
久條が頷いた。
「つまり、そういうことだ」
「どういうことですっ! 僕はそんな話、聞いてな……」
「早く脱げ」
「ぬっ……」
目の前に、にゅっと腕が伸びてきた。
危うく押し倒されるところだった。
必死で逃れながら、直緒は言った。
「だめです。ありえません」
「なぜ」
「なぜって。僕ら、ほら、男同士だし」
「だから?」
「不自然でしょ」
「そんなことはない。野生動物でも、よくある話だ」
「僕は、野生じゃありませんしっ!」
「お前は、編集者だくせに、偏見があるのか?」
「いや、だって、うちの実家は、肛門の専門病院で……」
「なんだ。知ってるじゃないか。編集長が心配してたぞ。本谷は、BLの実態を知らないって」
「それは、僕も勉強しましたからっ!」
「だったら」
「ほ、本を読んだだけですっ! 編集長の薄い本……」
「大丈夫。優しくしてやる」
「いやですっ! 僕はあきらめてません! かわいい彼女を探して、普通に結婚……」
「うるさい」
「わっ、先生、何をっ! わーーー!」
**
「それはそれは」
コーヒーカップを持ったままかたまっていた臼杵は、恐る恐る、本谷直緒の顔を見た。
「災難だったね」
「僕、もう、わからなくなりました。臼杵さん。男って、なんでしょう? 愛って、何なんでしょう?」
「仕事仲間にそんな深いこと、聞かれても。で、大丈夫だったのかね?」
「何がです?」
「何がって。君のおしり」
「……」
「いや、話したくないのなら……」
口ごもる臼杵を見て、直緒はため息をついた。
「今回は、僕は、普通にスーツにスラックスでした。タイトなドレスではなく。僕は男です。自分の身くらい、自分で守れます」
前に、久條に口説かれた時のことを思い出し、直緒は顔をしかめた。
体にぴったりのドレスは、直緒の反撃の機会を奪った。
あの時のことは、できたら、記憶から消去してしまいたい。
「いや、舞踏会の時の君は、実際、きれいだったよ。わしがもう、10歳、いや、5歳若かったら……」
「臼杵さん、あそこにいらっしゃったのですか?」
直緒は目を剥いた。
臼杵の顔に、ぱっと華やぎが差した。
「うん。招待されてたんだ。君をモーリス
「ま、まさか、臼杵さん、仮面をつけて、ダンスホールにいたんじゃあ……」
そいつらは、かたっぱしから、直緒にダンスを申し込んできたのだ。
その中に、この腹の突き出た編プロのオヤジもいたとしたら……。
恐ろしすぎる。
だが、臼杵は、首を横に振った。
「そんなことあるわけないじゃないか。仮面は、一乗寺家令嬢に求婚する人がつけてたんだろ。それにしても、典子さんと君が入れ替わっていたなんて。いやあ。きれいなお嬢さんだと思ったよ。しかしまさか本谷君だったとは……」
「……臼杵さん。その話はもう、」
「そこで、久條先生に見初められたというわけか」
「見初められたというのも、違うと思います」
実際は、男であることを見破られた上、壁に押し付けられて、キスを迫られた。
体にぴったりしたドレスが邪魔をして、直緒は、反撃することができなかった。
その時、真っ先に助けに来てくれたのは……。
……だめだ。
直緒は首を横に振った。
……考えてはいけない。
臼杵氏が、じろりと直緒を見た。
「まさか君、
「え?」
「君は言ってたろ。小説の編集をしたいって。割り付けや校正だけでなく、実際に、小説の世界に関わっていきたいって。今まさに、その夢が叶おうとしているんじゃないか」
「……」
そうだ。
子どもの頃から、直緒は、本が好きだった。
本さえあれば、どんな辛いことがあっても、堪えることができた。
おとなになったら、本の仕事がしたかった。
しかし就職難と出版不況が重なって、100社近く受けた出版社の就職試験は、悉く撃沈した。
かろうじて、編集プロダクションで働くことができた。その時、世話になったのが、臼杵だ。
ありていに言えば、けっこうなブラック企業だったわけだが。
「臼杵さんはなぜ、僕をモーリス出版に紹介してくれたんですか? 僕より仕事のできる人は、たくさんいたでしょ?」
「それはね」
臼杵は、目を伏せた。
コーヒーカップの中を、スプーンでぐるぐる回しながら、何気ない風に言った。
「美形を紹介してくれと頼まれたんだよ、
「美形!?」
「うん。
「……仕事熱心だからというんじゃなくて? 小説への愛情でなく? 容姿。容姿だったんですか、採用の基準は!」
「そうだよ」
「僕は、女じゃない!」
「いや、女性もいろいろ」
コホン、と咳払いした。
「君、それは、女性に失礼なんじゃ……」
「容姿で人を判断するなんて、最低です!」
「まあ、いいじゃないか。今回だって、君のその美貌のおかげで、久條先生も喰いついてきたわけだろ? ありえないことだよ、あれだけの作家が、しかも純文の作家が、モーリスのようなBL出版社に書いてくれるなんて。電子書籍しか出版経験のない弱小出版社なのに」
「だって、」
「実際、わしはうらやましいよ。モーリスを辞めるなら、君、久條先生を連れて、うちに戻ってこないか? そしたら、うちも、立て直すことができる」
「お断りします!」
きっぱりと直緒は言った。
**
目下、直緒が最も会いたくない人物は、一乗寺家の門の前に佇んでいた。
黒いスーツに銀縁の眼鏡、短い髪が僅かに逆立っている。
避けて通りたかったが、モーリス出版は、一乗寺邸の中にある。
「……」
気まずい思いで直緒は目礼した。
あの時。
自分が踊ったあの人は、
緑色の体に密着したタイトドレスを着せられて、
全身を委ねて踊ったあの人は、
……。
「おかえりなさい」
緊張と不安、そして僅かな安堵の入り混じった表情で、古海が声をかけてきた。
「少し遅かったようですが」
「それは、臼杵さんと会ってきたからです」
「そうですか」
まだ何か言いたげに、古海は唇を歪めた。
素早く直緒は言った。
「早く典子さんのところに行かないと」
古海の脇を通り過ぎ、直緒は、ぴたりと立ち止まった。
「僕に触らないで下さい」
背後で、古海がびくりとする気配がした。
にべもない口調で直緒は続けた。
「僕は、自分のめんどうは、自分で見られます」
「それは……久條先生とは何もなかったということですね?」
「当たり前です」
「キスも?」
なぜか、頷くのがしゃくに触った。
直緒はそのまますたすたと歩きだした。
「直緒さん、」
切羽詰まった声が追いかけてくる。
「ありませんよ!」
言い捨てて、直緒は長い廊下を早足で歩き続けた。
自分の頬が赤らんでいるのを自覚していた。
再び立ち止まった。
大きく息を吸い込み、振り返った。
「古海さん。なぜ、僕と久條先生のことを、そんなに穿鑿するのですか?」
……あなたはあの場にいなかったはずじゃないか。
「僕も久條先生も、男同士だ。何かあるなんて、普通は考えないでしょう?」
……あなたがあの場にいなかったのなら。
「久條先生の悪いお噂は、聞いておりますから」
平然とした顔で、古海は言った。
……嘘だ。
直緒は思った。
女性との噂はいろいろあるが、久條に、同性とのスキャンダルはない。
……少なくとも、まだ。
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